名前のない想いの果てに


 冷たい床の感触で、意識が浮かび上がった。
 天井が見える。高く、暗い。
 見覚えのある梁を目で追って、ようやく体育館だと気付く。
 窓から差し込む青白い月光が、無人の床を冷ややかに照らしていた。

(……なんで、私……)
 体を起こそうとして、浴衣の裾が重く絡みつく。
 自分がなぜ、ここで倒れていたのか。何ひとつ思い出せない。
 それなのに、どうしようもない切迫感だけがせり上がってきた。
「……っ」
 息を吸う。身体の奥に、消えない熱だけが残っていた。

 何かを、守ろうとしていた。
 ——とても大事な何かを。

 その輪郭をなぞろうとするたび、記憶は霧のようにほどけていく。
 思い出そうとすればするほど、ぬくもりだけを残して、その姿は遠ざかっていった。

(……誰か……)

 名前を呼ぼうとした気がした。けれど、声は喉の奥でせき止められる。

 無意識に、隣へ視線を向ける。
 誰もいない。

 その空いた場所が、どうしてこんなにも寂しいのかだけが分からなかった。
 ただ、掌にひとつだけ、ひりつくような感覚が残っていた。
 何かを握り締めていたような感触。
 冷たくて、けれど焼けるように熱かった、あの確かな手応え。
 葵は、震える手でゆっくりと掌を開いた。
 そこには、何もない。
 それでも指先は、まだ「何か」を握りしめた形のまま、固まっていた。
 その瞬間、胸の奥を鋭い痛みが突き抜けた。
 大切なものをどこかに置き忘れてしまったような、取り返しのつかない喪失感。
 けれど、それが何なのか、もう名前を付けることすら叶わない。
 ふと目に止まった壁時計が、体育館に小さく、規則正しく響いている。
 時刻を見た瞬間、心臓が跳ねた。
「……時間……!」
 息を呑む。

 ——行かなきゃ。

 理由は分からない。
 でも、一秒でも遅れてはいけない。そんな本能が身体を突き動かしていた。
 立ち上がる。足は迷うことなく入口へ向かい、歩みは自然と速くなる。
 外へ飛び出す。下駄が地面を叩く乾いた音だけが、静まり返った夜に響いた。

 誰が待っているのか。
 どんな約束をしていたのか。
 それすら思い出せないのに。

 ただ、忘れてはいけない何かが、胸の中で脈打っていた。
 葵はその鼓動に導かれるように、夜の闇へ駆け出した。

 気づけば、葵は河原へと辿り着いていた。
 日はすでに落ち、辺りは濃紺の闇に包まれている。
 頭上には、大きな橋が静かに夜空へと伸びていた。街灯に照らされた橋桁が、川面に淡い光を落としている。
 遠くから微かに、祭囃子が流れてくる。
 さらさらと流れる川の音が、夜の静けさに溶け込んでいた。

 ふと、白い小さな花が流れてくるのが目に留まった。
 その花を、どこかで見たような気がした。
 切なさだけが、理由もなく込み上げる。

(……なんで、ここなんだろう)
 場所も、ここで合っているのかわからなかった。
 不安が頭をもたげ、心臓が耳の奥で早鐘を打つ。
 ――けれど、ここを離れてはいけないと、魂が叫んでいる。
 理由は分からない。
 狂おしいほどに、誰かを待っている。
 そんな想いだけが、葵をその場に繋ぎ止めていた。
 葵は水面に映る街灯の光をじっと見つめた。
(もし、誰も来なかったら。 もし、私の思い込みだったら……)
 不安で震えそうになる足を、葵は下駄をぐっと踏みしめて堪えた。

 そのとき。背後の砂利が、小さく音を立てた。
 その音を、ずっと待っていた気がした。

「葵ちゃん」

 ――静かな声が、夜の帳に落ちる。
 振り返ると、そこに久遠が立っていた。
 深い藍の浴衣が、夜風にかすかに揺れる。
 どこか安堵したように、小さく目元を緩めて。彼は、確かにそこにいた。
「……っ」
 胸の奥が、千切れるほどにきゅっと締めつけられる。
 どうして、こんなに安心するのか。
 どうして、こんなに苦しいのか。
 溢れ出した感情が、葵の視界を熱く滲ませる。
「……ごめんね、待たせた?」
 その一言が、不安を抱えたまま立ち尽くしていた葵を、優しく包みこんだ。
 葵は唇を震わせた。
 返事をしようとしても、言葉にならない。
 ただ、溢れる気持ちを堪えながら、小さく頭を横に振った。

 不安になる理由なんて、どこにもなかった。ちゃんと、ここに来てくれた。
 ただ、それだけで、止まっていた時間が、音を立てて動き出した気がした。

 神社の境内に入ると、人の波が急に賑やかさを増した。
 色とりどりの屋台の明かり、ソースの焦げる香ばしい匂い、威勢のいい呼び込みの声。
 あまりの熱気と人混みに、歩みを止めればすぐに逸れてしまいそうになる。

(……離れたくない)

 理由は分からない。けれど、今一歩でも彼から離れたら、二度と捕まえられないような気がして。
 葵は、隣を歩く久遠の紺色の浴衣の袖を、ぎゅっと掴んだ。
 一瞬だけ、驚いたように久遠が目を瞬かせる。
 けれど彼は何も言わず、葵の歩幅に合わせて、ゆっくりと人混みをかき分けて進んでくれた。

 喧騒を抜け、階段を下りる。街の明かりが遠ざかり、虫の音と川のせせらぎが聞こえる静かな土手へと出た。
「おーい! こっちこっち!」
 暗がりの向こうで、真琴が場所を確保したブルーシートの上から、ぶんぶんと手を振っている。
 その隣で、日高が親指を立てて笑っていた。
「遅いってー! もう始まるよ、花火!」
「ごめん、ちょっと道を間違えちゃって……」
 葵が答えようとしたその時、日高が二人の手元を見て、にやっと目を細めた。
「へぇ、迷子にならないように護送されてきたわけ? 仲がいいねぇ、お二人さん」
「暗かったからね。転んだら危ないし」
「……っ!」
 指摘されて初めて、自分が久遠の袖を力一杯握りしめていたことに気づく。
 葵は弾かれたように手を離した。
「ち、違うの、これは……!」
 必死に言い返そうとしたものの、頬はみるみる赤く染まっていく。
 堪えきれず、葵は顔を隠すように俯いた。
「はいはい、そういうことね。場所、ちゃんと取っておいたから感謝してよ?」
 真琴の冷やかしに誘われるように、二人は輪の中へと腰を下ろした。
「久遠、焼きそば食う?」と日高が差し出すパックを、久遠は小さく笑って受け取った。
 杉原は、少し後ろに座ったまま、その様子を静かに眺めていた。
 かすかに口元を緩める。けれど、その笑みはすぐに消え、静かに視線を逸らした。
 その時——。

 ドンッ!

 夜空を裂くような鋭い音が響いた。
 一拍おいて、大輪の花火が漆黒の空に弾ける。
「……きれいだ」
 隣から零れる久遠の声。
 葵は、吸い込まれるように夜空を見上げた。
 久遠の横顔が、極彩色に照らされる。
 次々に打ち上がる光が、深い夜を、鮮やかな色彩で満たしていく。
 ふと、久遠がこちらを見下ろす。
 目が合う。
 言葉は要らなかった。
 ——同じ時間を、同じ場所で、確かに生きている。
 その当たり前が、奇跡のようだった。
 大輪が夜空いっぱいに広がって、数え切れないほどの銀河を散りばめて消えていった。
 沸き起こる拍手と、遠い歓声。
 その眩い余韻の中、指先がそっと触れる。
 気づけば、二人は手をつないでいた。
「……来年も、また来よう」
 葵は頷いた。
「はい。……約束です」
 繋いだ手を、そっと握り返した。
 最後の火花が夜空から消える。
 掌に伝わる確かな温度だけが、静かに残っていた。
 
 不意に訪れた静寂の中――背後の空気が、わずかに揺れた気がした。
 弾かれたように振り返る。そこには誰もいない。
 夜の闇が静かに横たわっているだけだった。
 けれど、その名残はなんだか懐かしくて、寂しくて、
 まるで温かい掌で、そっと背中を押されたような感覚だった。
 ​葵は小さく、誰にも聞こえない声で零した。
「……ありがとう」
 その一言を夜風に預けて、葵は静かに息をついた。
 久遠を見上げると、 彼は何も尋ねず、小さく微笑んだ。