名前のない想いの果てに


 葵は、顔を上げた。
 冷たい夜風が頬を撫でる。
 震えていた指先を、ぎゅっと握りしめた。
(もう、逃げない)
 そして――久遠に向かって、歩き出した。
 その瞬間だった。
 虚無に沈んでいた久遠の双眸が、かすかに揺れた。
 指先が、ぴくりと動く。
 来るな――そう訴えるような、拒絶にも似た悲しい揺らぎ。
 それでも、葵は立ち止まらない。
 むしろ、乱れていた呼吸を静かに整え、祈るように告げた。
「……ごめんなさい、先輩」
 虚空をさまよっていた瞳が、ゆっくりと葵へ焦点を結ぶ。
「本当は、間に合わなかったんです」
 声は、もう震えていなかった。
 夜を貫くように、その言葉だけが真っ直ぐ響く。
「二年前、私は先輩を助けられなかった」
 夜の歪みが、拒絶するようにパチリと爆ぜた。
 葵は、怯まなかった。
「でも……私、何度も、過去に戻ったんです。何度もやり直して、そのたびに、先輩のことをたくさん知って」
 言葉を重ねるたび、押し込めていた想いが溢れそうになる。
 けれど葵は目を逸らさず、まっすぐ久遠を見つめた。
「たくさん……好きになりました」

 その言葉が、閉ざされていた久遠の心へ溶けていく。

 ――『何か、私にできること、ありませんか?』
 不安そうに、それでも一歩踏み出してきた女の子。

 『葵ちゃん』――自分が初めてそう呼んだ時の、彼女の驚きと恥ずかしさの入り混じった表情。

 ――『先輩を、花火に連れていきたいです』
 緊張した面持ち。そのあとにこぼれた、ほっとした笑顔。

 ――『ちゃんと、約束です』
 
 心の底に沈んでいた想いが、一つ、また一つと色を取り戻していく。
 それに呼応するように、久遠の瞳へ、光が宿った。

「だから、もう諦められないんです。正しいかどうかなんて、もう関係ない。先輩がいるなら、それでいい」
 一筋の涙が頬を伝う。
「……先輩のそばに、いたいんです」
 そう言って、葵は震える手を伸ばした。
 久遠も、ゆっくりと手を伸ばした。
 暗闇と光の境界線で、二人の指先が近付いていく。
 けれど、その距離はあとわずかのところで止まった。
 見えない壁が、二人を拒むように軋んだ。
 久遠の体はなお境界の向こうへ沈み、葵の腕は鋭く弾かれた。

 ――刹那。

 黒い影が、葵の背後から駆け抜けた。
 境界へ向かって、掌を突き出す。

 ビシィィッ――!!

 空間が悲鳴を上げた。
 掌を中心に、ガラスのような亀裂が夜空へ走る。
 ひび割れた境界が、ぎしりと軋みながらわずかに開いた。
 Qちゃんは息を詰め、その隙間を必死に押し広げる。
 境界に触れた腕から、銀色の光が粒子となって零れ始める。
「……行って」
 Qちゃんの掠れた声に、葵がはっと振り返る。
「早く。気が変わらないうちに」
 そう言って、Qちゃんは痛みを隠すように笑った。
 葵は動けない。
「――行きなさい!!」
 その声に背中を押されるように、葵は勢いよく境界へ踏み込んだ。
 冷たい。けれど――もう、拒まれない。
「……先輩!!」
 指先が触れた。今度は、確かに。
 久遠の手が、壊れそうなほど強く握り返してくる。
 胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。
「……葵、ちゃん」
 その声に応えるように、葵は力強く頷いた。
「もう、離しません!」
 葵は全身でその手を引いた。
 久遠も応えるように、一歩、また一歩とこちら側へ踏み出す。
 引き戻す力と、引き剥がそうとする世界の理が拮抗する。
 Qちゃんの掌に押し留められた境界が、今にも閉じようと激しく軋んだ。

 やがて、Qちゃんはその場に膝をついた。
 境界へ押し当てていた手が、力なく滑り落ちる。
 その手は、もう粒子となって崩れ始めていた。
 Qちゃんの視線が、一瞬だけ葵へ向く。
「……これが」
 震える声で、彼は微笑んだ。
「……私が、連れてきた未来」


 そして――音が、途切れた。
 引き合っていた力がふっとほどけ、歪みが閉じていく。
 夜が元の形を取り戻し、静寂が屋上を包み込んだ。
 葵は倒れ込むようにその場に座り込んだが、繋いだ手だけは決して離さなかった。
「……戻った、の?」
 久遠は答えない。
 ただ、ゆっくりと息を吐き、葵の手を確かめるように、そっと握り返した。
 言葉はいらなかった。掌から伝わる鼓動だけで、充分だった。
 張り詰めていた心が、静かにほどけていく。
 誰も言葉を発さなかった。
 何事もなかったかのように、夜風が吹き抜けていく。
 少し離れた場所で、Qちゃんは二人を見つめていた。
 その口元には、ほっとしたような、小さな笑みが浮かんでいた。
 気づけば、葵の頬をまた涙が伝っていた。

 校舎に明かりが戻った。
 撤収作業の慌ただしい音が遠くから響き始めた。
 窓々がオレンジ色に包まれていくのを背に、Qちゃんは髪を弄り、肩をすくめる。
​「……あんたを最初に見た時から、嫌な予感はしてたのよ」
 ​Qちゃんがぽつりと言葉をこぼすと、杉原は静かに振り返った。
​「お互い様だな」
 ​杉原は皮肉っぽく、けれどどこか寂しげに笑った。
​「……ねえ。あんたに聞きたいことがあるわ」
 ​Qちゃんはふと、杉原の目を真っ直ぐに見つめて尋ねる。
「あの女子だけの集まりとかも、あんたの策略でしょ。なんで私が『男』だってわかったの?」
 杉原は答えなかった。
 不意に脳裏をよぎったのは、二年前の光景だった。
 誰もいない踊り場で、必死に何かを訴えていた葵の横顔。
 教室で見せた、縋るような眼差し。 
 廊下で振り返ってほっと笑った顔。
 彼女のあの瞳が、答えだった。
 教えるべきか一瞬だけ迷う。
 けれど、杉原は小さく肩をすくめた。
​「さぁ……なんでだろうな」
 Qちゃんは一瞬だけ目を丸くし、それから「相変わらずね」と呆れたように笑った。
 そして不意に、久遠の手を固く握り締めている葵へと目を向ける。
「……あーあ。また、葵を泣かせちゃった」
 杉原は何も言わず、その視線を追った。
「私が、ただのAIだったらよかったのにね。……そうしたら、もっと上手に守ってあげられたのに」
「……いや。それは違う」
 静かに首を振る杉原に、Qちゃんは眉をひそめた。
「違うって……何を根拠に?」
 杉原は、葵の背中を見つめたまま言った。
「あいつはずっと、お前に守られてた」
 Qちゃんは目を瞬かせた。
「ずっと見てきたからな」
 しばらくの沈黙が、二人の間に流れる。
 やがてQちゃんは、降参したように困った顔で笑った。
「……あんた、恥ずかしくないの? そういうこと、真顔で言って」
 杉原は小さく苦笑した。
「かもしれないな」
 しばし杉原を見つめたあと、Qちゃんは小さく息をつく。
「ほんと、人間って」
 愛おしそうに、小さく笑った。
「……ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
 杉原はそっけなく言って、背を向けた。

 それから、Qちゃんは葵へゆっくりと歩み寄った。
 その姿はもう、冷徹な任務遂行者のものではなかった。
 葵の前にしゃがみ込み、静かに手を伸ばした。
 指先はすでに輪郭がぼやけている。
 それでも彼は、葵の頬を伝う一筋の涙を指先ですくい上げた。
 ​――けれどその涙は、彼の体温を感じる間もなく、するりと指先から通り抜け、床に小さく落ちた。
​「……泣き虫ね」
 Qちゃんは、​少しだけ困ったように、けれど――この上なく愛おしそうに微笑んだ。
​「心の救急箱って、言ってくれたの。……嬉しかった」
 ​葵の瞳を覗き込み、そっと囁いた。
​「……幸せにね」
 Qちゃんは、ふっと目を細めた。
「ちゃんと、自分の物語を歩むのよ」
 ​彼はそう告げると葵に背を向け、静かに扉へ向かって歩き出した。
 ドアノブに手をかける。
 一歩。静かに、扉の向こうへ足を踏み出す。

 その輪郭が、夜の空気へ溶け始めた。

 ゆっくりと、ほどける。

 光の粒子が、静かに――零れていく。
「……?」
 視界の端で淡い光が揺れ、葵は息を呑む。

​「……Qちゃん?」

 ​葵は思わず駆け寄り、扉を勢いよく開けた。けれど、そこにはもう誰もいない。
 足音も、気配もなく、最初から誰もいなかったかのように。
 振り返ると、さっきまで座り込んでいた場所には、小さな涙の跡だけが残っていた。
 ​杉原が歩み寄り、葵の隣で足を止めた。
​「……終わったな」
 ぽつりと、確認するように。
 ​終わったのだ、すべて。
 ​久遠は俯いた葵を見つめていた。
​「……花火」
 ​掠れた、それでも優しい声。
​「……約束、まだ生きてる?」
 ​葵は涙をこぼしながら、顔を上げた。
​「はい」
 力強く頷いた。
​「今度こそ、一緒に」
 久遠は、小さく笑った。