屋上の空気は、目に見えるほどに歪んでいた。
一歩も、踏み出せない。
風でも、光でもない。夜の端が、耐えきれずに引き裂かれるような軋み。
その中心に――久遠が立っていた。いや、立たされている、と言ったほうが正しい。
足元が夜に溶け、境界の向こう側へと引きずり込まれていく。
「先輩……っ!」
葵は叫び、なりふり構わず駆け出した。
けれど、その指先が彼に届く直前――目に見えない『壁』が、容赦なく葵を弾き飛ばした。
「っ……!」
息が詰まる。
体が宙へ浮き、そのまま床へ激しく叩きつけられた。
衝撃で、髪を留めていたピンが外れ、丁寧に整えられていた髪がばさりと解けて夜風に乱れた。
「結崎!」
杉原が駆け寄り、葵を支えようとする。けれど葵はそれを振り払い、膝を擦りむきながらも立ち上がった。
「久遠先輩!」
二度、三度。 断絶の壁に体当たりするが、そのたびに不可視の暴力が葵を拒絶し、無機質な床へと叩き伏せる。
ドレスの裾が狂ったようになびき、 軽やかに舞う布地が場違いに美しかった。
背後から、追ってきたQちゃんの静かな声が落ちる。
「無駄よ。……彼はもう、境界の向こうに半分足を踏み入れてる。このまま、飲み込まれて消えるわ」
葵の胸が凍る。
歪みの中にいる久遠を凝視した。
「……うそ」
「嘘じゃない。戻る理由を、彼自身が見失っているもの。さっき、彼の電話が鳴ってたでしょ? あの電話が最後だった」
淡々とした、あまりに無機質な宣告。葵はその場に凍り付いた。
Qちゃんはゆっくりと杉原を振り返り、余裕を含んだ笑みを浮かべる。
「可哀想に。……今まで支えてきたナイトも、お手上げかしら。葵の番が来るのも時間の問題よ」
「……そううまくいくかよ」
杉原は動じなかった。鋭い視線がQちゃんを射抜く。
「お前がどんな絶望を用意しようが、俺が支える。何度だって立ち上がらせて、必ずこいつを『正気』のまま未来へ連れて行く」
「……随分な自信ね」
「自信じゃない、覚悟だ」
Qちゃんの笑みが、ほんのわずかに揺らいだ。
その刹那の均衡を切り裂くように、葵は叫んだ。
「約束したじゃないですか!花火、連れていくって……!」
返事はない。ただ久遠は、こちらを見て――力なく、優しく笑った。
抗うでも、助けを求めるでもない。
その瞳はもう、戻る場所を探していなかった。
胸の奥が、ぎゅっとせり上がる。
「……そんな顔、しないでください……っ」
涙が溢れそうになる。
けれど、ここで泣いたら、すべてが終わってしまう。
――行ってらっしゃい。気をつけてね。
――鍵、なるべく早く返しに来い。待ってるから。
重なった記憶の声が、葵の背中を強く叩いた。
「だったら……!」
葵は弾かれたように、Qちゃんへと走り寄った。
そして自分よりずっと高い位置にある彼の胸ぐらを、精一杯手を伸ばして掴み上げる。
「私も一緒に連れてってよ! それが目的なんでしょ!?」
見上げる視線の先、Qちゃんの無機質な瞳が葵を見下ろしている。
自分でも驚くほどの、怒りと悲しみに満ちた声だった。
「おい、結崎、やめろ!」
杉原が駆け寄り、葵の腕を静止しようとする。けれど葵は構わず、その身体を強く揺さぶった。
「早く連れてって!!」
Qちゃんは、抵抗しなかった。
その目は、葵を映しながらも、どこか遠い終わりを見ているようだった。
その時——
「結崎」
杉原の低い声が、夜の空気を叩いた。
「……そいつは、お前を連れていけない」
葵は目を見開いた。手が止まる。
「どうして……?」
「世界には、そいつを縛る法則がある。そして、もう一つは――役目だ」
杉原は静かにQちゃんへ向き直った。
Qちゃんの瞳がわずかに揺れた。
「結崎のメモで確信した。お前は、人の未練や後悔がほどければ、この世界に存在できなくなる。それが、『法則』だ」
Qちゃんは何も答えない。
ただ、その銀色の瞳だけが静かに杉原を見返していた。
「そして、あっちの世界へ人を連れて行くのが『役目』。……なのに、お前はその役目を果たさなかった」
杉原はQちゃんをまっすぐ見据える。
「なぜだろうな? 結崎の気持ちの変化で、お前が出現できるタイミングも減っていた。焦ったはずなのにな」
「……何が言いたいのかしら」
「二度目のタイムリープから戻る時だ。本当に結崎を連れて行くつもりなら、あの時点で連れて行けたはずだ。なのに、お前は逆に元の世界へ戻した。役目に背いてまで。それほど優先したいものがあったんじゃないのか」
「……!」
Qちゃんは鋭く息を呑んだ。その整った表情が、初めて目に見えて揺らぐ。
(……どうして)
なぜ、そのことを知っている。
戸惑いを滲ませた視線が、やがて葵へと向けられる。
「……Qちゃん……? なんのこと?」
葵は眉を寄せ、掴んだままの胸ぐら越しに彼を見上げた。
掌には、逃れようのない微かな震えが伝わってくる。 視線がぶつかる。
逸らさない。——逸らせない。
Qちゃんの瞳に宿っていた無機質な光が、音もなくひび割れていく。
「……」
何かを否定しようとするように、唇がかすかに動く。
けれど、言葉は形にならない。
代わりに浮かんだのは、見たこともない切なげな表情だった。
『――戻りなさい』
脳裏を掠めたのは、二度目の終わりの、あの必死な手の感触。
自分を出口へと押し出した、あの時の、絶望的なまでに優しい拒絶。
葵の指先から、力が抜ける。
胸ぐらを掴んでいた手がゆっくりと解け、彼の服をなぞるように滑り落ちる。
問いかける必要はなかった。
その震えが、すべてを物語っていた。
(……助けようとしてた。あの時も)
言葉にならない理解が、二人の間に落ちる。
無垢で、けれどすべてを見抜いたような葵の視線が、刃となってQちゃんの深部を貫いた。
——連れていく。それが役目。
最初から、そう決まっていた。
あの日。
禁忌を犯してまで葵を救い、その代償に存在を封じられた。
『余計な感情は捨て、任務だけを全うする』
そう誓って、もう一度この地へ降りてきたはずだった。
二度と同じ過ちは繰り返さない――そう、自分に言い聞かせてきた。
なのに。
暗がりの体育館で、心細そうに自分を頼ってきた瞳。
文化祭の喧騒の中、紙皿のケーキを差し出した笑顔。
雨の中、泣きながら伸ばされた手。
温もりなど、あるはずがなかった。
それでも——
「……嫌よ」
項垂れたまま、Qちゃんがぽつりと呟いた。
「……こんな終わり方」
Qちゃんの服から、葵の手が離れる。
そのまま葵は、その手を胸元でぎゅっと握りしめた。
「私だって……嫌だよ……」
泣きじゃくるようなその言葉に、Qちゃんの張り詰めた仮面が静かに崩れた。
「……そうね」
声が、揺れる。
「……余計なこと、したわね」
Qちゃんは、小さく息を吐いた。
不意に、葵の膝から力が抜けた。
崩れ落ちる体を、Qちゃんが咄嗟に抱き留める。
抱き寄せられた拍子に、黒いコートから冬の夜空のような冷たさと、雨上がりの空気を思わせる澄んだ匂いがした。
Qちゃんは腕の中の温もりを確かめるように、そっと目を閉じる。
抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力がこもった。
やがて、静かに微笑む。
叶わないものを受け入れ、それでもなお手放しきれない愛しさだけが、その笑みに残っていた。
「……バカね。本当に」
それが、誰のことを言ったのかはわからない。
Qちゃんはそっと腕の力を緩め、葵をゆっくりと地面へ座らせる。
そのまま隣に片膝をつき、静かに葵を見つめた。
「……Qちゃん、私のこと、全然わかってない……。絶望なんて、するわけないじゃない」
かすれるような声だった。
Qちゃんは俯く。
断罪される瞬間だけを、静かに待っていた。
罵られてもいい。
存在そのものを否定されてもいい。
そう覚悟していた。
けれど――
葵はゆっくりと息を吸い込み、ありったけの想いを声にした。
「……だって……Qちゃんが、いてくれたんだもん」
Qちゃんは息を呑んだ。
何かを伝えようと、唇がかすかに動く。
けれど、最後まで言葉にはならない。
——Qちゃんの目から、何かが零れ落ちた。
