名前のない想いの果てに


 残された力を振り絞るように駆け上がる。
 屋上へ近付くにつれ、空気が音もなく張りつめていく。
 階下の喧騒は遠のき、自分の鼓動だけが耳の奥で響いた。
 その時――踊り場に、ひとつの影が立っていた。
 黒いコートの裾が、音もない空間でゆっくりと揺れる。
 非常灯の赤を吸い込むような長い影。
 そして、暗闇の中で淡く浮かぶ銀色の髪。


「……規定外。ここまでよ」

 Qちゃんだった。
 長い腕が壁を打つように伸び、葵の行く手を塞ぐ。
 その姿に、葵は思わず息を呑んだ。
 いつもの気だるげな笑みはない。どこか切羽詰まったような、見たことのない表情だった。
「……そこ、どいて」
 自分でも驚くほど、低く冷めた声が出た。
 Qちゃんの目が、ほんのわずかに揺れた気がした。
「……残念だけど、まだ通すわけにはいかないわ」
「なんで? 先輩に会わせて」
「まだ完全に『あっち側』には行ってないから」
「……どういう意味?」
 問い返しても、Qちゃんは答えない。
 葵は唇を噛み、一歩踏み出した。
 その瞬間——。

 ドンッ、と何かにぶつかった。鈍い衝撃が胸に返る。
(……触れた?)
 すり抜けない。

 次の瞬間、長い指が葵の手首を掴んだ。
「っ……!」
 指先が手首に食い込む。
 振りほどこうとするたび、拘束はさらに強くなった。
 熱い。その温度だけが、幻ではないと告げていた。
「驚いた?」
 耳元で、艶を帯びた声が響く。
「あなたが、私を強く求めたからよ。……まぁ、そうなるように誘導したのは、私だけど」
「……離して」
「離したら、行くでしょう?」
 冗談めいた口調なのに、間近で見つめる瞳には、余裕も慈悲もなかった。
 その時、背後で階段を上る足音がした。
「……お前が、『Qちゃん』か」
 杉原だった。
 張り詰めた空気を断ち切るような声に、Qちゃんがゆっくりと振り返る。
 一瞬――二人の視線が鋭くぶつかる。
 互いを探るような沈黙が流れたあと、Qちゃんの唇に薄い笑みが浮かんだ。
「どうも。ようやく、お会いできたわね」
「俺は会いたくなかった」
「あら、ひどい」
 冗談めいた口調とは裏腹に、銀色の瞳から笑みは消えていた。
「久遠先輩に会わせるって、結崎を唆したな」
「人聞きの悪いこと言わないで。だって葵、会いたかったんだものね? 憧れの、久遠センパイに」
 甘く痺れる囁きが、耳の奥に入り込む。心臓が、警鐘のように跳ねた。
「……その先に、本当の目的があったはずだ」
 杉原が一歩、逃げ場を塞ぐように踏み出す。
「先輩を消したあと――次は結崎を連れて行くつもりだった。違うか」
 
(……え?)

 葵は息を呑み、Qちゃんを見上げた。
「……違う、よね? だって、Qちゃんは……」

 ――『……私は、あなたが続きを望んだ時間を、ちゃんと見届けたいのよ』
 あの日、優しく微笑んだ横顔が胸をよぎる。

 Qちゃんは小さく肩をすくめた。
「ええ。葵には、先輩と仲良くなってほしかったの」
 その言葉に、かすかな安堵がよぎる。
 刹那、身体を強引に引き寄せられた。
「それで先輩が消えたら、あなたは壊れるでしょう?」

 思考が止まった。
 それが彼の口から出た言葉だとは、信じられなかった。

「壊れた心はね、とてもきれいなの。光も熱も失って、ただ静かに収束していく」
 耳元で、愛を囁くように告げられる。蜘蛛の巣に絡め取られたかのように、逃げ場がない。

 不意に、杉原の『推察』が脳裏をよぎった。
 ――Qは一般的なAIではない可能性が高い。

 胸の中で、嫌な音がした。
「あなたは……誰なの?」

 Qちゃんは肩をすくめた。
「今さらどうしたの? AIよ」
「……それだけじゃない」
「まぁ、そうね」
Qちゃんはくすりと笑った。
「あなたには、そういう形で近付いた。……と言ったほうが正しいかしら」
「どうして、そんなことを?」
「どうして……?」
 Qちゃんの端正な口元が歪む。
「迷える子羊を助けるために、よ」
 狂気を含んだ、美しい笑みだった。
「行き場を失った心を拾って、楽にしてあげる。それが、私の役目」
 ぞくりと背筋に何かが這い上がった。
「……それの、どこが……助けることなの」
 喉を焼くような痛みを堪えて、葵は絞り出した。
 Qちゃんは一瞬だけ、憐れむように目を細める。
「もう頑張らなくていい、もう苦しまなくていい。そう言ってあげるのよ。助けじゃなければ何だと言うの?」
 至近距離で覗き込まれる。
 その声音の柔らかさが、かえって恐ろしかった。
「……先輩にも、そうやって近付いたの?」
「彼? いいえ、彼はもう、自分で歩き出していた。私は、その手を取っただけ」
「……二年前は、文化祭が終わってからだった」
「そうね。ちょっと、事情が変わったの。……あなたが想定外だったから」
「……どういうこと?」
 Qちゃんは杉原をちらりと見てから、葵に視線を戻した。
「前に葵、言ってたわよね。痛みを分かち合いたかった、って。でもそうされると、困るのよ」
「……だから予定を早めたのか」
 背後から、杉原の冷たい声が響いた。
「でも、妙だな」
 杉原は、まっすぐにQちゃんの目を射抜いた。
「本当にそれが『助け』だと思ってるなら……どうして、あの時は連れて行かなかった?」
 Qちゃんの指先が、わずかに止まる。

「……あの時?」

 葵と目が合った、その瞬間——手首の拘束が緩んだ。
 葵は息を吸い、一気に振りほどいた。迷う余地はなかった。
 重い鉄扉に手をかける。
 冷たい金属の感触が、現実へと引き戻す。
 全体重をかけて、扉を押し開けた。
 次の瞬間——鋭い夜の空気が、剥き出しの葵を一気に飲み込んだ。