今回の演目は、古城に囚われた「眠れる森の姫」をモチーフにした悲劇だ。
舞台へ一歩踏み出した、その瞬間。
幾重もの薄衣のドレスを纏った葵の姿に、客席の空気が変わった。
波紋が広がるようにざわめきが途切れ、体育館は静寂に包まれていく。
最前列の誰かが、小さく息を呑む音が聞こえた。
葵は、闇に沈む客席を見据えながら、ゆっくりと顔を上げた。
ふと、唇に微かな熱が蘇る。
——『うまくいくおまじない』。
あの低い声が、まだ胸の奥で静かに響いている。
唇に残る熱が、震えそうになる心をそっと支えてくれていた。
「……教えて。この窓の向こうに広がる空は、どこまで続いているの? 私が一度も触れたことのない、あの光の場所まで」
城の塔の上で、届かない自由を希う姫の台詞。
眩い照明の向こう、真っ暗な客席へ自分の声が吸い込まれていく。
練習で何度も耳にした言葉が、今は自分の内側から溢れ出す感情のように、自然と空気に溶けていく。
これほど多くの人に見つめられているのに、不思議と心はどこまでも自由だった。
やがて、場面転換を告げる音が響く。
鮮やかだった世界が一瞬で深い闇に包まれ、舞台は暗転した。
その幕間に身を滑り込ませ、葵は舞台袖へと駆け戻った。
控え室の中は、卓上ランプが静かに闇を切り取っていた。
場面転換の慌ただしい足音が行き交う中、その小さな灯りの下で久遠が待っていた。
葵が近付くと、彼は静かに目を向けた。
「……少しだけ直そう。座って」
パレットを手に取る久遠に促され、葵は彼の前の椅子へ静かに腰を下ろした。
「目、閉じて」
言われるまま、葵は瞼を閉じた。
柔らかなスポンジが目元をそっと整え、続いて頬を軽く叩いていく。
(次は、クライマックス。……もうすぐ、終わっちゃう)
そんなことを考えながら、次に触れる指先を待っていた。
けれど、いつまで経っても触れてこない。聞こえるのは、自分の心音だけ。
すぐ近くにいるはずなのに、久遠は何も言わない。
不安になって、葵はそっと瞼を上げた。
そこには、自分をじっと見つめる久遠の瞳があった。
メイクの手は、止まったまま。
その眼差しがあまりにも真っ直ぐで、葵は射すくめられたように動けなくなった。
「……先輩?」
震える声で名前を呼ぶと、久遠は弾かれたように小さく瞬きをした。
「……ごめん。ちょっと、考え事してた」
そう言って彼は目を伏せた。
それから何事もなかったかのように、指先で葵の髪を一筋、耳の後ろへ流す。
指先が耳の裏に触れ、そこだけ火が灯ったように熱くなる。
久遠はゆっくりと、自分を律するように深い吐息をこぼすと、背中を向けて立ち上がった。
「……終わり」
短く、自分に言い聞かせるような声だった。
彼はそこでようやく一歩、静かに距離を取った。
目を上げた彼は、もういつもの部長の顔に戻っていた。
(……考え事?)
そう思った時には、彼はもう部員たちへ目を向けていた。
けれど、あの近すぎた眼差しも、耳に残る吐息も、頭から離れない。
鼓動だけが、やけに速く耳の奥で鳴り続けていた。
あの『終わり』という囁きが、本当に彼の口から漏れたものだったのか。
視界を白く染める照明の下へ躍り出てもなお、その言葉は頭の片隅から離れなかった。
フィナーレを終え、舞台が暗転する。
舞台袖を抜けて控え室に戻ると、部屋の中は一気に慌ただしい喧騒に包まれていた。
「パウダー貸して!」
「汗やばい、崩れてない?」
鏡の前には役者たちが殺到し、崩れたメイクを手際よく直している。
カーテンコールまでは、ほんのわずかな時間しかなかった。
人の波が引いた頃、葵も鏡の前に立つ。
照明の熱で火照った頬を軽く押さえ、乱れた髪を整える。
「……葵ちゃん」
鏡越しに後ろを見ると、久遠が立っていた。
彼は自分の唇の端を指先で示し、小さく笑う。
「口紅、少しだけ」
「え?」
慌てて鏡を覗き込むと、唇の端がほんの少しだけ滲んでいる。
指先でそっと整えた、その瞬間――ふと、あの「おまじない」が脳裏をよぎり、唇に微かな熱が蘇る。
「お疲れさま。よかったよ」
「……ありがとうございます」
鏡越しに向けられた柔らかな笑顔に、胸の鼓動がそっと弾んだ。
その直後、控え室の扉が開かれた。
「あおちゃん」
振り向くと芽美が立っていた。少し息を弾ませている。
「めぐ……?どうしてここに?」
「……ちょっとだけ抜けてきちゃった。あとで先生に怒られちゃうかもだけど」
困ったように笑う芽美に、周囲の部員たちが「めぐちゃんだ」「大丈夫なの?」と次々に駆け寄る。
芽美は「ありがとう、もう大丈夫。ごめんね」
申し訳なさそうに言葉を返しながら、葵の前まで歩み寄った。
久遠がそっと椅子を引く。「桜井さん、ここかけて」
「ありがとうございます」
芽美は軽く頭を下げると、葵の顔をじっと見つめた。
「……あおちゃん」
「うん?」
「ありがとう。私の代わりに、舞台に立ってくれて」
「ううん。めぐが無事でよかった」
芽美はほっとしたように微笑んだ。
「……でも、ちょっと、うらやましかった」
「え?」
「だってね、舞台を見てたら、お姫様が本当にそこにいたの」
ほんの一瞬、瞳に寂しそうな影が差す。
「……もう、私の知ってるあおちゃんじゃないみたい」
「めぐ……」
照れくさそうに笑って、小さく首を振った。
「うん。やっぱり、あおちゃんにお願いしてよかった。……ね、素敵な姫でしたよね、久遠先輩?」
不意に久遠へ話を向ける。
すぐそばでパレットを片付けていた久遠が「ん?」と振り返る。
その視線が葵に触れた途端、久遠は不意に言葉を失った。
表情が、ごく微かに揺らぐ。
「……うん。そうだね」
短く落ちたその一言は、いつもの彼より少しだけ低く、どこか平静を装うような響きを帯びていた。
その時——。
賑やかな空気を遮るように場違いな振動音がした。
久遠はわずかに視線を落とし、静かにポケットから携帯を取り出した。
画面を見た瞬間、彼の端正な顔が、不自然に強張った。
だが、それも束の間だった。もうその顔には、いつもの穏やかな表情が戻っていた。
「ごめん。……ちょっと出てくる」
そう皆に言い残して、久遠は控え室を出ていった。
ほんの一瞬だけ、芽美の視線がその背中を追う。
自分でも気付いていないような、反射的な動きだった。
「みんな、準備して!」
舞台袖の方から飛んできた真琴の合図が、部屋の空気を一気に引き締めた。役者たちが一斉に動き出す。
それを合図に、芽美は葵の背中を優しく、けれど断ち切るようにそっと押した。
「行ってらっしゃい。私も客席で見てるね」
深く息を吸い、葵は頷いた。
鏡の中にいた『見知らぬ姫』をもう一度だけ見据え、舞台袖へと歩き出した。
袖の暗がりに、目がゆっくりと慣れていく。
厚い幕の向こうでは、客席のざわめきが波のように寄せては返していた。
最後のカーテンコール。葵は舞台袖の端に立ち、幕の隙間から漏れる一筋の光をじっと見つめていた。
その緊張を破るように、 背後から急いだ足音が聞こえた。
「……ごめん」
久遠だ。走ってきたらしく、少し息を乱しながら葵の隣りに滑り込んできた。
肩が触れそうなほどに近い距離。
さっきまであれほど近くにいたのに、緊張が解けたせいか、なぜか急にそれが落ち着かなくなる。
いたたまれず、葵は逃げるように視線を逸らした。
久遠は周りを見渡し、「全員いる?」と声を掛ける。役者たちが頷くのを確認すると、彼は舞台監督へ真っ直ぐに手を上げた。
「いけます」
短い合図。それから、少しだけ顔を傾けて葵を見た。
舞台から漏れる光が、その瞳をやわらかく縁取った。
「お客さんの反応、しっかり見ておいで」
胸に響く声。葵の背中をそっと押す、静かな号令のようだった。
次の瞬間、重い幕がゆっくりと上がり始めた。
光の中へ踏み出した。
眩しい照明に包まれながら、役者たちは舞台の中央へと歩みを進める。
横一列に並ぶと、一斉に深く頭を下げた。葵も皆に合わせて頭を下げる。
割れんばかりの拍手が、波のように押し寄せた。
ふと、葵は舞台袖を振り返った。暗幕の濃い影の中に、静かに拍手をする久遠がいた。
その姿が、なぜか現実味を欠いて、どこか遠くのものに見えた。
葵が見つめ返すと、久遠はほんの小さく、肯定するように頷いた。
(……よかった)
葵は安堵し、もう一度客席へと向き直る。 拍手がさらに一段と大きくなった。
客席の奥で、誰かが自分の役名や名前を呼ぶのが聞こえる。葵は込み上げる熱を堪え、もう一度、深く頭を下げた。
これで、無事に終わる。
報われる。
顔を上げ、最後にもう一度だけ、確信を持って袖を見た。
——黒い暗幕。冷たい照明機材の無機質な影。
そこには、もう誰もいなかった。
葵は目を凝らす。さっきまでそこにいたはずの彼の体温も、その気配も、嘘のように消え去っている。
見間違いだろうか。
それとも、どこかへ行ってしまっただけなのか。
胸の奥が、鋭く、小さく軋んだ。
舞台上のまばゆい光の中にいるはずなのに、足元から冷たい影が這い上がってくるような、得体の知れない予感に葵は身を震わせた。
久遠の姿は、もうなかった。
