その時、部屋を覆っていた緊張がふっとほどけた。
「ありがとう」
芽美は目を閉じ、安堵したように息をついた。
「桜井、行こう」
「……はい」
顧問に促され、芽美は小さく頷き、ゆっくりと立ち上がる。
「めぐ、無理しなくていいからね」
真琴の言葉に、芽美はかすかに笑みを浮かべた。
顧問と保健医に付き添われ、芽美は用具室をあとにした。
「よし」
久遠は一歩前へ出た。低く、確かな声が部屋の空気を一変させる。
「じゃあ、葵ちゃんは先に準備に入ろうか」
そのまま久遠は、次々と役割を振り分けていく。
「衣装合わせもあるし、メイクも詰めたい。他の役者でメイクが必要な人は、なるべくセルフで進めておいてくれると助かる。……いいかな?」
淀みのない指示が、止まりかけていた空気を少しずつ動かしていく。
「大道具は今のうちに手分けして舞台袖まで運ぼう。大きいパネルは男子中心で。位置はバミリを確認して。女子は小道具を持って。足りないものがあれば、今のうちにチェックしておいて」
一瞬の静寂のあと、
「……了解!」
「急ごう!」
堰を切ったように部員たちが一斉に動き出す。
部員たちが動き始めたのを確認すると、久遠は葵へ視線を向けた。
「……大丈夫。時間はまだある。ちゃんと仕上げるから」
騒がしくなった室内で、その声だけが葵の耳に真っ直ぐ届く。
この人になら、任せられる。
そう思えた瞬間、不思議と恐怖よりも高鳴りのほうが大きくなっていた。
上演まであと三十分。
用具室の重い扉を押し開けると、館内は、開演を待つ来場者たちの熱気とざわめきに満ちていた。
入口のほうからは、保健医に支えられて遠ざかっていく芽美の背中が見えた。
その姿が見えなくなった時だった。
「どうした? 桜井、出ていったけど」
低い声がして振り向くと、音響機材のコントローラーを抱えた杉原が立っていた。
「……体調が悪くて」
杉原は保健医と顧問の背中へ視線を向け、それから葵を見た。
「代役は?」
葵が答えに詰まると、杉原は察したように続けた。
「……お前がやるのか」
「うん」
葵が答えると、杉原は周囲へ一度だけ視線を巡らせ、声を潜めた。
「これも、わかってたのか?」
葵は静かに首を振った。
「……私の過去では、なかったことなの」
杉原は眉をひそめた。
「待て」
「え?」
「ヒロインを演じた記憶は?」
「ううん。……ない。どうしてだろう。今の私にとっては、ここはもう過去なのに……」
杉原は腕を組み、静かに考え込む。
「……そうか」
ぽつりと呟き、視線を葵へ戻した。
「たぶん、記憶は一度に全部書き換わるわけじゃない」
「え……?」
「改変後の記憶は、その時点までに起きた出来事しか流れ込まないんだ」
「どういうこと?」
「今のお前には、この瞬間までの記憶しかない。これから起こる出来事は、まだ未来だから思い出せない」
「……そういえば、今までもそうだった」
タイムリープするたび、改変された未来を最初から知っていたことは一度もない。
もし、いつ元の時代へ戻されるのかわかっていたなら――もっと違う動き方ができたのかもしれない。
「結崎。どうする? 今ならまだ――」
「ぶるー!」
前方から真琴が駆け寄ってくる。そして、迷いのない足取りで葵の腕を掴んだ。
「ヒロインの着替えとメイク、この三十分で仕上げないと本番に間に合わないよ!」
真琴の切迫した声に流されながら、葵は一度だけ杉原を振り返る。
彼はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる葵を見つめていた。唇を開きかけたが、結局何も言わなかった。
「ほら、早く早く」
真琴に急かされ、葵は控え室の扉へと駆け出した。
控え室の扉を開けると、そこには静かに筆を整える久遠の姿があった。
葵の気配に気づいた久遠は、ゆっくりと顔を上げ、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべる。
「はじめてだね。葵ちゃんが舞台に立つの」
その笑顔に、張りつめていた心が少し和らぐ。
「緊張してる?」
「す、少しだけ……」
強がるつもりが、声の震えで台無しになる。
「……実は、俺もちょっと緊張してる」
意外な告白に、葵は驚いて顔を上げる。
「え……先輩が?どうして……」
不思議そうに見つめる視線に、久遠は答えず、ただ優しく目を細めた。
「葵ちゃん。ここまで来ちゃったけど、もし本当は嫌なら」
久遠はそこで一度言葉を切り、迷うように視線を落とした。
やがて、静かに葵を見つめ返す。
「もし、舞台袖でどうしても無理だと思ったら……」
(劇を中止するって言うのかな……)
最悪の事態を覚悟して、葵は息を止めた。すると、久遠は張り詰めた空気をほどくように、ふっと笑った。
「その時は、俺が出るよ」
「……へ?」
「ちょっとタッパがあって、肩幅の広いお姫様になるけど。……幸い、衣装はフリーサイズだし、今の御時世、コンプラ的に口出すやつはいないはずだから。……どうかな、これでも一応、演劇部だし」
葵は一瞬、呆気に取られた。
目の前の久遠が、かつらを被ってドレスを着ている姿を想像して――。
思わず吹き出す。
「そ、それは ちょっと見てみたい気も……!」
久遠は安心したように、けれど少しだけ名残惜しそうに唇を尖らせた。
「結構、自信あるんだけどな」
「わかってます。先輩はやるとなったらやる人ですから」
目尻に滲んだ涙を拭いて、久遠に向き直る。
「でも、大丈夫です。私、やれます。先輩の『姫』はまた別の機会に」
葵が久遠の目をまっすぐに見据えると、久遠は「うん」と立ち上がる。
いつもの穏やかな笑みを浮かべ、そっと椅子を指差した。
「おいで」
誘われて座ると、久遠は葵の正面で、目線を合わせるように少しだけ腰を屈めた。
石鹸の匂いがふわりと漂う。
「気高くて、信念があって。一途で、純粋で。……誰もが見惚れるような、そんな姫にするね」
約束のような声音に、胸がどきりと波打つ。
「……よろしくお願いします」
「うん。任せて」
指が顎に触れ、そっと上を向かされる。
大きな手が、驚くほど繊細に下地を馴染ませていく。
一瞬、目が合い、すぐに逸らされる。
真剣な眼差しは、もうメイクだけを見ていた。
スポンジが肌を叩く一定のリズムに合わせて、乱れていた心拍が整っていく。
鏡の中の自分が、少しずつ別人へと変わっていく。
見慣れない「姫」が形になっていくにつれ、葵の胸には、舞台への緊張とは違う高揚感が静かに満ちていった。
至近距離にいる久遠の穏やかな気配と、時折触れる指先の温もり。
そのすべてが、葵の心を静かに乱していく。
ここにいるのが自分なのか、それとも鏡の中の姫なのかわからなくなるような眩暈を覚え、葵は縋るように口を開いた。
「……先輩は、舞台に出たとき、何を考えてたんですか?」
「え?」
「新入生歓迎会の、石像の役。あのとき……何を考えてたのかなって」
久遠の動きが、ふっと止まった。
鋭かった眼差しが、瞬きひとつで、いつもの穏やかな表情へ戻る。
彼はふっと、肩を揺らして笑った。
「そうだね……あの時は動けない時間が長かったから」
久遠は手を動かしながら、懐かしむように続ける。
「『寝たらまずいな。動くタイミングで誰か起こしてくれないかな』って」
「え! そんなこと考えてたんですか?」
葵の笑い声に、久遠は満足そうに目を細める。
「……目、閉じて」
囁くような低い指示。
暗闇の中、すぐ近くで久遠の呼吸が聞こえる。
一定で、乱れのない息遣い。柔らかい筆先が瞼をなぞる。
視界を遮られたことで、彼が隅々まで観察している事実が、より生々しく伝わってくる。
心臓の音が彼に聞こえていないか、不意に不安になる。
アイメイクを終え、「……いいよ。目、開けて」と促され瞼を開けると、そこには、真っ直ぐ葵を見つめる瞳があった。
「最後に、うまくいくおまじない」
彼は薬指の先に深い紅を乗せ、「……少し、口を開けて」と呟いた。
葵がわずかに唇を割り、吐息が漏れたその瞬間。
熱を帯びた指先が、ゆっくりと輪郭を確かめるように滑る。
息が、触れそうなほど近い。
紅が置かれるたび、唇が微かに震える。
世界が、二人分の呼吸だけになった。
ほんの一瞬、指先がとどまった。
ふと目が合い、そっと指が離れた。
「できたよ」
鏡の中にいたのは、気高く孤独な「姫」だった。
——コンコンッ!
その時、ノック音とともに控え室の扉が勢いよく開け放たれた。
「結崎さん、準備はどう――」
声をかけながら入ってきた部員たちが、入り口で凍りついたように立ち止まる。
「……え」
「うそ、葵ちゃん……?」
室内がしんと静まり返る。彼らの視線が、鏡の前に立つ葵に釘付けになっていた。
「すごい。……本当に、姫だ」
真琴が、息を呑むような声で呟く。
その声には、心の底からの驚きが滲んでいた。
静まり返った空気を破るように、「みんな」と、久遠が冷静に口を開いた。
「あまり時間がない。準備出来た人から袖へ」
「あっ……」
その言葉に、真琴をはじめ、部員たちが我に返る。
「冒頭グループ、小道具は持った? みんな、配置について!」
真琴の指示が飛び、途端に室内が慌ただしい活気に満ちる。
「……仕上げだけ、直すね」
久遠は近くで待機していた役者たちのもとへ歩み寄ると、用具室ですでに施されていたメイクに、影の強調やハイライトをささっと筆で加えていく。
迷いのない筆先が、ほんの数秒で役者たちの表情を舞台映えするものへ変えていく。
その手つきは、驚くほど手際が良かった。
思わず見惚れていた葵に、久遠はちらりと視線を投げる。
「着替えておいで」
「あっ……はい!」
葵は小さく頷き、黒いベロアの向こうへと身を滑り込ませた。
控え室の隅を布で仕切っただけの、急造の更衣スペース。
一歩中に入れば、外の騒がしさが厚い布に遮られ、急に遠のいた。
光を吸い込むような黒い布に囲まれた空間は、薄暗く静まり返っていた。
布の向こうでは、最後の一人が慌ただしく出ていく気配がした。
「それじゃ、行ってきます」
「うん。頑張って。落ち着いてね」
久遠の声に続いて、扉が勢いよく閉まる。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った。
黒幕一枚を隔てた向こう側に、久遠がいる。
葵は言葉にならない羞恥心と戦いながらブラウスを脱ぎ、ドレスに袖を通した。
けれど——背中のファスナーを引き上げる途中で、指先に嫌な抵抗が伝わった。
「……え?」
もう一度、少し力を込めて引く。
けれど、布が引っかかったのか、それ以上は動かない。
慌てて戻そうと思ったが、今度は下げることさえできない。
ドレスに閉じ込められたような感覚に、焦りが胸の奥でじわりと広がる。
(そうだ、真琴……!)
閃いたものの、部屋の静けさから、彼女の姿がないことは明らかだった。
――どうしよう。
開演まで、もう時間がない。
久遠は、呼べばすぐに来る距離にいる。けれど、どうにも躊躇われた。
(……よりによって先輩に、露になった背中を晒すなんて……)
想像しただけで、頬まで熱くなる。服に隠れているはずの素肌まで晒してしまうような錯覚に陥った。
――無理、やっぱり。
数秒だけ逡巡した。けれど、刻一刻と迫る開演時間が、葵の逃げ場を塞いでいく。
葵は一度深く息を吐き出すと、震える唇をゆっくりと開いた。
「……先輩、すみません」
声は思ったよりもかすれていた。すぐに、幕の向こうでわずかに気配が動く。
「どうした?」
「ファスナーが……上がらなくて」
一拍の沈黙。それから、黒幕が静かに揺れた。
「――入るよ」
低く告げる声に、葵の心臓が小さく跳ねる。
次の瞬間、黒幕がわずかに開き、久遠が中へと身を滑り込ませた。
狭い空間に、彼の気配が静かに満ちる。葵は振り返れないまま、その場に立ち尽くした。
「……どこで止まってる?」
いつも通りの落ち着いた声。けれど、ほんのわずかに、その調子が硬い。
「……ここ、です」
後ろの髪の毛をかき上げ、背中越しに答える。
背後で衣擦れの音がした。葵は思わず息を止める。
ほんのわずかな間。布に触れる気配がして、指がファスナーにかかった。
「……噛んでるな」
短く落ちる声が、やけに近い。
布が軽く引かれ、引っ掛かりがほどける気配がした。
静かにファスナーが引き上げられていく。
「……これで大丈夫」
それだけ言って、久遠は何事もなかったように黒幕の外へ戻っていこうとした。
「……先輩」
足音が止まる。
「どうした?」
葵は振り返らないまま、小さく息を吸った。
「……劇。最後まで、見ててくださいね」
一瞬だけ、久遠が驚いたように黙る。
「……うん」
やがて、小さく笑う気配がした。
「ちゃんと見てるよ。大丈夫」
その一言を残して、久遠は静かに黒幕の外へ戻っていった。
残された葵は、ようやく呼吸を思い出したように、深く息を吐いた。
黒幕が揺れ、姿を現した葵を見て、久遠は一瞬だけ言葉を失った。
立っていたのは、気高く、触れれば壊れてしまいそうなほどに繊細な「姫」だった。
「……すごいね」
思わず漏れたその声は、わずかに掠れていた。
久遠はそっと隣へ歩み寄ると、いつもの穏やかな声で言った。
「行こうか。どこからどう見ても素敵な姫だよ」
彼の言葉に、葵の心臓が跳ねる。
肩を並べて舞台袖へと歩き出すと、すぐ傍らで感じる彼の温もりが、今日一番の勇気となって背中を支えてくれた。
舞台袖へ向かうと、部員たちがそれぞれの持ち場で開演を待っていた。
誰もが緊張した面持ちで、開演の瞬間を待っている。
葵もその輪に加わり、深く息を吐く。
初めて立つ舞台を前にして、不思議なほど心は穏やかだった。
ふと、隣に立つ久遠の気配を感じる。
幕が上がる直前、葵はそっと久遠を見上げた。
「……先輩」
「ん?」
「さっきの、ほんとですか? 石像の役のとき、『寝たらまずいな』って考えてたの」
久遠は何の話かと一瞬きょとんとした顔をした後、葵にだけ見える角度で、いたずらな笑みをのぞかせた。
「うそ」
「……えっ?」
驚きに目を見開く葵の背中を、彼はぐっと力強く押し出した。
「行って」
その一押しが、魔法のように葵を解き放つ。
唇に残る熱と、彼のいたずらな笑顔。
葵は光の溢れる舞台へと、迷うことなく躍り出た。
