名前のない想いの果てに

 舞台裏の控え室は、相変わらず手狭だった。
 二つ並んだ長机の向こう、壁際には大きな鏡が据えられている。
 蛍光灯の白い光が、その表面を無機質に照らしていた。
「ここを使おう」
 久遠がメイクケースを机に置き、留め金を外すと、筆やパレットが整然と並んでいた。
 四年前と寸分違わぬ光景に、葵は思わず後ずさりする。
 あの日も、こうして彼の隣にいた。
 次に使う道具を渡したり、崩れたラインを綿棒で整えたり。
 指示通りに動くだけで精一杯だったけれど、彼の手元を必死に目で追っていた記憶だけは鮮明に残っている。

「……あの。私、メイク……実は、あんまり知らなくて」
 正直に白状すると、ぎゅっと胸が縮んだ。
『女子なのに?』とがっかりされるかもしれない。そんな不安が頭をよぎる。
 けれど久遠は「そっか」と軽い相槌を打っただけだった。
「大丈夫だよ。舞台メイクは、普段のと全然違うし。むしろ、変な癖がないほうが助かる」
 久遠はふと思い出したように手を止め、ケースの脇に置いてあった黒い布を手に取った。
「服、汚れちゃうと困るから。これ使って」
「……ありがとうございます」
 差し出されたのは、久遠がいつも使っていた黒いエプロンだった。
 胸元から膝まで覆う、ゆったりとした長い作り。
 袖口を汚さないように腕をまくり、迷いなく筆を取っていたあの背中。

 記憶の断片が、鮮やかに蘇る。
(そう言えば、あの時も先輩、このエプロン貸してくれたんだっけ……)
 丁寧に畳まれたそれを広げ、躊躇いがちに腕を通す。
 けれど、再会したばかりの久遠を前に緊張しているせいか、肩紐がうまく指に掛からない。
(なんで……あの時はスムーズにできたのに)
 もどかしい思いが先走りし、焦れば焦るほど紐が絡まっていく。

「後ろ、貸して」

 背後から、静かな声。
 はっとした瞬間には、久遠の両腕が葵の肩を包むように伸びてきていた。
 視界が、すとんと彼の影に覆われる。
 首筋のすぐ後ろで、衣擦れの気配がした。
 長い指先が迷いなく紐を操る。
 髪の隙間に、彼の吐息が触れた。
 きゅ、と首元で紐が結ばれるたび、その微かな振動に、呼吸が浅くなる。
「うん、これで大丈夫。……少し大きいかな」
 久遠は満足そうに微笑むと、鏡の前の椅子を軽く引いた。「そこ、座って」
 促されるまま、腰を下ろす。
 鏡の中、正面から捉えられた自分の顔の背後に、久遠が立った。
 メイクケースの筆を選ぶ、微かな気配。
「舞台メイクはね、客席の遠くからでも表情が見えるように作るんだ」
 穏やかな声が、頭の上から降りてくる。
「だから、普段より線も色も強くなる。でも、やること自体はそんなに難しくないよ。まずは、自分の顔で練習してみようか」
 張りつめていた心をほどくような笑顔。
 鏡越しに目が合った瞬間、葵の心臓がトクン、と跳ねた。
(久しぶりに顔を見るせいかな……なんだか、落ち着かない)
 葵は、言葉にならないまま小さく頷いた。
「まずはこれ。ベース。ムラを消す感じで」
 言われた通りスポンジにベージュの液を薄く広げ、鏡を見ながら自分の頬にそっと触れる。
「そんな感じ。……次は、目元ね」
 久遠が筆を差し出す。葵がそれを受け取ろうとした、その時――
 指先が、不意に重なった。

「……っ!」

 葵はつい、弾かれたように手を引っ込めた。
 自分でも驚くほどの過剰な反応に、久遠は一瞬きょとんとしてから柔らかな苦笑を漏らした。
「ごめん。そんなにびっくりすると思わなかった」
 もう一度差し出された筆を、今度は慎重に受け取る。
 けれど、さっき触れた微かなぬくもりが、指先にこびりついて離れない。
 案の定、筆先がわずかに滑り、アイラインが目尻で不自然に跳ね上がってしまった。

「ごめんなさい、失敗しちゃった……」
 葵が顔を向けると、久遠は少しだけ身を屈めた。
「ん、見せて。……あはは、ほんとだ。ちょっと強気なメイクになったね。目、閉じて」
 彼は怒るどころか面白そうに目を細め、手際よく綿棒でラインをなぞった。
 これまで数多の役者の顔を仕上げてきたその指先が、今は自分ひとりのためだけに動いている。
 その事実を不意に実感し、肩に入った力が、うまく抜けない。

「失敗してもいいんだよ。俺も最初はひどかったし」
「嘘……。先輩が失敗するところなんて、想像できません」
 思わず零れた本音に、久遠がふっと柔らかく笑う。
 覗き込んでくる彼との距離に、息の仕方がわからなくなる。
 ふわりと、彼の髪から微かにシャンプーの匂いがした。
 正面へ向き直った彼と鏡の中で一瞬視線が合い、彼は満足そうに頷いてまたパレットに向き直った。
「うん。ベース、きれいに乗ってる」
「……ありがとう、ございます」
 鏡の中の自分と目が合うのが怖くて、葵は耐えきれずに目を伏せた。

 その後も、シャドウのぼかし方やリップの引き方など、久遠は流れるような手つきで工程を重ねていく。
 葵は、彼の「そう、うまい」「その加減でいい」という穏やかな肯定を道標に、慣れない手つきながらも必死にそれに応えていった。
​ 最後の一筆を置き、ようやく葵が深く息を吐き出したとき、控え室の扉が勢いよく開いた。

「先輩、メイクお願いしまーす」
「次、自分もいい?」
「ちょっと待って、つけまつ毛どこ置いたっけ?」
 衣装を纏った役者たちが、次々となだれ込んでくる。気付けば十人ほどが一度に狭い室内にひしめき合っていた。
 布の擦れる音、小道具が机に置かれる軽い衝撃。誰かが隅で小さく台詞を繰り返している。
 さっきまでの静けさが、嘘みたいに霧散していく。
「順番にね」
 久遠は慌てる様子もなく、空いている椅子を指した。
「ベースからやる人、こっち座って。結崎さん——」
 と、隣にいた葵へ指示を出しかけていた久遠が、少しだけ目を見開く。
 葵はすでに、予備のスポンジとパレットを手に取っていた。
「……はい。やってみます」
 教わったばかりの感覚が消えないうちに、この指で確かめたい。
 その一心で、葵は自分から役者の前へ踏み出した。
 迷いそうになるたび、隣に立つ久遠の手元を視界の端で追い、そのリズムを自分の手元へと写し取っていく。
 指示を待って立ち尽くしていた四年前とは違う。今の葵は、鏡越しに送られてくる久遠の視線を、確かな道標として受け止めていた。
「うん、いい感じ。目元は俺がやるから」
「はい」
 弾かれたように応じ、葵は脇目も振らずに手を動かす。
 そのあまりに真剣な様子に、久遠にメイクを施されていた役者が、ふっと表情を緩めて声をかけてきた。
「結崎さん、メイクやるの初めて? なんだか、すごく気合い入ってるね」
 葵が返答に詰まるより先に、隣で筆を動かしていた久遠がさらりと答えた。
「今日から戦力」
「おお、それは頼もしい」
 役者が楽しそうに笑う。
 その何気ないやり取りの中で、葵はくすぐったいような、誇らしい気持ちに満たされていった。

 鏡の前では、久遠の筆が迷いなく動いている。その鮮やかな手つきを視界の端に捉えながら、葵もまたスポンジを握り直した。
 メイクを終えた役者が次々と控え室を出ていくと、辺りはまた静かになった。

 遠くの館内放送から先生の呼びかけが聞こえ、久遠がふっと顔を上げる。
「じゃ、そろそろ次の確認に行ってくるね」
 そう言いながら、彼は机の上に散らばったパレットや筆を手早くまとめ、机の端に寄せて置いた。
 忙しなく動くその手の動きが、静かな空気を現実へと引き戻していく。

「ありがとう、手伝ってくれて。……結崎さんがいてくれて、よかった」
 去り際、足を止めて振り返った久遠が、柔らかく笑う。
 その声音が、やわらかく耳に残る。
 葵は顔に浮かんだ火照りを隠すように、小さくはにかんだ。
「……それなら、良かったです」
 久遠は少しだけ目元を和らげると、ふっと思い出したように問いかけた。
「このあと、本番見ていく?」
「はい」
 迷いのない返事に、彼は短く頷いて、「じゃあ、また後で。客席のほう暗いから、気をつけてね」と扉を閉めた。

 葵は、しばらくその場から動くことができなかった。
 静まり返った室内には、まだ微かに化粧品の甘い匂いと、彼の髪から漂っていたシャンプーの香りが混ざり合って残っている。

『人手ほしいなって思ってたんだ』
『すごいね。タイミング』

 彼が何気なく口にした言葉が、耳の奥に残って離れない。
 葵は、久遠が作業台に置いていったメイク道具を、一つずつ手に取った。
 使いかけのパレット、毛先の少し乱れた筆。
 残った粉をティッシュで拭い、まるで彼の体温を確かめるように、丁寧に毛先を整えていく。
 そこに残るわずかな感触が、確かに彼がそこにいたことを伝えていた。

 ふと鏡を見ると、そこに映る自分は、さっきよりも少しだけ大人びて見えた。
 それが舞台メイクのせいなのか、それとも、心の奥に灯った熱のせいなのか。今の葵には、わからなかった。

 館内の照明が落ちた。
 ざわめきが、波が引くように静まっていく。
 しん、と沈んだ闇の中。一筋の光が、舞台を切り裂いた。
 ゆっくりと幕が上がる。
 客席の端で、葵は膝の上でそっと手を握りしめる。

 何度も見て、知り尽くしているはずの舞台。
 けれど、スポットライトが役者たちの顔を照らし出した瞬間、葵は思わず息を呑んだ。
​ 目の前のその光景が、不思議なほど以前とは違って見えたからだ。
 その生き生きとした表情の中に、ついさっき自分が触れたベースの質感や、一生懸命に引いたラインの名残を探してしまう。
 かつての自分にとって、舞台は遠くから見上げるだけの、完成された「眩しい何か」でしかなかった。
 けれど今は、その光の裏側にあるものが見える。

 筆を握る久遠の真剣な横顔や、二人で並んで作業したあの部屋の琥珀色の静寂。
 一筆一筆に込められた気遣いを知ったことで、舞台上の光が、以前よりずっと近く感じられた。
 自分の指先の記憶が、あの眩しい光の中に溶け込んでいる。
 そう思った瞬間、ただの観客だった葵の世界は、音を立てて鮮やかに塗り替えられていった。

 黒幕の端が、わずかに開いている。その隙間から、舞台を見つめる人影が見えた。
 (――久遠先輩……)

 役者の動きを追いながら、台本に視線を落とし、必要な箇所で小さく合図を送っている。
 その横顔が、痛いほどに真剣で。    
 心臓が、熱を帯びて脈打つ。
 舞台の光が、役者たちの輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
 声が空気を震わせて届き、景色が鮮やかに形を変えていく。
(——ああ、私……)
 ぎゅっと手を握りしめる。

 この世界が好きだった。

「楽しかった記憶」として過去に閉じ込めてしまうのでもなく、嫌なことを忘れるための隠れ家にするのでもない。
 ただの憧れで終わらせたくないほど、真っ向からこの場所に関わっていたかった。
 本当は、客席に座っているだけじゃなく、ほんの一瞬でもいい、あの光の中に立ってみたい――そんな風に思ったこともあった。

 その願いの種を蒔いたのは、きっと、あの人だった。

 幕が下りると、葵は気づけば夢中で手を叩いていた。
 舞台の上で役者たちが一礼する。その袖で、久遠が小さく安堵の息を吐いたのが見えた。
 あまりの昂ぶりに、葵の掌はじんじんと痺れを帯びている。
 その時、ふわりと耳元で、聞き慣れた呆れたような声がした。
「ちょっと。そんなに本気で拍手してる人、周りに一人もいないわよ。見てるこっちが恥ずかしくなっちゃう」
 いつの間に戻ってきたのか、Qちゃんが葵のすぐ後ろに立っていた。
 相変わらずの涼しい顔で、葵の興奮を冷めたように眺めている。
「……いいじゃない。本当に、すごかったんだから」
 葵が小声で言い返すと、Qちゃんは「はいはい」と鼻を鳴らした。
 胸いっぱいの余韻を抱えて、葵が席を立ったときだった。
「お疲れさまー」
 不意に、背後から聞き覚えのある声がした。
「また出た……」
 Qちゃんのげんなりした声に振り返ると、さっきの実行委員の女子が立っていた。
 腕章は少しずれ、顔には隠しきれない疲れがにじんでいる。
「出番終わったでしょ?だったらさ、もう帰っちゃえば?」
 冗談めかした口調で、彼女は続ける。
「『お腹痛くて』とか適当に言ってさ。この時間なら、誰も突っ込まないって」
 それはきっと、面倒なことから逃げ出す術を知っている、彼女なりの気遣いなのだろう。
 けれど、葵の内側には、まだ消えない熱が居座っていた。

『結崎さんがいてくれて、よかった』

 去り際に久遠から向けられた、柔らかな声。心の深い場所に、ぽっと明かりが灯る。
 ここにいてもいいのだと、そう言われた気がした。
「……葵」
 隣で、Qちゃんが探るように囁く。
「無理に合わせなくていいわよ。あんたが今、いたい場所はどこ?」

 葵は一呼吸おいて、彼女に向き合った。

「……あの、私」
 一度だけ迷子になりかけた言葉を探し、しっかりと手繰り寄せる。
「少しでも、役に立ちたいんです」
 目を逸らさずに、言葉を重ねる。
「……この舞台に、私の居場所を作ってくれた人がいるから」

 控えめだけれど、芯の通った葵の拒絶。
 彼女はきょとんとしてから、「そっか。真面目だね」と、毒気を抜かれたように笑った。
「じゃ、気が変わったら校舎裏にでもおいでよ。あっちのほうが涼しいし」
 彼女の去っていく後ろ姿を見送って、隣でQちゃんが、くすっと喉を鳴らした。
「ちゃんと言えたじゃない。あんたのその真っ直ぐなところ、嫌いじゃないわよ」

 ——逃げなかった。誤魔化さなかった。
 今、自分の意思でここにいたいと、初めて言えた。
 葵は、Qちゃんに何か言い返そうとして——けれど、喉の奥が熱く震えて、うまく言葉にならなかった。

 上演が終わっても、客席はまだ闇の中に沈んでいた。
 その代わり、舞台の上だけが白い照明に照らされ、熱の名残を閉じ込めたように眩しく浮かび上がっている。
 辺りには、実行委員や教員たちが機材を片付ける足音や、拡声器を通した無機質な指示だけが虚しく反響していた。
(先輩……どこだろう)

 ​葵は薄暗い舞台裏へ足を踏み入れた。
 控え室は着替えを急ぐ役者たちの喧騒と興奮に溢れていたが、そこに彼の姿はない。
 胸騒ぎを覚えながら舞台へと視線を走らせたとき、片隅に一つの影が落ちているのを見つけた。​

――久遠だった。

 ​彼は、誰もいない舞台の上に、たった一人で立ち尽くしていた。
 眩い光に包まれながら、暗がりに沈む客席をじっと見つめている。
 さっきまで的確に指示を飛ばしていた瞳とは、まるで別人のようだった。
 どこか、ここではない遠い場所を見ているような、透明な横顔。
 その危うさに、葵の心臓が小さく跳ねた。
(……先輩?)
 
 今、声をかけなければ。
 このまま、この人は光の中に溶けて、どこか遠い場所へ消えてしまいそうで。​
 葵はたまらず暗がりから、彼が立つ眩い光の中へと一歩を踏み出した。
 境界を越えた瞬間、スポットライトの熱量が肌を焼く。
 白く染まった視界の中で、光に照らされた細かな塵が、静かに瞬いているのが見えた。
 一瞬、平衡感覚を失いそうになる。
「先輩」
 呼びかけると、久遠がゆっくりとこちらを向いた。
「……あ、結崎さん」
 その瞳に宿っていた透明な色は、葵の姿を捉えた瞬間に、いつもの穏やかな光に取って代わられた。
 久遠は、綻ぶように優しく微笑んだ。
 けれど、それはかえって、葵の胸に小さなざわつきを残した。
「すごかったです。先輩が、役者さんたちに……魂を吹き込んだみたいでした」
「なにそれ」
 久遠はふっと吹き出して、大げさだな、とはにかんだ。
「でも……ありがとう。みんな、よく頑張ってくれたよ」
 彼は独り言のように言うと、再び顔を上げ、客席へと視線を投げた。
 葵もつられるようにして、彼の隣に並び、初めてそこから景色を見渡す。
 照明の届かない客席は、まるで深い水底のような暗闇に沈んでいた。
 無数の気配だけが、その奥で静かに揺れている。
 広く、孤独で――けれど、不思議なほど胸が高鳴った。
 役者たちはいつも、こんな光景を見ているのだ。
 
 作業音も人の気配も、遠くへ滲んでいく。
 光の中に、二人だけが取り残されたようだった。

 普段は裏方に徹する彼と、今、同じ強い光を浴びて、舞台の上に立っている。
 その事実が、葵の胸を静かに熱くさせた。
 彼の横顔には、役目を終えたあとの深い疲弊が滲んでいる。
 それを見つめるうち、四年前の記憶が不意に蘇った。​
 このあとの片付けの最中、久遠は声をかけてくるはずだ。「今日はありがとう。一年生だし、本番は客席からゆっくり見てね」と。
 あの時の葵は、ただ頷くことしかできなかった。
 そうして迎えた本番当日。
 葵は「観客」という安全な外側から、ただ舞台を見上げていた。
 舞台裏では、きっと別の誰かが久遠の隣で助手をしていたのだろう。
 葵は、ぐっと顔を上げた。

​「あの、よかったら……明日も手伝わせてもらえませんか」
「明日?」久遠が、驚いたように少し目を見開いた。
「本番は、今日よりずっと忙しいよ。客席で観なくていいの?」
「はい。……ここにいたいんです」

 一瞬の沈黙。やがて久遠は、どこか穏やかに、降参したように笑った。
「……そっか。ありがとう。じゃあ、明日もお願いしようかな」
 その瞬間、​胸の奥にともっていた小さな灯が、葵の足元を強く照らし出した。

 四年前には届かなかった彼の隣に、今は確かに立っている。
「観客」ではなく、彼の隣を歩む者として。
 葵の中で、新しい物語が、静かに、そして力強く始まっていた。