名前のない想いの果てに

 
 校舎を抜けた先に、体育館が見えた。
 開いた扉の向こうからは、眩い照明の白さと生徒たちの熱気が溢れている。
 葵は小さく息を吐き、体育館へと足を踏み入れた。
 演劇部の待機場所である用具室の扉を開けた瞬間――

(なに……?)

 ふと、張りつめた空気に気付く。
 普段なら本番を控えた部員たちが、緊張と高揚で騒がしいはずなのに、今日は、妙に静まり返っていた。
 部員たちが、心配そうに一人の生徒へ寄り添うように集まっている。
 その視線の先にいたのは――芽美だった。
 椅子に座ったまま腹部を押さえ、唇を噛みしめながら浅い呼吸を繰り返している。
 血の気が引いたように青ざめた顔に、苦しげな色が浮かんでいた。
「めぐ……?」
 芽美のもとへ駆け寄る。
「大丈夫?」
 声をかけると、芽美がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、今にも崩れ落ちそうな不安が滲んでいた。

 その時、勢いよく扉が開いた。
「桜井さん、大丈夫?」
 久遠だった。後ろには保健医と顧問の姿もあった。
 久遠はすぐに芽美の前へしゃがみ込み、その顔色を確かめた。
「立てる?」
 保健医の言葉に、芽美は「はい……」と力なく頷いた。
「……ごめんね、みんな。せっかく練習してきたのに……」
「いいよ、めぐのせいじゃない」
 真琴が、すぐさま言葉を返した。
「とにかく保健室で休んでおいで。劇のことは、こっちでなんとかするから」
 芽美は、力なく俯いた。
 しかし、真琴の『なんとかする』が容易でないことは、その場の全員がわかっていた。
 重い沈黙が流れる中、小さく口を開いたのは芽美だった。
「みんな。最後に一つだけ……ワガママ言ってもいいかな」
 不意に、その視線が葵を捉える。それから部員たちをゆっくりと見渡し、震える声で言った。
「ヒロインの代役……あおちゃんにお願いしたいの」
「え……?」

 葵は息を呑んだ。
 戸惑いを含んだ視線が、一斉に葵へ集まる。
「お願い……」
 消えてしまいそうな声だった。
 葵は狼狽えたまま、拒絶の言葉を探した。
「そんな……急に言われても、私、台詞が――」
 言いかけたその瞬間、言葉が止まった。

 ——『覚えてない』?

 ヒロインの第一声。その直前のわずかな間合い。相手の台詞を受ける呼吸の置き方。
 何度も隣で聞いてきたそれらが、不意に自分のもののような輪郭を帯びる。
 続く台詞も、次々と脳裏に蘇った。

「立ち位置、だって……」
 上手へ三歩。振り返る角度。照明が落ちるタイミング。

 ――考えるより先に、身体が知っている。
(……なんで?)

 その瞬間――。
 新たな『記憶』が脳裏に流れ込んできた。
 部室で、配役を決めた日。
 役者はすべて決まり、あとは裏方の分担を決めるところだった。
『あおちゃん。お願いがあるんだけど……今回は、何も担当しないでほしいな』
 少し笑って、そう言った芽美の顔。
『文化祭って、直前で急に手が必要になることもあるでしょ。それに、私の台詞の読み合わせも手伝ってほしいから』

​(まさか——)

 葵は、泳いでいた視線をようやく芽美へ向けた。

 ​記憶が逆再生されるように、芽美の言葉が蘇る。
 葵が何の裏方も引き受けずにいたのは、偶然ではなかった。ずっと、芽美が葵を「空けて」いたのだ。
​(最初から、私にこれをさせるために……?)
 何度もセリフ読みをしたことも。
 立ち位置を確認したことも。
 点だった記憶が、一本の線で繋がった。
(それじゃ、この腹痛も――)
 芽美は、追い詰められたような、縋るような目で葵を見ている。

(……でも)

 思わず芽美から、目を逸らす。

 久遠へ向けられた、あの切なげな眼差し。
 名前を呼ぶときに滲んでいた、抑えきれない感情。
 ――あれは、紛れもなく『本物』だった。

 最初は計画だったのかもしれない。
 けれど、その先は——彼女自身も、予想していなかったことだったのではないか。
 この舞台を、好きな人に見届けてもらったまま終えたい。
 そのささやかな願いが、最後の最後まで彼女を迷わせていたのだとしたら。

「あの……もしよかったら、私、やりますけど。台詞なら覚えてますし……」
 後ろから後輩の遠慮がちな声が上がる。
「いや、私も、ぶるーがいいと思う」
 その声を遮るように、真琴が芽美へ視線を向けた。
「何度も台詞合わせしてきたし、適役でしょ」
「真琴……?」
「ぶるーなら、大丈夫」
 そう言って見せた真琴の笑顔は、不思議なほど確信に満ちていた。
 その瞬間、何かが静かに噛み合った。

 芽美へ、もう一度目を向ける。
 目が合うと、芽美の表情がわずかに緩み、安堵にも似た微かな色が浮かんだ。
 
 それが、芽美の答えだった。

 ――それなら。
​ もう、逃げることはできない。
 この役を託した芽美の想いに、応えたい。
 
​ 葵は小さく息を吸い込み、わずかに間を置いてから口を開く。
「……わかった」
 自分の声が、意外なほど落ち着いて聞こえた。
「やります。ヒロイン」