翌朝。校門をくぐると、校内は文化祭当日の慌ただしさに包まれていた。
見慣れたはずの風景。
けれど葵の胸には、これまでにない緊張と不安が渦巻いていた。
久遠を救う、最後の機会――その事実だけが、重く胸にのしかかっていた。
それに今日は、久遠たち高校三年生にとって最後の文化祭でもある。
何事もなく終わってほしい。そう願わずにはいられなかった。
「ぶるー! 一緒にお店まわろ!」
真琴の声に、ふと我に返る。
振り向くと、芽美と並んだ真琴が大きく手を振っていた。
「あ、ごめん。今行く」
慌てて二人のもとへ駆け寄る。
三人で模擬店を巡り始めて、しばらく経った頃だった。
ふと横を見ると、芽美が足を止めていた。
視線はどこを見るでもなく、ただぼんやりと彷徨っている。
「……めぐ?」
不意に真琴が立ち止まる。
「さっきからなんかぼーっとしてない?」
芽美はようやく我に返ったように瞬きをする。
「え? そうかな。……ごめんね」
ぎこちなく笑うその表情は、いつもの芽美らしくなかった。
真琴は苦笑いを浮かべながら、「もう、しっかりしてよね」と肩をすくめた。
その違和感は、昼になっても消えなかった。
お昼を食べながら、いつものようなくだらないお喋りをしていても、芽美は控えめに笑うだけで、自分から言葉を返そうとはしない。
まるで、心は別の場所にあるようだった。
中庭を横切ろうとしたとき、また立ち止まった彼女に、葵はたまらず声をかける。
「めぐ、どうかした?……何か、考え事?」
さっきから様子を見ていたが、芽美の上の空は、自分の緊張とはどこか違っていた。
「あ……ううん。別に、なんでもないよ」
芽美が視線を落とす。
昨日、あんなにも瞳を輝かせていた芽美の面影は、どこにもなかった。
(……あんなに、やりたそうにしていたのに)
「あはは、めぐったら。あんまり顔色悪いと、『ヒロインらしくない』って言われちゃうぞ? 久遠先輩に」
その瞬間、芽美の肩が大きく震えた。
(……え?)
葵の鼓動が、不吉な音を立てて早まる。
今、芽美の表情が揺れたのは、『ヒロイン』という言葉じゃない。
――久遠。
その名前を口にした瞬間だった。
(……まさか)
そんな考えが胸をよぎり、息が止まる。
そんなはず、ない。
けれど、一度芽生えた疑念は、もう消えてはくれなかった。
もう、その場だけでも取り繕える自信がなかった。
葵は必死に笑みを作った。
「ごめんね。私……ちょっと用事思い出したから、行ってくる。二人とも、先に体育館行っててね」
そう言い残すと、返事も待たず、その場をあとにした。
中等部と高等部を繋ぐ三階の渡り廊下へ来たところで、葵は足を止めた。
窓から見下ろせば、校庭は準備に奔走する生徒たちの熱気に溢れている。
売り子の声や笑い声が、冷たいガラス越しにどこか遠い響きとなって伝わってきた。
葵はその喧騒を眺めながら、無機質なタイル床の上に立ち尽くす。
「浮かない顔ね」
不意に、背後から聞き慣れた声がした。
葵は振り返らない。
「……あんまり一緒にいられないんじゃなかったの」
「そうよ。だから、ほんの少しだけ」
Qちゃんは隣まで歩み寄り、葵と同じように窓の外へ目を向けた。
「で? 文化祭当日に親友を置いて一人で黄昏れるなんて、あなたらしくないじゃない」
Qちゃんの軽口に、うまく笑い返すことができない。代わりに、熱を失ったため息が零れた。
言葉を探す。けれど、喉まで込み上げた想いは、そのたびに崩れて消えた。
一度でも声に出してしまえば、それは確かな『事実』として確定してしまいそうで、怖かった。
けれど、この想いを一人で抱え続けることもできなかった。
葵は震える声で切り出した。
「めぐ、って……」
喉が詰まる。
「……もしかして……久遠先輩のこと、好きなんじゃないかな」
Qちゃんは何も答えず、ただ窓の外を眺めていた。
その反応だけで、Qちゃんもとっくに気付いていたのだと分かった。
「……やっぱり。Qちゃんから見ても、そう思うんだ」
葵は力なく俯いた。
「やだな……私、こういう時だけ、変に勘がいいんだから……」
葵はたまらずその場にしゃがみ込んだ。
膝の上で組んだ手の上に、額を預ける。
そのまま、しばらく動けなかった。
何も考えたくないのに、不安だけが何度も胸をよぎる。
あの日の芽美の声が、勝手に蘇る。
『いつも完璧で『石像』みたいな先輩が人間になる瞬間。見てみたくない?』
芽美の隣で、久遠が柔らかく微笑む。
「……もし」
絞り出すように口を開く。
「先輩を助けられたとして……二人が想い合うようになったら……私、笑って応援できるのかな……」
先輩を神隠しになんか遭わせない。
消えてしまう運命を、変えたかった。
そう願っていたはずだった。
――なのに。
二人が並んで笑い合う。
そんな未来が胸を締めつける。
「……怖い」
胸の奥に押し込めていた本音が、小さく零れ落ちる。
Qちゃんが、ピタリと動きを止めた。
「なに弱気なこと言ってんのよ」
Qちゃんは静かに葵を見下ろした。
「あんた、言ってたじゃない。一緒にいられなくても、いてくれるだけで充分だって。……先輩は、違うの?」
葵は目を見開いた。
過去の自分が放ったその言葉が、胸の奥底を強く突き刺す。
ゆっくりと顔を上げた。
(――何のために、ここまで来たの……?)
頭の中に渦巻いていた、澱んだ思考が澄んでいく。
『俺たちが救いたい未来を、確実に手繰り寄せるために』
——『俺たち』。
杉原くんも、この未来を信じてくれた。
先輩に、生きていて欲しい。
恋も、失恋も、その先にしかない。
葵はポケットからスマホを取り出し、画面を操作した。
『……あおちゃん?』
スマホから聞こえる、少し驚いたような芽美の声。
葵は少しだけ、呼吸を整えてから声を絞り出した。
「めぐ、ごめんね、上演前で忙しいのに」
『ううん、大丈夫だよ』
「あのね……めぐに伝えておきたいことがあって」
隣でQちゃんが黙って見守っている。その視線を感じながら、葵は息を吸った。
伝えたいことは一つしかなかった。
「頑張ってね。って言いたかったの。まだ、伝えてなかったから」
『……あおちゃん』
戸惑ったような間のあと。
小さな声で、『うん。……ありがとう』と返ってきた。
通話を切り、顔を上げるとQちゃんと目が合った。
「……いい顔するじゃない」
Qちゃんは小さく口元を緩めた。
それを見て微笑み返した葵の目に、涙が滲んだ。
そっと目元を拭った。
「……じゃあ、行ってくる」
踵を返し、体育館へ向かって歩き出す。
何歩か歩いたところで振り返る。
そこにはもう、Qちゃんの姿はなかった。
葵は今度こそ前を向き、歩き出した。
