館内は設営の真っ最中だった。
行き交う生徒たちの邪魔にならないよう、葵は舞台下の隅で芽美と向かい合い、台本を広げていた。
周囲では、台詞を合わせる部員や、小道具を確認する部員たちが慌ただしく動いている。
芽美はページをめくる手をふと止めた。
「ここの台詞なんだけど……」
台本に視線を落としたまま、困ったように眉を寄せる。
「怒りの感情をこめるのが難しくて。……どんなふうに言えばいいと思う?」
不意に問いかけられ、葵は台本を覗き込んだ。
「……怒ってるっていうより、たぶん悲しいんじゃないかな、この人」
「悲しい?」
「うん。だから、声を張るより……少しだけ抑えた方がいい気がする」
「たとえば?」
芽美に促され、葵は少しだけ迷ってから台本へ視線を落とした。
「……たとえば――」
責めるようにではなく、届かなかった想いを押し殺すように台詞を口にする。
「……ああ、そっか」
芽美は小さく頷く。
もう一度同じ台詞を読み上げた。先ほどよりも静かな、祈るような声だった。
「……うん。今の、すごくいいと思う」
葵がそう言うと、芽美はほっとしたように笑った。
「ほんと?」
「うん」
「ありがとう、あおちゃん」
いつもと同じ、儚くて可愛らしい芽美の笑顔。
葵はそっと台本を閉じた。
なるべく何気ない声を意識して、胸に蟠っていた言葉を絞り出す。
「……そのメイク、久遠先輩にしてもらったの?」
「うん。今日は後半、舞台の転換とかで忙しくなりそうだから。今のうちに『ヒロイン』にしちゃおうかって」
そう言って、自分の頬にそっと触れた。
その指先が、さっきまでそこに触れていたであろう久遠の手を追いかけているように見えて、息が詰まる。
「そうなんだ……」
「変かな? やっぱり、いつもの私の方がいい?」
不安げに首をかしげる芽美の、無自覚な愛らしさ。その瞼に引かれたラインの、あまりに鮮やかな仕上がり。
その完成度に、ふと久遠の顔がよぎる。
「……ううん。すごく、似合ってる」
それは嘘ではなかった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、自分だけが知らない時間の存在を改めて突きつけられた気がした。
(……なんで)
正体のわからない気持ちに、葵はそっと唇を噛んだ。
そのとき、体育館の入口のほうから、真琴の明るい声が響いた。
「差し入れだよー!」
ビニール袋を揺らしながら、真琴が満面の笑みで歩いてきた。
「ちょっと休憩しよ! 糖分大事!」
「ありがとう、真琴」
芽美がそれを受け取ると、少し遅れて日高も顔を出した。
「お、みんな真面目にやってるじゃん」
「一応ね!」
来たばかりの真琴が、得意げに片手を上げる。
みんなが手を止めてお菓子に手を伸ばし、和やかな空気が流れる。
「すみません、実行委員です」
落ち着いた声に振り向くと、そこには杉原が立っていた。
腕に資料を抱え、いつものように静かに立っている。
「準備、滞りないですか」
「はーい、問題なし!」
真琴が即答し、持っていたポッキーを武器のように掲げた。
「あ、杉も食べる?」
杉原はお菓子の山をちらりと見て、眉を寄せる。
「真琴。準備中にこういうの、まずいだろ」
「硬いこと言わないの。ほら、杉も食べていいから」
「……そういうのを賄賂っていうんだぞ」
言いながら、杉原はチョコを一つ摘まむ。
「いや食べるんかい!」
真琴のツッコミを受け流し、杉原は平然と口に放り込んだ。
それから、改めて部員たちを見回す。
「全体的に、遅れはなさそうですね」
「なんくるないさー!」
日高が陽気に手を挙げる。
杉原は一拍置いて、
「……あなた、演劇部じゃないですよね」と、冷静に返した。
周囲から笑いが漏れる。
日高は「バレたか」と大仰に肩をすくめた。
聞き取りが終わると、杉原は少し離れた壁際へ移動した。
資料に視線を落とし、淡々と何かを書き込んでいる。
その背中を見ていると、不意に背中をつつかれた。
真琴だった。
「ぶるー、何見てんの?」
真琴がニヤニヤしながら顔を覗き込んできた。
「……別に、なんでもないよ」
「嘘おっしゃい。ほら、行ってきなよ」
顎で杉原の方を示す真琴に、葵は「え?」と声を裏返した。
「何書いてんのか聞いてみなよ」
「なんで?」
「なんでって……ほら、そのうち葵も実行委員、やるかもしんないでしょ。中一の時の私みたいに、くじでハズレ引いちゃったりして」
葵の心臓が跳ねた。
真琴はきっと何気なく言っただけなのだろう。けれど、それは二年後に現実となる。
「ほら、予習、予習」
軽く肘でつつかれる。
『向こうに行ったら、過去の俺に情報を共有してくれ。俺たちが救いたい未来を、確実に手繰り寄せるために』
未来の彼から託された、大切な約束。
――今、伝えなければならない。
葵は意を決して息を吐いた。
ふと視線を上げると、少し離れた場所でQちゃんと目が合う。
銀色の瞳が、やわらかく細められた。
その視線に背中を押されるように、葵は杉原のもとへ歩み寄った。
「……杉原くん」
「ん?」
杉原が顔を上げた。
その視線とぶつかりそうになり、反射的に目を泳がせる。
その瞳をまっすぐ見返すことができなかった。
「ごめんね、忙しいところ……」
「いや、もう終わるところだよ。どうかした?」
「……あ、えっと、何書いてたのかなって」
「これか。チェックリスト」
杉原は資料を少し持ち上げて見せた。
「舞台の備品とか、客席の配置とか。当日バタバタすると困るから、先に潰しとく」
そう言って、彼はいくつかの項目に印をつける。
葵がその紙を覗き込むと、並んだ項目の横に小さなチェックが整然と並んでいた。
その中の一つ、見覚えのある文字列に目が留まる。
――演劇部 照明確認 ✔
杉原は何事もない顔で資料を閉じた。
「……で。本当は、何の用件だ?」
ちらりと視線だけが向けられる。
見透かしたような問いかけに、葵の指先がピクリと跳ねた。
「文化祭前日。……来るなら、そろそろだと思ってた」
葵は観念したように口を開いた。
「……さっきね、ちょっと不思議な約束をしてきたの」
「約束?」
「……未来の、杉原くんと」
一瞬の沈黙のあと、杉原は「……そうか」と短く返した。
「『信じて進め』って言われた。それから……待ってるから、って」
杉原は考えるようにしばらく黙ってから、「俺らしいな」と、目を細めた。
「……杉原くん」
葵は周りに聞かれないよう、声を落とした。
「……今まで、色々迷惑かけてごめんね」
「急にどうした」
どうして彼ばかりに背負わせてしまうのか――その答えが、今ならわかる。
「本当は知ってるんだよね? 私が――」
その瞬間、杉原の手が動いた。
人差し指をそっと自分の唇に立て、静かに言葉を封じる。
言うな。――その意味だけが、はっきりと伝わった。葵は言葉を飲み込んだ。
杉原は小さく息を吐き、視線を逸らしたまま呟く。
「……実行委員だからな。見回りは、仕事だ」
「それだけ?」
「……それだけで、十分だろ」
顔を上げた杉原と目が合う。
声は低いが、その響きには確かな熱があった。
葵は、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「……未来の杉原くんは、ちゃんと受け取ってくれたよ。私がずっと、言いたかったこと」
一瞬、杉原の視線がわずかに揺れた。
「……何を」
「それは、まだ内緒だけど……でも、優しい言葉をかけてくれた」
真っ直ぐに見つめると、杉原は一瞬だけ呆れたように目を伏せ、やがてすべてを察したように小さく息を吐いた。
「……そういうことか」
彼が納得したように呟いた、そのときだった。
葵の脳裏に、タイムリープ直前の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
『俺が見つける。……何度でも』
杉原の言葉を思い出して、葵は「あ」と小さく声を漏らした。
「……? どうかしたか」
「あ、えっと……さっき、未来の杉原くんに……」
言いかけて、不意に言葉が止まる。
耳元で囁かれた声や、抱きしめられたときの体温が、ありありと蘇った。
顔が一気に熱くなる。
「……」
それを見た杉原が、珍しく絶句した。
瞬きを忘れたように葵を見つめ、それからわずかに動揺したように視線を泳がせる。
「……何を、言われたんだ。未来の俺に」
聞き返す声が、心なしかさっきより低い。
杉原はバインダーに挟んでいた鉛筆を外すと、周囲から手元が見えないよう、バインダーを少し傾けた。
「……わかった。伝えたいことがあるならここに書け。これで。あとで消す」
傍目には、進行表の修正を指示しているだけの何気ない光景だ。
葵は必死で平常心を呼び戻しながら、機材リストを書き込むふりをして、未来の杉原から託された情報を書き連ねていく。
――世界には、過去を改変すると均衡を取り戻そうとする"修正"が働くこと。
――記憶は完全には消失しないこと。改変後も、感情や既視感、違和感は残存すること。
――そして、見えない存在についての、未来の杉原の推論。
書き終えてバインダーと鉛筆を返すと、杉原は慣れた手つきでパラパラとページをめくり、内容を確認するふりをしてから、そっと閉じた。
「……さっきの続きだけど」
何事もなかったように、彼はぽん、と葵の頭に手を置いた。
「迷惑かけてるのは、文化祭に限った話じゃないだろ」
それから一瞬だけ、悪戯っぽい目を向けた。
そのとき、少し離れたところで――
「……あ―!」
真琴が、わざとらしく声を上げる。
「今の、見た?見ましたよね日高先生!」
「はいはい、見ましたよ」
「……何もしてないからな」
杉原が即座に言う。
「してない顔じゃないでしょ!」
「顔!?」
周囲から、くすくすと笑い声がこぼれた。
「杉が動揺してる」
「珍しいもの見たな」
部員たちが茶化すように口々に言い、その場に穏やかな笑いが広がる。
杉原は小さくため息をつきながら、「……仕事に戻れ」とだけ言った。
——ちゃんと、見てくれてた。
今も。そして、二年後も。
それだけで、心が少し軽くなった。
舞台袖では、照明のチェックが続いていた。
脚立を押さえる生徒、袖幕の位置を直す生徒。
その中心で、久遠は手際よく照明機材を確認している。
真琴たちの笑い声を背に、葵は久遠へ歩み寄った。
「先輩、お疲れさまです。……お手伝い、ありますか?」
久遠は手元の機材を確認しながら、ちらりと葵に視線を向けた。
「あぁ、お疲れさま。もうほとんど終わったから大丈夫だよ。読み合わせは終わった?」
「はい。一通り。いまおやつタイムで盛り上がってます」
「おやつタイムか。いいね」
久遠は小さく笑う。
その横顔には、作業の合間の、少しだけ力の抜けた柔らかさがあった。
「先輩の分もありますよ」
「じゃあ、これが終わったらお邪魔しようかな」
葵は、脚立や床に伸びるコードを見渡した。
「……やること、結構あるんですね」
「そうだね。本番で事故がないように、いろいろチェックしないと」
久遠が配線の一本を軽く引いて、接続のゆるみを確かめる。
葵は少し迷ってから、本題を切り出した。
「……先輩、文化祭が終わっても、忙しいですか?」
久遠が顔を上げる。葵は怯まないよう次の言葉を継いだ。
「受験に向けて、とか……」
「まあ、ぼちぼちかな。まだ本格的じゃないけどね」
言いながら、久遠の視線がふと葵の背後へ流れた。
さっきまで杉原が立っていた場所だ。
ほんのわずか視線を留めてから、
「どうして?」
急かすでもなく、包み込むように静かに聞いた。
葵は深く、深く息を吸い込んだ。
「……文化祭が終わったら」
もう、引き返せない。
「もし、時間があったらでいいんです。……先輩を、花火に連れていきたいです」
乾いた自分の声が、今度ははっきりと熱を持って響いた。
誰かに書き換えられる前の、自分だけの本当の言葉。
一瞬、舞台袖のざわめきが遠のき、世界から音が消えたような錯覚に陥る。
久遠は少しだけ目を見開いた。
それから、少しだけ意表を突かれたように笑った。
「……急だね」
「はい。でも、ちゃんと約束です」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で、かちりと何かが噛み合う感触があった。
目には見えないけれど、確かにそこに打ち込まれた楔のような重さ。
ほどけてしまいそうな未来を繋ぎ止めるための、ささやかな——けれど、必死な抵抗。
久遠は少し考え、やがて短く頷いた。
「いいよ」
それから、どこか面白そうに葵を見つめる。
「……連れていきます、か」
肩をすくめて、小さく笑う。
「いや、いいと思うよ。そういうの」
声が、先ほどよりもずっと柔らかくなる。
久遠は一度だけ視線を外し、再び葵を捉えた。
「連れてってもらうの、楽しみにしてる」
その笑顔を見た瞬間、張りつめていたものが、静かにほどけていった。
葵はその温もりをそっと抱きしめるように、「はい」と微笑んだ。
