廊下の窓からは、沈みかけた西日が差し込んでいた。
夕暮れの柔らかな光の中を、久遠と並んで歩く。
隣を見ると、久遠の横顔も同じ光に照らされていた。
輪郭が淡く縁取られ、長いまつげの影が頬に静かに落ちている。
(……きれい)
不意に浮かんだ言葉が、熱を持って胸に居座る。
けれど同時に、どこか現実感が薄かった。
こんなふうに、隣を歩けるなんて。
並んで歩く距離が、少しだけ近い。
それだけのことなのに、足元がふわつくような感覚になる。
――夢を見ているみたい。
そう思ってしまうことが気恥ずかしくて、葵はそっと視線を落とした。
渡り廊下を抜け、中等部棟の前へ出る。体育館は、この先だ。
その時、向こうから見知らぬ女子生徒のグループが歩いてくるのが見えた。
彼女たちは楽しげに話をしていたが、不意にこちらに視線を留める。
その子たちは、葵のことなど眼中にないというように、隣にいる久遠へ視線を向けて——ふっと言葉を失った。
すれ違うとすぐに顔を寄せ合い、ひそひそと何かを言い合う。
「あの人、演劇部なんだ」
「そうそう。うちのクラスでも結構人気だよ」
こらえきれないといった風な、浮き足立った声が混じる。
その熱い視線は、はっきりと久遠に向けられていた。
けれど久遠はまるで気がついていない様子で、
「……大丈夫?」
少しだけ覗き込むように、葵に聞いた。
「何かあった?」
「あ……いえ」
言葉に詰まる。
何かあったのは事実だが、泣いたのはそれが理由ではなかった。
「日高……じゃないよね?」
少し眉を寄せて、心配そうに続ける。
葵は思わず、その拍子抜けした優しさに吹き出した。
「……そんなわけないじゃないですか」
「よかった」
心底ほっとしたような久遠の笑顔に、つられて笑う。
やっぱり、この人にはかなわない。
心配そうな顔も、ほっとした笑顔も。そのどれもが、強張った心を簡単にほどいてしまう。
少し歩いたところで、久遠がふと思い出したように口を開いた。
「そう言えば、桜井さんに頼まれてる読み合わせ、大丈夫そう?」
「え?」
(読み合わせ――?)
全く身に覚えがなかった。
けれど、久遠の視線が向けられたままなことに気付き、葵は慌てて頷いた。
「……は、はい。……今のところは」
この年、葵は裏方を担当していた。小道具や大道具の補助的な役回りだ。
役者の稽古に深く関わることなんて、ほとんどなかったはずだ。
――いや。
ふと、真琴が稽古の進行役のように場をまとめていた光景が脳裏に浮かぶ。
彼女から、久遠の手伝いを頼まれていたことも——あった気がする。
けれど、読み合わせを頼まれた場面だけが、どうしても思い出せない。
(……違う。記憶が、少しだけ噛み合わない)
体育館前の渡り廊下に差しかかったところで、葵は思い切って口を開いた。
「……先輩。今、台本持ってますか?」
「ん? ああ、あるよ」
久遠は歩きながら肩のリュックをずらし、脇に差していた薄い冊子を引き抜いた。
「はい」
「ありがとうございます」
差し出された台本を受け取る。
表紙に記されたタイトルを見て、葵は小さく息を吐いた。
(……合ってる)
二年前、確かに上演した劇のタイトルだ。
「どうしたの?」
台本を見つめたままの葵を、久遠が心配そうに覗き込む。
「あっ……いえ――麻田先輩、今回ヒロインだから……練習とか大変だっただろうなって……」
言いながら、どこか自分の声が浮いているのがわかる。
久遠が「ん?」と不思議そうに首を傾げる。
「ヒロインは、桜井さんだよね」
「——え?」
葵は足を止めた。久遠もそれにならう。
「……めぐ?」
「うん」
芽美が、ヒロイン。
(……どういうこと? 私の知っている過去と、違う)
嫌な予感が背筋をなぞる。
その時だった。
『自分でも柄じゃないって思うけど。頑張るね。ヒロイン』
覚えのなかったはずの光景が、まるで最初からそこにあったかのように、遅れて脳内に浮上してくる。
(……違う。めぐは、裏方を手伝っていたはず……)
書き換えられた記憶の端を手繰り寄せようとしても、指先をすり抜けるように輪郭が曖昧になっていく。
相反する二つの記憶が、どちらも本物だと脳が告げている。
噛み合わない歯車を無理やり回されているような、言葉にできない違和感――
「葵。落ち着いて」
不意に、背後から低い声がした。
振り返らなくてもわかる。
立ち止まった葵の足元から、西日に焼かれたコンクリートへと長く伸びる影。その傍らに、見慣れた影が寄り添っていた。
Qちゃんだ。
浴衣ではなく、いつものワイシャツと、緩い黒ネクタイだった。
「たまにあるのよ。過去が、少しだけ書き換わること」
宥めるような、静かな声。
西日に照らされた彼の横顔はどこか透き通っていて、現実感がなかった。
(……私が、何か変えたの?)
自問しても、思い当たる節はない。
その時だった。
「あおちゃん」
体育館の入り口から、芽美が出てきた。その姿に目を留める。
(——あれ?)
見慣れているはずの芽美なのに、どこか印象が違った。
整えられた前髪。いつもよりはっきりとした目元。
夕陽を受けた横顔は、見慣れないほど大人びて見える。
「めぐ……きれい」
「え? やだ。あおちゃん、どうしたの?」
つい溢れた言葉に、照れたように芽美が笑う。
それから、葵の隣に視線を移した。
「あ。部長、お疲れさまです」
その表情が、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
久遠はいつもと変わらない調子で「うん、お疲れさま」と応じる。
自然なやり取りだった。
それなのに――
ふと、芽美の目元に視線が留まる。
いつもより少しだけ強調された目元が、彼女を見慣れないほど華やかに見せていた。
よく見ると、顔全体のメイクも普段とは違う。舞台用だ。
(これ……久遠先輩が、やったの?)
もちろん、久遠のメイクの腕が確かなのは知っている。
役者にメイクする場面も、これまで何度も見ている。
けれど、自分の知らないところで、久遠が彼女を「ヒロイン」に仕立て上げたのだとしたら。
心のどこかが、静かに軋んだ。
自分のいない時間が、そこにあった気がした。
「あおちゃん。読み合わせ、またお願いできる?」
不意に、芽美の声がこちらへ向いた。
(……『また』?)
その言葉に呼応するように、過去に繰り返した『読み合わせ』の記憶が脳裏をよぎる。
――そうだ。
これまでも何度か頼まれてきた。
その傍らで、芽美が久遠から台詞の間や立ち位置を教わっているのを見たこともある。
そして、その時間が少し苦手だった気がする。
「お願い。あおちゃんとだと、やりやすくて……」
顔の前で掌を合わせ、芽美は儚げに笑う。
反応に困り、ちらりと隣りを見ると、視線に気付いた久遠が、柔らかく微笑んだ。
とくん、と心音が跳ねる。
――離れたくない。
そんな思いが胸をよぎった瞬間、
「あ、でも……ごめん、私、先輩のお手伝いがあるから……」
とっさに断りの言葉が口をついた。
「あ、そうなの?」と、芽美が目を瞬かせる。
それを聞いていた久遠が口を開く。
「大丈夫だよ。確認って言っても、俺一人ですぐ終わる内容だから。行っておいで。……頑張ってね」
その声音はどこまでも自然だった。
無理に気を遣わせるでもなく、引き留めるでもなく。
(……嫌だ)
先輩の隣にいたい。
ただそれだけの願いが、ひどく身勝手なものに思えた。
何かを言おうと口を開きかけたが、それは言葉にはならなかった。
「……はい」
辛うじてそれだけ答える。
葵は抱えたままだった台本を久遠へ返した。
「うん」
受け取った台本をリュックへ戻し、久遠は「じゃあね」と合図するように大きな掌を軽く広げた。
その横顔が、夕方の光に淡く縁取られる。
芽美の視線が、ほんの一瞬だけ、そこに留まった。
熱を帯びた、けれどすぐに逸らされる視線。
葵は久遠を一瞬だけ見て、「行ってきます」とだけ答えた。
自分の声が、なんだか他人のもののように乾いて聞こえた。
