名前のない想いの果てに


 暗闇にひっそりと佇む体育館の裏口の扉は、昼間よりずっと大きく、重く見えた。
 錆びた取っ手。閉じたままの扉。
 葵は、裸足のまま立ち止まる。足の裏からは、冷気を吸ったコンクリートの感触が伝わってきた。
 バッグの中から、体育館の鍵を取り出す。
 震える手で、鍵を差し込んだ。

 ——かちり。

 心臓を直接弾かれたような、小さな音。取っ手を引くと、油の切れた金属が低く鳴った。
 拒絶を解くように、扉がわずかに開く。
 葵は、その隙間に身を滑り込ませた。

 体育館の中は、深海のような闇に沈んでいた。
 高い窓から、切り裂くような月明かりが差し込んでいる。
 誰もいない床の中央に、細く伸びる青白い光の帯。
 その上にそっと足を乗せた。

 一歩。また一歩。板張りの床を打つ足音が、空間の奥へ落ちていく。それは自分の鼓動と、もう区別がつかなかった。
 中央まで来たところで、立ち止まる。
 月光に打たれた葵の影が、長く、背後の暗闇へと伸びていた。

 舞台裏に足を踏み入れる。
 そこには一筋の光もなく、非常灯だけが心細げに赤く滲んでいる。
 埃と古びた布の匂い。
 目を閉じても変わらない暗さの中で、呼吸を整える。
 裸足の裏から、床の冷たさがじんわりと伝わってくる。
 そっと舞台を覗くと、その中央もまた、同じように底知れない闇に沈んでいた。
 葵は、暗幕の重みを指先でそっと押さえた。
 その時だった。
「……怖い?」
 すぐ後ろで、Qちゃんの声がした。
 その一言で、葵は初めて自分の指が震えていることに気付いた。
「……少しだけ」
 先輩を助ける、最後のチャンスだ。
 怖くないと言えば、嘘になる。
「そう」
 Qちゃんは小さく目を細めた。
「それでいいのよ」
 その声は、どこか不思議なくらい穏やかだった。
「ねぇ、葵」
「なに?」
「向こうではもしかしたら、あまり一緒にいてあげられないかも知れない」
「なんで?」
「さぁ」
 Qちゃんは微笑む。
「でも、そうなったら、それはそれで良いことかもしれないわ」
 意味深なことを言うくせに、肝心なことは言わない。それも、いつものことだった。
 葵は一つため息をついて、わかった、と頷いた。

「……二年前」
 舞台袖の暗がりで、葵は静かに呟いた。
「先輩にとって、最後の文化祭」

 校内放送の、少し掠れた“終了”の合図。
 弾けるような笑い声が、撤収の音に変わるころ——彼は、消えた。
 すぐ隣にいるはずのQちゃんは、何も言わない。
 いつもの軽い相づちも、茶化す声もない。
 ただ、冷たい沈黙を纏って葵を見ている。
 葵は小さく息を吸った。

(先輩……今度こそ――)

「待っててください」
 ――その瞬間。
 ふっ、と、非常灯の赤が瞬き、消えかけた。

「……!」
 世界の音が、急速に遠のいていく。
 キィン、と、細く澄んだ音が、鼓膜の奥をなぞった。
 足元から、世界が静かにほどけていく。
 次の瞬間、景色が音もなく裏返った。息を吸う暇さえない。
 それでも、葵は目を閉じなかった。
 胸の奥に、言葉にならない予感だけを刻みつけて。
 時間が、後ろへ引き戻される。
 世界が、一気に巻き戻る。

 タイムリープが、始まった。
 
 
 遠くから、誰かの声がした。
 ざわめきに似た――ひどく懐かしい日常の音。
 足裏に硬い床の感触が戻る。
 目の前の闇はすでに薄れ、暗がりの向こうに人の気配が滲んでいた。
 舞台から漏れてくる、幾筋もの光。
『いつも通り』――だ。

 葵は隣を振り返った。——けれど、Qちゃんはいない。
 つい数秒前までそこにいた浴衣姿も、耳元で聞こえていた声も、消えていた。
『あまり一緒にいてあげられないかも知れない』
 先ほどの言葉が脳裏をかすめる。
「……大丈夫。そういえば、前回もこのタイミングでいなかったし」
 自分に言い聞かせるように呟き、暗幕のほうへ足を向ける。

 舞台の上では、演劇部員たちが機材や小物の確認をしていた。
 しかし、久遠の姿はない。
 客席へ出ると、ちょうど入口から設営の準備に生徒たちが入ってくるところだった。
 端の方で、読み合わせをしている部員たちの姿。
 しかしその中にも、久遠は見当たらなかった。
 嫌な予感が、じわりと喉元までせり上がってくる。

 (本当に、二年前……だよね?)

 館内の端に置かれた自分のバッグからスマホを取り出し、日付を確認する。
  二年前。間違いなく、『あの日』の前日だ。

 その時、近くで段ボールを運んでいた後輩の木村が目に止まった。
「木村ちゃん、久遠先輩、どこにいるか知らない?」
 木村は重みに顔を歪めながら、不審そうに首を傾げる。
「部長ですか?さあ……見てないです」

 何故か、言いようのない不安が胸に広がる。
 大丈夫、と自分に言い聞かせる。
 久遠が消えたのは、文化祭当日の、全てが終わったあとだ。
 でももし。それが過去の改変で『早まる』なんてことがあれば——。
 葵は弾かれたように体育館を飛び出した。

 荒い息をつきながら、葵は高等部の廊下へ辿り着いた。
 久遠のクラス、『3−2』と掲げられたクラスプレートが目に入り、葵は足を止める。
 教室を覗いてみる。
 中では、明日の準備の仕上げに取り掛かる生徒たちが行き交い、和やかな空気が流れていた。
 けれど、そこにも探している姿はなかった。
 その時、ちょうど教室を出ていく男子生徒がいた。葵は慌てて呼び止める。
「あの、すみません」
「え?」突然声をかけられ、相手は目を丸くする。
「久遠先輩……どこにいるか、知ってますか?」
「え? 久遠? さぁ……部活じゃない?」
「……ありがとうございます」
 彼が去っていくと、葵の後ろで笑い声がした。
「『久遠センパイ』だって」

 振り返り、葵の足は凍り付いた。
 高校生たちと談笑していた中等部の女子生徒たち。見覚えのある顔ぶれだった。
 中庭での、あの苦い光景が脳裏をよぎる。
 仲間に目配せをし、品定めをするような冷たい視線をこちらへ誘導する。
「もしかして、男の人ですか? その人」
 女子の一人が、わざと聞こえる声で隣の高校生に尋ねた。
「久遠くん? うん、男だよ」
「聞いた? また男探してるよ」
「杉原くんだけじゃ物足りないんだね〜」
「気を付けた方がいいですよ。ああいう子って意外とあざといから」
「え、そうなの?」
 促されるように、高校生たちの視線が一斉にこちらへ向く。
 好奇と侮蔑の入り混じった眼差しが、葵の胸を抉った。
「へぇー、見かけじゃわかんないね」
 立ちすくむ葵に、さらに追い打ちをかけるような失笑が重なった。

 ——今すぐ、先輩を見つけたいのに。
 喉の奥が焦りで焼けつく。

 その時だった。
「えっ、なに?なんの集まり?これ」
 場違いなほど軽い声が、廊下の重苦しい空気を切り裂いた。   
 振り向くと、日高がひょっこりと立っていた。
「どしたの、これ。まさか……いじめ? やめなよ。流行んないよ、そういうの」
 あまりにも白々しい言い方に、彼女たちは露骨に顔をしかめた。
「……違うけど。ただ話してただけだよね」
 顔を見合わせる中等部の女子たちに、日高は中等部の校章をちらりと見て、困ったように頭をかいた。
「あー……でもさ。相手が嫌がってんならやめときなよ。内部進学組なんだから、先生の心象悪くして損すんの、君らでしょ?」
 その言葉に、彼女たちの顔色がわずかに変わる。誰かが小さく舌打ちをした。
「感じわる。いこ」
 彼女たちは顔を背け、その場を離れていった。
 日高はふう、と大仰に息を吐く。「まったく。……大丈夫?」
 彼が葵に歩み寄ろうとした、その時だった。
 廊下の向こうから、誰かが駆けてくる。
 すれ違いざま、去りかけていた女子たちが思わず振り返る。

「葵ちゃん!」
 
 聞き間違えるはずのない声だった。
 葵は弾かれたように振り返る。
 そこにいたのは——

「木村さんが、葵ちゃんが探してたって教えてくれて……。備品の確認でずっと用具室にいたんだ。気がつかなくて、ごめん」

 久遠の瞳に宿る、真っ直ぐな光。
 それを見た瞬間、胸の奥で張りつめていた糸が、ぷつりと切れた。

 安堵が熱い塊となり、目頭に込み上げる。

(あ――もう、ダメだ……)

 それはせき止める間もなく溢れ出し、ぽろぽろと頬を伝った。
「よかった。見つかって……」

 ようやく息を整えた久遠が、不意に葵を見て動きを止めた。
 久遠は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに平静を取り戻した。
 迷いのない足取りで葵のほうへ一歩踏み込む。
 廊下の端から向けられていた野次馬たちの好奇な視線を、その広い背中で静かに遮った。
「日高、照明のケーブルって体育館の端にまとめてあったっけ?」
 背後にいる日高に事務的な話を振りながら、久遠はポケットからハンカチを取り出した。
「あー……あったけど。あれ誰か運ぶんじゃなかったっけ」
「まだ残ってると思う。あとで確認しておくよ」
 淡々としたやり取りの裏で、久遠の手は驚くほど優しく、葵の頬に布を当てた。
 柔らかな感触が、涙を吸い上げていく。
 至近距離で触れ合う熱に、戸惑った葵が小さく目を瞬かせると、久遠はハンカチを畳みながら、彼女にだけ見える角度でわずかに微笑んだ。
「備品の確認、まだ残ってるんだ。手伝ってくれる?」
 久遠の声は、ひどく穏やかだった。
「……はい」
 その光景を見て、日高がニヤリと眉を上げる。
「……へぇ。なるほどね」
 彼は面白そうに肩をすくめると、ひらひらと手を振った。
「んじゃ、俺はまだ仕事あるから戻るわ。……じゃあな、二人とも」
 日高が去り、廊下に束の間の静寂が落ちる。
「行こうか」
 久遠の優しい促しに、葵は小さく頷いた。