杉原の視線が、不意に落ちた。
葵の涙の筋に気付き、それから周囲を一度だけ見回す。
「悪い。結崎、少し借りる」
誰に向けたともつかない一言を残し、杉原は葵の手首を軽く引いた。
「……来い」
「えっ?」
戸惑う葵を促すように、杉原は土手の斜面へと歩き出す。
「二人でどこ行くのよー!」
後ろから真琴の冷やかすような声が飛んできたが、杉原は「すぐ戻る」とだけ短く返した。
掴まれた手首から、彼の指の熱が直接伝わってくる。葵は黙って引かれるままに歩いた。
辿り着いたのは、土手の下に佇む大きなクヌギの木陰だった。
遠くには提灯の灯りが揺れ、祭りの喧騒もここまで来るとくぐもって聞こえる。
杉原は葵から手を離し、背を向けたまま一度だけ息を吐いた。
やがて、ゆっくりと振り返る。
「……行ってこいよ」
「え?」
杉原は少しだけ視線を逸らし、それから静かに言った。
「二〇二三年。行きたいんだろ。……久遠先輩のところに」
葵の目が見開かれた。
「どうして……」
杉原は短く息を吐いた。
「お前が過去に行く理由が、それ以外に思い当たらなかった」
その真剣な眼差しに、葵は息を呑んだ。
――気付いていたんだ。
自分が何を願い、何を諦めようとしているのか。
「……杉原くん……私、行かないって言ったじゃない」
「嘘だ」
あまりに早い否定。
昨日の言葉が本音ではないと、彼はとっくに見抜いていたのだろう。
考えてみれば、彼があんな薄い台詞に騙されるわけがなかった。
杉原の視線から逃れるように、葵は目を伏せた。
「……何が怖い」
低い声が落ちる。
胸の内を隠しきれないことを悟って、葵は唇を噛んだ。
「……私、杉原くんをまた傷つけちゃうかもしれない。それが怖い。もう、これ以上私のせいで苦しんでほしくないの」
その声は、夜の風にさらわれて消えてしまいそうなほど細かった。
肩が小さく震える。
「……結崎」
ため息混じりの声が聞こえた。不安になって顔を上げる。
杉原の瞳には、迷いや戸惑いなど微塵もなかった。
「傷付けるとか、苦しめるとか。お前が勝手に決めるな。そんなのは承知の上だ」
その言葉は、夜の静寂を切り裂くように響いた。
杉原はしばらく何も言わなかった。
やがて、その表情がふっと和らぐ。
「昨日、言ってたな。何も出来ない自分が嫌だったって。俺は、お前が何も出来ないなんて思ったことはない」
「……え?」
枝葉の隙間から漏れる光が、その横顔をかすかに照らす。
「中一の頃から見てきた。だから分かる。何も出来ない奴が、あんな風に人のために動けるかよ」
葵は言葉を失った。
「お前、自分のことだけは本当に見えてないんだな」
呆れたように言いながら、その眼差しはどこまでも優しかった。
「……先輩を助けに行きたいはずだ。その気持ちを、自分で諦めるな」
まっすぐな言葉だった。
言い返せない。
葵の中で、必死に押さえ込んでいた想いが軋む。
――行きたい。
その時だった。
「――怖いもの知らずね」
不意に、少し離れたクヌギの幹の影から、冷ややかな声が届いた。
そこに佇むQちゃんは、祭りの灯りすら届かない闇に半分溶け、静かにこちらを見つめている。
杉原には見えない、葵にだけ聞こえる断絶のささやき。
「そうよ。今度は二年前」
銀色の瞳が細まる。
「先輩を助けられるかもしれない。でも、その代わりに何を失うのかは誰にも分からないわ」
胸の奥に押し込めたはずの不安が、再びざわりと揺れた。
「……いや。私、やっぱり……」
拒絶の言葉を紡ごうとした時だった。
杉原の手が葵の後頭部にそっと添えられたかと思うと、そのまま胸元へと引き寄せた。
まるで、目に見えない何者かの干渉を、力ずくで遮断しようとするかのように。
厚い胸板越しに伝わってくる、激しい鼓動。
それが自分のものか、彼のものかも分からない。
気付けば視界が滲んでいた。
「……黙ってろ。余計なことは考えるな」
杉原の声が、葵の耳元を熱く叩いた。
夕涼みの風の中で、彼の体温だけがやけに近く感じられる。
涙で彼の浴衣を濡らしてしまいそうで、葵はわずかに顔を上げた。
乱れた襟元から覗く首筋に、小さなほくろを見つけた。
こんなに近くにいなければ、一生知るはずのなかった、彼だけの一部。
「お前を一人にはさせない。……だから、信じて進め。もし、その先に望まない結末が待ってたとしても」
そこまで言って、杉原はもう片方の手も葵の背中へと回した。
「——俺が見つける」
静かだけれど、揺るがない声。
「何度でも」
その言葉とともに、抱き寄せる腕にわずかに力がこもる。
まるで、今この瞬間だけは何も失わせないとでもいうように。
どれくらいそうしていただろう。
気付けば、葵の涙は止まっていた。
少し離れた木陰で、Qちゃんが微かに眉をひそめた。
けれど、何も言わない。
しばらくして、杉原はそっと身体を離すと、懐から何かを取り出した。
「結崎。……これ」
葵の手を取り、そっと何かを乗せる。
掌に伝わる、金属の冷たくて硬い感触。
雲間から顔を出した月明かりを受けて、それは銀色に鈍く光った。
「……体育館の鍵だ。スペアを持ち出した。いつでも渡せるように」
きまり悪そうに、彼はほんの少しだけ視線を逸らす。
昨日すべてを知ったばかりだというのに。
もう、その先の準備まで済ませていた。
「なるべく早く、返しに来い。待ってるから」
彼の口元が、微かに歪んだ。
遠くから、花火の打ち上げを告げる予告アナウンスが夜空に溶けた。
すぐ傍から、重いため息が聞こえる。
「……そこまで言うなら、行くしかないんじゃない?」
いつの間にか闇の中から歩み寄っていたQちゃんが、腕を組んだまま呟く。
その目は笑っておらず、杉原を静かに見据えている。
葵は鍵を一度握りしめてから、バッグにしまった。
「……行ってくる」
決意を込めた言葉に、杉原はゆっくりと頷いた。
そして、不意に身を屈める。
「――っ」
近い。
思わず息を呑む。
杉原は葵の耳元へ唇を寄せ、周囲の喧騒に紛れるほど小さな声で何かを囁いた。
その瞬間だった。
それまで黙っていたQちゃんが、弾かれたように目を見開く。
完璧だった表情に、初めて余裕のない焦燥が走った。
Qちゃんは彼の唇の形を追おうと、銀色の瞳を細めた。
けれど、夜の闇と、杉原が意図的に作った角度が、その試みを許さなかった。
やがて、杉原が体を離す。
その言葉は、誰にも届かない二人だけの秘密として、葵の胸の奥深くに沈められた。
「……何を、言ったの?」
問いかけるQちゃんの声は、わずかに掠れていた。
杉原はただ葵の手を取り、その掌を自分の指で包み込む。
まるで、これから始まる孤独な旅路のすべてを、その小さな掌に託すように。
「がんばれ」
杉原の握った力には、葵にしか分からない熱があった。
土手を戻り、真琴たちのところへ駆け寄る。
「……みんな、ごめん。ちょっとだけ、抜けるね」
「え! 今から?」
葵の突然の言葉に、みんな目を丸くする。
「行かなきゃいけないところがあって……ちょっと、遠いところなの」
「遠くって……なに、海外逃亡でもするつもり?」
真琴の冗談にも、葵はただ首を横に振るだけ。
みんなは戸惑ったように顔を見合わせた。
けれど、控えめながらも覚悟を決めたような葵の表情に、誰もそれ以上は聞かなかった。
「ほんとはね、行くのが怖い。……でも、ずっと行きたかった場所だから、がんばってくる」
そこまで言うと、急に肩の力が抜けた。
怖い、と言ったはずなのに。
気付けば、口元が少しだけ緩んでいた。
一瞬だけ、その場に沈黙が落ちる。
風で、提灯の灯りが揺れた。
真っ先に口を開いたのは、真琴だった。
「なにそれ」
茶化すような口調だが、その目はまっすぐだ。
「……ほんと、葵ってさ。普段はおとなしいくせに、いざってときは猪突猛進なんだから」
芽美が、小さく頷く。
「気をつけてね。迷ったら、すぐ連絡して」
日高はいつもの笑顔のまま、軽く手を振った。
「大丈夫。場所取りは任せとけ。……安心して行ってきな」
誰も引き止めなかった。
花火を待つ群衆のざわめきが、遠くで波のように揺れている。
何度も戻ってはやり直し、あの人を取り戻せなかったことばかり考えてきたけれど。
今、こうして立っている場所には、ちゃんと新しく芽生えたものがあった。
名前を呼んでくれる人。
「行ってこい」と、言葉にせずとも伝わる視線。
戻る場所が、当たり前のように用意されていること。
(いつの間にか、こんなにかけがえのないものを手に入れてた……)
胸の奥が、静かに、けれど激しく熱を帯びる。
葵は短く息を吸い込んだ。
それからもう一度だけ、一人ひとりの顔を目に焼き付ける。
「……ありがとう」
その一言だけを夜風に残して、葵は走り出した。
背後で、一発目の予告花火が夜空に弾ける。
ドォン、という重い音が空気を震わせた。
葵は、一瞬だけ足を止める。
振り返らない。
けれど、頭上で咲いた極彩色の光が、彼女の顔を白く照らし出した。
人混みの喧騒を背に、葵はそっと手を開く。
掌の中には、杉原が握らせてくれた、葵の『記録』と、杉原の『考察』をまとめたものが折り畳まれていた。
花火の残光が紙面を照らす。
見慣れた筆跡が、そこにあった。
『がんばれ』
不意に、別れ際の声が蘇る。
最後に向けられた、あの微かな笑み。
(……大丈夫)
葵はメモを握りしめ、再び駆け出した。
目指すのは体育館。そして、その先の二年前へ。
「すみません——!」
声を張り上げ、葵は人の流れを逆走するように駆けた。
提灯の明かりの下を埋め尽くす人波。
浴衣の袖が、誰かの腕に引っかかり、肩がぶつかってよろけそうになる。
誰かの謝る声が背後で聞こえたが、足を緩めることはなかった。
立ち止まったら、もう踏み出せなくなる気がして。
最後の屋台を通り過ぎる。
背後で祭りの喧騒が遠ざかり、参道の外の暗がりへ踏み出した、その時だった。
足元で、ぶつりと鈍い感触がした。
「……っ!」
一歩が踏み出せず、身体が前につんのめる。
慌てて立ち止まり、視線を落とした。下駄の鼻緒が、無残に切れていた。
白い紐が、泥に汚れてだらりと垂れている。
「……もう」
小さく呟いて、葵はその場にしゃがみ込んだ。
迷いはなかった。すぐさま下駄を脱ぎ捨て、裸足で夜の地面を蹴る。
ひんやりしたアスファルトの感触が、高揚した意識をわずかに現実へと引き戻す。
不意に、視界の隅で何かが動いた。
Qちゃんだった。
彼は自分の両手を、じっと見下ろしていた。
その指先が、わずかに向こうの景色を透かしている。
ほんの一瞬、輪郭そのものが薄れていくように見えた。
Qちゃんが顔を上げた。
目が合うと、見られていたことに気づいたのか、その瞳がかすかに揺れる。
あまりに儚げなその姿に、葵は思わず声を掛けた。
「大丈夫?」
「……大丈夫よ。葵は?」
「うん。大丈夫」
葵が頷くのを見て、彼はわずかに目を細める。
ただ、その微笑みは、いつもの余裕をどこかに置き忘れたような、危ういバランスの上に成り立っていた。
「……行くわよ」
それ以上は何も言わず、Qちゃんは先に歩き出す。
葵は裸足のままその背を追った。
熱を帯びた提灯の光が、背後で静かに遠ざかっていく。
暗い校舎へと続く道は、もうすぐそこだった。
