名前のない想いの果てに


 カレーの火を落とし、鍋の縁についた泡をお玉で払う。
 台所には、日が暮れる前特有の、どこか寂しげな静けさが残っていた。
 不意に、調理台の端に置いたスマホが震えた。
 画面に表示された名前を見て、通話マークをスライドする。
『あ、ぶるー?』
 真琴の声が耳元に飛び込んでくる。外にいるらしく、背後で風を切るような音が混じっていた。
『今、平気?』
「うん。夕飯、ちょうど作り終わったところ」
『そっか。ね、今日さ、笠竹坂の神社で秋祭りがあるの、知ってる?』
「……今日?」
『うん。ほら、回覧板とか回ってたじゃん』
 笠竹坂の神社の、秋祭り。
 告知を見た記憶がうっすらと蘇る。
『よかったら一緒に行かない?めぐと日高先輩も来るって』
 真琴は日高と仲がいい。
 部室での喧嘩とも漫談ともつかない賑やかなやり取りを思い出し、思わず口元を緩める。

『あ、そうそう。杉原もね』
 その名前を聞いただけなのに、鼓動が小さく跳ねた。
 自分でも理由はうまく説明できない。
 動揺を悟られないよう、返事をする前に一つ息を吐く。
「……そうなんだ」
『ね、行こうよ。今日、ちょうど近くで打ち上げ花火もやるみたいだし』
「花火?」
『うん。神社裏の土手から綺麗に見れるんだって。今年はみんなで見たいなって思って』
「……うん。行く」
 考える前に、言葉が出ていた。自分が少し浮き足立っているのが、はっきりわかる。
『でね』
 真琴が、いたずらっぽく一拍置く。『浴衣、着ていかない?』
「浴衣? ……九月だよ?」
『いいじゃん。夏、着れなかったしさ。今年最後のお祭りだし、せっかくだから着ていこうよ!』
 電話の向こうで真琴がはしゃいでるのが目に浮かび、葵は小さく笑った。
「……着付け、少し時間かかっちゃうけど」
『全然大丈夫。間に合わなければ先に出店回ってるから!』
「わかった。浴衣ね」
『本当? やった! じゃ、一時間後に、神社の参道入り口で』
 通話が切れる。
 葵は壁の時計を見上げた。針は四時を回ったばかりだった。
 エプロンを外し、スマホを手に取る。
『カレー出来てます。あたためて食べてね』
 父への短いメッセージ。
 それだけでは少し素っ気ない気がして、文末に笑顔の絵文字を添えた。

 自室へ入り、押し入れの奥から浴衣を取り出す。
 慎重に広げると、藍色に白い花が散らされた浴衣が姿を現した。
 中学に上がる直前の春。父に連れられて訪れた呉服店で選んだのが、この浴衣だった。
『持っているのは、もう小さいだろう。好きなのを選びなさい』
 不器用な優しさが嬉しくて、真剣に選んだ一着だった。
 結局、一度も袖を通すことのないまま、季節だけが過ぎていった。
 葵はまだ糊のきいた布地をそっと抱きしめた。

 慣れない手つきで浴衣に袖を通し、何度かやり直しながら帯を結ぶ。
 帯を最後に整え、廊下の姿見の前に立ってみた。
 鏡の中には、藍色の浴衣を纏った自分が映っていた。
 見慣れない姿に、少しだけ落ち着かない。
「……どう?」
 独り言のように呟く。
「そうね」
 不意に聞こえた声に振り返る。
 いつの間に現れたのか、Qちゃんが廊下の端で腕を組んでいた。
「杉原くんが気の毒になるくらい、可愛いわ」
「意味わかんない」
「そのままの意味よ」

 午後五時。
 空が深い青へと溶け落ちていく、一日で一番落ち着かない、けれど美しい時間。
 遠く、風に乗って祭りの囃子が聞こえた。
 秋の気配を含んだ風を吸いながら、葵は家を後にした。

 神社へ近づくにつれ、人の声が少しずつ大きくなる。
 夕涼みの風に混じって、ソースが焦げる香ばしい匂いがふわりと鼻先をかすめた。
 神社の周りには、すでに大勢の人が集まっていた。
 ​参道には屋台が軒を連ね、提灯の灯りが夕闇の中にぽつぽつと浮かんでいる。
 それが境内から流れてくる笛や太鼓の音と重なり、祭りの空気を震わせていた。

 待ち合わせ場所には、すでに二人の姿が見えた。 
 杉原と芽美だ。
 杉原はこちらに気が付くと、一瞬だけ視線が止まった。
 だが何事もなかったかのように目を逸らし、「……お疲れ」と短く声をかける。
 灰青色の浴衣に身を包んだ姿は新鮮だったが、不器用そうな空気は相変わらずだった。
 その仕草がいつも通りで、葵は少しだけ胸をなでおろす。
 隣では、藤色の浴衣を纏った芽美が、花が咲くように穏やかに微笑んだ。
「あおちゃん、似合ってる」
「ありがとう。めぐも、すごく素敵」
 彼女らしい、優しい色合いだった。
 そして――神社の石柱を背にして立つ、相棒。
 Qちゃんはいつ着替えたのか、紺碧の浴衣を纏っていた。
 夜の闇に溶けこむような深い色。
 何気なく立っているだけなのに、思わず見入ってしまう。
 色気という点では、やはりまったく敵わない。
 Qちゃんは石柱の前に佇み、どこか機嫌よさそうな笑みを浮かべて境内の賑わいを眺めていた。
 何気なく視線を向けた先で、銀色の瞳と目が合う。 その瞬間、彼の口元がふっと綻んだ。
 気が付けば、もう目の前まで来ていた。
「……なぁに、私に見とれてるの?」
 葵の耳元で、羽毛が触れるような低さで囁く。
「……浴衣姿が珍しいだけ」
 少しだけ口を尖らせる。
「そう?」
 くすっと笑う気配だけが、夜風に混じった。

 その時、背後から賑やかな声が近づいてきた。
「もう、いい加減にしてよね!」
 真琴だった。
 朱色の浴衣の裾を気にすることもなく、半ば引きずるように誰かの手を引いている。
 葵たちに気付くと一瞬だけ表情を和らげたが、すぐにまた顔をしかめて後ろを振り返った。
「神社までの道がうろ覚えだって言うから、学校前で待ち合わせしたんだけどさ。……結局、寝坊してんの、この人!」
「ちょ、ちょっと待ってって……その歩幅は転ぶ!」
 真琴の後ろで、深緑の浴衣の日高が情けない声を上げる。
 その様子を見て、芽美がくすくすと肩を揺らした。
「仲がいいね」
「仲がいいとかじゃなくて! 放っておけないの、心配で!」
 ふくれっ面で日高を見上げる。
 日高は困り果てた顔をしながらも、口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 全員が揃った、その一瞬。
 参道の提灯が、申し合わせたかのように次々と灯った。
 真琴が繋いでいた日高の手をパッと離し、ぐんと背伸びをしてから、みんなを振り返った。
​「よし、全員揃ったね!」
 ​提灯の光を受けた瞳が、いたずらっぽく輝いた。
​「……さあ」
 ​真琴は屋台の明かりがひしめく先を力強く指差した。
​「行こっか。――今日は楽しい夜にするよ!」

 参道に一歩足を踏み出した途端、祭りの熱気が全身を包み込んだ。
 肩が触れそうなほどの人波。  
 次々に聞こえてくる呼び込みの声。
 提灯の灯りに、浴衣の柄が色とりどりに浮かび上がる。
「やば、もう楽しい!」
 真琴がそう言って、迷いなく屋台の列に突っ込んでいく。日高はその背中を追いながら苦笑した。
「おま、こどもか!」
「あはは、こどもだよ〜! あ、見て、チョコバナナ売ってる!」
「話聞け!」
「聞いてる聞いてる!」
 ついさっきまでの小言も忘れたように、真琴はそのままチョコバナナの屋台へ駆け寄った。
「一つください!」
「はいよ、お嬢ちゃん」
 勢いよく注文する真琴の背中を見守りながら、芽美が困ったように眉を下げた。
「まだ参道に入ったばっかりなのに……」
「あいつに様子見は無理だ」
 杉原の低い声が妙に的確で、聞こえていたらしい真琴が振り返って抗議する。
「ひど!杉、絶対ノリ悪いタイプでしょ!」
「……否定はしない」
 あまりにも杉原らしい返事に、みんなから笑いが漏れた。
 次々と屋台を巡っていく真琴に振り回されながら、葵たちも香ばしい匂いに釣られてあちこち覗き込む。
 葵はレモン色の綿あめを買い、歩きながらそっと口に運んだ。
 ふわりと溶ける甘さに頬を緩める。
 
 隣ではQちゃんが、屋台の灯りを銀色の瞳に映しながら、音もなく歩いていた。
 誰にも気付かれないのに、その佇まいはどこまでも堂々としている。
 彼は葵の視線に気付くと、ふっと口元を歪めた。
「……お祭りなんて久しぶりだわ」
「そうなの?」
「どうだったか思い出せないくらいにはね」
 冗談めかした口調だった。けれど、その横顔はどこか遠くを見ているようにも見える。
 そういえば、自分はQちゃんの過去を何も知らない。
(今度、聞いてみようかな)
 彼の横顔を見ながら、葵はそっと思った。
 
 いつの間にか、辺りは熱気と人で溢れていた。
 浴衣特有の歩幅にはまだ身体が馴染まず、気を抜けば、すぐに仲間たちの背中を見失ってしまいそうになる。
「……結崎」
 不意に名前を呼ばれて、葵は顔を上げる。杉原が、こちらを見ていた。
「ゆっくりでいい。合わせるから」
 そう言って、彼はわずかに歩調を緩めた。
 優しい気遣いにお礼を言おうと口を開きかけた、その時だった。
 杉原が何かに気付いたように、葵の口元へ目を留めた。
 わずかに眉を動かし、一歩だけ距離を詰める。
「……ついてる」
 言いながら、杉原は自分の口の端を親指で軽くなぞる。
「えっ?」
一瞬、何のことかわからず、葵は杉原の顔をじっと見つめ返す。
「あ……」
 少し遅れて、さっき食べた綿あめの欠片だと気づき、慌ててウェットティッシュを出して口元を拭った。
「……ほんとだ。ありがとう」
 照れ隠しに小さく笑うと、杉原も柔らかく目を細めた。
 その珍しい表情に、葵はいたたまれなくなって視線を逸らした。
 
「次はたこ焼きね!」
 真琴が急に方向転換して、日高の腕を引っ張る。
「……完全に振り回されてるね」
 芽美が苦笑すると、杉原はその様子を横目で見て、小さく息を吐いた。
「……騒がしい」
「でも、楽しそうだよ」
 葵がそう言うと、杉原は一瞬だけ言葉に詰まり、「……そうだな」と短く頷いた。
 
 「お嬢ちゃん、よかったらこっち座りなよ」
 酔った男がへらへらと笑いながら芽美に手を振る。
 芽美が戸惑ったように立ち尽くした瞬間、真琴がすかさず間に割って入った。
「はい、そこまで!  乙女の時間は国宝級なんだから、おじさんのビールと一緒にしないで。ほら行こ、めぐ!」
「あはは、ありがとう真琴」
 真琴たちはそのまま日高を巻き込みながら、人混みの中へ消えていく。
 取り残されたように、その場に残ったのは葵と杉原だった。
 
 葵はふと、隣の射的の屋台で足を止めた。
 棚の上に並ぶ景品の中に、少し色あせた、くまのぬいぐるみが一匹。
(……かわいい)

「やる?」
 隣にいた杉原が、葵の視線の先を追って短く聞いた。
「……うん。やりたい」
 一発目は外れた。
 二発目も、標的のわずか横をかすめていく。
「あと一発だよ、お嬢ちゃん」
 店主の声に、葵が焦りで指先を固くした、その時——。葵を取り巻く空気が、ふっと変わった。

「……どれが欲しいの?」

 耳元で、艶めいた声が落ちる。次の瞬間、背後に逃れようのない気配が重なった。
 抱きすくめられるほどの距離。
 触れてはいない。けれど、背後をすべて塞がれたみたいに、体の後ろ側がじわりと熱を帯びる。
 葵は誰にも聞かれないように小さく囁いた。
「……あの、くま」
「了解。じゃあ――」
 視界の端で、銀色の瞳が景品をなぞる。測るような、静かな光。
 葵は銃を構え直すが、肩に余計な力が入ってしまう。その震えを見透かすように、背後の気配がさらに深く重なった。
「……少し右」
 囁きは、耳のすぐ後ろから。吐息の温度だけが、鼓膜を揺らす。
(……杉原くん、すぐそこにいるのに)
 ふっと、上から手を重ねられるような感覚。
 触れられてはいないのに、指先の向きだけが、わずかに導かれる。
「……もう少しだけ、下」
 背中には、その気配だけが残る。
 狙いがぴたりと合った。
 まるで、 一緒に引き金を握っているような感覚。
 葵の指が、吸い付くように引き金にかかる。
 ぱん、と乾いた音がして、くまが前に倒れ込んだ。
「おお!」
 店主が感心したように声を上げる。
 隣で見ていた杉原が、わずかに目を見開いた。

 葵は差し出されたぬいぐるみを受け取って、止めていた息を深く吐き出した。
「ほらね」
  満足げな声がすぐ隣で弾んだ。
「……こういう時」
 銀色の瞳がいたずらっぽく細められる。
「なんて言うんだっけ?」
 葵は誰にも見られないよう、わざと背を向けて「……ありがと」と小さく呟いた。
「ふふ、新しいパターンね」
 抱きしめたぬいぐるみの柔らかさが、慣れない浴衣姿の頼りない自分を、少しだけ守ってくれている気がした。

 金魚すくいの屋台の前では、子供が一人、力なくうつむいていた。
 手元には、大きく破れたポイが残されている。
 杉原は少し離れたところからその背中を見つめ、それから何も言わずに屋台へと近づいた。
 子供が顔を上げた瞬間、その肩がぴくりと震えた。
 見知らぬ、背の高い、少し目つきの鋭い青年。
 ——怖い。子供の表情は、あからさまにそう訴えていた。
 杉原もその視線に気づいたようだった。
 それ以上近付くのをやめ、子供と一定の距離を保ったまま、店主に小銭を渡す。
「……一回」
 静かな手つきで水面を割り、鮮やかな朱色の金魚を一匹、迷いなくすくい上げた。そしてそのまま、金魚の入った袋を子供の方へと差し出す。
「……ほら」
 子供は一瞬、きょとんとした顔で固まった。
 それから、透明な袋の中で泳ぐ金魚と、杉原の無愛想な顔を見比べる。
 
「ありがとう!」

 パッと顔を輝かせた子供の声に、杉原は何も答えず、葵の元へと戻ってきた。
 葵はそんな彼の横顔を見つめながら、思わず小さく微笑んだ。
 色とりどりの屋台の灯りと、遠くから響く仲間たちの笑い声。
 ただ純粋で、楽しいだけの時間。
 止まっていた自分の時間が、今、確かに動いている。
 そんな確信が、葵の心を静かに満たしていった。

 気付けば、あれほど慌ただしく屋台を巡っていた足も、いつの間にかゆっくりになっていた。
 山積みの焼きそばはいつの間にか空になり、真琴の持っていたりんご飴も、芯の棒だけが名残惜しそうに手元に残っている。
「……あー、食べた食べた! もうお腹いっぱい!」
 真琴が満足げに伸びをしながら、空になった紙コップを覗き込む。
「真琴、ほんとに全部食べたね……」
 芽美が呆れ顔で笑うと、日高先輩が腕時計に目を落として声を弾ませた。
「花火、もうすぐだって。川沿いのほう、移動すっか」
 みんなで連れ立って、少し開けた土手へと移動する。
 葵は抱えていたくまのぬいぐるみをバッグにしまい、みんなの後を追った。
 時計の針は六時半を回っていた。

 空はいつの間にか深い濃紺へと沈んでいた。
 遠くの街明かりと、ぽつぽつと連なる提灯の灯だけが、夜の闇を淡く照らしている。
 葵はベンチに腰を下ろし、バッグの中を探った。 
 指先に触れた、冷たく硬い感触。

 ——銀のりんご。銀色の表面が、周囲の提灯の赤い光を鈍く反射している。
 葵はそれをそっと胸元へ引き寄せた。

 日高は一瞬だけりんごに視線を落とし、それから真っ暗な空を見上げた。
「……久遠、来たかっただろうな」
 その名前が出た瞬間、さっきまでの喧騒が嘘のように遠のいた。
 一瞬だけ、夜の静寂が一同を包み込む。
「絶対、みんなの後ろで見るタイプだよね」
 真琴が努めて明るく続けると、日高も「無言でな」と笑い、また会話が弾み出した。
 その時、葵の胸の奥では、静かに記憶の糸がほどけていた。

 演劇部の扉の前で立ち尽くしていた、仮入部のあの日。
 漏れ聞こえる笑い声が眩しくて、ノブに触れた手を、そのまま離した。

 数日後の放課後。 ファイルを抱えて歩いていた葵の腕から、ふいに重みが消えた。
「持つよ」
 顔を上げると、そこにいたのは「石像」の人だった。
 ファイルの束を軽々と支えるその腕は、驚くほど細い。けれど、不思議と頼りなくは見えなかった。
「仮入部の日。……部室の前にいたよね」
 不意を突かれた。静かだが、落ち着く声だった。
「どうして入らなかったの?」
「……居場所がない気がして」
 絞り出すように本音を零した葵に、彼は追及もしなければ、同情もしなかった。
 ただ一度、こちらを見る。
 その眼差しに、葵は張り詰めていたものが少しだけほどけた気がした。
 去り際、彼は一度だけ振り返った。
 窓から吹き込んだ春の風が、彼の髪を揺らした。
「気が向いたらおいで。そのときは、一緒に入ろう」

 それは、世界に自分の存在を見つけてもらった、最初の日だった。
 
 ――ささやかな、記憶の断片。
 頬に、一筋の冷たいものが伝った。