放課後の校舎は、西日のせいでやけに明るかった。
その眩しさが、妙に現実感を失わせる。
視聴覚室の前で、葵は足を止めた。
扉を開けると、すでに揃っていた文化祭実行委員の生徒たちが一斉にこちらを向いた。
葵は反射的に室内を見回す。
その中に、杉原の姿はなかった。
席札が置かれた席に座り、配られたプリントに目を落とす。
けれど、文字は滑るばかりで全く頭に入ってこなかった。
ほどなくして話し合いが始まった。議題は滞りなく進行していく。
葵は、自分でも気づかないほど小さな不安を、指先に宿していた。
やがて勢いよく扉が開き、息を切らせた杉原が滑り込んできた。
「すみません、遅れました」
杉原は葵の隣に腰を下ろしながら、「悪い。遅れた」と小さく声をかけた。
ふわりと、汗の匂いが漂う。部活を途中で抜けてきたのだろう。
その生々しい匂いが、彼が確かにここにいることを感じさせた。
昨夜から頭をもたげていた不安が、少しだけ緩む。
つい見つめてしまっていたらしい。葵の視線に気づき、彼は「……匂う?」と小声で聞いた。
葵は、静かに首を振った。
進捗発表をする番になり、クラスの出し物について葵が説明し、杉原が不足を補うように言葉を添えていく。
平和な学校生活。優しい友達。 嫌なことが全くないわけじゃない。
それでも、今の世界はちゃんと回っている。
その穏やかさが、かえって胸を締め付けた。
委員会が終わり、生徒たちが次々と教室を出ていく。
杉原もプリントをまとめて席を立った。
「……杉原くん」
葵は思い切るように彼の袖をそっと掴んだ。
杉原の動きが止まる。
離れた場所で腕を組んでいたQちゃんが、その様子に気付いたように視線を向ける。
「……聞いてもいい?」
葵の思いつめたような眼差しに、彼の表情がわずかに固くなる。
「どうした?」
少しの沈黙のあと、葵はゆっくりと口を開く。
「杉原くん、どうして毎年実行委員をやってるの?」
「え?」
「……もしかして、私が何か『過去』を変えようとしているのを知っていたから?」
ほんの一瞬だけ、何かを言いかけるように杉原の視線が揺れた。
「……まぁ、それもある」
ぶっきらぼうな言い方。
けれどそれが、彼なりの優しさの裏返しだということを、今の葵は知っている。
それが理由の一つというだけで、答えは充分だった。
だから、彼は実行委員を続けていたのだ。
何も聞かずに。
ただ、近くで見守るために。
じっと手元を見つめたまま、言葉を失ってしまった葵に、杉原が怪訝そうに顔を覗き込んできた。
「結崎?」
その時だった。
下校を告げるメロディが校舎内に流れ始めた。
周囲のざわめきが遠のく。
その音に背中を押されるように、葵は思い切って口を開いた。
「杉原くん、Qちゃんのこと、危険かもしれないって言ったよね」
杉原は一瞬だけ目を瞬かせ、周囲を警戒するように視線を走らせてから、小さく頷いた。
「……ああ」
「私、はじめは信じられなかった。でも、杉原くんが真剣に話してくれたから、ちゃんと考えてみたの」
葵は一度言葉を切る。
「……でもね、どれだけ考えても、私の答えは変わらなかった」
かき消されがちな葵の言葉を、杉原は一言も逃すまいと耳を澄ませる。
視界の隅で、Qちゃんがこちらの様子を窺うように見ているのがわかった。
「……私は、Qちゃんを信じたい。彼に救われたのは事実だから」
葵の真っ直ぐな声に、杉原の瞳が戸惑うように揺れた。
「私、何も出来ない自分が、ずっと嫌だった。でも、Qちゃんが来てくれて、傍で見守ってくれたから、少しだけど自信が持てたの。こんな私でも、少しは役に立てるんだって」
「……何も出来ない?」
杉原は眉をひそめた。
「お前が?」
杉原は納得していないようだった。
それでも葵は、首を横に振った。
下校のメロディが鳴り止む。
気付くと周りには、もう他の生徒の姿はなかった。
「……でもね、もう大丈夫。杉原くんが心配するようなことは、もうしないから」
「え?」
「もう、過去へは行かない。そう、決めたの」
杉原は葵を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さく「……なんでだ」と呟いた。
葵は、言葉を迷いながら少しだけ目を伏せた。
「……怖くなったの」
「何が」
「過去を変えることが」
不意に、その言葉の真意を測りかねるような間があった。
気まずさを消すように、葵は努めて穏やかに付け加える。
「今のままで、充分幸せだなって思ったし。もうこれ以上は望まないよ」
葵は目を細めると、鞄から折り目の増えた紙を取り出した。
「これ。昨日、杉原くんが言ってたこと、書いてきたの。……参考になるか、わからないけど」
葵が差し出したのは、幾度も折り返されたノートの切れ端だ。
杉原の視線が、紙を支える葵の指先に吸い寄せられる。
細い指先が小刻みに震えている。
その震えが、差し出されたメモへと、かすかに伝わっていた。
「……」
杉原はしばらく、葵の顔をじっと見つめていた。
泣き腫らしたような目の端。
久遠を救いたい願いと、それを諦めようとする決意。
その葛藤が、震える指先から痛いほど伝わってくる。
「……杉原くん?」
不安げに揺れる葵の声が、静まり返った教室に落ちた。
杉原は深く吐息をこぼすと、何も言わず、ただ葵の瞳を見つめ返した。
「……預かる」
そう告げると、その震えを封じ込めるように、葵の手指に一瞬だけ触れてから紙を受け取った。
教室には夕方の光と、凪のような静けさが残った。
その端で、Qちゃんがわずかに遅れて、ゆっくりと目を伏せる。
放課後の光がゆっくりと退いていく。
世界は静かで、あまりにも穏やかだった。
――だからこそ、怖かった。
結崎メモ:
・そのうち、結崎も
