自室の灯りを消すと、静寂が闇を連れてきた。
耳の奥では、杉原の低い声がリフレインしている。
潜り込んだ布団の中で、葵は自分の輪郭がひどく曖昧になっていくような錯覚に陥った。
ふと、ベランダで人の気配がした。
窓を開けて出ると、夜風がひんやりと頬を撫でる。
Qちゃんが煙草を吸っていた。
細い指の間に煙草をくゆらせ、暗闇の中で小さな赤い火を揺らしている。
「……副流煙吸うわよ。中にいなさい」
ぶっきらぼうな、けれど拒絶ではない声。葵は構わず、その隣へと歩み寄った。
「少しくらいいいの。Qちゃんと話したいし」
「……」
Qちゃんは葵を横目で一瞥すると、指に挟んでいた煙草を葵から遠ざけるように反対の手へ持ち替えた。
吐き出した煙は、意図的に夜空へと逃がされる。
無造作に見えて、その実、徹底して葵を気遣う仕草。
葵はそのまま隣に並び、手すりに軽く手をかけた。
しばらく何も言わずに、ただ外の暗がりを見下ろす。
夜風に混じるわずかな煙の匂いと、遠くのざわめき。
やがて、葵はぽつりと聞いた。
「……Qちゃん。さっき、理科室で叫んでくれたでしょ。『危ない!』って」
Qちゃんは煙草をくわえたまま、視線を動かさない。
「……別に。あの子たちの動きが露骨だったから、つい声が出ただけよ。実際に助けたのは、彼だし」
「それでも、嬉しかったよ。……ありがとう」
Qちゃんは鼻で笑うように紫煙を吐き出す。
「おめでたいわね」
そう言って小さく笑い、葵を振り返る。
その瞳は、どこか柔らかな光を帯びていた。
「よくある、思春期の男の子の態度。……にしては、何か違うなって思ってたのよね。最初から」
名前こそ出さないが、杉原のことを指しているは明白だった。
葵の胸が、小さな音を立ててざわつく。
「聞いてたの?話……」
「最初の方だけ。あんな至近距離で密談されちゃね。でも、タイムリープのこと話してるのは聞こえたわ。——っていうことは、私のことも話してたんでしょうね」
それから、不意にニヤリと笑い、葵の顔を覗き込んだ。
「さっきのアレ。ドキッとした?」
「……やめてよ」
「抵抗しないんだもん」
返事に詰まると、からかうような声は、ふっと途切れた。
Qちゃんは、視線を外へと戻した。
その静寂の中で、杉原の言葉が再び葵の脳裏に蘇る。
『過去に行くのは、本当にお前の意思なのか』
不意に、初めてタイムリープした夜のQちゃんの声が重なった。
『私は、あなたが続きを望んだ時間を、ちゃんと見届けたいのよ』
過去へ行くのは――自分が願ったからだ。なのに、何故か不安が拭えない。
「……Qちゃん。私、何かいけないことをしてるのかな」
Qちゃんの眉が、ぴくりと動いた。「いけないこと?」
「うん。……杉原くんの顔を見てたら、そんな気がしたの。彼は何かをすごく心配してくれてた。それが何をなのかは、わからないけど……」
葵は、恐る恐るQちゃんの反応を窺った。
もし彼がここで杉原を否定すれば、杉原の警告が現実味を帯びてしまう。
長い沈黙が落ちた。
やがてQちゃんは煙草を携帯灰皿に押し込むと、ゆっくりと腕を組んだ。
暗闇に溶け込むような彼の瞳が、静かに葵を射抜く。
けれど、それも一瞬のことだった。Qちゃんはふっと表情を緩めると、いつもの調子で言った。
「大丈夫よ」
その声音には、不思議な安心感があった。
「どちらにせよ、彼があんたの味方であることには変わりないわ。そうじゃなきゃ、あんな全力で守ろうとはしないでしょ。……彼が心配しているのは、あんたが壊れてしまうこと」
Qちゃんは真っ直ぐに葵を見つめる。
「もちろん、私もあんたの味方よ」
その言葉が胸に染みる。
「……うん。ありがとう」
(やっぱり、Qちゃんは私のことを考えてくれている)
Qちゃんは、そんな葵を見て嬉しそうに目を細めた。
「おやすみ、Qちゃん」
葵がそう言いかけた、その瞬間——。
そこには、葵ひとりだけが残されていた。
さっきまで彼がいた場所を、夜風が静かに吹き抜ける。
まるで最初から、ここには誰もいなかったかのように。
その後、葵は机に向かい、ペンを握った。
杉原に伝えたいことはいくらでもあった。
これまでのタイムリープのこと。Qちゃんのこと。久遠のこと。
けれど、最初の一文字がなかなか出てこない。
目を閉じると、過去で見た光景が次々に浮かんでくる。
『何か、私にできることがあれば、言ってください』
あのときの自分は、声を震わせながらも必死だった。
『ちょうど、メイクの助手が欲しいなって思ってたんだ。すごいね、タイミング』
久遠は、陽だまりのように笑ってくれた。
不器用にエプロンの紐を持て余していた葵の後ろに回り、迷いのない指先で結んでくれた。
近すぎる体温に、息の仕方がわからなくなったこと。
暗い舞台袖へ、手を引かれて歩いた時のことも。
上演中の暗い舞台袖で、久遠と並んで見上げたスクリーンには、幾重もの花火が咲いていた。
打ち上げの席で、久遠が銀色のりんごに鉛筆で顔を描いてくれたことも。
『葵ちゃんに似てる』
困ったように笑うその顔を思い出した瞬間、視界が歪んだ。
ぽたり、と音がした。
気付けば、頬を伝った涙が紙を濡らしていた。
一粒、また一粒。まだ何も書けていない紙の上に、丸い染みだけが増えていく。
過去を変えたい。
もう一度、先輩に会いたい。
失われた時間を、なかったことになんてしたくない。
それは、嘘ではなかった。
――けれど。
過去を修正しようとするたび、誰かが傷付いた。
これまで二度とも、傷付いたのは杉原だった。
偶然だと言い聞かせてきた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
もし、また同じことが起きたら。
もし次に戻った先で、彼がもっと取り返しのつかない傷を負ったら。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たく凍った。
自分の願いのために、これ以上、大切な人を傷つけたくない。
葵は濡れた紙をそっと脇へ避け、新しい紙を取り出した。
震える指で、ペンを握り直す。
彼に、会いたい。
その気持ちは、消えない。
けれど、それでも。
葵は涙を拭い、ようやく最初の一行を書き出した。
『――杉原くんへ』
