名前のない想いの果てに


 帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちが次々に教室を出ていく。
 葵は席に座ったまま動けずにいた。
 理科室での出来事が、頭から離れない。
 あの時の杉原の様子を思い出すたび、昨日聞いた話が脳裏をよぎった。

 聞かなければならない気がした。
 けれど、何から聞けばいいのかも分からない。
 気付けば、教室内には葵と杉原の二人だけになっていた。

「……結崎」
 低い声に顔を上げる。
 鞄を肩に掛けた杉原が、傍に立っていた。
「帰らないのか?」
「……」
 葵は答えられない。指先が、鞄の持ち手に深く食い込んだ。
 やがて意を決して立ち上がる。
「……杉原くん」
「なに?」
「腕、見せて」
 杉原の顔が一瞬、強張った。
「……なんで」
「火傷。……ちゃんと、見たことなかったから」
 杉原は逡巡するように沈黙し、それから制服の右袖を捲った。
 逞しい腕。けれど、そこには何の傷もない。
 葵は一瞬だけそれを見つめ、すぐに目を伏せた。
「……そっちじゃ、ない」
 杉原の動きが、ぴたりと止まる。
「反対の腕」
 空気が張り詰めたのがわかった。数秒の沈黙の後、杉原はため息をついた。
「……今さら、そんなもの見てどうするんだよ」
 そう言いながら、彼は無造作に左の袖を捲り上げた。

 ——そこにあった。

 肌の色はまだらに変わり、その境目だけが不自然なほどくっきりと残っていた。
 思っていたより、ずっと生々しい跡。

 葵の喉が、ひくりと鳴った。

「……ごめん」

 弱々しい声が零れ落ちた。
「だから、それ言うなって」
 杉原は苦く笑った。
「……やっぱり、聞いたのか」
 言葉とは裏腹に、その声には戸惑いと諦めの響きが混じっていた。

 教室の外で、誰かの笑い声が遠ざかっていく。
 杉原は、袖を戻しながらぽつりと言った。
「中一の文化祭の時。廊下で、お前が誰かに話しているのを聞いた」
「え?」
「『四年前に、ここで事故が起きた。それが、もうすぐ起きるはずだ』って」

 心臓の音が、どくんと大きく跳ねた。

「じゃあ……最初から、それを止めるつもりで?」
「ああ。実際には止められなかったけどな」
 杉原は、自嘲気味に笑い、視線を窓の外へ投げた。
「事故は起きた。だから、あれが予知なんかじゃなかった。結崎は未来から来た――そう考えるしかなかった」
 そこでようやく、葵に視線を向ける。
「行き先は――文化祭の前日、だろ」
「……」
 先程の、杉原の言葉が蘇る。
『ほんとに、文化祭だけなんだな』
 ――彼は、もう核心に迫っていた。

「どうしてその日なのか。事件を食い止めるためかとも思ったが、近くで見ているうちに、どうも目的が違う気がしてきた」

 葵の身体が強張る。
 肌を刺すような沈黙が教室に満ちた。
「結崎が最後に在籍してた、中三の演劇部。その写真の変化にヒントがあるんじゃないかと思った。人物の配置、そして――本来そこには写っていなかったはずの人間の存在。後者は、どうしても見逃せなかった」

 杉原の推測は止まらない。
 葵の指先が、自分でも制御できないほどに小さく震え始める。

「過去が変われば、人との関わり方も変わる」
 杉原は短く言った。
「あの写真は、その証拠に見えた」

 不意に、杉原と視線がぶつかった。
 彼が一歩、距離を詰める。葵は思わず半歩下がった。
 さらにもう一歩。
 床に落ちる夕陽の帯が、二人の間で激しく揺れる。
 もう一歩。
 背中に、教室の扉の硬い感触が当たった。もう逃げ場がない。
 杉原の右手が、退路を断つように背後の扉を突いた。葵の息が止まる。

「結崎」
 杉原が、わずかに身を屈めた。耳元に届くのは、熱を孕んだ低い声だ。
 それは囁きのようでいて、見えない何かを警戒するような鋭さがあった。

「……お前のそばにいるのは、誰だ?」

 心臓が喉まで競り上がる。
「……誰、って」
「四年前、お前が独り言を漏らしていた相手だ。文化祭前後の不自然な挙動からして、そいつと一緒に時間を渡っているのは間違いないだろう」
 杉原の声に迷いはない。
「過去に行くのは、本当にお前の意思か?そいつに何か吹き込まれてないか」
 顔を上げると、至近距離にある杉原の瞳が焦燥に揺れていた。
「もしそうなら、言いなりになるな」
 絞り出すような声には、確かな覇気が宿っている。
「失踪した先輩が絡んでるんだ。……そいつは、お前を危険な目に遭わせるかもしれない」
 その瞬間、葵は顔を上げた。
「違う!」
 葵の声が、放課後の教室に鋭く弾けた。
「そんなこと、言わないで。……Qちゃんは」
 禁忌に触れるような震えをねじ伏せ、葵はまっすぐに杉原を見つめた。

 ――『あんたが誰かを助けたのは事実でしょ』
 ――『私は、あなたが続きを望んだ時間を、ちゃんと見届けたいのよ』
 ――『もう、大丈夫よ』

 胸の奥で、幾度も救われた声が重なる。

「……Qちゃんは、ただのプログラムじゃない」
 葵は震える声で言った。
「私にとっては、大事な……欠かせない、心の『救急箱』なの」

 杉原の瞳がわずかに見開かれた。
 吐息さえ聞こえそうな沈黙。

 杉原は数秒、彼女の瞳の奥を探るように黙り込み、やがて諦めたように長く息を吐き出した。
「……わかった。これ以上は言わない」
 突き刺すようだった視線が、ふっと体温を取り戻す。
 杉原は一度言葉を探すように黙り込んだ。それから、ゆっくりと葵の目を捉える。
「これまでのタイムリープのきっかけと、正確な日付……そいつについて分かってることを全部教えてくれ」

 そこまで言うと、杉原はようやく扉から手を離し、ゆっくりと上体を起こした。
  遮られていた夕方の光が、再び二人の間を隔てるように床へと落ちた。
「どうして、そこまで……」
 葵の口から、疑問が零れ落ちる。
 杉原は小さく息を吐いた。

「お前の言葉を借りるなら――俺も、未来で後悔したくないだけだ」

 一度言葉を切り、杉原は静かに続ける。
「……だから、次に何かするつもりなら先に言え」
 葵が目を見開く。
 杉原は視線を逸らさず、続けた。
「一人で背負わせるつもりはない」

 窓から吹き込んだ風が、カーテンを大きく翻した。
 揺れた布越しに差し込む夕陽が、二人の間に長い影を落とす。

「行くぞ」
「え……」
「帰るんだろ」

 開け放たれた扉へ葵を促すと、杉原はふと振り返った。
 誰もいない教室の隅。
 夕闇が溜まり、埃の粒子が西日に照らされて静かに踊っている。
 杉原はその場所へ鋭い視線を向けた。それ以上何も言わず、教室をあとにした。

 結崎メモ:

・久遠 紡の失踪だけが、まだ何一つ解けていない