館内はさらに生徒が増え、むっとした熱気が肌にまとわりついた。
既に半分ほどパイプ椅子が並び、足元には等間隔に貼られたカラーテープが一直線に伸びている。
中へ足を踏み入れようとした葵は、ふと背後を振り返り、――ぎくり、と息を呑んだ。
「どうしたのよ、突然走り出して」
追いかけてきたQちゃんの声には、焚き付けた本人でさえ面食らったような色が混じっていた。
(ひぇ……っ)
改めて、その姿をまじまじと見つめる。
百八十センチは優に超える身長。
銀髪に黒スーツの男――どう見ても、この学校に馴染む存在じゃない。
普通なら、こんな男が学校に紛れ込んでいれば、即座に不審者として騒ぎになるはずだ。
それなのに、すれ違う生徒たちは、誰一人として彼に視線を向けようとしない。
(もしかして……私以外からは、見えないの?)
不意に影がかかり、すぐ傍を教師が通り過ぎた。
教師は真っ直ぐ葵を見て、「どうした?」と声を掛けた。
「あ、い、いえ……ちょっと考え事をしてて」
その視線は、葵のすぐ隣に立つ銀髪の男を、まるで空気か何かのように素通りした。
――やっぱり、見えてない。
「そうか。ここから重い備品の出入りが増えるから、足元気を付けろよ。邪魔にならないようにな」
教師はひらひらと手を振り、そのまま設営の指揮を執るために去っていった。
葵は小さく息を吐いて、胸をなで下ろす。
それから隣に向かって小さく、
「……なんでもない。行こ」
そう呟くと、中へと足を踏み入れた。
設営に取り掛かる生徒たちの間を縫うように歩きながら、葵の視線は吸い寄せられるように舞台へと向かう。
照明の調整をする生徒。台本を片手に動きを確認する役者。端で黙々と小道具を並べている部員。
そのどれもが、かつて知っていた、痛いほど見覚えのある光景だった。
けれど、今の葵には、目に映るものすべてに薄い膜が張っているかのように、どこか遠い。
誰かを探しているわけじゃない。
そう自分に言い聞かせても、意識は無意識に、「誰か」の姿を追ってしまう。
(こういうこと、いなくなってからも、何度も繰り返した。……でも、何も変わらなかった)
何人もの生徒が、葵の前を横切っていく。
その騒がしい残像の隙間で、人影が膝をつくのが見えた。
黒いケースの中身を整える、静かな手つき。
繊細な横顔のシルエット。
見間違いかもしれない。
むしろ、そうであってほしいとさえ願った。
けれど――他の部員に何かを短く告げ、わずかに口元を綻ばせた、その一瞬。
身体が、動かなくなった。
(……また、会えた)
遅れて、脈が大きく跳ねる。
鼓動がうるさい。
耳の奥で鐘のように反響し、周囲の喧騒をかき消していく。
目を逸らしたいのに、吸い付いて動かせない。だって、あそこにいるのは——。
「……あれが、久遠先輩?」
隣から、Qちゃんの声がした。
葵は、ようやく現実に引き戻されるように、小さく、頼りなく頷いた。
彼はまじまじと久遠の姿を見つめると、目を細めて笑った。
「きれいな顔してるじゃない」
けれど、その軽やかな言葉さえ、今の葵の耳には届かなかった。
「ね、演劇部の人?」
背後から声が降ってきた。振り返ると、『実行委員』の腕章をつけた女子生徒が立っていた。
(……あ。この子)
葵のよく知っている顔――けれど今はまだ、廊下ですれ違うだけの「他人」だ。
それでも、葵は知っている。翌年から、彼女がこの時期になるたび、ここで楽しそうに過ごすことを。
屈託のない話し方、周囲を明るく弾ませるような雰囲気。
目の前の彼女は、記憶の中にいる姿そのものだった。
(……この子、実行委員だったんだ)
この日もこんな風に話しかけられただろうか。四年前の出来事だ。思い返してみても、記憶は曖昧だった。
きっと、当時の葵は自分のことで手一杯で、彼女にどう応じるべきかさえ分かっていなかったのだろう。
「お互い大変だよね。はやく帰りたーい」
彼女は隠そうともせず、苦虫を潰したような顔をした。きっと、葵と同じようにくじ引きか何かで押し付けられたに違いない。
こういう場合は——同調するのが適切。
本当は、もう少し気の利いたことを返せればいいのだけれど。
「……そうですね。お互い、がんばりましょう」
「うん、ありがと。またね」
彼女はため息を一つつくと、気だるげに次の用事へと向かっていく。
(……うん。結局、こういう返し方しか出来ない)
愛想がないわけじゃない。
けれど、踏み込もうとすると、いつも言葉が止まってしまう。
代わり映えしない自分に、胸の奥がわずかに沈む。
葵は小さく息をつき、舞台へ向き直った。
階段を上る。
足元がふわふわとして、まるで夢の中を歩いているようだ。
舞台の端、久遠は床に置いた台本を見つめ、静かにしゃがんでいた。
今なら、話しかけられる。そう思ったのに——不意に足が竦んだ。
かける言葉は決まっているはずなのに、踏み出すための理由だけが見つからない。
胸の奥で絡まり合う感情を持て余し、葵はただ、彼の背中を見つめることしかできなかった。
「……行ってきなさいよ」
隣から、背中を押すような声がした。
視線を向けると、Qちゃんが不敵に、けれどどこか慈しむように笑っていた。
まるで、親友の恋路を応援する、お節介焼きのような顔で。
「ここで見ててあげるから。……ほら」
葵は一度だけ深く息を吸い、舞台の板を強く踏みしめた。
身体中の熱を、深く吐き出す。
「く、……久遠先輩」
声が上ずった。この名前を呼ぶのは、一体どれくらいぶりだろう。
人違いかもしれないという恐怖と、一秒でも早くその顔が見たいという渇望。
久遠の指先が、台本の上でぴたりと止まった。
彼は周囲を軽く見渡してから、ゆっくりとこちらを振り返る。
その瞬間、葵の意識は一気にあの日へ引き戻された。
彼は一瞬だけ目を見開き、「どうしたの?」と声をかけた。
記憶の中にあるものと同じ、穏やかで涼やかな声。
(……知ってる)
『ちょっと、手伝ってもらえるかな』
この時の彼が、予行演習の準備で人手が足りず、立ち往生していたことを。
声を掛けられ、助手としてメイクを手伝った記憶。――けれど、今は違う。
彼に呼ばれるのを待つ必要なんてなかった。
「……あの……何か、私にできること、ありませんか?」
緊張で声が細く震える。それでも、最後まで逃げずに言い切った。
久遠はきょとんとした顔で葵を見つめ、それから一度、ゆっくりと瞬きをした。
「……え」
彼は手元の台本に視線を落とし、ふっとやわらかな笑みを漏らした。
「ちょうど今、台本見てて。メイクの助手、ほしいなって思ってたところなんだよね」
顔を上げ、まっすぐに葵を見た。
「すごいね。タイミング」
そう言って笑ったあと、久遠は言葉を止めた。
——ほんの一瞬、目を離す理由を失った。
けれど、その理由に触れる前に、彼は何事もなかったように微笑む。
優しい瞳に見つめられ、葵の身体がじんわりと熱くなった。
「じゃあ、控え室で少し説明するね。実際にやりながら覚えたほうが早いし」
「……はい!」
その返事とともに、張り詰めていた胸の糸が、ふっと緩んだ。
過去の記憶をなぞろうとする気負いが、彼の静かな声にほどけていく。
「行こうか」
歩き出す久遠の背を追い、葵も一歩を踏み出す。
ふと葵は足を止め、Qちゃんを振り返った。
Qちゃんは優雅に腕を組み、微笑みながら小さく頷いた。
(いってらっしゃい)
声には出さず、唇の動きだけでそう告げた彼は、今の葵にとって唯一の、秘密の味方だった。
葵は小さく頷き返し、前を歩く久遠を追う。
入口から入り込む秋の風は少し肌寒かったが、火照った頬を撫でる秋風が、やけに優しく感じられた。
