午後のチャイムが鳴り、葵は教科書を手に席を立つ。
ふと顔を上げると、前方の席で杉原もちょうど立ち上がったところだった。
彼は一度だけこちらを見て、そのまま教室を出ていく。
葵も少し遅れて後を追った。
窓の多い理科室は、外の光をやわらかく取り込んでいた。
アルコールランプや試験管が整然と並び、ガラス特有のひんやりした匂いが漂っている。
指定されたテーブルの向かい側には、昨日の女子たちがいた。
一瞬、視線が合い、すぐに逸らされる。
部屋の隅で腕を組んだQちゃんが、葵の視線に気付いて、にこっと軽く手を振った。
「始めるぞ。静かに」
理科教師が教卓の前に立ち、軽く手を叩いた。
「今日は火と薬品使うからね。慣れてる人ほど雑になりやすいから、そこだけ気をつけて」
気の抜けた返事と共に、椅子がきしむ音が重なる。
葵は手順を頭の中で反芻しながら、器具を手に取った。
アルコールランプに火が灯り、青い炎が静かに揺れ始める。
窓からの光が試験管の曲線に沿って淡く反射していた。
試験管を支えるスタンドがわずかにきしむ。
向かいの席で、女子の一人が隣に何かを言って小さく笑った。
どこにでもある休み時間の延長のような、無邪気な風景。
けれど、辺りに視線を泳がせていたQちゃんの目が、彼女たちの手元で止まった。
その瞬間、いつも余裕を崩さない彼の表情から、ふっと笑みが消える。
(……Qちゃん?)
彼は何かを確かめるように、ゆっくりと近付いてくる。
その時だった。
熱せられた液体の表面が、鋭く跳ねた。
試験管がスタンドから外れ、ゆっくりと、けれど確実に葵の机の方へ傾いていく。
「葵、危ない!」
Qちゃんの叫びが響いた瞬間、彼の指先が葵の肩を虚しく透かした。
助けられない――その絶望的なタイムラグを塗りつぶすように、荒々しい体温が割り込んでくる。
視界が横に激しく流れた。腕を引きちぎらんばかりの力で引かれる。
身体が半歩後ろにずれ、倒れた椅子がガタンと重い音を立てた。
杉原だった。彼は自分の体を盾にするように、葵の前に割り込んで立っている。
葵は勢いあまってその場に尻餅をついた。
パリンッ!
鼓膜を弾くような破裂音が響いた。
試験管が角に当たり、火のついたアルコールランプを巻き込んで砕ける。透明な破片が散り、熱せられた液体が机上にぶちまけられた。
「きゃっ!」
誰かの短い悲鳴。倒れたランプからアルコールが漏れ出し、炎が青い軌跡を描いて一瞬だけ机の上を走った。
「危ない!」「動くな!」
教師の鋭い声と、机を引きずる耳障りな音が重なり合う。
――そして、しん、と静まり返った。
時間が止まったような静寂の中、誰かが息を呑む音だけが大きく聞こえる。
杉原がゆっくりと振り返り、葵の様子を無言で確かめた。
「……大丈夫か」
低く、押し殺したような声。
「……う、うん……」
自分の声が、どこか遠い水の底から響いているように聞こえた。
杉原はそれ以上何も言わず、原因を作った女子たちのほうへ向き直った。
その横顔に、葵は思わず息を呑む。これまで見たことがないほど冷えた目だった。
女子たちの顔から、さっと血の気が引いていく。
杉原はしばらく何も言わず、ただ静かに二人を見つめた。
「あ、あの、私達は……」
「……『ここまで大事にするつもりじゃなかった』?」
低い声が落ちた。
「そうだよな。笑ってたもんな」
理科室の空気が凍りつく。
女子たちの肩がびくりと震えた。
「ち、違――」
「二度とやるな」
言い訳を遮るように、杉原が言った。
怒鳴ってはいない。
けれど、その一言には有無を言わせない重さがあった。
「おい! 全員離れろ!」
駆け寄った教師が生徒たちを下がらせる。
女子たちは青ざめたまま俯き、小さく頷くことしかできなかった。
杉原はそれ以上追及しなかった。
教師は周囲を見回しながら手早く指示を飛ばす。
「そこの机離せ。雑巾持ってこい」
遠巻きに見ていた生徒たちのざわめきが、波のようにゆっくりと戻ってくる。
けれど葵だけは、まだその場から動けずにいた。
散らばったガラス片。焦げた匂い。
そして、ほんの少し前まで自分がいた場所。
心臓だけが、遅れて激しく脈打っている。
「結崎」
低い声が降ってくる。
顔を上げると、杉原が目の前に立っていた。
いつの間にか差し出されていた手が視界に入る。
「……立てるか」
葵は一瞬だけその手を見つめた。それから、おそるおそる手を伸ばす。
引き上げられる感覚と共に、ようやく現実へ引き戻された気がした。
何か言おうとして口を開く。それなのに、喉の奥が妙につかえて声にならない。
杉原はそんな葵の様子を見ても何も言わず、静かに手を離した。
葵はそのまま、そっと背後を振り返る。
Qちゃんが、少し離れたところに立ち尽くしている。
いつもと同じ飄々とした風貌のはずなのに、どこか表情が追いついていない。
目元の余裕が、ほんの少し欠けていた。
けれど次の瞬間、Qちゃんは小さく息を吐いていつもの顔に戻った。
短い、安堵のため息。それを見て、葵の胸の奥も静かにほどけていく。
そのとき、杉原がぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……行く先はやっぱり、文化祭なんだな」
独り言のような声。
(……今、何て?)
葵が驚いて顔を上げる頃には、杉原はもう何事もなかったかのように、無機質な手つきで器具を片付けていた。
結崎メモ:
確認事項
・移動先はいずれも文化祭前日
・目的は久遠先輩に関連?
・2023年文化祭前日に移動する可能性
