翌朝、昇降口に入った瞬間、葵は足を止めた。
生徒たちが忙しく流れていく靴箱の端。杉原が壁にもたれるようにして立っていた。
こちらに気付いて、壁から身体を離す。
「おはよう」
「……おはよう」
挨拶を返してすぐ、葵は視線を逸らした。
昨日、早退する時にこちらを見ていた杉原の視線を思い出す。
(どうして帰ったのか聞かれるかな……)
上履きを取ろうとした瞬間、靴箱の奥から丸められた紙くずが転がり落ちた。
杉原が無言で拾い上げる。
「あ……それ」
彼は開くこともせず、しばらく手の中の紙くずを見つめた。
それからそれを握り潰し、ゴミ箱へ放り込んだ。
「行くぞ」
二人で歩き出す。
朝の廊下は登校してきた生徒たちで混み合っていた。
しばらく無言のまま歩いていると、
「今日は平気そうか」
杉原が、ぽつりと聞いた。
「え?」
「昨日、早退しただろ」
どきり、と心音が跳ねる。
「あ……うん。もう平気」
「そうか」
それだけだった。
昨日どうして帰ったのかも、靴箱に入っていた紙くずのことも聞かない。
葵の隣を歩いていたQちゃんが、ちらりと杉原を見る。
それから今度は葵を見て、
「……へぇ」
と、意味ありげに片眉を上げた。
邪推するような気配に、思わず葵はQちゃんを振り返った。
(やめて)
視線だけで猛抗議する。
ほんの一瞬のやり取りだった。
それでも杉原は足を止め、葵のほうを見た。
「……どうした?」
葵は慌てて首を振る。
「ううん、なんでもない」
朝のざわめきが、その小さな沈黙を飲み込んでいく。
杉原はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、さっき葵が見ていた方向へ、ほんの一瞬だけ視線を流す。
そこには窓と、まだ湿った校庭の光が反射しているだけだった。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、教室に賑やかな音が溢れる。
(今日は教室で食べようかな……)
居心地の悪さを覚悟しながらふとスマホを見ると、通知がひとつ届いていた。
真琴と芽美のグループラインだった。
〈中庭どう? 天気いいし〉
真琴の短い文が、画面に浮かび上がる。
窓の外を見ると、雲の切れ間から淡い光が落ちていた。
〈行く〉
急いで短文だけ打ち付けると、葵は教室を早足で出た。
「ぶるー、こっち!」
中庭に出ると、真琴が大きく手を振っているのが見えた。
その隣で芽美も笑顔を向けている。
「お待たせ」
葵は少し息をきらせながら、二人の傍らに腰を下ろした。
「珍しいね、お昼に誘ってくれるなんて」
二人は同じクラスで、普段は教室でお弁当を食べているはずだ。弁当の包みを開く音が重なる。
「うん、実は二時間目のあと、廊下で杉に会ってさ」
葵の手が一瞬止まる。
「その時、葵が早退したこと聞いたんだよ。で、『昨日のこともあるし。できれば昼、一緒にいてやって』って」
「……そうなんだ」
彼が自分の体調を気にして言ったことじゃないことは、すぐにわかった。
恐らく、昨日のようなことが起きないように、気遣ってくれたのだろう。
また、彼に気を遣わせてしまっている気がして、胸が鈍く痛んだ。
「部活以外で話せる時間あんまりないから、あたしは『やった!』って感じだけどね。良かったらこれからも一緒に食べようよ」
唐揚げを頬張りながら言う真琴に、葵は「うん」と小さく微笑んだ。
しばらくして、会話がふっと途切れた。
「あおちゃん、元気ないね。何かあった?」
「え……そうかな」
心配そうに覗き込む芽美に、思わず視線を逸らす。
すぐには言葉を返せなかった。
けれど、二人の顔を見ているうちに、ぽつりと言葉が零れた。
「……実は、知らないうちに、傷つけちゃった人がいて」
「え?」
「しかも、その人が傷ついてたこと、ずっと知らなかったの。だから、どういう顔して会えばいいのか、分からなくて」
真琴と芽美が顔を見合わせる。
「それって……杉のこと?」
驚いて顔を上げると、やっぱり、というように真琴が肩をすくめた。
「だって、杉からそんな頼まれごとするのも珍しかったし、ぶるーも元気ないし。あ、これは二人の間になんかあったかな?って」
鋭い指摘に、思わず黙り込む。
彼に関しての話だとバレてしまった以上、なおさら詳しい話は出来なかった。
「傷付けたって、ぶるーから何か言ったってこと?」
「そういうことを、させちゃったというか……」
真琴の顔を見ると、文化祭の日の出来事が脳裏をよぎった。
本人に知られるわけにもいかず、つい歯切れが悪くなる。
彼女はしばらく葵を見つめていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「まぁ、聞かれたくないなら聞かないけどさ」
「……ごめん」
「謝んなくていいって」
そこで芽美が、そっと口を開いた。
「ね、あおちゃん」
「?」
「杉原くんが、もしそのことであおちゃんのこと許せてないんだとしたら、『一緒にいてやって』なんて言わないと思うけどな」
「あたしもそう思う」
間髪入れずに、真琴も頷く。
「あの杉だよ? その場で『こうするしかない』って思ったことやっただけでしょ。それに、自分で決めたことを後から人のせいにするタイプじゃないじゃん」
真琴はそう言ってから、
「ぶるー絡みならなおさら」
と、何気なく付け足した。
「真琴」
芽美が咎めるような視線を真琴へ向けた。
じん、とした温もりにも似た痛みが、胸の中へ静かに降り積もる。
そのまま何も言えなくなり、葵は俯いた。
芽美は苦笑しながらも、真琴の言葉に小さく頷いた。
「杉原くんはそんなふうに思ってないかもしれないし、……自分のしたことであおちゃんがそんな顔してるの、望んでないと思うな」
顔を上げると、背中を押すような二人の笑顔があった。
張り詰めていた心がゆっくり解けていく感触に、葵は「うん」と、ようやく微笑んだ。
食べ終えたお弁当を片付けながら、さっきの言葉が引っ掛かった。
「……ところで、『私絡みならなおさら』って、どういうこと?」
葵の問いに、二人はわずかに身体を硬直させた。
芽美が「余計なことを」と言いたげに細い目を向けると、真琴は「え? 私、そんなこと言ったっけ?」と、わざとらしく首を傾げた。
風が少しだけ強く吹いて、木漏れ日が大きく揺れた。
見上げた空の青が、少しだけ広がっていた。
