名前のない想いの果てに


 墓所を出て、通りに差し掛かる。
 辺りは暗くなり、雨はさっきよりも少しだけ強まっていた。
 ぽつりぽつりと並ぶ街灯が、心細げにその灯を道路に滲ませている。
 ドラッグストアの軒先に並ぶ透明なビニール傘が目に入った。

「ちょっと、傘買ってくるね」
 葵は傘を手に取り、 レジで手早く会計を済ませて外に出た。
 ぱちん、と傘を開く音が、静かな雨音に紛れる。
 隣へ目を向ける。「私は大丈夫よ」Qちゃんは肩をすくめた。
「濡れないもの」
「うん。……でも」
 分かっているのに、葵は無意識に傘を少し高く持ち上げ、その人のほうへ寄せてしまう。
 隣から、小さな笑いがこぼれた。
「優しいのね」
 葵は少しだけむっとする。
「そういうのじゃない」
 雨粒が一定のリズムで傘を打ち続ける。
 しばらく黙ったまま歩いた。 
 胸に重く沈んでいた想いの蓋を、葵はようやく、そっと開いた。

「……私ね」
 ぽつりと言葉を零す。
「助けたいって思ったの。……過去で傷付いた人のこと」
 隣の気配が、わずかに揺れた。
「そうね」
「けど、その度に他の人が傷付いてた。誰も傷付かないなんて都合のいいこと、許されなかったんだよね」
「他の人?」
「杉原くん」
「あぁ……」
 その光景を思い出したのか、Qちゃんの視線が遠くへ向いた。
 不意に、目の中へ雨粒が飛び込んだ。店先の照明がぼんやりと霞んで見える。
「……杉原くん、あの時、本当は酷いやけどしてたみたいなの。私をかばって」
 口にすると、喉のあたりがぎゅっと縮んだ。Qちゃんは特に驚いた様子もなく、淡々と頷く。
「でしょうね」
 その反応に、葵は思わず眉をひそめた。「知ってたの?」
「見てたもの」
「なんで教えてくれなかったの」
 少しだけ、責めるような声になる。Qちゃんは一瞬だけ葵を見て、それから静かに言った。
「言ったら何か変わった?」
「それは……」
「あなた、余計に自分を責めたでしょ」
 言葉に詰まる。実際、今こうして責任を感じているのは事実だ。
「でも、知りたかった」
「え?」
「杉原くんが負った傷、私は知りたかった。その痛みも、ちゃんと一緒に感じたかったよ」
 Qちゃんは一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
 けれどすぐ、「……そう」と静かに頷く。
 その声には、わずかな熱が混じっていた。
 一つ息を吐いてから、Qちゃんは言葉を継ぐ。
「でも、それなら尚更、本人から聞くほうがいいわ。分かち合うっていうのは、背負い込むのとは違うから」
「違う?」
「ええ。相手の痛みを知ることと、自分を責め続けることは別よ」
「……そうかも」
 葵が小さく呟くと、Qちゃんは少し迷ってから口を開いた。
「それに葵、自分が何もできなかったみたいな顔してるけど、そんなことないわよ」
「……?」
「衣装の件よ。あの子の顔、忘れたの?」
 その言葉に、真琴の泣き顔が脳裏に蘇る。

『ありがとう……』

 抱きついて小さく震えていた。
「あんたが誰かを助けたのは事実でしょ。結果だけで自分を責めないの」
 隣から届く、そっけない声。
 でも、その響きに隠された優しさと温もりを、知ってる。
 葵は泣きそうな顔を見られたくなくて、俯いた。
「Qちゃん……慰めてくれてる?」
 彼は一瞬こちらを見て、
「事実を言っただけよ」と、そっけなく言った。
 それ以上踏み込まないようにしているのが、声だけでわかる。
 でもそれが、今の葵にはありがたかった。

「……ありがとう」
 Qちゃんは返事をしなかった。
 ただ、何かを確かめるように、じっと葵を見つめる。
「……?」
 葵が不思議そうに首を傾げる。
 Qちゃんは我に返ったように目を伏せると、小さく笑った。
「今度はちゃんと、顔見て言ったわね」
「あ……」
 スマホに打ち込んだ『ありがとう』を思い出し、葵は少しだけ照れたように笑った。

 聞きたいことはたくさんある。
 あの日のことも。
 どうして戻ってきたのかも。
 けれど今は、それでよかった。
 こうして隣を歩いている。
 ただ、それだけで。
「Qちゃん。さっき言えなかったけど……おかえり」
 柔らかな笑顔。
 Qちゃんはその言葉を受け止めるように、静かに目を細めた。

 ふと、その視線が葵の肩に落ちる。
 傘からはみ出した部分が、雨で黒く濡れていた。

 長い腕が、葵の後ろから肩へそっと伸びる。
 守るような、引き寄せるような、ごく自然な動きだった。

 ほんの一瞬。
 その手は肩に触れる寸前で止まる。

 Qちゃんは静かに目を伏せた。

 指先が空をかすめる。
 そして結局、その手は静かに下ろされた。

 何事もなかったかのように。