名前のない想いの果てに


 昼休みの終わりを告げるチャイムが、まだ校舎のどこかで余韻を引いている。     
 杉原と教室まで一緒に戻ったはずなのに、気づけば葵は、職員室へ向かっていた。

 引き戸の前で、深く息を吸う。
 がらり、と扉を開けると、紙とインクの匂いが混ざった独特の匂いが流れ出てきた。
「失礼します」
 何人かの先生が顔を上げる。
「結崎?」
 担任が少し驚いたようにこちらを見た。葵は吸い寄せられるように机へ近付く。
「……先生」
 声が思ったより掠れていた。
「少し、体調が悪くて。今日は早退してもいいですか」
 一瞬、間があった。
「……保健室は?」
 葵は首を横に振った。
「行ってません。家で休みたいです」
「そうか」
 担任は少し考えるように眉を寄せたが、やがて頷いた。
「わかった。早退届、書いたら今日はもう帰れ。あとで家の人に連絡は入れとけよ」
 差し出された紙を受け取る。ペンを握る指先が、自分でも驚くほど冷たかった。
 名前とクラス、理由の欄には「体調不良」とだけ書き入れた。
「気をつけて帰れよ」
「……はい。失礼しました」

 職員室を出ると、廊下は静まり返っていた。
 葵は自分の教室の前で足を止め、重い扉をそっと引いた。
「……失礼します」
 既に授業は始まっており、入り口付近にいた数人の視線が集まる。壇上にいた教師が振り返った。
「どうした、結崎」
 葵は教卓の前まで歩き、淀みなく、けれど消え入りそうな声で告げる。
「担任の先生に許可をいただいて、早退します」
「体調不良か?」
「はい」
 短い沈黙。背中に刺さる視線の中に、ひとつだけ、熱を持った動かない視線があった。
「そうか。お大事に。気をつけて帰れ」
「……ありがとうございます」
 小さく頭を下げて、自分の席へ向かう。
 最低限のものだけを鞄に押し込み、ファスナーを閉めたとき、逃げ場のない視線をはっきりと感じた。
 杉原が、こちらを振り返っている。
 その眉はわずかに寄せられていた。
 体調を気遣っているのか、それとも別の理由に気付いているのか。
 まっすぐ向けられた視線に、葵は息を詰める。
 葵はその強い視線に耐えきれず、弾かれたように目を逸らした。
 鞄を肩に掛ける。
 誰とも目を合わせないまま教室を出ると、一気に階段を駆け下りた。

 校門を出た瞬間、胸の奥に押し込めていた空気が、ふっと緩む。
 見上げた空は、いつのまにか厚い雲に覆われていた。頬を打つ風が、少しだけ冷たい。
 このまま家へ帰ることなど、最初から考えていなかった。
 導かれるように、足は目的の場所へ向かっていた。

 夢の中で見た母の笑顔が脳裏をよぎる。
 誰にも見られない場所へ行きたかった。

 駅からの道は、いつもより少しだけ遠く感じた。
 辿り着いた先で足を止めると、風がひやりと頬を撫でる。
 小さな売店の窓口には、色とりどりの花束が並んでいた。
 迷うほどの種類はない。白と淡いピンクが混じった花束を選ぶ。
 花と線香を受け取ると、再び歩き出した。
 砂利道を踏む音だけが、静かに響く。

 母の名前が刻まれた墓石の前で立ち止まる。握っていた花束に、知らず力が入った。
 手桶の水で墓石を清め、買ってきた花を供える。
 線香に火をつけようとするが、風が邪魔をしてなかなか付かない。何度か試して、ようやく小さな炎が灯った。
 先端が赤くなり、細い煙が立ち上る。線香の香りが、雨を含み始めた空気に静かに溶けていった。
 ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。
 見上げると、空はすっかり灰色に沈んでいる。
 揺れる線香の煙を見つめながら、葵はそっと両手を合わせた。
 指先が、わずかに震えていた。
「……ねえ、お母さん」
 声が、少しだけ震える。

「私のこと、がんばりやさんだって、言ってくれたよね」

 雨がもう一粒、頬を叩いた。
 視線を落とすと、濡れた墓石に映る自分の顔は、どこか頼りなく歪んでいる。
「でも私、全然そんなことないんだよ。すぐ落ち込むし、弱虫だし……」
 指先が、ぎゅっと組み合わされる。
「……守られてばっかりで」

 脳裏に、いくつもの光景が浮かんでは消える。
『今日の数学。あんまりきれいな字じゃなくて悪いけど』
 そう言って貸してくれたノート。
 実行委員の仕事で戸惑うたび、さりげなく手を回してくれていたこと。
 家庭科室の鍵を持って駆けつけてくれたこと。
 衣装を直す時間を確保しようと奔走してくれていたこと。
 そして――隠された火傷。
 自分の知らないところでも、きっと。

「何も知らなくて……覚悟も、ない」
 言葉にした瞬間、何かがぽろりと零れ落ちた。
「……全然、がんばりやさんなんかじゃないよ」

 頬を流れる雫に重なるように、雨粒が次々と落ちてくる。

 煙が、ふっと真横に流れた。
 不意に、周囲の空気が凪ぐ。

「それは、違うわね」

 背後から、やわらかな声が落ちた。
 葵は、目を見開く。
 聞き覚えのある声。けれど、それはずっと求めていた母の声ではなかった。
 それなのに、雨音の中でも、はっきりと鼓動に届く響き。
「人のために泣いたり、怒ったり。自分のことをそっちのけで動ける人。そういう人のこと、がんばりやさんっていうのよ」

 心の奥底が、ひとつ大きく揺れた。  
 葵は、ゆっくりと振り返った。

 雨は降り続いているのに、その人だけは濡れていなかった。

 灰色の空の下、そこだけ光の粒子が舞っているのかのように、輪郭がやわらかく浮かび上がっている。

 少しだけ意地悪で、でも、どうしようもなく優しい目。

「……って、私がお母さんなら言うわね」
 その微笑みが、そこにあった。

「――Qちゃん」

 名前を呼んだ瞬間、視界が一気に滲んだ。
 涙なのか、雨なのか、もう区別もつかない。
 それでも、足は迷わなかった。砂利を踏みしめて、駆け寄る。

 もう一度会いたかった。
 ただ、それだけだった。

 触れられないと知っているのに、腕を伸ばした。
 感触はない。けれど、確かにそこにいる「熱」があった。

 空気を抱きしめるように、強く、強く、腕に力を込める。

 葵以外には見えない腕が、そっと彼女を包んだ。
 触れられない。それでも確かに、守るように。

「……ただいま」

 静かな声が、雨に溶ける。
 葵の肩が、また小さく、子供のように震えた。