昼休みの終わりを告げるチャイムが、まだ校舎のどこかで余韻を引いている。
杉原と教室まで一緒に戻ったはずなのに、気づけば葵は、職員室へ向かっていた。
「……先生」
担任の机の前で足を止める。
「少し体調が悪くて。今日は早退してもいいですか」
担任は一瞬だけ葵の顔を見つめ、静かに頷いた。
「わかった。気をつけて帰れよ」
「……はい」
教室へ戻ると、すでに授業は始まっていた。
早退の許可をもらったことを伝え、最低限の荷物だけを鞄へしまう。
教室を出ようとしたその時、杉原と目が合った。
心配そうに寄せられた眉に、胸が痛む。
葵は小さく目を逸らし、そのまま教室をあとにした。
校門を出た瞬間、胸の奥に押し込めていた空気が、ふっと緩む。
見上げた空は、いつのまにか厚い雲に覆われていた。頬を打つ風が、少しだけ冷たい。
このまま家へ帰ることなど、最初から考えていなかった。
導かれるように、足は目的の場所へ向かっていた。
夢の中で見た母の笑顔が脳裏をよぎる。
誰にも見られない場所へ行きたかった。
駅からの道は、いつもより少しだけ遠く感じた。
辿り着いた先で足を止めると、風がひやりと頬を撫でる。
小さな売店の窓口には、色とりどりの花束が並んでいた。
迷うほどの種類はない。白と淡いピンクが混じった花束を選ぶ。
花と線香を受け取ると、再び歩き出した。
砂利道を踏む音だけが、静かに響く。
母の名前が刻まれた墓石の前で立ち止まる。握っていた花束に、知らず力が入った。
手桶の水で墓石を清め、買ってきた花を供える。
線香に火をつけようとするが、風が邪魔をしてなかなか付かない。何度か試して、ようやく小さな炎が灯った。
先端が赤くなり、細い煙が立ち上る。線香の香りが、雨を含み始めた空気に静かに溶けていった。
ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。
見上げると、空はすっかり灰色に沈んでいる。
揺れる線香の煙を見つめながら、葵はそっと両手を合わせた。
指先が、わずかに震えていた。
「……ねえ、お母さん」
声が、少しだけ震える。
「私のこと、がんばりやさんだって、言ってくれたよね」
雨がもう一粒、頬を叩いた。
視線を落とすと、濡れた墓石に映る自分の顔は、どこか頼りなく歪んでいる。
「でも私、全然そんなことないんだよ。すぐ落ち込むし、弱虫だし……」
指先が、ぎゅっと組み合わされる。
「……守られてばっかりで」
脳裏に、いくつもの光景が浮かんでは消える。
『今日の数学。あんまりきれいな字じゃなくて悪いけど』
そう言って貸してくれたノート。
実行委員の仕事で戸惑うたび、さりげなく手を回してくれていたこと。
家庭科室の鍵を持って駆けつけてくれたこと。
衣装を直す時間を確保しようと奔走してくれていたこと。
そして――隠された火傷。
自分の知らないところでも、きっと。
「何も知らなくて……覚悟も、ない」
言葉にした瞬間、何かがぽろりと零れ落ちた。
「……全然、がんばりやさんなんかじゃないよ」
頬を流れる雫に重なるように、雨粒が次々と落ちてくる。
煙が、ふっと真横に流れた。
不意に、周囲の空気が凪ぐ。
「それは、違うわね」
背後から、やわらかな声が落ちた。
葵は、目を見開く。
聞き覚えのある声。けれど、それはずっと求めていた母の声ではなかった。
それなのに、雨音の中でも、はっきりと鼓動に届く響き。
「人のために泣いたり、怒ったり。自分のことをそっちのけで動ける人。そういう人のこと、がんばりやさんっていうのよ」
心の奥底が、ひとつ大きく揺れた。
葵は、ゆっくりと振り返った。
雨は降り続いているのに、その人だけは濡れていなかった。
灰色の空の下、そこだけ光の粒子が舞っているのかのように、輪郭がやわらかく浮かび上がっている。
少しだけ意地悪で、でも、どうしようもなく優しい目。
「……って、私がお母さんなら言うわね」
その微笑みが、そこにあった。
「――Qちゃん」
名前を呼んだ瞬間、視界が一気に滲んだ。
涙なのか、雨なのか、もう区別もつかない。
それでも、足は迷わなかった。砂利を踏みしめて、駆け寄る。
もう一度会いたかった。
ただ、それだけだった。
触れられないと知っているのに、腕を伸ばした。
感触はない。けれど、確かにそこにいる「熱」があった。
空気を抱きしめるように、強く、強く、腕に力を込める。
葵以外には見えない腕が、そっと彼女を包んだ。
触れられない。それでも、確かに守るように。
「……ただいま」
静かな声が、雨に溶ける。
葵の肩が、また小さく、子供のように震えた。

