「……理由?」
「あれ、中一の文化祭の時だったかな。彼、火傷したでしょ」
楽しい秘密でも打ち明けるかのように、彼女は言葉を重ねる。
「杉原くん、火傷した腕を見せてくれたんだけど……。本当は、それとは反対の腕のほうがずっと酷かったんだって。病院にも通ってたらしいよ」
周りの音が、すっと消えた。
感覚だけが、辛うじてその意味を理解しようとする。
彼女は声をさらに潜めた。
「しかもさ、それだけじゃないの。中二の文化祭の時も杉原くん、実行委員の仕事ほっぽって先生にも父親にもめちゃめちゃ怒られたらしいよ」
「お父さん、厳しいって噂だもんね。あれ以来、しばらく様子おかしかったよね」
「そうそう。顔色もずっと悪かったし。文化祭の日になると何かしら災難に遭うもんだから、誰かが『あいつ、文化祭の怨霊でも憑いてんじゃないか』って言ってたの。可哀想だけど笑っちゃったよね」
黙り込んだ葵を見て、一人がすべてを察したように細めた目で葵を射抜いた。
「あー……そっか」
勝ち誇ったような笑みが、その唇に浮かぶ。
「別に、結崎さんのせいじゃないもんね。でも杉原くん、結構損してるなって思っちゃって。……なんか、結崎さんの周りでばっかり、そういうことが起きてるから」
「ほら、杉原くんって言わないタイプじゃん。だから余計、見てて可哀想で……」
毒のような言葉が、葵の柔らかな部分に突き刺さる。
一人が、耳元に近付いてきて呟いた。
「案外、その『怨霊』、ほんとに杉原くんのそばにいたりして……ね」
声が一段、低くなる。
葵は凍り付いたように動けなかった。
膝の上の拳をただ見つめることしか出来ない。
「結崎」
少し離れたところから、空気を切り裂くような声がした。
葵が顔を上げると、そこには杉原が立っていた。少しだけ肩が上下し、額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「……杉原くん」
途端に、女子たちが気まずそうに立ち上がる。
「向こうで、結崎を見かけたって聞いたから。……探した」
杉原は、葵の瞳を一度だけ真っ直ぐに射抜くと、すぐに女子たちへ視線を転じた。
「……話、終わった?」
感情を削ぎ落とした、けれど拒絶の色を隠さない静かな声が響く。
女子の一人が顔を引きつらせ、取り繕うような笑みを浮かべた。
「うん、まあ。ちょうど終わったところ」
杉原は、笑わなかった。
「そう」
それだけ言うと、杉原は葵のほうへ向き直った。
「結崎。ちょっと」
踵を返した彼を追い、葵はお弁当を抱えて慌てて立ち上がる。
「……あ、じゃあ、私たちも行くね」という背後からの声は、もう耳に届かなかった。
校舎の裏手まで来たところで、杉原はようやく立ち止まった。
小さく息を吐き、呼吸を整える。
「……なんで、ここに?」
葵が思い切って声をかけると、杉原は一瞬だけ視線を泳がせた。
「教室にいなかったから」
それは、答えになっていなかった。
たしかに、いつもなら教室の端で一人、居心地の悪さに耐えながらお弁当を広げ、ただ時間が過ぎるのを待っていたはずだ。
——いや、本当にそうだっただろうか?
滲むように浮かび上がる記憶の輪郭が、どうしようもなく歪んで感じられる。
「……ごめん」
杉原がぽつりと呟いた。葵は驚いて、彼を見上げた。
「遅くなった」
杉原はそれだけ言うと、促すように歩き出した。
さっきよりもゆっくり。
葵はその言葉の意味もわからないまま、彼の背中を追った。
視線は、吸い寄せられるように彼の左腕へ向かう。
いつも手首まで下ろされている、ワイシャツの袖。
『ちゃんと冷やしてたから大丈夫。でも——』
あの鍋の落下事故のあと、養護教諭は、葵が保健室へ入った途端に言葉を切った。
――もしかしたら、
『そっちの腕は、一度病院で診てもらったほうがいい』
そんな言葉が続くはずだったのではないか。
彼はいつも長袖を着ている。
(……本当に、そうだっけ?)
半袖姿の杉原が脳裏をよぎる。
けれど、その記憶は霧のように掻き消えてしまった。
『中二の文化祭。杉原くん、あれからしばらく顔色悪かったよね』
さっきの言葉が、呼び水のように過去の記憶を引っ張り出す。
『どうした? 杉原。顔色悪いな』
クラスメイトの男子の声。
保健室に向かう、心許ない彼の背中。
その後二日間、彼は学校を休んだ。
「……杉原くん」
気付いたら、その名前を呼んでいた。
前を歩く杉原が足を止め、ゆっくりと振り返る。
「なに?」
火傷を隠した理由も。
学校を休んだ理由も。
息を切らせて、駆けつけてくれた理由も。
聞きたいことはたくさんあるのに、彼のまっすぐな瞳を見つめた瞬間、何も言えなくなってしまった。
「ううん。……ごめん、なんでもない」
杉原は葵の顔をしばらく見つめた。
それから、かすかに口元を緩めた。
「……それ、わりと何でもなくないやつだろ」
杉原の浮かべた苦笑に、胸がぎゅっと締め付けられた。
今はまだ、聞いてはいけない。
聞いてしまったらきっと、取り返しのつかないことになる——
そんな予感だけが、秋風の中に冷たく残っていた。
