どこからか、子供の泣き声が響いてくる。
葵は辺りを見回した。
歩道橋の階段下に、幼い男の子が一人、泣いていた。
見覚えのある景色だった。
――思い出した。
小学二年生の頃のことだ。
学校帰りだった。その子は、しゃくり上げながら何度も辺りを見回していた。
「どうしたの?」
葵がしゃがみ込んで声をかけると、男の子は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「ままが……いない……」
――迷子だ。
そう思った瞬間には、もう手を差し出していた。
「だいじょうぶだよ。交番に行こう」
男の子は不安そうな顔のまま、葵の手をぎゅっと握った。
歩き始めてすぐに、葵は後悔した。交番がどこにあるのか、知らなかったのだ。
それでも引き返すわけにはいかない気がした。
「もう少しだからね」
本当は分からない。けれど、男の子を不安にさせたくなかった。
知らない道を歩いた。何度も曲がり角を曲がった。
気付けば、自分がどこにいるのかも分からなくなっていた。
心細かった。泣きたかった。
けれど、隣の小さな手はずっと葵を頼りに握っている。だから泣けなかった。
「だいじょうぶだよ」
何度もそう言った。男の子のためなのか、自分のためなのかは分からなかった。
空が赤く染まり始めた頃だった。
「あっ……」
角を曲がった先に、交番が見えた。葵は男の子の手を引いて駆け出した。
事情を聞いた警察官は驚いた顔をしたあと、すぐに保護者への連絡を始めた。
ようやく終わった。そう思った瞬間。
「葵!」
聞き慣れた声が響いた。振り返ると、母が駆け寄ってくる。
その顔を見た途端、それまで必死に堪えていたものが一気に溢れ出した。
「……おかあさぁん……!」
葵は母にしがみついた。涙が止まらなかった。
怖かった。心細かった。それでも、男の子を一人にしてはいけない気がして、ずっと我慢していた。
母はそんな葵の頭を優しく撫でた。
『葵は、がんばりやさんなのね』
慈しむような声だった。
『でもね、頑張りすぎなくていいのよ』
抱きしめられた温もりに包まれながら、葵は声を上げて泣き続けた。
はっと目を開く。
その言葉だけが、不思議と耳に残っていた。
中庭には少し秋めいた風が吹き抜けていた。
寒いかとも思ったが日当たりはよく、ベンチでお昼を食べるにはちょうど良い気候だった。
葵はお弁当を隣に置き、ポケットから薄い封筒を取り出した。
二年前の演劇部の集合写真だ。
今朝、引き出しを開けた瞬間に目に留まり、何となく気になって持ってきたのだった。
封筒から滑り出た写真の中には、楽しそうに笑顔を向けている自分と芽美がいた。
(――あれ?)
葵の視線が、一点で止まる。
葵の隣、芽美の反対側に、真琴がいた。
位置が、変わっている。
(……久遠先輩は?)
変わらなかった。
彼は以前見たときと同じ場所で、穏やかな笑顔を浮かべていた。
ほっと息を吐く。久遠の姿をそっと指先で撫でると、不思議と胸のざわつきが薄れていった。
葵はそっと写真を封筒に戻した。そして、お弁当を膝に乗せた。
——その時だった。
「ねぇ」
不意に落ちた影に、葵は顔を上げた。
クラスの女子生徒が二人、目の前で見下ろすように立っていた。
杉原によく話しかけている子たちだ。
「ここ、いい?」
答える前に、彼女たちは葵を挟むようにして腰を下ろした。
葵はお弁当を解く手を止めた。
「結崎さんってさ。杉原くんと仲いいよね、最近」
探るような、粘りつくような口調。答えを期待しているわけではない問いかけに、葵は何と返せばいいのか躊躇った。
「昨日も、一緒に帰ってたじゃない? もしかして、付き合ってたりするの?」
「そ、そんなんじゃない!」
葵は慌てて否定した。
シュークリームをご馳走してくれたり、プリントをなくしたことに気付いていてくれたり。
そうした彼の優しさが踏みにじられるようで、喉の奥がひやりと冷えた。
「杉原くんは、きっと、面倒見がいいんだと思います……。昨日は、私が落ち込んでたから……」
言いかけた言葉は、彼女たちの笑い声にかき消された。
「そうかな? 私、杉原くんが誰かにそんなに優しくしてるとこ、見たことないんだけど」
「私も。意外な一面だよね」
二人は可笑しそうに顔を見合わせる。
「あー、でもさ。それなら、アレも知ってるかな」
一人が意味深な目を葵に向けながら、もったいぶって続けた。
「杉原くんが、ずっと長袖を着てる理由」
葵の視線が、ぴたりと止まった。
