名前のない想いの果てに


 「九十二点?」

 父の声は低かった。

 机の上に置かれたテスト用紙には、赤字で刻まれたその数字が、まるで消えない汚れのように居座っている。
「あとの八点は、どこへ捨ててきたんだ」
 杉原は、ただ黙って立っていた。

 中学に入って最初の定期試験。
 周囲が新しい生活に浮き足立つ中、彼だけは見えない重圧を背負わされていた。
「理由は自分でも分かってるだろう。結局、努力が足りないんだ」
 父の吐く言葉に、また心が冷えていく。

 父の目に映るのは、九十二点ではない。百点に届かなかった事実だけだった。

 空き時間があれば机に向かうのは、昔からの習慣だった。
 けれど、そんなものは努力なんて呼べるものではないと、杉原は自分を律していた。

 やるのが当然だった。
 やらなければ結果は出ない。
 そして、結果を出しても、それが父の求めるものでなければ意味がない。
 そう教え込まれてきた。

 それから少し経った頃だ。

「杉原」
 教師に名前を呼ばれ、杉原は席を立った。
 黒板の前へ歩み、淀みなく問題を解くと、教師が「正解だ」と満足げに頷いた。
「よっ、模範解答」
 後ろの席から飛んだ声に、何人かが吹き出した。

 杉原はそれには何も応えず、席に戻る。
 昔から、こうした称賛混じりの疎外感には慣れていた。

 次に当てられた生徒は初っ端から答えに詰まり、大げさに頭を抱えた。
 教室に笑いが広がり、教師もつられて苦笑する。
「少しは杉原を見習えよ」
「いやいや……だってあいつ、入学式で答辞読んでたじゃん。学年首席なんでしょ? ここの出来が違いますから。ここの」
 彼が自分の頭を指さし、再び笑いが広がる。
 教師はさらに言葉を重ねた。
「まあ、そうかもな。杉原が一時間勉強するなら、お前は十時間はやらないと——」
 
「あ、あの……!」

 小さな声が、そこに割り込んだ。
 真っ直ぐに通る声だった。
 教室中の視線が、一斉にその声の主へ向く。
 杉原も、ノートに落としていた目を思わず上げた。

 斜め後ろの席で、一人の女子が立ち上がっていた。
 すぐには、名前が思い出せなかった。

「……そ、そういう言い方、よくないと思います」
 教室が、水を打ったように静まり返る。
「杉原くんだって……たくさん、努力してると思います」

 声は震えていた。
 それでも、その言葉だけは揺らがなかった。

「いやだからさ、努力は努力でも、杉原とは……」
『出来が違う』と言い放った男子が、なおも何か言い返そうとすると、それを遮るように彼女は杉原のノートを勢いよく取り上げた。

 杉原が止める間もなかった。

「見てください。こんなびっしり……一時間や二時間で書ける量じゃないです。少なくとも私には、絶対無理です」

 掲げられたノートには、余白を埋め尽くすほどの計算式と、何度も消しては書き直した無数の跡。
 それは杉原が「涼しい顔」の裏に隠し続けてきた、泥臭い戦いの記録そのものだった。
 杉原は、自分の心臓が耳元で跳ねるのを聞いた。

「杉原くんは『出来る人』なんじゃなくて、『出来るようになった人』なんだと思います。だから、そんな風に都合よく解釈するの、ずるいと思います……」

 その声は次第に尻すぼみになり、気まずい空気が教室を支配した。
 彼女ははっと我に返ると、ノートを閉じて杉原に差し出した。
「ご、ごめんなさい……勝手に」

 杉原はしばらく彼女を見つめた。
 やがて差し出されたノートを受け取る。
 指先が、いつの間にか熱くなっていた。

 教室のあちこちから、戸惑ったような視線が向けられていた。

「守られちゃったな、杉」
 隣の席の男子がニヤニヤと茶化してくる。
 杉原はその男をじろりと睨んだ。

 その後、教師がどう場を収めたかは記憶にない。
 
 どうでもよかった。
 ――彼女の言葉以外は。

 彼女は俯いたまま、膝の上で手を握りしめている。
 指先が、まだかすかに震えていた。
 杉原はその様子を見ていた。
 不意に視線が合いそうになり、目を逸らす。

 努力なんて、人に見せるものではない。
 やって当然、やらなければ無価値。そう律してきたはずだった。――けれど。

(いったい誰が、いつ、認めてくれるんだ?)

 そんな叫びを、心の奥底に押し込めていたことさえ忘れていたのに。

(……なんで、君が)

 張り詰めていた何かが、音を立てて緩んだ。

 見つけられた。
 暴かれた。

 ――救われた。

 杉原はノートの続きを書くふりをして、どうしようもなく急き立てられる胸の熱さを、必死に押さえ込んでいた。

 目を覚ましたのは、自室の机だった。
 いつの間にかうたた寝していたらしい。
 手元には、ノートが開いたままになっている。
 そこに並んだ箇条書きを見て、杉原は小さく息を吐いた。

 結崎メモ:

・目覚めた直後、保健室で西暦を確認
・続けて「久遠紡」の安否を確認
・現在に戻ったことを確かめていた可能性あり

 ――結崎 葵。

 中学一年のあの日からずっと、自分は彼女に見つけられたままだ。
 

 雨上がりの澄んだ空気の中、葵は交差点で信号が変わるのを待っていた。
 まだ登校する生徒はまばらで、街路樹の隙間から差し込む光がアスファルトに白い模様を作っている。
 葵はポケットからスマホを取り出し、画面を点灯させた。

「……ねぇ。このまま忘れちゃってもいいの?」

 返事がないことは分かっていたが、少しだけ拗ねた声を付け加えずにはいられなかった。

「『私のことはどうでもいいわけ?』なんて言ってたくせに」

 かつて、あの銀色の瞳が投げかけてきた言葉の断片。
 けれど、それを投げかける相手はもう、隣を歩く友人ではない。
 手のひらの中にある冷たい端末だ。

 短い沈黙のあと、スピーカーから聞き慣れた音声が流れた。
 けれど、そこにあったのは感情の揺らぎを失った、平坦な響きだけだった。

『過去の会話や感情の記録があったとしても、現在の選択を優先することは自然なことです。例えば、昨日の晩ごはんの内容を忘れても、今日の朝食をおいしく食べる権利は守られています』

「……え、晩ごはん?」
 返ってきた的外れな答えに、思わず目を瞬かせる。

『無理に思い続ける必要はありません。現在の栄養摂取に集中してください』
「ふふっ……なにそれ。私は栄養の話をしてるんじゃないんだけど」
 葵は思わず、小さく吹き出した。

 期待した答えではなかったものの、それは寂しさを紛らわせるには充分だった。
 信号が青に変わる。
 葵はスマホをポケットにしまうと、少しだけ軽い足取りで、横断歩道を渡り始めた。
 
 昇降口は、窓から差し込む光で白く染まっていた。
 何気ない仕草で自分の靴箱へ手をかける。

 ――カサッ。

 乾いた音がして、葵は動きを止めた。
 中を覗き込むと、そこには飲み終えて潰された紙パックのジュースが押し込まれていた。

(……え?)

 見間違いかと思い、顔を近付けた。
 ストローの隙間から漏れた数滴の飲み残しが、靴箱の底で乾きかけのベタついた輪を作っている。

 一瞬、思考が停止した。

 取り出そうと手を伸ばすが、紙パックの角は無理やり押し込まれたせいで無残にひしゃげている。
 それはどう見ても、明確な悪意を持ってそこに「捨てられたもの」だった。

(うそ……なんで)

 鼓動が早まる。
 周囲を見渡すと、近くにいた女子数人が、目が合う前にさっと視線を逸らした。

(……何かの間違い、だよね)
 紙パックを引き抜き、靴を履き替える。
 
 手に握ったパックの感触から、冷たい水泡のような違和感が脳裏に広がる。
 
 いつ、誰に向けられたものだったのかも判然としない。
 けれど、それを裏付けるような『記憶』が棘のように脳裏へ流れ込んできた。

 敵意のある視線。
 本に落書きがされていたり、シューズが片方だけなくなっていたり。

 正面から何かを言われたことはない。
 けれど、そうした悪意は確かに存在していた。
 中学二年の文化祭が終わったあたりから、少しずつ空気が変わっていった。

 ――そんな記憶だ。

 葵は怖くなり、気付かないうちに早足になっていた。

 教室に入ると、さざ波のような話し声が一瞬だけ止まった。
 それから、何事もなかったかのように控えめに再開する。
 隅から漏れ聞こえる忍び笑い。
 こちらを窺うような視線が、時折、肌を刺す。
 葵は自分の席につくと、机の引き出しに手を伸ばした。

(……あれ?)

 探している感触が返ってこない。
 もう一度、引き出しの奥を覗き込む。
 空っぽの暗がりに、冷たく突き放されたような感覚に陥る。

​(ない……どうして?)

 今日の授業で提出するはずの、英語の課題プリント。
 昨日の放課後、折れないようにクリアファイルへ挟んで、机の中に入れたはずだった。
 指先が、しらじらと冷たくなっていく。

 もう一度、引き出しの中を探る。教科書の下も、ノートの隙間も。
 けれど、何度確かめても見つからない。
 どこかへ紛れ込んだのだろうか。
 昨日、自分が入れた場所を思い返す。けれど答えは出ない。
 周囲から聞こえる笑い声が、妙に耳についた。
(……大丈夫。きっと、どこかにある)
 そう言い聞かせながらも、胸の奥では嫌な予感がゆっくりと広がっていた。

 放課後を告げるチャイムが鳴る。
 途端に机が寄せられ、段ボールや黒い布が運び込まれていく。
 教室は文化祭準備の熱気に包まれていた。

「希望ある人は先に言ってくれ」
 教壇の前に立った杉原が、進行役として声を上げた。
 大道具、受付、音響、照明。次々に手が挙がり、黒板の担当欄が埋まっていく。
 葵はその様子を見ながら、輪に入るタイミングを完全に逃していた。
 何か役割を持たなければと思うのに、声を出すきっかけが見つからない。

「おばけ役、まだ空いてるけど……誰かいないか?」
 
 焦燥感に背中を押されるようにして、葵は反射的に手を上げた。
「結崎、お化け役な。助かる」
 杉原はそれだけ言って黒板に名前を書き込んだ。

 その後、葵はお札や壁飾り作りに取り掛かった。
 作業中、ふと顔を上げると、近くの女子たちの視線が一瞬だけこちらへ向き、すぐに逸れる。
 何か含みのある視線に、胸がざわついた。
 その様子を見ていたのか、杉原が教室へ声を張る。

「悪い、入口側あと二人頼む」

 瞬間、生徒が動き出し、空気が変わる。
 先ほどまで感じていた視線は、いつの間にか散っていた。

「それ、いい感じだな」
 葵の作成している小道具を見て、杉原が声をかける。
 葵は振り向いて、かすかに微笑んだ。

 派手な役割ではないけれど、自分がちゃんとクラスの一部でいられる気がした。
 そのささやかな実感が、折れそうだった心を静かに支えてくれていた。

 準備時間が終わり、解散の合図が出た。
 葵は手早く片付けを済ませると、足早に教室を後にした。
 日暮れ前のオレンジ色に染まる廊下を歩き出した時だった。

「結崎」

 背後から声をかけられ、振り向く。
 そこには、通学鞄を片肩にかけた杉原が立っていた。
 ついさっきまで教室の中心で指示を出していたはずなのに、今は驚くほど静かな表情をしている。
「帰る?」
「うん」
「……じゃあ、行くか」
「え?」
 聞き間違いかと思い、葵は思わず聞き返した。
「一緒に?」
「ああ」
 杉原の表情に迷いはない。
 まるで、いつもの延長線上にある、当たり前すぎる日常であるかのような言い方だった。
 その時――。

 ふわりと新しい記憶が寄り添ってきた。

(……そういえば)

 最近、こうして彼と一緒に帰ることが増えた。
 その日に学校であった些細な出来事をぽつりぽつりと話しながら、ただ並んで歩くだけの、静かな時間。

 彼と並んで歩く夕暮れの景色。
 他愛もない会話。
 別れ際に交わした「また明日」の一言。
 そんな記憶が、当たり前のもののように頭の中へ流れ込んでくる。

 けれど、本当にそうだっただろうか。

 杉原はもっと遠い存在だった気がする。

(……こんなに近かったっけ?)
 
 違和感の輪郭が、夕闇に溶けるようにぼやけていく。

 髪を揺らす風は、わずかに秋の気配を纏い始めていた。

 
 商店街に差し掛かったあたりで、杉原がふと尋ねた。
「結崎。甘いの、好き?」
 脈絡のない質問に、葵は一瞬戸惑う。
「……うん、好きだけど」
 小さく頷くと、杉原は「ちょっと待ってて」とだけ言い残して、近くのコンビニへ入っていった。

 一人残された時間が、妙に静かに感じる。

 ガラス越しに見える店内の人の動きや、自動ドアが開くたびに聞こえてくる来店ベル。
 ぼんやりと眺めているうちに、杉原が戻ってきた。
 その手には、小さなレジ袋が握られている。
「行こう」
 それ以上は何も言わず、杉原は歩き出した。

 二人で川沿いの小道へ回る。
 風が吹き抜け、水面が揺れるたびに反射する光がほどけていった。
 並んで土手に腰を下ろす。
 杉原はレジ袋を開くと、中からシュークリームを取り出して葵へ差し出した。
「はい」
「え、いいの?」
「甘いの好きなんだろ」
 その声はどこまでもさりげない。
 手のひらに収まるシュークリームは、まだ少しひんやりとしていた。
 一口かじると、クリームの柔らかな甘さがじんわりと舌に広がる。

(Qちゃんがいたら、「太るわよ」って言うだろうな……)
 
 呆れたように眉をひそめる銀色の顔が浮かび、葵は小さく笑った。

「今日もバタバタだったな。準備」
 杉原がふと切り出した。
「大道具のほうは、だいぶ形になってきたよ。入口のトンネルとか、あと壁の板とか。昨日も居残って作ってたんだ」
「大変そう……」
「うん。でも、こういうのやってると実感わいてくるよな」
「そうだね」
「結崎はおばけ役だよな」
「うん」
 葵は苦笑いを浮かべる。
「でも、私……おばけ屋敷、本当は苦手なの」
 杉原は少しだけ口元を緩めた。
「やっぱり」
「え?」
「店決めの時、顔に出てた」
「うそ……」
「むしろ、なんで立候補したんだ」
 葵は困ったように笑う。
「だって……仕事、あんまり残ってなかったし。少しでも役に立てるならと思って」
「そういうものか」
「うん……でも、これで少し慣れたら、苦手を克服できるかもしれないし」
 小さく息を漏らし、杉原は遠くの川面へ視線を向けた。
「それで立候補するのは、なかなか思い切りがいいな」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「なにそれ」
 葵が思わず吹き出すと、彼もつられたように少しだけ口元を緩めた。
「もし当日怖かったら、裏通路に逃げ込めばいいよ」
「え?」
「大道具の特権で、非常口作っとく」
 冗談めかした口調に、葵は声を出して笑った。

 食べ終えたシュークリームの甘さが、冷え始めた体の中に、静かに広がっていくような気がした。

 しばらく、川面を眺める静かな時間が続いた。
 杉原は手の中の空き袋を弄びながら、何かを考えるように視線を落とす。
 やがて小さく息を吐き、

「……一つ、聞いてもいいか」

 ぽつりと、そう言った。
 少しだけ躊躇いを滲ませた声に、葵はきょとんと彼を見返す。
「随分昔の話なんだけど」
 ずっと聞けずにいた問いだった。
「あの時、なんで庇ってくれたんだ?」
「え?」
「中一の時。授業中に、俺のことで言い合いになっただろ」
 葵はしばらく視線を泳がせていたが、やがて「ああ」と小さく声を漏らした。
「あれは、別に庇ったわけじゃないよ」
「……?」
 杉原の眉がわずかに動く。
「うち、父子家庭なんだけどね」
 葵は、どこか照れたように笑った。
​「お母さんがいなくなってから、しばらくずっと頑張らなきゃって思ってたの。お父さんに心配かけたくなくて。勉強も、家のことも、ちゃんとやらなきゃって」
 少し視線を落とし、苦笑する。
「でも、思うようにはいかなくて」
 そう言って、小さく肩をすくめた。
「だから、学年首席の杉原くんが、どれほど勉強してるんだろうって、気になってたの。覚えてないと思うけど、私、杉原くんより後ろの席だったから……」
「……覚えてる」
 間髪入れない返事に、葵は思わず顔を上げた。
「え?」
「斜め後ろの席だったろ」
 さらりと答える杉原に、葵は驚きを隠せなかった。
 四年も前の席順だ。
 葵の視線を受け、杉原は居心地悪そうに眉を寄せた。
「あれだけのことがあったんだから覚えてるだろ、普通」
 そう言ったきり、杉原は口を閉ざした。
 聞きたかったのはそんなことじゃない。
「……それで?」
「杉原くんのノート、いつも真っ黒だったから。ああ、本当に努力してる人なんだなって。ずっと尊敬してたの」
 葵はそこで、照れ隠しのように小さく笑った。
「それを、汚されたくなかっただけ」

 杉原は俯いたまま、黙って聞いていた。
 やがて長く息を吐く。
「……それ、すごいこと言ってるって自覚ある?」
「え?」
 杉原は視線を逸らし、「いや」と小さく首を振った。
「なんでもない」
 そう言って、彼は一度だけ葵を見た。それから、ふっと口角を上げる。
「聞けてよかった」

 それは今まで葵が見たことのない、氷が溶けるような、やわらかな笑顔だった。

「そうだ」
 杉原は何かを思い出したように鞄を開いた。クリアファイルの間から、一枚の紙を引き抜く。
「これ」
 差し出されたものを見て、葵は目を見開いた。
 右上には、自分の名前が書かれている。失くしたはずの英語のプリントだった。
「これ……」
「拾った」
 杉原は固まったままの葵をちらりと見ると、簡潔に答えた。
「探してたんだけど、見つからなくて……。明日、先生にもう一枚もらおうと思ってたの」
「そうか」
 短く頷いたあと、杉原は続けた。
「その前に見つかってよかったな」
 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

(——なんで分かったの?)

 そう聞こうとした瞬間、不意に視界が潤んで、声にならなかった。
 ​そんな葵の様子を見て、杉原は少しの間、言葉を探すように黙った。
「見てればわかるだろ」

 どこまでもぶっきらぼうな、彼らしい言い方だった。
 葵は視線を落とし、溢れそうになるものを必死に堪えて、かろうじて一言だけを絞り出した。
​「……ありがとう」
​ 杉原はわずかに視線を逸らした。
「礼を言われるようなことじゃない」
 そう言って立ち上がる。
「……帰るか」

 ​夕暮れの風が、川面を揺らして吹き抜けていく。
 手渡されたプリントの重みが、今の葵には、何よりも心強かった。

 シュークリームの甘い余韻と、彼のさりげない優しさ。

 葵はそれを胸の奥にそっとしまい込み、一歩前を歩く彼の背中を追って、ゆっくりと歩き出した。