名前のない想いの果てに


 白い天井が、ぼやけた視界の向こうに浮かび上がる。
 遠くで響く誰かの笑い声と、校内放送のテスト音。

「……起きた?」

 穏やかな声がした。
 視界の隅で、白いカーテンの向こうから養護教諭が顔を覗かせる。
 しばらくして、自分が保健室のベッドの上にいるのだとわかった。
「体育館で倒れてたのよ。いろいろ、無理したんじゃない?」
 先生が心配そうに覗き込む。
「運が良かったわ。近くにいた生徒がすぐ知らせてくれてね」
「……そうなんですか」
「ええ。今日はもう無理しちゃダメよ」
「……はい」

 時計の針は、過去へ飛ぶ直前よりも、少し進んでいた。
 窓の外は、まだ明るい。
 打ち上げの時間なら、とっくに夕暮れが校舎を包んでいるはずだった。

 戻ってきたのだと、確信だけが静かに落ちる。
 けれど、安堵はどこにもなかった。

 本当に、終わってしまったのだろうか。
 控え室で見た横顔も。
 あの部室で交わした言葉も。
 
 すべてが遠ざかっていく。

 葵は気付かないうちに、布団を握りしめていた。
 
 ――コンコン。

 保健室の扉をノックする音。
「お友達かしら」
 先生は小さく笑った。
「無理はしないこと。私は向こうにいるからね」
 そう言って席を外すのと入れ違いに、誰かが入ってくる気配がした。

「……葵、入るよ」
 カーテンの仕切りの向こうから、聞き慣れた声がした。
 入ってきたのは、真琴と芽美だった。
「大丈夫?」
 真琴が少し遠慮がちに覗き込む。
 部活の合間に駆けつけたのだろう。二人ともTシャツにジャージ姿だった。
「……うん、大丈夫」
 葵は小さく声を掛けながら、ゆっくりと上半身を起こした。
 二人は傍にあった丸椅子をベッドに寄せ、そこに腰掛ける。
「はー、もう、葵が倒れたって聞いて寿命縮まったよ」
「……ごめん」
「真琴なんて、話聞いた瞬間、保健室行こうとしてたもんね」
 芽美がくすりと笑う。
「そりゃ行くでしょ」
「まだ先生の話、終わってなかったのにね」
 二人の、いつも通りの軽いやり取り。
 けれど、その温かさに触れれば触れるほど、葵の喉の奥には場違いな言葉がせり上がってくる。
 少しの躊躇いのあと、葵は意を決してそれを口にした。
「……ねぇ。変なこと聞いてもいい?」
「ん? なに?」
「今年って……西暦何年だっけ」
「え?」
 葵の突拍子もない質問に、二人は顔を見合わせた。
 すぐに真琴が吹き出す。
「なに、タイムリープごっこ?二〇二五年だよ」

 ――やっぱり。

 分かっていたはずなのに、心がわずかに沈む。

「……葵?」
 心配そうに顔を覗き込む芽美に、葵は力なく首を振った。
「うん。ごめん、ちょっと寝ぼけてた……」
 笑おうとしたけれど、それは乾いた吐息にしかならなかった。
「あと、もう一つだけ。聞いていい?」
「いいよ。タイムリープだろうが四次元ポケットだろうが、もう驚かないから」
 真琴が冗談めかして促す。
 葵は深く息を吸い込み、その名前を呼んだ。

「……久遠先輩」

「え?」
「どうしてるかな、今」
 その名前を出した瞬間、二人は一瞬言葉を失った。
 どう答えるべきか迷うような、残酷なほど長い沈黙。
 それだけで、答えは充分だった。

「……ごめん。やっぱり何でもない」

 声が詰まり、代わりに深く息を吐き出した。

「……葵」
 真琴が、戸惑ったような声で呟く。
「誰も、詳しい話はわかんないんだよ。今度、先生に聞いて、家に電話してみるとか……」
「ううん。……いいの」
 葵は小さく首を振った。
 それ以上言葉を続けることができなかった。
 
 その時、扉を叩く音が控えめに響いた。

 杉原だった。
 静かに扉を開けると、葵を見つめた。何かを確かめるような、静かな眼差し。
 芽美はそっと立ち上がると、杉原に歩み寄り、何かを小さく伝えた。
 彼は黙ってそれを聞いていた。
 首を横に振る芽美に視線を戻し、目を伏せる。
 それから、静かに扉を閉めた。
 遠ざかっていく足音が、冷え切った廊下に、虚しく響いた。
 ふと、葵は自分の掌へ視線を落とした。

 そこには、もう何もない。
 あの時、肌を削るようにして刻みつけたはずの黒い文字は、跡形もなく消え去っていた。

 白く滑らかな皮膚が、何事もなかったかのようにそこにあるだけだ。

 けれど、忘れたわけじゃない。
 あの時、みんなが守ろうとしたものも。交わした言葉も。

 ――代わりに犠牲になったものも。
 
「顔色も戻ったみたいね」
 戻ってきた養護教諭が、葵の顔を覗き込む。
「無理は禁物だけど、一人で歩けそう?」
「はい」
「それなら今日はもう帰りなさい。気分が悪くなったらすぐ連絡するのよ」
「はい。ありがとうございました」
 葵たちは養護教諭にお礼を言うと、保健室をあとにした。

 靴箱まで来ても、葵の足は帰る方向へ向かなかった。
「ごめん。……ちょっと、寄りたいところがあるの」
 真琴と芽美は顔を見合わせる。
「え、一人で?」
「うん」
 葵が頷くと、芽美は何か言いかけて口を閉じた。
「……無理しないでね」
「うん。わかってる」
 頑なな葵の様子に、二人はそれ以上は強く止めなかった。
「それじゃ、また明日ね」
 そう告げると、葵は二人と別れた。

 吸い寄せられるように向かったのは、演劇部の部室だった。

 ガチャリ。

 扉を開けた先は、しんと静まり返っていた。
 さっきまであれほど人がいて、笑いが転がっていたとは思えない静寂。

 テーブルに散らばった紙コップ。
 たこ焼きの焼ける匂い。部員たちの笑い声。

(私、先輩の隣に座ってた……)

 遅れて、胸がきしんだ。

 肩に微かに触れた、彼のシャツ。
 すぐ傍から聞こえた、穏やかな声。
 全てがもう、ここにはない。

 部室の奥へ視線を向ける。
 そこには、文化祭の片付けを待つ備品や小道具が雑然と並んでいた。
 ふと棚の隅に、見覚えのある鈍い光が目に入った。

 ゆっくりと歩み寄り、手に取る。

 ――置いていかれた。

 りんごを見つめた、その時。
 ふと、その表面に描かれた線が目に留まった。

 小さな丸い顔。少しだけ困ったような口元。

『葵ちゃんに似てる』

 優しく笑った久遠の声が、鮮やかに蘇った。

「……っ」

 目頭が熱くなった瞬間、涙が溢れ出した。

『じゃあ、始めるよ』
 本番前の、凛とした横顔。
『少し、見に行く?』
 少しだけのぞかせた、悪戯な表情。
 腕をつかんだ時の、心配気な眼差し。
 隣で見せてくれた、穏やかな笑顔。

 涙が次々と零れ落ち、銀色の表面を濡らしていく。
 葵はりんごを胸にぎゅっと抱き締めた。
 けれど、りんごは冷たい光を放ったまま、何も返さない。


「……先輩?」

 控えめな声に顔を上げると、後輩の河野が入口で気まずそうに立っていた。
 葵ははっとして涙を拭う。

「あ……ごめんね。勝手に入って」

 慌ててりんごを元の場所に戻そうとして手元が揺れ、指から滑り落ちた。
 河野の視線が、そこに落ちる。
「あ……それ」
 河野はすべてを察したように、りんごを拾い上げ、葵へ向けてそっと差し出した。

「……よかったら、持っていってください」
「え?」
「顧問が、そろそろ処分しようかって言っていたので」

 ――処分。

 その言葉が、胸に静かに落ちる。
 少しだけ息を整えて、葵は言葉を絞り出した。
「……いいの?」
「はい。捨てるのも、もったいない気がして。……それに、葵先輩が持っていたほうがいい気がしたので」
 不思議そうに見つめる葵に、河野は微笑んだ。
「それじゃ、行きますね」と言い残し、部室をあとにした。


 再び、静寂が訪れた。
 けれど、それは先ほどよりも孤独ではなかった。

「……連れていく」
 小さく呟き、もう一度りんごを胸に抱きしめた。

「よかったわね」

 背後から、聞き慣れた声がした。振り返らなくても分かる。
「……Qちゃん」

 そう呟いて、葵はゆっくりと振り返った。

 彼は何も言わなかった。
 ただ、何かを諦めたような、どこか遠い眼差しを葵に向けていた。

 葵はりんごを抱きしめたまま、静かに目を伏せた。
 胸に残る温かな余韻を、もう少しだけ味わっていたかった。
 
 部室には静かな時間だけが流れていく。

 ふと顔を上げた時には、もう誰の姿もなかった。


 校門を抜けると、空は燃えるような茜色から、しっとりと深い群青へと溶け始めていた。
 アスファルトに長く引きずられる自分の影を見つめながら、一歩、また一歩と、重い足取りで坂を下りていく。

 すれ違う生徒たちの弾んだ笑い声は、どこか遠いよその国の言葉のように響いた。

 葵は、抱えた鞄をきゅっと胸に引き寄せた。

「……ねえ」

 ふと足を止め、誰にともなく小さく呟いてみる。
 けれど、返ってくるのは湿った夕風が寂しげに吹き抜ける音だけ。

 鞄からスマホを取り出し、画面をそっと起動した。
「Qちゃん、出てきてよ」

 祈るような沈黙が流れる。
 やがてスピーカーから零れたのは、どこまでも平坦で、透き通った合成音声だった。

『はい。本日はどのようなご用件でしょうか?』

 そこには、あの悪戯そうな銀色の瞳も、気だるげに紡がれる言葉の揺らぎも、何ひとつ残っていなかった。
 それはただ、あらかじめ決められたプログラムが淡々と応答しているだけ。

「……なんでもない」

 消え入りそうな声で囁くと、そっと画面を閉じた。

 微かに残ったあの指先の感触を確かめるように、頬に触れる。

 ほんの少しだけ足を止めてから、葵はまた歩き出した。