名前のない想いの果てに


 「かんぱーい!」
 部室に歓声が響く。
「いやー、校長先生にはびっくりしたよね」 「絶対怒られると思った人ー?」 「はい!」
 あちこちから手が上がり、どっと笑いが起こった。

 部室での打ち上げは、弾けるような笑い声と熱気に満ちていた。
 机にはスナック菓子とペットボトルが山のように広げられている。
 誰かが持ち込んだたこ焼きプレートの前では、真琴が器用にピックを操っていた。
「ほら見て、完璧じゃない?」
 そこへ、遊びに来ていた日高が口を挟んだ。
「さっき焦がしたけどな」
「それはノーカウント!練習よ、練習」
 二人の軽いやり取りに、芽美がくすりと笑う。
 
 葵は壁にもたれ、その賑わいを遠巻きに眺めていた。
 安堵とともに押し寄せてきた疲労のせいで、意識が少しだけふわふわと浮いている。

「……あ」

 ふと、ジャージのポケットに固い感触を覚えた。
 葵は立ち上がり、近くにいた久遠に声をかける。
「先輩。これ」
 昨夜のうちに直しておいたブローチを差し出す。
 久遠は少しだけ目を見開いたあと、
「ありがとう。早いね」と、柔らかく目を細めた。
 その時だった。
「結崎、ソース取ってくれる?」
 たこ焼きプレートの向こう側から声が飛んできた。
「あ、はい!」
 言われた方向へ足を向けた、その瞬間。
 つま先が足元のコードに引っかかった。

(あっ……!)

 体がぐらりと傾いた。
 次の瞬間、上腕を強く掴まれる。
「危ない」
 ぐいと引き戻され、どうにか踏みとどまった。
 顔を上げると、久遠が心配そうにこちらを見ていた。

「大丈夫?」
「は、はい……」

 至近距離で覗き込まれ、葵はそれ以上の言葉を失ったまま小さく頷く。

 久遠の指先が力を緩め、ゆっくりと離れていった。

 つかまれた上腕が、やけに熱い。
 その様子を見ていた部員たちが、すかさず声を上げる。
「あれ、今の映画みたいだったんだけど?」
「部長、ロマンスですか?」
 顔に血が上り、葵は慌てて俯いた。
 その隣で一瞬だけ、久遠の視線が揺れる。

「いや、近くにいただけ」

 短く答えて、久遠は手近にあったソースを部員に渡した。
 その返答を聞いた真琴と芽美が、堪えきれずに顔を歪ませる。
「なんだ真琴、その顔」
 日高が怪訝そうに眉をひそめる。
「なんであたし単品!?」
 真琴は不満げに声を張り上げた。
 部室には再び大きな笑いが広がった。

 葵は小さく息を吐き、そっと顔を上げた。
 不意に、久遠と視線が重なる。
 久遠が先に目を逸らした。
「……コード、片付けよう」
 彼は手際よく配線を直し、邪魔にならない場所へと繋ぎ直す。
 するとそばにいた部員が久遠に話しかけ、そのまま楽しそうなやりとりが始まった。

 葵はたこ焼きプレートに近付き、たこ焼きが取り分けられた皿を一つ手に取った。
 そのまま傍の椅子に座る。
 割り箸を手に取り、一つつまもうとしたところで、
「あ」
 久遠が、葵の手元を見て小さく声を上げた。
「熱いから、気をつけて」
「えっ、あ……はい」
 彼はそのまま、葵の隣にそっと腰を下ろした。
 その距離に、胸が小さく跳ねる。

 ほんの少し肩を動かせば触れてしまいそうな距離だった。

 控え室での会話も。
 舞台袖で見た花火も。
 転びそうになって支えてくれたのも。

 そして今、こうして隣に座っていることも。

 ――全て、葵が知っている文化祭にはなかった時間だ。

 その事実が、どうしようもなく胸を震わせた。

「わっ!」
 近くで小さな悲鳴が上がった。
 見ると、一年生の部員が手を押さえている。
「油が跳ねただけです」
 河野が苦笑しながら駆け寄った。
「だから気を付けてって言ったのに」
 その様子を見ていた葵は、ふと目を瞬かせる。

『あの時、結崎先輩、口にやけどしてましたよね』

 不意に、河野の言葉が脳裏によみがえった。
 ――そういえば。
 今日は、やけどなんてしていない。
 思わず隣を見た。
 久遠は、棚に置かれていた銀色のりんごを手に取り、手元でくるりと回した。
 裏側の小さな傷を見つけたのか、ふっと微かな笑みをこぼす。
 それから近くにあった鉛筆を手に取ると、りんごの表面に何かを描き足し始めた。
 葵が横から覗き込むと、久遠はりんごを少しだけこちらへ傾けて見せる。
 もともとあった傷と、彼が書き足した線が重なり、一つの「表情」が生まれていた。

「ほら。葵ちゃんに似てる」
「え?」
「ちょっと困った顔」
 久遠は悪戯っぽく、それでいて柔らかく笑った。
「そ、そんな可愛くないです、私」
「え? そうかな」
 久遠はりんごを葵の顔の横に並べ、じっと見比べた。
 そして何かに納得したように、ふいっと視線を外して笑った。
「……先輩」
 葵が何か言い返そうとした、その時だった。

「あ、それ、新歓のときの石像のりんごじゃん」
「まだあったんだ!」
 賑やかな声とともに、部員たちの視線がりんごに集まった。
「懐かしいな。久遠さんの石像、怖いくらい動かなかったもん」
「アンケートにも書かれてたよね。『劇の内容より石像が気になった』って」
「ほんと、やりすぎですよ部長!」
 わっと笑いが弾ける。

 久遠は困ったように微笑み、手の中のりんごを愛おしむように指先でなぞった。
「……出るからにはちゃんとやらないと、観てくれる人に失礼だと思ったんだよ」
 照れ隠しのような、小さな、けれど芯のある笑み。
 その横顔を見つめながら、葵は自分の鼓動が早まるのを感じていた。

 その真面目さも、誰かのために手を抜けないところも。
 四年前から、何ひとつ変わっていない。

『葵ちゃんって、縁の下の力持ちだよね』

 彼に言われたあの言葉が、遅れて胸に響く。
 
 鉛筆の粉で少し汚れた彼の指先が、視界の端に映った。
 石像のように冷たい銀色ではない。
 体温を宿した、確かな人間の手。
 その「生」の気配が、葵の胸を締め付ける。

(――本当に?)

 その瞬間、呪文のような言葉が、冷水となって脳裏に染み出した。

『久遠先輩、亡くなったって……』

 根拠のない噂。
 けれど、一度耳にしてしまった不吉な予感。
 目の前で穏やかに笑うこの人の体温と、その残酷な言葉が、どうしても重ならない。

「……葵ちゃん?」

 久遠が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」

 その声を聞いた瞬間――
 目の前の存在がたまらなく愛おしくて、怖くなった。

 失ってしまうかもしれない。
 そんな考えが、脳裏を掠める。

 触れたい。ここにいると確かめたい。
 葵の中で、ただ焦りだけが膨らんでいく。

 切迫した葵の表情に、久遠の眉がわずかに寄った。
 葵は吸い寄せられるように、彼のほうへ、わずかに手を伸ばした。
 指先が届きそうになる。
 触れれば、確かめられる気がした。
 ――その時。

 ――キィン…ッ
 鼓膜の奥で、心臓の鼓動とは別のノイズが走った。

「……っ!」

 古いテレビの砂嵐のような、無機質で冷たい音。
 部室の賑やかな笑い声が急に遠のき、薄皮一枚隔てた向こう側の出来事のようになっていく。

 さぁっと血の気が引くのがわかった。

(戻される?……いや。まだ、だめ……!)
 
 久遠が何かを言っている。
 心配そうにこちらを見つめるその顔から、目が離せない。

 もう少しだけ、彼のそばにいたい。
 もっと、彼の声を聞いていたい。

 今、連れ戻されても――この人を取り戻すことはできない。

 膨れ上がる想いが、視界を白くにじませていく。
 何度瞬きをしても、久遠の輪郭は曖昧なまま、うまく結べない。

 ざわめきが、水の底から聞こえてくるようにぼやけていく。

 誰かが、自分の名前を呼んでいる気がした。
 けれど、それが誰の声なのかさえもう判別できない。
 
 ただ、目の前にいる彼だけが、ゆっくりと光の中に溶けていく。

(行かないで……!)

 視界の端で、銀色のりんごがふっと滲んだ。

 意識が、音もなく、深い闇へと落ちていく。

 最後に残っていたのは、名前を呼ぶ久遠の声。
 掴まれた腕の感触だけが、まだ消えずに残っていた。

 葵はその温もりを必死に抱きしめたまま、底のない深い眠りへと、沈んでいった。


 ……遠い。

 ざわめきが、ひどく遠い記憶のように薄れていく。
 目の前に、深い闇が口を開けていた。

 光を飲み込み、音を沈め、触れたものすべてをどこかへ連れていってしまいそうな、底の見えない黒。
 なのに、その奥だけが、ぼんやりとやわらかく明るい。

 光の中に、誰かが立っていた。
 逆光で顔は見えない。
 白い輪郭だけが、淡く浮かんでいる。
 その人影が、ゆっくりと手を上げた。

 ――おいで。

 声は聞こえない。
 それなのに、胸の奥が大きく揺れた。

 あの立ち姿を、知っている。
 風に揺れる髪。細い肩の線。
 小さいころ、何度も見上げた背中。

 懐かしさが、胸いっぱいに広がった。
 会いたい。
 足が、吸い寄せられるように前へ踏み出しかけた――その瞬間。

 手首に、確かな力が食い込んだ。
 ぐっと掴まれ、強引に引き戻される。

「——ちょっと」

 視界の端に、銀色の人影が揺らいだ。
 曖昧だった光景がゆっくりと輪郭を取り戻す。
 伏せられた睫毛。まっすぐこちらを見つめる瞳。
 その奥には、いつになく微かな焦りが滲んでいた。
「そっちに行くと、いろいろ面倒なのよ」

 声は軽いのに、目は少しも笑っていなかった。

「勝手に行かないで」

 手首を掴んでいた力が、解けるようにゆっくりと緩む。
 そのまま、大きな掌が近付いたかと思うと、そっと頬に触れた。

(……触れてる?)

 驚きで目を見開いた葵を、彼は逃がさないように見つめ返した。
 葵は、そっとその手に自分の手を重ねた。
 大きくて、ひんやりと冷たい。

 銀色の目が、ゆっくりと細められた。
 嬉しそうで、けれど少しだけ、困ったような顔。

 彼は何かを言いかけて、言葉に詰まったように唇を微かに震わせた。
 指先に込められた、わずかな強さ。
 それは、決して痛くはないのに、葵の胸を締め付けた。

「……まだ、早いわ」
 やわらかい、けれど揺るぎない拒絶。
 彼は葵の手を、指先から一本ずつ、丁寧にほどいていく。
 触れていた確かな冷たさが、ゆっくりと離れていった。
「あなたがこっちを選ぶには、まだ理由が足りない」

 彼は向こう側でぼんやり輝く白い光へと、視線を送る。
 出口のように、静かに差している光。
 ほんの少しだけ、彼は笑った。
 その笑みは、いつもの不敵さよりもずっと淡い。

 離れた指が、名残惜しむように空を切る。
 銀色の瞳が、最後にまっすぐ葵を射抜いた。
「全部終わってからでいい。だから……」

 その言葉は、声というより、心の奥に直接すっと落ちてきた。
 彼の指先が、迷いなく葵の肩をそっと押す。

「戻りなさい」

 その手が離れた瞬間、二人の距離が急激に広がった。
 モノクロだった世界に色彩が戻り、止まっていた音が奔流のように流れ込む。

 最後に見えたのは、光の中に佇み、穏やかな微笑みを浮かべた銀色だった。