名前のない想いの果てに


 周りでは、興奮冷めやらぬ部員たちが声をかけ合っていた。
「最後、鳥肌立った!」「音、ぴったりだったね!」
 互いに肩を叩き合い、笑い合う。
 ようやく深い息を吐き出した時、やり遂げたという実感がじわじわと全身に広がっていった。
 その時だった。

「……あ」

 誰かが小さく声を漏らした。
 客席の端から、校長先生がこちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。
 保護者や生徒からの挨拶に応えながらも、その厳しい表情はほとんど動かない。
「でたな、闇堕ちカーネル……」
「ばか、しっ!」
 部員たちは弾かれたように道を空けた。
 校長は声が届く距離まで来ると、一人ひとりの顔を見渡した。
「みんな、お疲れさま」
 低く野太い声。
 部員の背筋が伸びる。
「『押すかも知れない』と聞いて一時はどうなることかと思いましたが……。本番直前まで色々あったようですね」
 ふと訪れた沈黙に、空気が張り詰める。
 が、次の瞬間――

「とても、よかったですよ。今年も、期待通りでした」

 そう言って、校長はくしゃりと目尻を下げた。
 それから改めて部員たちを見渡すと、そのまま背を向けた。

「……へ?」

 しばらくして誰かが、間の抜けた声を出した。
 一瞬の静寂。
 そして次の瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「え、聞いた?いま、聞いた?」
「よかったって。……言った?」
 信じられないというように顔を見合わせて――
 弾けるような笑いが、爆発した。
 部員たちの歓喜に呼応するように、周囲からも温かい拍手が起こる。
 葵はその輪の中で、少しだけ遅れて、笑った。

「……よかった」

 独り言が、拍手の中に溶ける。
 三年の時を経て、葵はようやくこの瞬間に、自分の心が追いついた気がした。

 何気なく視線を遠くに投げる。その先に、Qちゃんの姿を見つけた。
 葵はほとんど反射的に駆け寄っていた。
「Qちゃん!」
 Qちゃんは振り向いてわずかに目を見開いた。
「どうだった?」
 息を弾ませて尋ねると、彼は小さく肩をすくめた。
「良かったわよ。劇そのものもだけど、ちゃんと裏を回せる人がいたから、安心して楽しめる舞台になってた」
「ほんと?」
「ええ」
 やわらかく頷いた後、Qちゃんは数秒、葵をじっと見つめた。
 何かを確かめるような視線。
 けれど、その唇がわずかに動いたかと思うと、結局何も言わずに閉じられる。
 代わりに、彼は少しだけ悪戯っぽく口元を緩めた。
「それで? 先輩とはどうだったのよ」
「えっ……?」
 頭の中が真っ白になる。
 次の瞬間、頬がみるみる熱くなっていくのがわかった。
 Qちゃんは「ほおん?」と面白そうに目を細め、わずかに距離を縮めてくる。
「あら、真っ赤。面白いわね。何があったのか、詳しく教えてもらおうかしら?」
「べ、別に……何も……」
 否定すればするほど、顔に血が上る。
 Qちゃんはその様子を愉しげに眺めていたが、やがてふっと、憑き物が落ちたように体を離した。
 さっきまでの冷やかしとは違う、柔らかな表情で微笑む。
「……さっきの葵、ちょっと格好よかったわよ」
「え?」
 思いがけない言葉に、葵は息を呑んだ。
「裏方のこと?」
「それもあるけど」
 Qちゃんは小さく笑って、言葉を継いだ。
「衣装直しに躍起になってたとこ。正直、あんなに迷いなく動ける子だとは思わなかったわ」
「そ、そんなの大げさだよ……」
 照れくさくて視線を逸らすと、Qちゃんが下から顔を覗き込んできた。
「また赤くなってる。ほんと分かりやすいわね、あなたは」
 体育館のざわめきが、少しずつ日常の温度に戻っていく。
 その中で葵は、今まで味わったことのない、静かで温かい気持ちに包まれていた。
「……あ」
 ふと、あることを思い出し、足を止める。
「どうしたの?」
「杉原くんに、お礼言ってない」
「ああ」
 Qちゃんは納得したように頷いた。
「律儀ねぇ」
「だって、助けてもらったし」
 Qちゃんは肩をすくめる。
 体育館を出ると、文化祭の喧騒が校舎中に広がっていた。
 人の流れを縫うように廊下を進みながら、葵は周囲を見回した。
 背後ではQちゃんが何も言わず、守護霊のように淡々と付いてくる。

 しばらく行くと、準備室の前で不自然に立ち止まる二人の男子生徒が目に入った。
 彼らは窓の隙間に身を寄せ、ひそひそと中を覗き込んでいる。
「マジで呼び出されてるじゃん」
「やばくね? 杉原の奴、何したんだよ」

(……『杉原』?)

 ぎくりと足を止めた。
 嫌な予感を押し殺しながら、そっと室内を窺う。
 そこには、冷徹な表情の教師と向き合って立つ、杉原の背中があった。
 咄嗟にその場へしゃがみ込み、冷たい準備室の壁に耳を貼り付ける。
「ちょっと、葵……」
 嗜めようとするQちゃんに、葵は唇に人差し指を立てて「静かに」と鋭く合図する。
 Qちゃんは小さく溜息をつくと、諦めたように彼女の隣に腰を下ろした。
 壁を隔てた向こう側から、教師の硬い声が漏れてくる。
「……持ち場を離れたな。どういうつもりだ。実行委員という立場でありながら、自覚が足りないんじゃないのか」
 それは、逃げ場のない正論だった。
「……すみませんでした」
 杉原の声は、どこまでも静かだった。
 教師の叱責は、それで終わらなかった。
 壁越しに続く硬い声を聞きながら、葵は唇を強く噛み締める。
 反論も、事情の説明さえもしない。その潔すぎる響きが、かえって葵の胸を鋭く抉る。
 彼がなぜそこに立たされているのか、葵は誰よりも知っていた。

(――私の、せいだ)

 罪悪感が鉛のように沈んでいく。
 葵は壁から離れ、廊下の隅で息を潜めた。

 しばらくして、扉が開く乾いた音が響いた。
 杉原が姿を現した瞬間、部屋に張り付いていた男子二人はびくっと肩を揺らす。
「あ、用事思い出した」「じゃあな」
 逃げるように角の向こうへ消えていった。

 杉原は葵の姿に気付くと、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
 けれどすぐ、いつもの凪いだ表情に戻る。
 葵は絞り出すように、小さく頭を下げた。

「……ごめんなさい」

 制御しきれない声が、微かに震える。
 杉原は、一瞬きょとんとしてから、困ったように柔らかく笑った。
「なんで結崎が謝るんだよ」
 軽く肩をすくめるその仕草さえ、残酷なほどいつも通りだった。

「怒られたの、私のせいだよね……杉原くんのこと、全然考えてあげられなかった……だから」
「いや、目の前で困ってる人がいたら、そっち優先するだろ。普通」
 杉原の声は、気負いも棘もない。けれどそれが逆に、葵の心を静かに抉った。
「俺は大丈夫だよ。怒られるのも当然のことだし。それに――」
 杉原は一度言葉を止め、少しだけ迷うように視線を泳がせてから、再び口を開いた。
「結崎があれだけ必死になってたんだから、きっと、よっぽどのことだったんだろ。……それだけだよ」

 声はどこまでも穏やかだった。その視線に問いかけはない。
 ただ、葵を安心させるような静かな強さだけがあった。

 葵はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 足元ではQちゃんがしゃがみこんだまま、二人のやり取りを静かに見守っていた。

 杉原は最後に葵を労うような視線を一度だけ寄越すと、「じゃあ、また」と言い残し、振り返ることなく廊下の向こうへ歩いていった。
 その背中を見送った、その時だった。

(杉原くんは、もともと――こうなる運命だった)

 ふっと、脳裏でそんな声がした。
 真琴の衣装を修復する間、杉原は万が一に備えて見届けてくれた。
 結果、彼は持ち場を離れ、その責任を問われた。
 最善の策を判断したのは、彼自身。
 都合のいい納得が、思考を埋め尽くそうとする。

「――違う」

 乾いた否定が、葵の唇からこぼれた。
 本来の歴史では、真琴は別の衣装を代用して舞台に上がったはずだ。
 そこに杉原の介入する余地などなかった。
 何も関わらなかったはずの杉原が、自分のわがままのせいで犠牲になったのだ。

(――だめ。変えさせない……!)

 記憶が、世界の修正力に塗り潰されていく予感に襲われる。
 葵は震える手でポケットを探った。
 衣装の応急処置に使った油性ペンが、まだそこに残っている。
 なりふり構わず、自分の掌へペン先を叩きつける。

『2022 杉原くんは怒られるはずじゃなかった』

 震える手で殴り書いた。
 肌を削るようにペン先を走らせた。
 その文字が、すうっと網膜の奥へ染み込んでいく。
 消えかけていた真実を、必死に繋ぎ止めるように。

「……葵?」

 足元でしゃがみ込んでいたQちゃんが、訝しげに眉をひそめた。
 葵はペンを握りしめたまま、荒い呼吸をねじ伏せるようにぎゅっと目を閉じた。

 掌の感触が、じりじりと熱い。
 変わりゆく世界の中で、その文字だけが、葵をこの場所に留めていた。