誰かの悪戯か、冗談かも知れない。
真っ先に考えたのはそれだった。
しかし、それさえ予想していたかのように、Qちゃんは可笑しそうに笑う。
「疑ってるみたいね。何だったら昨日のログ、教えてあげられるわよ?」
彼は記憶を遡るように、視線を巡らせる。
「『22:48 それ、そんなに悪いこと?』『22∶50 初回だもの。うまく出来なくて正解。葵はただ、そこにいただけで充分よ』」
葵は弾かれたようにスマホの画面を点灯させた。文字の並び、送信時間……恐ろしいことに、一分一秒の狂いもなく一致している。
――あり得ない。
「あ、でも、どうしてここにいるのとか、そういう話は言いっこなしね。あんたが困ってるみたいだったから出てきた。……まぁ、それだけよ」
「出てきた、って……」
その瞬間、不意に寒さに身震いした。
「……っ、くしゅん!」
反射的に腕をさすった指先が、覚えのない質感に止まった。袖の長さも厚みも、違う。
着ているのは先ほどまでの半袖ではなかった。厚手の長袖ブラウス。もちろん、着替えた覚えなどない。
「なに、これ……」
「十月下旬だもの。さすがに衣替えは終わってる時期よ」
混乱する指先で、もう一度スマホを点ける。そこには、見慣れない数字が並んでいた。
「……十月二十九、日……」
二ヶ月弱も、先の日付。しかもその上にある「年号」を見た瞬間、葵の呼吸が止まった。
「……令和、三年?」
四年前。葵がこの学校の中等部に入学した年だ。そして——久遠に出会った年。
『いいわよ、連れてってあげる』
先ほどの声が脳裏に蘇る。……そう、あれはQちゃんの声だった。
(……どこに連れてくって?)
色んな疑問が一度に湧いてきて、何から考えれば良いのかわからない。
何より――ふと、現実的な問題が胸の中に湧き上がった。
このままここにいたら、朝まで持たないのではないだろうか。
明日、誰かに開けてもらうまでこの寒さを凌げる自信などない。
万が一のことになって、ニュースにでもなったりしたら……背筋に冷たいものが走る。
葵は、目の前でしゃがんだままのQちゃんの顔を見つめた。
「ん?」
彼はこの状況がわかっているのかいないのか、相変わらず余裕の笑みを浮かべている。
けれど、それがあまりにいつも通りで、自分の弱さを受け止めてくれる温かさを感じたから。
葵の肩から、次第に張り詰めていた緊張が溶け落ちていった。
「……どうしよう。私たち、閉じ込められちゃった……」
思いがけず、情けない声が零れ落ちた。
Qちゃんはわずかに目を見開くと立ち上がり、体育館を見回した。
それから、入り口の扉へ意味深な視線を投げる。
「……ふうん。なるほど、緊急事態ってわけね。まあ、付いてきなさいよ」
何か超常的な力で扉を開けるのだろうか。葵が身構えた次の瞬間。
Qちゃんは入口の扉の前まで歩いていき、ドン、ドン、と扉を叩く――ような仕草をした。
拳は扉をすり抜け、音一つしない。――まるで、そこに「存在していない」かのように。
彼はさらに、外に向かって声を張り上げた。
「すみませーん! 誰かいませんか! 美少女が閉じ込められてまーす!」
その声は、館内の空気を震わせることなく闇に吸い込まれていく。頭に直接響いてくるような、奇妙な感覚。
「……っ、ちょっと、誰が美少女……!」
顔を赤くする葵を無視して、彼は片眉を上げた。「ほら、外出たいんでしょ。大きい声出すの、人間の基本よ」
促されるまま、葵は仕方なく勇気を振り絞った。
「す、すみません!誰かいませんか!」
自分の声が、今度は確かに体育館の壁を震わせた。
その直後、パタパタと小走りの足音が響き、カチャリと鍵が開いた。
扉の向こうに現れたのは、とっくに卒業したはずの、演劇部の先輩たちだった。
「……え、高坂、先輩……?」
「結崎さん……!? なんで中に……。ここ、外鍵閉まってたよね?」
先輩は手に持った鍵の束を握りしめたまま、信じられないものを見るように葵を凝視している。
懐かしい顔、そして聞き慣れた声。あまりの生々しさに、お互い幽霊でも見るように立ち尽くした。
不意に耳元で、「状況はよくわからないけど」とQちゃんが囁く。
「正直に言ったら?『開いてたから入ったんです。そしたら閉じ込められちゃって』って」
「え、あ、えっと……」
そうだ、何もやましいことなどない。葵がその通りに伝えると、先輩たちは納得したように頷いた。
「あー、警備員さん、うっかり閉めちゃったんだね。怖かったでしょ。もしかして結崎さん、明日の準備で早めに来たの?」
「……え? 準備……」
「うん? 文化祭の。めちゃめちゃ気合い入ってるじゃん」
「……」
スマホの日付が、嫌な予感とともに脳裏をよぎる。
十月二十九日。
日にち自体に心当たりはなくても、毎年十月最後の土曜日は、この学校の文化祭が開かれる日だ。
明日が文化祭当日というのは、恐らく事実なのだろう。
そして、令和三年――目の前に先輩がいることが、じわじわと現実味を帯びてくる。
困惑する葵の背後で、Qちゃんが囁くように続けた。
「『バレちゃいました?』って誤魔化して」
必死で言葉を探す葵は、彼の言葉が妥当かどうか考える余裕もなくなぞる。
「……バ、バレちゃいました?」
先輩たちは一瞬きょとんとして、それから一斉に吹き出した。
「バレバレだよー!」
「えらいね、結崎さん! さすが期待の新人!」
笑いながら、先輩たちは当たり前のような顔をして体育館の奥へと入っていく。
(……私、普段、こんなこと絶対言わないのに、――もう!)
葵は隣を睨んだ。しかし彼は何食わぬ顔で、彼女たちを素通りしていく。
(……誰も、見てない?)
あんなに目立つ風貌の彼が、誰の視界にも入っていない。
それとも――あまりに奇異な雰囲気なので、敢えて誰も触れなかっただけなのだろうか。
葵は言いようのない焦燥感に駆られ、Qちゃんの背中を追って校舎のほうへ駆け出した。
外はすっかり日が暮れ、校舎内は蛍光灯が灯っていた。
先ほどまでの熱気が嘘のように消え、乾燥した秋の空気に変わっている。
ふと、廊下の壁に貼られた大きな掲示板が葵の目に飛び込んできた。
そこには、色鮮やかな模造紙に踊る文字。
『第42回 翠嵐祭――明日開幕!』
その下には、たしかに「令和三年十月三十日(土)」と記されていた。
「納得した? ちょうどいい時期に来たでしょ、私たち」
Qちゃんが、隣で満足そうに目を細めた。
「……なんで、四年前なの?」
「ん? ああ、一度戻ったら、次は翌年にしか行けないのよ。跳躍の反動で、そのあたりの時間は一年分くらい『波紋』が収まらなくなるから。
滞在できるのもほんの束の間。夜が明けて、日が沈むまで持てばいいほうね。だから念のため、あんたの『会いたい人』との記憶の中で、一番古い年月へ飛んだの」
飄々と説明するQちゃんの姿を、葵は廊下の姿見越しに見ようとした。
そこに映っていたのは、今よりずっと頬にあどけなさが残る、十ニ歳の自分。胸元には、中学の学年カラーである『青いライン』の校章が付いていた。
そして――
鏡の中に、隣に立っているはずのQちゃんの姿は、どこにもなかった。
そこには、ただ無機質な廊下の壁が映っているだけだ。
「そんなことより、いつまでここにいるつもり? あんたの心にわだかまってるもの……さっきの場所に残ってるんでしょ?」
Qちゃんは、今来たばかりの道を顎でしゃくって示した。
その仕草ひとつで、葵の迷いはすっと消えた。
(そうだ……もしこれが本当に、四年前なら。あそこには、まだ――)
電池の切れかけた人形が、余力で動くように葵の足はふらりと動いた。そして、少しずつ確実に歩みを速めていく。
「葵?」
彼の声を置き去りにして、葵は体育館へと駆け出した。
