名前のない想いの果てに


 劇は、滞りなく進んでいた。
 薄暗い控え室の片隅で、置き型ランプが静かに灯っている。
 メイク直しと衣装替えの慌ただしさがようやく去り、残されたのは、久遠と葵だけだった。
 壁のモニターからは、舞台の熱気が絶え間なく伝わってくる。
 それでも、この小さな控え室だけは別の時間が流れているようだった。
 葵はそこに映る舞台の熱狂を、夢を見るように見つめていた。

「……葵ちゃんって」
 不意に呼びかけられ、弾かれたように顔を上げる。
 久遠が静かに袖口のボタンを整えながら、まっすぐに葵を見ていた。
「縁の下の力持ちだよね」
 思いがけない言葉に、葵は目を瞬かせた。
「気付けばいつも助けられてる。すごいパワーだなって思うよ」
 ランプの柔らかな光に溶けそうな、穏やかな笑顔。
 けれど、その奥にある視線はどこまでも実直だった。
「覚えてる? 去年の、新入生歓迎会の劇」
「あ……はい。もちろんです」

(――覚えてる、なんて言葉じゃ足りないくらい)

 あの日、あの瞬間。
 微動だにしない石像役の彼の姿に、魂ごと持っていかれたのだ。
「客席に、すごく真剣な目で見てる子がいて……印象に残ってたんだ」
 久遠は何気ない思い出話をするように、遠くへ視線を投げる。
「そう、なんですか……」
 自分以外にも、そんなに熱心に彼のことを見ていた子がいたのだ。
 けれど――。
 ふと気づくと、久遠の視線はいつの間にか、葵の瞳を捉えていた。
「……え?」

 鼓動が不意に大きく跳ねる。
 その視線は、まるで答え合わせをするようだった。

 葵が立ち尽くす中、久遠はくすっと肩を揺らした。
「その子、なぜか仮入部には来てくれなかったけど」
 その瞬間、葵の身体がわずかに跳ねた。

 他人事じゃない。
 ――自分だ。

 あの日、仮入部の申込書を握りしめたまま、扉を開けることができなかった自分の姿が脳裏をよぎる。
 久遠はそれ以上踏み込まず、けれど視線だけは逸らさずに言った。
「だから……今、『その子』がここにいるのが、すごく納得できるよ」
 
「先輩……」
 
 自分が彼を見つけたように、
 彼も自分を見つけてくれていた。
 久遠の温かい眼差しに、心が震える。

 もし今なら。
 彼が抱えているものに、少しだけ触れられるかもしれない。

 衝動が指先まで駆け抜ける。

「どうしたの?」
 久遠の瞳に心配そうな光が宿る。
 葵は開きかけた唇を、ぎゅっと噛み締めた。


(だめだ、……怖い)


 もし、この人が自らの意思で消えることを選んだのだとしたら。
 その理由の重さを、今の自分が受け止めきれるだろうか。

 葵は祈るように首を振った。
「……なんでもないです」

 絞り出したその声に、久遠はわずかな沈黙を置いてから、すべてを包み込むように「うん」と微笑んだ。

 モニターの中では、鮮やかな花火が夜空を彩っている。
 舞台背景のスクリーンいっぱいに広がる花火は、咲いては跡形もなく消えていく。
 その小さな画面越しに映る美しさに、葵は思わず息を呑んだ。

「……少し、見に行く?」

 傍らで様子を見つめていた久遠が、不意に声を落とす。
「舞台袖、今ならあいてると思うから」
 悪戯を共有する子供のような、秘密めいた響き。
 葵は跳ねる鼓動を感じながら、小さく頷いた。

 控え室を一歩出ると、濃密な暗闇が視界を遮った。
 ふと久遠が足を止めて、振り返る。
「暗いから」
 小声でそう言って、彼は静かに手を差し出した。
 すらりと長い指が、迷いなくこちらへ伸びている。
 葵は一瞬だけ躊躇し、吸い寄せられるようにその掌へ自分の手を重ねた。

 指先が触れた瞬間、胸の奥が甘く爆ぜる。

 久遠は小さく微笑むと、そのまま優しく、けれど確かにその手を握りしめた。

 暗い通路を進む足取りは、どこか現実味を欠いてふわふわと浮いている。
 ただ、繋いだ掌から伝わってくる体温だけが、確かな現実だった。
 舞台の音楽が、地響きのように近くで響き始めた。
 機材の隙間に辿り着くと、久遠はゆっくりと手を離した。
 逃げていくぬくもりに、葵の指先がかすかに震える。

 その時、映像の花火がひときわ大きく弾け、袖の暗がりを青白く照らした。
 隣に立つ久遠の体温が、ふと葵の腕に触れる。
 重なる音楽。観客の息遣い。

 少しの沈黙の後、久遠が小さく呟いた。
「……俺、打ち上げ花火って、見たことないんだよね」
 不意にこぼれた言葉が、熱を帯びた空気の中に静かに溶けていく。
 その瞬間、胸の奥で何かがほどける音がした。
 葵は、久遠の横顔をじっと見つめた。

 視線に気付いた久遠がこちらを向き、困ったように、けれど柔らかく口元をわずかに歪ませた。

(——見せてあげたい)

 純粋にそう願ってしまった。
 それがどれほど絶望的な望みか、分かっているのに。

 喉の奥からせり上がってくる熱いものを、葵は必死に押し留めた。
 
 ――これはもう、逃げ場のない感情だ。
 そう、はっきりと突き付けられた気がした。

 舞台の上では、最後の一輪が夜空を埋め尽くすように大きく開く。
 葵は何も返せずに、ただその光を見つめることしかできなかった。

 ——助けたい。

 その願いはもう、「使命感」なんて言葉だけでは説明できなかった。


 幕が下りても、体育館にはまだ拍手の名残みたいなざわめきが漂っていた。
「ぶるー!」
 勢いよく真琴が抱きついてくる。葵は不意を突かれてよろけ、小さく苦笑した。
「ちょ、ちょっと、真琴……」
 言いかけて、言葉が止まる。腕の中の真琴が、微かに震えていた。
「……ありがとう」
 消え入りそうな呟きが届く。
 その後ろでは芽美が嬉しそうにその様子を眺めていた。
 宥めるように真琴の背中を軽く叩きながら、葵は視線を上げた。
 照明の焦げたような熱、どこか夢から醒めきらないような空気。
 その余韻の中に、久遠の姿が浮かび上がる。

 暗い廊下で差し出された、大きな手。
 重なった掌のぬくもり。
 花火の光に照らされた穏やかな表情。

 ざわめきと熱が渦巻く館内で、葵の胸が、ぎゅっと引き絞られるように痛んだ。

 目が合うと、芽美は「どうしたの?」と小首をかしげる。
 一年前の言葉が、不意に蘇った。
『先輩のこと好きになったら教えてね。応援したいから』

「……私ね」
 葵は小さく息を吸った。

「久遠先輩のこと、好きみたい」

 口にした瞬間、胸の奥にすとんと、静かな重みが落ちた。

 不思議と怖さはなかった。

 ずっと正体のわからなかった感情に、ようやく名前をつけられたような清々しさ。

 芽美は一瞬目を丸くして、それから困ったように笑った。
「知ってたよ。……もう、どれだけ待たせるの」
 困ったような笑顔に、葵の頬が緩む。
「なんてね。あれから一年だけどね」
 芽美につられて笑いかけた瞬間、葵は泣き出しそうになるのを堪えた。
 『一年』――。
 けれど葵にとってその想いは、もっとずっと長い時間をかけて育ってきたものだった。
 いくつもの夜を越え、時間を逆行してようやく辿り着いた気持ち。

 あの背中を追いかけた時間、二度と会えないと絶望した時間。
 その欠片が一本の糸となり、今の自分をここに立たせている。
「え……部長? ほんとに?」
 真琴が弾かれたように顔を上げた。
 驚きで丸くなった目が、一瞬で輝きに染まる。
「やっぱり!」
「え?」
「なんとなくそうだと思ってたんだ」
 勢いよく身を乗り出した真琴が、満面の笑みを浮かべる。
「芽美だけじゃないよ? あたしも気づいてた!」
「うそ……」
「うそじゃないって。部長の話になると、ぶるーすぐ顔変わるし」
「真琴、それ言うと照れるから」
 芽美が苦笑すると、真琴は「あ、ごめん」と言いながらも全然悪びれていない。
「でも、やっと言った!」
 そして次の瞬間、葵の肩を力いっぱい掴んだ。
「あたし、応援するから! ぶるー、がんばって!」
 その真っ直ぐな体温が、葵の臆病な心に小さな火を灯す。

「……うん。ありがとう」

 勇気を出して口にした言葉を丸ごと受け止めてくれる。
 一人で抱え込むには重たすぎた決意が、二人の笑顔に触れた途端、ふっと軽くなった。

 ずっと迷い続けてきた葵にとって、それは何よりも心強い、小さくて確かな、お守りだった。