名前のない想いの果てに


 校門の前は、今年も賑やかな装飾で彩られていた。
 文化祭当日特有の、落ち着かないざわめき。
 空気そのものが、どこか地に足がつかないまま、ふわりと浮き立っている。
 体育館で開会式を終え、出口へ向かいかけた、その時だった。

「おはよう、あおちゃん」
 振り向くと、芽美が立っていた。
 その手には、ずっしりと重そうなビラの束。
 それを見た瞬間、どきりと胸が鳴った。
 一瞬だけ、中学一年の文化祭の光景が脳裏をよぎる。
 けれど、ビラに印刷された文字を見て、すぐに勘違いだと気づく。
 これは、この年の文化祭のものだ。
「おはよう」
 返しながら、葵はそっと息をついた。
「今回、三年生のお店、どこも気合い入れてるらしいよ。ぱぱっと終わらせて、遊びに行こ」
 芽美は流れるような動作で束の半分を抜き取り、「はい、これ。あおちゃんのぶん」と迷いなく差し出してきた。

「……え?」
「え?」 

 芽美も同じように、不思議そうに首を傾げた。
 中学二年の文化祭。慌てて記憶の底を掘り返したが、この文化祭でビラを配った覚えがない。
「えっと……」
 葵は慎重に言葉を選びながら、探るように口を開いた。
「今回のビラ配りって……確か、後輩の子がやるんじゃなかったっけ?」
 芽美は、「えー、違うよ」と、おかしそうに小さく吹き出した。
 彼女の持つビラの束が、笑い声に合わせて細かく揺れる。
「私とあおちゃんでやろうって、一緒に立候補したじゃない。忘れちゃった?」
「……」
 その瞬間、記憶の隙間から、聞いたこともないはずの芽美の声がふわりと浮き上がった。

『ね、一緒にやろうよ。あおちゃんとなら心強いし』

 芽美の語った状況が、まるで最初からそこにあったかのように、ぼんやりと頭の中に色付いていく。

「どうした?」
 少し低い声がして、杉原が近づいて来た。
「あ、杉原くん。演劇部の宣伝なんだけどね。あおちゃん、忘れちゃってたみたい」
 芽美は楽しげにビラの束を掲げて見せた。
 責めるような響きはない。
 ただ、日常の一コマを報告するような、あっさりした口調だ。
「さっき渡そうとしたら、お互い“え?”ってなっちゃって。なんだか前にもこんなことあったよね、あおちゃんと」
 くすっと笑いながら、葵の顔を覗き込む。
 葵もつられて笑いかけた――けれど、その途中で杉原と目が合い、動きを止めた。

(また、何か聞かれる……?)

 葵が思わず身構えたその時、杉原の視線が葵の強張った表情で止まった。
 ほんのわずかな沈黙。
 やがて杉原は、ふいに視線を落とし、くっと声を漏らして笑った。
 あまりに無防備な反応に、葵は呆気にとられた。

「……そういうこと、あるよな」

 拍子抜けするくらい、無防備な笑顔。
 それから杉原の視線が、もう一度だけ葵に戻る。

 文化祭の朝は、いつもと同じようで――どこか、違っていた。

 大量のビラ配りを終える頃には、校内の人の流れもすっかり増えていた。
 芽美に腕を引かれ、二人で連れ立って教室を覗いて回る。

 三年生の教室が並ぶ廊下は、どこも人であふれていた。
 芽美の言っていた通り、どの店も並々ならぬ気合いが入っている。
 手作りとは思えない飾り付けや、呼び込みの声、楽しそうに笑う生徒たち。
 お化け屋敷の前では派手な悲鳴が聞こえ、別の教室からはお店顔負けのいい匂いが漂ってくる。
 最初はどこか落ち着かなかった葵も、芽美が次々と「こっちも見ようよ」と目を輝かせているのを見ているうちに、気がつけば一緒になって声をあげて笑っていた。

 そんな葵の様子を、Qちゃんは少し離れた場所から静かに見守っていた。

 ふと、葵が足を止めて教室の一つを指差した。
「ねえ、ここも入ってみる?」
「あ、いいよ! 行こう行こう」
 芽美はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに葵の隣に並んだ。
(文化祭って、きっとこういうものなんだ)
 少し浮ついて、少し騒がしくて、それでも、妙に温かくて楽しい。
 芽美とあちこちの教室を覗いて回っているうちに、気付けば時計の針は大きく進んでいた。

---

 15時を過ぎると、校内には少しずつ落ち着いた空気が混じり始めていた。
 祭りの喧騒が一段落し、どこか物悲しい午後の気配が忍び寄る。
 演劇部の上演は、例年通り午後四時からだ。
 葵たちは出演者への差し入れを買うと、午後の最終確認と準備のため、体育館の用具室へと向かった。
 
 扉に手をかけた瞬間、突然向こうからガラッと開いた。
「あ、葵」
 出てきたのは真琴だった。
 上気した顔で「ごめん、忘れ物!」と横をすり抜ける。
「え?今から?」
「大丈夫、すぐだから!」
 と叫ぶなり、彼女は脱兎のごとく体育館を駆けていく。
 その背中を見送ってから中へ入ると、室内にはすでに熱を帯びた声が充満していた。
 舞台図、進行表、ガムテープ。床に広げられた紙の上を指でなぞりながら、細かい指示が飛び交う。
「じゃあ、ここで暗転ね」
「音、少し早めでもいいかも」
 文化祭当日の、独特の高揚感。葵は壁際に立ち、そのやりとりを静かに聞いていた。

「結崎さん、どう思う?」
「え?」
 不意に声をかけられ、葵は顔を上げた。
 差し出された舞台図に視線を落とす。
 頭の中で舞台の光景を組み立て、指先で、舞台図の端にある影の落ちる位置を指した。
「ここ……少しだけ明るくしたら、次の台詞が聞き取りやすくなるかも」
「ん?」
 照明担当が身を乗り出して覗き込む。「あ、ほんとだ。ここ、影被るね。じゃあここ、光量ちょい上げでいこう」
 さらさらとペンが走り、修正が加えられていく。「助かったよ」
 葵は小さく息を吐いた。
 ふと顔を上げると、少し離れたところに久遠が立っていた。
 目が合うと、彼はほんの少しだけ目を細めて、柔らかく微笑んだ。

 打ち合わせが一通り済んだところで、久遠がふっと舞台図から顔を上げた。
「一応、最後に確認しとくけど。演出とか進行で、気になってる点がある人、いる?」
 用具室の中が、しん、と静まり返る。
 誰も口を開かないその時、久遠の視線がふと葵のところで止まった。
「葵ちゃん。さっき、照明のところに気付いてくれたよね。他に気になってるところはある?」
 向けられた笑顔が、思った以上にあたたかくて、胸の奥を締め付けていた緊張が、ふっとほどけた。
「……大丈夫です」
 言葉が喜びで少しだけ震える。
「何の問題も、ないです。きっと、成功します。校長先生が感動して、お褒めの言葉をくださるくらい……」
 言い切った直後、胸の奥がひやりと冷めた。

(——しまった)

 それは、まだ起きていない、自分だけが知っている「記憶」だ。
 四年前の今日、この後に起こるはずの未来。
「……ふっ」
 誰かが、こらえきれずに吹き出した。
 それを合図に、室内にどっと笑いが広がる。
「校長先生が感動、って言い切るの、最高じゃん」
「あの気難しい校長が?ほんとにそうなったら、一生記憶に残るな」
 そこにあるのは悪意のない素直な笑いだった。
 久遠もくすっと小さく笑い、深く頷いた。
「そこまで言い切ってくれるなら、大丈夫だね。心強いよ」
 その一言で、場の空気はまた和やかに戻っていく。
 けれど、しばらくして、葵はふと室内を見渡した。
「真琴、遅いね……」
 葵の呟きに、部員たちの会話がふっと途切れる。「真琴?」「忘れ物取りに行くって言ってたよね。……まだ戻ってないのか?」「そろそろ戻ってくるだろ」
 すぐに次の進行表が広げられ、話題は段取りへと移っていく。誰かが軽口を叩き、どっと笑い声が上がった。
 
 なぜか胸の中に、もやもやとした暗雲が立ち込める。

『頼りにしてるよ、ぶるー』

 不意に、耳の奥で悪戯っぽく笑う彼女の声が再生される。
「……真琴」
 葵は、ぎゅっと唇を噛み締めて顔を上げた。
「――ちょっと、真琴を探してきます」
 誰かが返事をするより先に、足が動いていた。
 用具室の重い扉を勢いよく押し開ける。
 背後で芽美が進行表を持ったまま戸惑うような顔を見せたが、葵のただならぬ様子に、弾かれたように顔を上げた。
「あおちゃん、私も行く!」
 その声を背に、葵は廊下へと駆け出した。
 芽美もまた、迷いを振り切るように後を追う。

 『大丈夫だね』――久遠の声が蘇る。
 そう、大丈夫。
 それなのに、胸をざわつかせるこの違和感を確かめずにはいられなかった。

 体育館を出たところで、廊下の向こうから近付いてくる人影があった。
 実行委員の腕章を付けた、杉原だった。
「結崎」
 呼びかけられ、葵は足を止めた。
「……何かあったのか?」
「真琴、見なかった?もうすぐ本番なんだけど、戻って来ないの」
 問いかけると、杉原は一瞬だけ視線を泳がせる。     
 それから、思い出したように口を開いた。
「さっき、部室の近くで見たけど」
「本当?」
「ああ。衣装を忘れたって」
「部室に……?」
 その言葉に、葵の足が止まった。
(……そうだ。この公演、確か真琴は……)

『ごめん! 家に衣装忘れちゃった。……別の衣装って借りられる?』

 あの時、真琴はそう言っていた。
 家に忘れたはずの衣装を、部室に取りに行った――?
 その食い違いに、胸の奥がざわつく。
 過去か、今か。
 どちらかで、真琴は嘘をついている。
(……なんのために?)
 ざわりとした不安が、胸いっぱいに広がっていく。

「……そんなわけない。あの時、真琴は『家に忘れた』って言ってたんだから……」
 独り言のように、小さな声が溢れた。
 その瞬間、杉原の表情にほんの一瞬、鋭い光が差した。
 静かな眼光が葵を捕らえる。

「……そうか」
 
 彼はそれ以上何も問わず、ただ迷いのない足取りで歩き出した。
「行こう」
 有無を言わせないその背中に押されるように、三人で廊下を進む。
 文化祭の華やかなざわめきが、一歩、また一歩と遠ざかっていった。

 部室のドアは、少しだけ開いていた。
 隙間から、数人の女子の賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
「あー、これ、思ったより破れてる」
「もう……真琴、怒っていいよ。これじゃ本番着れないじゃん」
 ふざけ混じりの笑い声。いつもの、なんてことのないやり取り。
 そこに、聞き慣れた声が重なった。
「……いいよ。替えあるし。大丈夫!」
 あっけらかんとした声音。
 けれど、その奥に無理に明るく振る舞う気配が滲んでいた。

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。
 こんなことになってたなんて、当時は知らなかった。

 衣装を着て、くるりと回って見せた真琴の姿が、脳裏をよぎる。

『早く明日、来ないかな』

 気付けば、足が動いていた。

「……葵?」
 背後で芽美の声。
 葵はそのまま、扉を強く押し開ける。

 室内の視線が、一斉にこちらへ向く。
 床には衣装袋が広がり、中身を手にした女子生徒たちがその周りを囲んでいた。
 その中心で真琴が、無残に破れた衣装を両手に抱えている。

「ひどい……」
 芽美が、小さく息を呑んだ。
「ぶ、ぶるー?芽美も、どうしてここに……」

 真琴が肩を揺らす。
 驚いたように見開かれた瞳には、先ほどの空元気はもうなく、隠しきれない動揺だけが浮かんでいた。

 葵は答えなかった。
 周囲の視線を気にもとめず、真っ直ぐに真琴の前まで歩み寄る。
「……ちょっと、来て」
 低く、静かな声だった。
 けれど、その場の誰にも口を挟ませない響きがあった。
 呆気に取られている生徒たちには目もくれず、葵は真琴の細い手首を掴んだ。
 
 三年前。何も知らず、真琴に代わりの衣装を手渡した。
 ——けれど今、葵は迷わなかった。

 今にも崩れ落ちそうな真琴を、その場から引き離す。
 背後で戸惑った声が上がった。
「え、ちょっと……」
 ざわめきが波のように広がる。
 けれど葵は、一度も振り返らなかった。

 廊下に出たところで、壁にもたれていた杉原が、静かに顔を上げた。
 彼は何も言わない。
 葵の表情と、真琴が胸に抱えた衣装をひと目見て、すべてを察したように眉を寄せる。
 次の瞬間、何かを決めたように踵を返した。

「……ぶるー?体育館、そっちじゃないよ」
 怪訝そうな真琴の声にも、葵は答えない。
 手を離さぬまま廊下を進む。
 背後から、芽美の慌ただしい足音だけが追いかけてきた。
 角を曲がり、見覚えのある扉の前で足を止める。
「家庭科室……?」
 真琴が戸惑ったように目を瞬かせた。
「ちょ、待って……今から何するつもり?」
「もうすぐ本番始まるよ」
 二人の焦る声を背に、葵は扉の取っ手に手をかけた。
 ひやりとした金属を握りしめ、一気に引く。

 ――ガチャ。

 鈍い手応えだけが返ってきた。
 開かない。鍵がかかっている。
 一瞬、息が止まった。
 その時だった。

 背後で、金属の触れ合う小さな音がした。
 見上げると、いつの間にか杉原がそこに立っていた。
 少し乱れた呼吸のまま、その指先には家庭科室の鍵が握られている。

 葵の隣に並び、彼は短く言った。
「下がって」
 差し込まれた鍵が静かに回る。
 カチリ、と乾いた音が小さく響いた。
 次の瞬間、家庭科室の扉がゆっくりと滑り出した。
 
 ドアを開け、真っ直ぐ部屋の奥へ進む。
 葵はミシンを取り出し、手際よくコンセントに繋いだ。
 その迷いのない手つきに、真琴の顔から余裕が消えた。
「……無理だよ」
 小さな声だった。
 ミシンの電源を入れた葵の手が、ふと止まった。
「……無理……」
 その言葉を確かめるように繰り返してから、ゆっくりと顔を上げる。

「確かに、無理かもしれない……」

 部屋の隅にいたQちゃんが、腕組みをしてこちらに視線を向けた。
 葵は傍に置いた衣装をぎゅっと握りしめた。

「でも、ここで何もしないで、未来で後悔するよりマシだよ」
 あの時と同じ結末を、ただ見送るだけで未来へ帰る。
 しかも、真実に目を背けたまま。
 ——それだけは、死んでも嫌だった。

「どれくらいかかる?」
 入り口に立つ杉原が低く聞いた。
 葵は衣装を目の前に広げ、修復の範囲を確認する。
「……十分あれば、ざっとは直せると思う。でも……なるべく急がないと」
 杉原は返事をしなかった。
 一瞬だけ視線を落とし、何かを計算するように沈黙する。
 やがて小さく息をつくと、
「……わかった」
 それだけ告げて、廊下へ出た。

 廊下へ出たところで、耳元のインカムに手を添える。
 ちょうどその時、向こうから慌ただしい声が飛び込んできた。
『杉原、そっちどうなってる? そろそろ転換入るぞ』
 杉原は足を止め、扉越しに一度だけ葵を見る。
 それから、無線を押した。
「……すみません。少し押してください」
『は?』
 別の教師の声が割って入る。
『今日は最後に吉松先生の講談があるんだ。伸ばせるわけないだろ』
 吉松先生の講談は、今年の文化祭の目玉だった。
 演劇が押したからといって、そう簡単に時間をずらせる相手ではない。
「承知しています」
 杉原の声は静かだった。
 けれど、引かなかった。
 インカム越しのざわめきを聞きながら、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
 それから、静かに口を開いた。
「十分だけください」
『十分? 無茶言うな』
 短い沈黙。
 インカムの向こうでざわめきが交錯する。
 杉原は目を逸らさず、低く続けた。
「責任は、俺が持ちます」
 低い、落ち着いた声。
 そして、そのまま杉原はインカムを切った。

 しばらくして、家庭科室の扉が開く。
 杉原は何事もなかったように中へ戻ってきた。
 インカム越しのやり取りは、扉越しにも聞こえていた。

「杉原くん……大丈夫?」
 ミシンに衣装をあてがいながら、葵は杉原に視線を投げた。

「間に合わせるんだろ」

 迷いのない声。
 胸に熱いものが込み上げてくるのを、葵は何とか堪えた。
「……ありがとう」
 伝えたい想いは山ほどあったが、それだけを絞り出し、再びミシンに集中した。

「真琴、ここ押さえて」
 破れた部分を指で示す。
 真琴は一瞬の迷いの後、強く頷いた。
 押さえる指先が、わずかに震えている。
「芽美、糸ある?」
「あ……すぐ探す!」
 芽美は弾かれたように動き出し、裁縫箱から近い色の糸を選び出す。
 三人の間に流れるのは、必要最低限の言葉と、切迫した呼吸の音だった。
 葵がフットコントローラーを踏み込むと、ガガガと乾いた音が静かな室内に響き渡った。
 針が走るたびに、バラバラだった境界線が少しずつ繋ぎ合わされていく。
 誰も、もう「無理」とは口にしなかった。

「真琴、間に合わせよう」

 その揺るぎない響きに、真琴は一瞬唇を強く噛むと、視線を落とした。
「……ぶるー、ずるいよ」
 声が、少しだけ掠れている。
 真琴は慌てて顔を背け、袖で乱暴に目元をこすった。
 何でもない顔を作ろうとする彼女の強がりを、葵は気付かないふりをして、針を進めた。

 ――ガチャ。
 不意にドアノブが回る音がした。ドアの小さな窓に人影が映る。
 杉原が静かに立ち上がった。
「すみません。今、使用中です」
 低く落ち着いた声。
 しばらくして、「あ、すみません」という声と共に足音が遠ざかっていく。
 杉原はドアを閉めると、静かに時計へ視線を落とした。
 その時、廊下の向こうのスピーカーから、演劇部の上演を告げる校内アナウンスがノイズ混じりに響いた。

『――まもなく、午後四時より……』

 廊下を足早に通り過ぎていく生徒たちの声と、遠ざかっていく靴音。
「……そろそろだ」
 杉原がドアに向かって、一歩踏み出した、その背中に。

「……できた」
 葵の声が、すとんと落ちた。

 杉原が振り返り、真琴も祈るような心地で葵の手元を凝視する。

 一瞬の静寂の後、芽美の歓声が漏れた。
「……っ、すごい、あおちゃん!」

 縫い目は、決して完璧ではない。けれど、舞台の強い光の下であればその粗さは分からない。
「……よし」
 杉原が短く、確信を込めて言った。
 葵たちは弾かれたように家庭科室を飛び出した。
 文化祭で賑わう廊下をすり抜けるように駆けていく。
「走れる?」
 振り返る真琴に、
「うん!」
「もちろん!」
 葵と芽美の声が重なった。

 視界の先に、体育館の入り口が見えた。
 扉の向こうからは、観客のざわめきと音響チェックの重低音が漏れ聞こえる。
 杉原が速度を上げ、振り返らずに言い放った。
「俺が合図出す。……行け!」
 その言葉と同時に、体育館の照明がふっと落ちた。
 完全な暗転。

 ——間に合う。

 確信した瞬間、葵の胸の奥で、張り詰めていた何かが静かにほどけた。

 解放感。そして、それを上回る激しい鼓動。
 葵たちはそのまま、熱気に満ちた闇の中へ、迷わず飛び込んだ。

 結崎メモ:

・真琴の証言と行動に食い違い  「家に衣装を忘れた」→当日は部室へ向かっていた