名前のない想いの果てに


 部屋の灯りを消すと、夜の静けさが部屋を満たした。
 カーテンの隙間から差し込む外灯の明かりが、床に淡い筋を落としている。

 葵は床に膝を折って座り、背をベッドに預けた。
 手の中のスマホの白い光が、指先と頬をぼんやりと照らしている。

「……Qちゃん」
 ぽつりと呼ぶ。
 少しの間を置いて、スマホのスピーカーから聞き慣れた女性音声が返ってきた。
『なぁに?』
「……ちょっと、いい?」
『いいわよ。どうしたの、改まって』

 耳に馴染んだその声に、葵は小さく息をついた。
 少し迷ってから、頭の片隅に残っていた疑問を口にする。

「杉原くんのことなんだけど……どう思う?」
『どう、って……』
 Qちゃんは少し考えるように間を置いた。
『まぁ、あんたに何かしら執着してるとは思うわね』
 思いがけないその言葉に、葵は目を瞬かせた。
「執着?」
『ええ。彼のこと全然知らないけど。私にはそう見えるわ。心当たり、あるんじゃない?』
 
 ――心当たり。
 どきりと胸が鳴った。
 
 あの理科室での一件は、Qちゃんには話していない。
 それなのに、あの短いやり取りだけで、そこまで感じ取ったのだろうか。
 杉原が何かを確かめるように、自分に近づいてきていたことを。
「でも……なんで」
 葵が言葉に詰まっていると、Qちゃんが『……っていうか』と、続けた。
『それをどう受け取るかは、葵次第でしょう? 私だって野暮なことはしたくないもの』
「……え?」
『要するに――葵にとって彼が、そうされても許せるくらい特別かどうかってことよ』
「……特別って、どういう意味?」

 問い返した瞬間、沈黙が落ちた。
 スマホの向こうには、かすかな気配だけがあった。
 言葉を選んでいるのか、あるいは葵の反応を楽しんでいるのか。
 返事を待ちきれず、葵は視線を落とした。
「……それより、さっき課題について聞かれたの。でも、彼がわざわざそんな話を私にするなんて、変なのよね」
 学年トップレベルの彼が、わざわざ自分に課題のことを聞いてくるとは思えなかった。
「しかも、聞かれた美術の課題は、実際にはなかったの。……ねぇ、なんで聞いたんだと思う?」
『さぁ、そこまでは。私、エスパーじゃないもの。単なる記憶違いか……』
 わずかな間が落ちる。
『……それとも、すべて知った上で、あんたを試しているか』
 葵は思わずスマホを握りしめた。
「そ、そんなことあるわけないでしょ。Qちゃんのこともタイムリープのことも、誰にも話してないし、見られてもいないんだから」
『そう?』
 くすり、とスピーカーの奥で笑う気配がした。
『だといいけれど』
 それから、少しだけ間が空く。
『……気づかないままのほうが、幸せなこともあるのよ』
「え?」
『なんでもないわ』

 また、肝心なことは伏せられた。
 葵は諦めて、もう一つの疑問を口にする。
「そういえば……さっき、何してたの?  しばらくいなかったよね」
 今度は、少し長く沈黙が続いた。
『ああ。……ちょっとね。条件が合わなかっただけ』
「条件?」
 食い下がる葵に、Qちゃんは小さく息をついた。
『……私がここに留まるには、いくつか決まりがあるのよ。 私が守るものと――世界が勝手に守ってるもの。 今回崩れたのは、後者。……まぁ、大したことじゃないわ』
「世界が……?」
『ええ。……それ以上は、まだ言えないわ』
 葵が黙っていると、Qちゃんは気にした様子もなく続けた。
『まぁ、その程度なら時間が経てば戻れる。問題は、私自身がルールを侵した場合ね』
「……何か罰があるの?」
 闇の向こうで、ふふ、と喉の奥で笑うような音がした。
『罰なんて大層なものじゃないわ。ただ、『次』はない……それだけよ』
 声はやわらかいのに、その意味だけが妙に重く胸に残った。
「……次はない、って……もう、会えなくなるってこと?」
『そうね』
 あまりにも静かな肯定だった。葵は息を詰める。
「でも……スマホでなら話せるんでしょ? 今までみたいに」
『……残念だけど、そこで話せるのは“私”じゃないわ』
「私じゃ、ない?」
『抜け殻みたいなものね。声も、口調も、記録も残る。けれど、今ここであなたと話している私は、たぶん残らない』
 あまりにも淡々と告げられて、その言葉の意味を、葵はすぐには飲み込めなかった。
 何も返せないまま、スマホを胸元に引き寄せる。
 画面の明かりだけが、暗い部屋の中で揺れていた。
 その時。

「……なぁに、葵」

 低くやわらかな声が、すぐ傍から聞こえた。

 葵は息を呑んで顔を上げる。
 いつの間にそこへ来たのか、Qちゃんが腕を伸ばせば触れられる距離に腰を下ろし、こちらを見ていた。

 カーテン越しの淡い外灯が、その輪郭をぼんやりと夜に浮かび上がらせている。

 葵はわずかに身をこわばらせる。
 暗がりの中で、彼の瞳だけが妖しく光っていた。

「私がいなくて、寂しかった?」
 冗談めいたその問いかけに、からかわれているのかと思った。
 けれど、彼は柔らかく微笑んだまま、葵の頭へそっと手を伸ばした。

 その眼差しは、触れたことのないはずのぬくもりを懐かしんでいるような、静かな熱を帯びている。 

「……Qちゃん?」

 胸の奥がきゅっと締め付けられた。
 暗がりのせいだろうか。Qちゃんの輪郭が、わずかに揺らぐ。
 その表情が、一瞬、別の誰かと重なって見えた。

 穏やかで、静かで、けれど底の見えない深い影。
 あの人が、ときおり見せていたものと、よく似ていた。

 掌から伝わるのは、実体を持たない、空虚な感触だ。
 けれど、なぜかその温度のなさが、舞台裏で触れた久遠の指先の熱よりも深く、葵の芯に沈んでいく。

「……っ」

 息を呑んだ葵を前に、Qちゃんは黙ったままだった。
 見たことのない表情に、葵の鼓動が早まる。
 やがて沈黙を破るように、Qちゃんが口を開いた。

 くすっと、小さな息。
「ふふ。冗談よ」

 そう言いながら、Qちゃんはいつもの調子を取り戻して体勢を戻した。
「大丈夫。怖がらなくても、ちゃんとここにいるから」

 ――この世界に。あるいはあなたの傍に。

 安心と、わずかな不安。

 けれど、彼の聞き慣れた声に、張りつめていた心が少しだけほどけていく。
 葵はゆっくりと目を閉じた。