名前のない想いの果てに


 客席に出た途端、館内の眩しい光が葵を包んだ。
 暗がりに慣れていた目には、天井に並んだ蛍光灯の光が刺すように痛い。​
 思わず葵が目を細めた、その瞬間だった。
「ぶるー!」
 弾むような声と一緒に、人影が視界へ飛び込んできた。
 上原真琴(うえはらまこと)
 中学二年に上がった頃、演劇部に入ってきた同学年の女の子だ。
 誰に対しても気さくで、部の中心にいることが多い。
 彼女は葵のことを、決まって「ぶるー」と呼んだ。
「なにしてんの、こんなとこで」
「え……」
 突然話しかけられて、葵は思わず口ごもった。
「あ、えっと……久遠先輩に、ブローチの修理頼まれて」
 そう言って手の中のブローチを見せると、真琴は「ふうん?」と意味ありげに眉を上げた。
「……それだけ?」
「え?」
(ブローチの修理以外に、何か仕事でもあったっけ……?)
 真琴はにやにやしたまま、舞台上へ視線を向ける。
 そこでは久遠が、台本を片手に役者たちへ指示を飛ばしていた。
 葵の視線が、ふと彼女の服装に止まった。
 ——男役の衣装。
 見覚えがあった。
(……じゃあ、やっぱり)
 Qちゃんの言ってた通りなら、ここは三年前。
 真琴が男役をやっていた、中学二年の文化祭だ。
 けれど、まだ確証がもてない。
 葵の鼓動が、急に速くなる。
(この時、私は……何をしていたっけ) 
 そう思った瞬間、ふと口をつぐむ。
(待って、変なこと言ったら……ややこしいことになる)
 反射的にポケットに手を入れた。
 ——スマホ。
 年号を確認しようとして、指先が空を掴む。
「あれ……」
 もう一度、反対側のポケットを探る。けれど、何もない。
 その時、やっと自分の格好に気がついた。
 紺のジャージ。
 文化祭準備の間、一年生以外の部員はみんなこれを着ていた。
 六年間同じデザインのため、これだけでは学年まではわからない。
 そして、スマホは鞄にしまい、体育館の隅にまとめて置いておく。
 それが部活の決まりだった。
 けれど、目の前にいる真琴が、その答えを物語っていた。
「どうしたの?」
 不思議そうに顔を覗き込む真琴に、葵は小さくかぶりを振る。
「……何でもない。衣装、気になって確認してたの」
「また確認ー?もう何回もしたじゃん。ぶるーは真面目だなぁ」
 呆れたように言われ、葵は曖昧に笑った。
 そうだ。
 この年、自分は衣装係だった。
 衣装係といっても一から作る訳ではなく、もともと部にある衣装に手を加え、それぞれの役のイメージにアレンジする、という仕事だ。
 ぶるーはきっと手先が器用だから、と、なぜか、真琴から推薦された記憶がある。
 きっと、深い理由なんてなかったのだと思う。思いつきで口にしただけかもしれない。
 それでも、裁縫には昔から慣れていた。
 表に立つことには気後れしてしまう葵にとって、こうして誰かの役に立てる仕事を任せてもらえるのはありがたかった。
 真琴は衣装を着たままくるりと回って見せた。
「大丈夫だって。もう完璧。私なんて、早くやりたくてうずうずしてるよ。早く明日にならないかな」
 真琴の屈託のない笑顔。
 彼女の顔をこんな近くで見るのは、久しぶりだった。

 ――あの日。
 前日準備の最中に、「早く帰りたーい」と嘆いていた、あの実行委員の女の子。
 ​当時は名前も知らなかった。
 ただ、少しだけ言葉を交わしただけの相手。
 それが一年後には同じ演劇部に入り、自分を「ぶるー」と呼んで笑っている。
 あの頃の葵は、そんな未来を想像もしていなかった。
「頼りにしてるよ、ぶるー」
 真琴はにっと笑って片手を上げ、そのまま部員たちの喧騒の中へ消えていった。
 真琴はいつも人の輪の中にいた。
 彼女がいるだけで、その場はパッと明るくなった。
 けれど、同じ部活で二年間過ごしても、葵から話しかけることはほとんどなかった。
​ 話してみたいと思うことは何度もあったのに、そのたびに胸の中で、決まって同じ言葉が引き止める。
 ――私なんかが、声をかけていいのかな。
 ​真琴は誰にでも優しい。
 だからこそ、その優しさの先へ踏み込む勇気が持てなかった。

 不意に、実行委員の腕章が視界の端を横切った。
「進捗、どうですか?」
 杉原だった。
 葵は小さく目を瞬く。
 そういえば、この時も杉原は実行委員だった。
 準備に勤しんでいた部員たちが彼を囲むように円になり、今の状況を手短に説明し始めた。
「衣装はほぼ揃ってます」
「小道具も問題ないです」
 杉原は、頷きながらメモを取る。
 必要なことだけ聞いて、余計な口は挟まない。
 ——実行委員らしい、そつのない対応。
 部員たちのやり取りをぼんやり聞きながら、葵はふと舞台へ目を向けた。
 舞台袖に、久遠の姿が見える。
 ……ちゃんと、いる。
 胸の奥がひどく騒いで、葵はそっと視線を落とし、手の中のブローチを握りしめた。
 そのとき、杉原の視線が一瞬だけこちらへ向いた。
 何かを探るような目だったが、すぐにふいと逸らされる。
「じゃあ、何かあったら呼んでください」
 杉原が背を向けた直後、葵は部屋の端に置いた鞄へ足を向けた。
 鞄の中を探り、スマホを取り出す。
 画面に浮かんだ数字は、二〇二二年。
 間違いなく三年前だ。
 葵は、大きく息を吐き出した。
 スマホをしまうと、葵はそのまま衣装の最終確認に戻った。
 裾や飾りを見て回っていると——。
「ぶるー!ちょっと来て」
 遠くからの叫び声に顔を上げると、向こうから真琴が手を大きく振っている。
 その隣には、さっき立ち去ったはずの杉原が、真琴に袖を引かれたまま『面倒なやつに捕まった』と言わんばかりの顔で立っている。
 真琴だけは、何かを思いついたように妙に楽しそうだった。
 葵が近付くと、真琴はにやりと笑う。
「見てこれ」
 杉原の手を掴み、無理やり前に突き出した。
 握られていたペン先には、小さなマスコットがついていた。
 目は大きくて真ん丸なのに口元はへの字に曲がった、なんとも間の抜けたキャラクターだ。
「杉原がこんなかわいいペン持ってるの。ギャップすごくない?」
「……うるさいな」
 杉原は眉間に深い皺を刻んだ。
 真琴は面白がるように、マスコットを指でつんつんとつつく。
 杉原は少し視線を逸らしてから、小さく言った。
「……近所の子にもらったんだよ」
「え、なにそれ。ちっちゃい子?」
「まあ……」
 真琴の目がきらりと光る。問い詰められた杉原の耳の先が、わずかに赤らんでいた。
「……いいだろ、別に」
 ぼそりと言い添える。その声には、隠しきれない照れの色が混ざっていた。
(……そういう顔も、するんだ)
 葵は、少し意外な思いでその横顔を見つめていた。
「かわいいじゃん杉原! 似合う似合う!」
「……どうせ似合わねえよ」
「いや似合うって」
 杉原の反応を見ながら、葵はふと隣の真琴に目を向けた。
 真琴がじゃれついて、杉原がそれを鬱陶しそうに受け流している。
――まるで、散歩中の子犬と、その飼い主みたいだった。                           
 そう思った瞬間、危うく笑いが漏れそうになり、葵は慌てて口元を押さえた。
「……?」
 目ざとくそれに気付いた真琴が、不思議そうに覗き込んでくる。
「なに今の顔」
「な、なんでもない」
 葵はぶんぶんと首を振ったが、真琴はにやっと口端を吊り上げる。
「絶対なんか思ったでしょ。ほら、ぶるーも『ガラじゃない』って思ってる」
「え……」
 杉原が、戸惑うように葵へ視線を巡らせる。
「ち、違う!」
 葵は慌てて手を振った。「今のはそういう意味じゃなくて……」
 その時、入り口から数人の女子たちが真琴を見つけ、駆け寄ってきた。
「真琴ー!」
「あ、呼ばれてる」
 真琴は、葵と杉原を交互に見やり、楽しそうに笑う。
「じゃ、またあとでね」
 それだけ言い残して、真琴は軽い足取りで華やかな輪の中へ戻っていった。
 真琴が去った途端、二人の間にふっと静寂が広がった。
 葵は行き場を失った視線を泳がせながら、なんとなく居心地の悪さに身を小さくした。
 入り口のあたりで、真琴が友人たちと笑い合っている。
 服の裾を引かれ、するりと軽やかにかわす様子までが、まるで遠い世界の出来事のように見えた。
「……そういえば」
 不意に、杉原がその静寂を破った。
「昨日の数学の課題、終わった?」
「え?」
 突然の問いかけに、葵の心臓が跳ねる。
(昨日……?)
 すぐに、それが三年前の昨日を指しているのだと気づく。
(そんなの、覚えてるわけない……)

「……えっと」
 返事を探そうとしても、この時期にどんな課題が出ていたのかなんて思い出せない。
 杉原は何も言わず、ただ返答を待っていた。
 沈黙だけが、二人の間にじわりと広がっていく。
「……あれ、なんだっけ。昨日、ちょっとバタバタしてて……」
 絞り出した言葉は、自分でも分かるほど薄っぺらだった。
 杉原はわずかに間を置いたあと、小さく頷き、さらに言葉を重ねた。
「じゃ、美術の課題は?」
 杉原はわずかに首を傾げた。「結崎さん、何描いた?」
 葵は、弾かれたように顔を上げた。
 ――美術の絵。
 頭の中で、必死に過去の景色をひっくり返す。
(私は、何を描いた?)

 教室。画用紙。絵の具の匂い。
 断片だけが浮かび上がり、肝心の「中身」がどうしても結びつかない。
「……」
 喉の奥が引き攣る。その時だった。

「『まだ考えてる』って答えて」

 背後から、低く柔らかな声が届く。
 振り返らなくても分かる。

「まだ……考えてるの」
 杉原はしばらく、葵の瞳の奥を覗き込むように見つめていた。
 値踏みするような沈黙が少しの間だけ流れ、葵が冷や汗を流す直前。
 彼は「そうか」と短く頷いた。
 それから腕時計をちらりと確認すると、
「じゃあ、まだ仕事があるから」
 ​それだけ言い残し、背を向けた。
 葵は振り返らず、背後へ小さく囁いた。
「……Qちゃん?」
「しー」
 大きな掌が、そっと葵の口元に添えられる。
 不意に、立ち去りかけた杉原の足が止まった。

 ——また何か聞かれる……?

 葵が身構えた瞬間、遠くから声が響く。
「実行委員さーん!こっち手伝って!」
 誰かの呼び掛けに、杉原が反射的に振り返る。
「……はい!」
 腕章を押さえ、彼は迷うことなく喧騒の中へ消えていった。
 葵は自分が息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐き出す。
 恐る恐る振り返ると、そこには困ったような、柔らかい微笑みを浮かべたQちゃんが立っていた。

「ただいま!」
 背後から弾むような声がした。
 葵は肩を揺らして振り返る。駆け寄ってきた真琴の顔が視界に入った。
「ごめん遅くなった!杉原となに話してたの?」
「あ、えっと……数学の課題のこととか、美術の絵は何描いたのかとか……」
「なんだ、そんな世間話?」
 真琴はあからさまに拍子抜けしたように笑う。
 だが、ふと首を傾げた。
「……てか、ん?」
 一瞬の間を置いて、「美術?」と繰り返す。
「そんな課題、あったっけ?」
「……え?」
 葵の声が、ワンテンポ遅れて虚空に響く。
 真琴の表情から、さっきまでの笑みが消えていた。
 クラスは違う。それでも、美術の課題は学年共通だった。真琴が知らないはずはない。
「少なくとも、今はそんな課題出てないよ? 自由制作なら先月終わったし」
 葵の視線が、杉原の消えた方へ向く。
 勘違いだった――そう片づけることもできる。  けれど、胸の奥で小さな違和感がざわついた。
 彼のような慎重な人間が、そんな思い違いをするだろうか。
 
「ぶるー? 大丈夫?  顔色が悪いよ」
 真琴が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「だ、大丈夫。……ちょっと寝不足なだけ」

 真琴はまだ何か言いたげだったが、先ほどまで杉原がいた場所を顎で示した。
「杉原ってたまに変なとこあるよね。頭が良すぎて脳内エラーでも出てるのかな? まあ、そこが面白いんだけどね」
 ケラケラと笑う。
「ほんと、真琴またそんなこと言って」
 柔らかな声がして、芽美がこちらへ歩いてきた。
「あ、芽美」
 芽美は小さく笑ってから、葵へ視線を向けた。
「あおちゃん、照明の当たり方、よかったよ。衣装の色の出方も綺麗で。準備、頑張ってくれてありがとうね」
「……ほんと? よかった」
 張り詰めていた糸が解け、思わずほっと息を吐き出す。
 芽美は優しく目を細めて頷いた。
「うん、すごく見やすかった。ああいう細かいところまで考えられるの、すごいよ。さすがあおちゃん」
 その言葉が、葵の胸の奥をじんわりと温めていく。
 弾むような心地よさで、照れ隠しにふと視線を滑らせた、そのとき――葵の動きが止まった。

 少し離れた場所に、Qちゃんの姿が見えた。
 杉原が去っていった方を見ていた気がしたが、目が合うと彼はいつものように軽く手を振ってみせた。
 なのに、葵の胸の奥には、先ほどの杉原の視線だけが、棘のように残っていた。

 結崎メモ:

・結崎が強く気にかけている人物の有無
 真琴に確認

・「よく見ている先輩」がいるらしい
 名前は聞けず

・……あれは、完全に誤解している顔だった
 →恋愛の話として受け取られた?