放課後の校内は、まだざわめいていた。
廊下の向こうから、部活へ向かう生徒たちの笑い声が聞こえる。
けれど、体育館の扉を開けると、そこだけ音が少し遠くなった。
館内では、数人の運動部員たちが時間を持て余すようにボールをついていた。
その向こうには、無人の舞台が静かに佇んでいる。
葵はゆっくりと館内へ足を踏み入れた。
客席側から、静まり返った舞台を見上げる。
誰もいない舞台は、照明も落ちたまま、まるで息を潜めているようだった。
体育館の広さだけがやけに際立って、足音が床に小さく響く。
葵はひとつ息をつき、客席の影へ身を寄せた。
その時、開いたままの入り口から、すっと人影が滑り込んできた。
(……Qちゃん)
ぎくり、と心音が鳴る。
さっき教室であんな逃げ方をした手前、まともに顔を合わせられない。
追いかけてきた彼に、どう言い訳しようか——。
けれど、葵の予想に反して、彼は動かなかった。
体育館のスピーカーから流れる、放課後の校内放送。
柔らかなバイオリンの旋律が、巨大な伽藍のような空間を満たしていく。
彼はただ静かに、その音色に耳を澄ませていた。
窓から差し込む斜光を浴びて、彼は穏やかに微笑んでいた。
いつも誰かを煙に巻くような薄笑いではない。もっと純粋で、遠い記憶を慈しむような表情。
その横顔があまりに無防備で、葵は一瞬、彼が別の世界の住人になったかのような錯覚に陥った。
それからふと、我に返る。
——今なら。
葵は静かに、舞台裏の暗がりへと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気。床に転がるコード。置き忘れられたガムテープ。外からは、ほとんど見えない場所。
葵はしゃがみ込み、ポケットから二枚の紙を取り出した。
昨日の写真と、杉原のメモ。
そこには迷いのない筆跡で、部員の名前が書き揃えられている。
葵はその二枚を交互に見つめた。
(……やっぱり、違う)
昨日気づいた、致命的な違和感。
写真の中の、自分の立ち位置。
隣にいる芽美。
そして——舞台袖の近くに佇む、久遠。
葵は深く息を吐く。
(過去が……変わってる)
少しずつ。でも確実に。
葵の記憶とは違う過去が生まれている。
葵は二枚をポケットにねじ込み、顔を上げた。
「葵?」
いつの間にか、Qちゃんが舞台裏に入って来た。
彼は葵の思い詰めた表情を見て、わずかに眉を寄せる。
「……どうしたの?」
「Qちゃん。……私ね。先輩を助けたい」
決意したはずなのに、出た声は不思議と頼りなかった。
Qちゃんは、何も言わず、ただ、葵をまっすぐ見つめ返した。
「……次に行けるのは、三年前よ。先輩が消える年じゃない」
「わかってる」
「じゃあ、どうするの」
「……まだ、決めてない」
Qちゃんは反応に困った顔で葵の顔を見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
諦めたように、そっと手を伸ばした。
けれど、その指先は葵に触れる直前で止まり、ただ髪を撫でるように宙を滑る。
「……ほんと、無茶する子」
呆れたような声。
けれど、その瞳が、ほんの一瞬だけ——なぜか寂しそうに見えた。
先輩が消えてしまった日、ここで声をかけていたら。
あの時、足を止めていたら。
――すごいね。タイミング。
ふわりとした笑顔が、脳裏をよぎる。
もし、わずかでも違う未来を掴み取れるなら。
喉の奥が、熱くなる。
これは、ただのやり直しじゃない。
過去を変えれば、未来も変わる。なら——
葵は目を閉じ、心の底から願った。
(――助けたい)
その瞬間だった。
ふっ、と。体育館の蛍光灯が、断末魔のように一度だけ瞬いた。
「……っ!」
世界の音が、急速に遠ざかる。
キィン、と、どこか電子音にも似た、細い音。
そして次の瞬間、視界がほんのわずかに“ずれた”。
(……この感覚)
――あの時と、同じだった。
……。
どれくらい、時間が経ったのか分からない。
ひやりとした空気が肌を撫で、その冷たさに意識が浮かび上がる。
遠くで、重なり合う足音がした。
体育館の床を踏みしめる気配。舞台のほうから聞こえてくる人の声。
ざわめきが、懐かしさを伴ってゆっくりと戻って来る。
瞼を開けると、視界がわずかに滲んだ。
場所は、さっきまでいた舞台裏のままだ。
けれど、客席への扉はいつの間にか固く閉ざされていた。
外からの光を拒んだ空間は、底冷えのする薄暗がりに沈んでいる。
その暗闇の向こう、舞台のほうからこぼれる照明が、幕の隙間からいく筋もの光となって差し込んでいた。
舞い上がる埃がそれを反射して、きらきらと砂のように揺れている。
反射的に、いつも隣にいるはずの場所を見回す。
「……Qちゃん?」
小さく呼んでみる。
けれど、返事はなかった。
いつもなら、少し間の抜けた声で「なぁに?」と返ってくるのに。
その時——誰かが、葵の横を通り過ぎた。
肩が、かすかに触れる。
「……ごめん」
その声が届いた瞬間、心臓が痛いほど強く跳ねた。
懐かしくて、切なくて、嬉しくて。
感じたことのない感情が、一度に胸へ押し寄せる。
「暗くて、よく見えなくて」
記憶の底にこびりついて離れなかった、あの穏やかな声音。
葵は、その声の主が誰であるかを悟りながら、祈るような心地で振り返った。
逆光の中に、その人は立っていた。
ワイシャツの上から黒いエプロンを纏い、舞台の光を背負って静かにこちらを見ている。
あまりにも鮮明で、あまりにも儚い輪郭。
息が、止まる。
「……久遠先輩」
ようやく零れ落ちた声に、彼はわずかに目を細めた。
「……これ、直すのお願いしてもいいかな。今回は使わないから、ゆっくりでいいんだけど」
差し出されたのは、衣装用のブローチだった。留め具が少しだけ緩んでいる。
「……はい。預かります」
葵は吸い寄せられるように両手を差し出した。
「ありがとう」
歩み寄る久遠の手から、銀色のブローチが降りてくる。
ほんの一瞬、指先が触れた。
氷のように冷え切っていた葵の指に、彼の柔らかな熱が伝わる。
その当たり前の温度に、喉の奥がひりついた。
込み上げてきた嗚咽を、奥歯を噛んで堪える。
その感触は、この世界に彼が『生きている』という、残酷なまでの証だった。
