名前のない想いの果てに

 
 はっきり覚えている。
 あの時、久遠は顧問に呼ばれて、「ちょっと行ってくるね」と言い残して舞台裏に戻っていった。
 だから、この写真にはいないはずだった。
 ――けれど。
 胸の奥で、何かが嫌な音をたてて噛み合っていく。

 葵は、ゆっくり瞬きをした。
 別の光景が、脳裏に蘇る。

 舞台の上。カメラを構えた杉原の前に、部員たちが並んでいる。
「久遠。ちょっといいか」
 久遠を呼ぶ顧問に向けて、あの子が声を張り上げた。
「先生、写真撮るだけだから久遠先輩ちょっと貸して!」
 芽美も笑いながら頷いている。
「すぐ戻しますから!」
 先生は少しだけ困った顔をしてから、「……少しだけだぞ」と言って、機材の整理を始めた。
 久遠は「戻すって……」と笑いながら、舞台の上に戻っていった――。

 その光景が、ずっと前から知っていたことのように、すとんと意識の底へ沈んでいく。

 葵は怖くなって写真を握りしめた。
 剥がれかけた壁紙を、無理やり押し戻すような不快感。

 久遠はいなかった。……いや、いた。

 二つの正解が、ひとつの椅子を奪い合うように、脳を掻き乱す。
 矛盾しているはずなのに、どちらの光景も「真実」としての手触りを持って、葵の意識を真っ二つに裂こうとしていた。

 喉の奥に、ひやりとした泥のようなものが落ちた。
 写真を押さえたまま、息の仕方を忘れたように動けずにいると、ベランダのガラス戸が、かすかに鳴った。

 部屋に滑り込んだ風の気配に、葵ははっと顔を上げた。
 反射的に、写真を鞄の中へ押し込む。
 ファスナーを閉める金属音が、やけに大きく響いた。

「……何してたの?」

 いつの間にか、Qちゃんが部屋の中に立っていた。
 表情は、いつもと変わらない。
「な、何でもない。……ちょっと、びっくりして」
 Qちゃんは一瞬、葵の顔を見つめてから、「そう」と肩をすくめた。
 それ以上は、何も聞かない。
 代わりに、彼はゆっくりと踵を返した。
「今日はもう、帰るわね」
「……え?」
「頭、使いすぎよ。そのまま寝なさい」
 軽く手を振って、Qちゃんの姿は夜の気配に溶けるように消えた。
 部屋に残されたのは、耳が痛くなるほどの静けさと、自分だけ。
 葵は、ベッドに倒れ込んだ。しばらくして、枕元のスマホが淡く光る。

【おやすみ】

 ​メッセージの着信とともに、短い合成音声が流れる。
 画面には、その四文字だけが、冷たく残っていた。

 ベッドに横になっても、すぐには眠れなかった。
 部屋の電気は消えているのに、網膜に焼き付いた残像のせいで、天井だけがぼんやりと目に残る。

 瞼を閉じると、さっきの写真が鮮明に浮かび上がった。

 不自然なのは、写真じゃない。
 自分の記憶のほうだ。

 過去が、静かに塗り替えられている――その感覚が、じわじわと毒のように全身へ回っていく。

『過去は、変わらないと思う?』
 杉原の言葉が頭をよぎる。

 事故は防げなかった。
 掌に刻みつけた、あの文字の感触を思い出して、葵は小さく身震いした。
 過去を変えることなんて出来ないのだと、あの瞬間、思い知らされたはずだった。

 けれど――写真は、たしかに変わっていた。
 目を逸らしても、自分の知らないところで変化が起きているのは確かだ。

『結崎さんがいてくれて良かった』
 久遠の言葉が脳裏をよぎり、胸の奥が、かすかに震えた。

 タイムリープする前の事実が、まだ辛うじて、記憶の端に引っかかっている。
 けれど、気づけば新しい出来事も「最初からそうだった」と思いかけている自分がいる。

 葵はふと不安に襲われ、ベッドの脇に置いていたメモ用紙へ手を伸ばした。
 確かめるようにペンを走らせる。

 今、覚えていることを。
 今、違和感として残っていることを。

 忘れてしまう前に、塗り替えられてしまう前に。
 書き終えてようやくペンを置くと、胸の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
 見返した紙には、思っていたより多くの違和感が残されていた。

(……過去は、変えられるの?)

 その考えが浮かんだ瞬間、心臓が強く脈打った。

 触れてはいけない真実に、指先が触れてしまったような感覚だった。
 葵はベッドの上で、逃げるように小さく身を縮めた。


 授業が終わった直後の教室。放課後の開放感と机を引く音が混じり、ざわめきが充満している。
 葵は呼吸を整え、意を決して隣の席へと向き直った。

 鞄から一冊のノートを取り出し、机の境界線へと差し出す。

「杉原くん。これ、借りてたノート」
 杉原が振り返り、ノートを受け取りながら静かに尋ねた。
「……使えた?」
「うん。ありがとう」
 葵はそれを合図にするように、一歩踏み込んだ。
「あのね、昨日の、写真のことだけど……」
 何かを口にしようと唇を開くよりも早く、杉原は小さく手を上げ、人差し指をすっと唇に添えた。
 
 ――静かに。

 言葉はなくとも、その仕草だけで充分だった。
 葵は息を呑み、小さく頷いてから、周囲の喧騒に紛れ込ませるように声を潜めた。
「……見たよ。私の記憶してたのと違ってた。でも……」

 言葉が途切れる。
 どう言い表せばこの違和感が伝わるのか。
 葵は口を開きかけて、ふと視線を泳がせた。

 教室の斜め後ろ。机を寄せ合っていた女子たちが、何気ない顔で話しながら、ときおりこちらへ視線を向けている。
 その視線は杉原に向いているようでいて、すぐ隣の葵にも向けられていた。
 目が合いそうになり、葵は咄嗟に視線を落とす。

 ――見られている。
 胸の奥が、わずかにざわついた。
 けれど杉原は気づいているのかいないのか、表情ひとつ変えない。

 葵は眉を寄せ、自身の内側で渦巻く感覚を必死に言葉へと紡ぎ出す。
「思い出そうとするたび、以前からそうだったような気もしてくるの……。どちらも正しいような、ひどくちぐはぐな感覚。……わけがわからないよね、ごめん」
 杉原は沈黙を守ったまま、ただ葵を見つめ続けた。
 その視線は葵の言葉の奥底にある「迷い」そのものを見透かしているかのようだった。

 やがて、彼はふっと目を伏せ、吐息がそのまま言葉になったかのような淡い声で呟いた。
「いや。……そんな気は、してた」
「え?」
 それは、葵の記憶の混乱を指しているのか。
 それとも――別のことを指していたのかは、わからなかった。
 葵は動揺を押し隠し、切迫した調子で問いを重ねた。

「杉原くん。昨日、私が話した……配置のこと。もう一度確認してもいい?自信がなくて。それと、写真も持ってきたの」
 葵は鞄に手をかけた。
 けれど杉原は、それを制するように小さく視線を動かす。
 葵の顔を一瞥すると、杉原は手元のノートの端を一枚、音もなく破り取った。
 そのまま迷いなくペンを走らせる。
 ​葵は、そのペン先を息を呑んで見つめた。
 昨日話したことが、彼の手元で、すらすらと文字になっていく。
「……他の学年の人の名前まで……」
 杉原はペン先を止めないまま、短く答える。
「実行委員やってたしな。聞いたことある。名字だけだけど」
 まるで、それが当然だと言うような口ぶりだった。
 書き終えると、杉原は紙を小さく折り畳む。
 立ち上がり、葵の机の横を通り過ぎる、ほんの一瞬。
 白い紙片が、音もなく置かれた。
 葵のすぐ側まで歩み寄り、耳元で掠れた声を響かせた。
「早めにしまって。……見られたら、ちょっと困るんだ」
 杉原の目が、葵の鞄へ一瞬だけ落ちる。
 葵が慌てて紙片を握り込むと、わずかに目を細めた。
「写真はいい。俺も持ってる」
 一度だけ視線が重なる。
「……結崎の感覚、多分それで合ってる」
 そう告げると、杉原はその場から離れていった。

 杉原が離れていくのを見送りながら、葵は紙片を机の上へ伏せた。
 つづけて鞄から写真を取り出す。
 重ねて確かめたい衝動が喉元まで込み上げる。
 けれど、その瞬間。

「葵」
 背後からの呼びかけに、葵は肩を跳ねさせた。
 すぐ背後にQちゃんが立っていた。
 ——聞かれる。
 杉原くんと、何を話していたのか。

 杉原の忠告が、頭の中にリフレインする。
 葵は慌ただしく、紙片を写真とともに制服のポケットへ押し込んだ。

「……ごめん、ちょっと用事」

 それだけ言うと、Qちゃんの返事も待たずに、葵は教室を飛び出した。
 廊下を足早に駆け抜け、角を曲がる。
 耳の奥では、心臓が早鐘のように激しく鳴り響いていた。
 Qちゃんの、すべてを知っているような瞳からは、逃げるしかなかった。

 静寂が戻った教室で、Qちゃんは去っていった足音の余韻をじっと聞いていた。
 唇の端を小さく持ち上げ、誰に聞かせるでもない独り言が、吐息のように零れる。

「……うーん」
 Qちゃんは少し首を傾げ、可笑しそうに、けれどどこか冷めた温度で微笑んだ。
「……やっぱり、バレちゃってるみたいね。私のこと」
 杉原が先ほどまで立っていた場所を、捕食者のような眼差しで見つめる。
「さて。あの子の心を救えるのかしら、あの小さな騎士さんは」
 人もまばらになった教室に、陽光だけが斜めに差し込んでいる。
 Qちゃんはその場に立ったまま、遠くで聞こえる喧騒に耳を傾けていた。

「……お邪魔虫にならないといいけど」

結崎メモ:

・文化祭 集合写真確認

✓ 結崎の位置 不一致
 記憶:右
 写真:左

✓ 隣接人物 不一致
 記憶:桜井なし
 写真:桜井芽美

✓ 久遠
 記憶:撮影時不在
 写真:写っている

確認事項
・結崎の記憶にのみ複数の相違あり
・写真上の並びに不自然な点なし