教室は、終礼間近の特有の熱気とざわめきに満ちていた。
文化祭実行委員として前に立つ杉原の隣で、葵は教室を見渡した。
背後の黒板には、葵の几帳面な文字で『文化祭・クラス出し物案』と書かれている。
チョークの白い粉が、西日に照らされて静かに舞っていた。
「では、多数決で決めたいと思います」
杉原の声で、ざわついていた教室がふっと静かになる。
三つに絞られた候補に次々に手が上がり、下りていく。
一通り数え終えた彼が、やがて顔を上げた。
「それじゃ、出し物はお化け屋敷で」
その瞬間、歓声とも悲鳴ともつかない声が弾けた。
「やったー!」「マジで?」
はしゃぐクラスメイトたちの輪の中で、葵だけがほんの一瞬、頬を強張らせた。
(お化け屋敷……)
Qちゃんと入ったあのお化け屋敷が、まだ記憶に新しい。
ひんやりとした、あの暗い通路。耳の奥にこびりついた叫び声。
(……あれを、やるの?)
胸の奥をよぎる不安を悟られないよう、葵はそっといつもの静かな表情を作り直した。
話は淀みなく、次の段階へ進んでいく。
教壇に立つ杉原は、手元のプリントの束を手際よく分けていた。
葵もその半分を受け取り、一番前の席の生徒へ配っていく。
「後ろに回してください」
紙が擦れる音とざわめきが教室のあちこちへ広がっていく。
配布を終えて教壇の前を離れかけたところで、杉原が「結崎」と呼び止めた。
「さっき連絡があって。このあと、女子の委員だけ集まるらしい」
「女子だけ?」
「たぶん、更衣室まわりの確認とかだと思う。……行けそう?」
——女子だけの集まり。
普段あまり女子の輪にいない自分としては、少しだけ気が重いのが本音だった。
けれど、特に断る理由もない。
「……うん、わかった」
葵が小さく頷くと、杉原は安堵したように目元を緩め、
「助かる」と短く返した。
指定された場所は理科室だった。
放課後のざわめきが色濃く残る廊下を歩きながら、長くならないといいな、と葵は小さくため息をつく。
背後からついてくるQちゃんが、「ねえ」と声をかけてきた。
「女子だけって、私もいいのよね?」
「……だめだと思う」
「なんでよ。こう見えて、結構乙女なのよ、私」
「とにかく、待ってて。すぐ終わると思うから」
Qちゃんは不満そうに何か言いかけたが、結局口を閉じた。
そして部屋の前に着くと、諦めたように腕を組む。
「……変なことになったら、呼びなさいよ。わかった?」
「……物騒なこと言わないで。大丈夫だから」
たぶん、と心の中で付け足しながら、葵は理科室の扉を開けた。
そして、背後で扉が閉まった、その瞬間。
違和感に足を止めた。
「……?」
窓のカーテンが全て閉められていた。
日中は普段使わない蛍光灯が、無機質に、白く部屋を照らしている。
誰もいない。
その時だった。
扉のすぐ傍、死角になっていた壁際から、すっと人影が動いた。
「……え?」
見上げた瞬間、そこに立っていた人物に目を見開いた。
杉原だった。
言葉を失った葵の前で、杉原は唇に人差し指を立てた。
『喋るな』――その拒絶に近い合図に、葵は息を呑む。
「……っ!」
杉原は無言のまま葵の手首を掴むと、部屋のさらに奥へ向かった。
その先には、かつて写真部が使っていた暗室が残されている。
杉原は黒い遮光カーテンをめくりながら、脇の壁に手を伸ばした。
かちり、と乾いた音がして、古い赤色灯がぼんやりと灯る。そのまま葵を中へ引き入れた。
くぐった瞬間、むっとした熱気が肌にまとわりつく。
扉が閉まると、外の光が完全に遮られた。
視界は赤い闇に塗り潰され、杉原の輪郭だけが不自然なほど濃く浮かび上がる。
杉原は葵の視線を追った。
けれど、その目が自分以外の何かを見ることはなかった。
それを確認すると、ようやく葵の手を離し、短く息を吐く。
「……悪い。驚かせた」
低く、落ち着いた声だった。
「結崎に、聞きたいことがあって」
「……聞きたいこと?」
思わず一歩引いた葵を見て、杉原はわずかに距離を取った。
暗室の静寂が、杉原の言葉を研ぎ澄ませていく。
杉原は言葉を選ぶように、一度、視線を伏せた。
「……中三の時の文化祭。俺が撮った演劇部の集合写真、覚えてる?」
突然の質問に、葵は目を瞬かせる。
ほんのわずかな間。
それからすぐに、その光景を思い起こす。
中学三年といえば、演劇部員として最後の文化祭だ。
――忘れるわけがない。
体育館での催しが全て終わり、片付けの途中。
実行委員の杉原が見回りに来たついでに「一枚撮るよ」と声をかけてくれたのだった。
赤い光の中で、杉原の目がこちらを射抜く。
「写真は、体育館の舞台前。演劇部員、全員並んで撮った」
杉原はそこで言葉を区切り、葵の瞳をまっすぐ見つめた。
「――そこに、誰が写ってた?」
「え、っと……」
「考えなくていい。今パッと浮かんだ景色だけでいいから」
促す声は低く、けれど有無を言わせない強さがあった。
「できれば、誰がどこにいたか、配置も」
「……配置……」
舞台前に横一列、その後ろに背の高い部員たちが並んでいた。
頭の中で、その頃の部員の顔が順に浮かんでくる。
ひとりずつ、名前を挙げていく。
久遠は――あの時、顧問に呼ばれて機材確認に行っていた。
だから、その写真には写っていない。
杉原は黙って耳を傾けていた。
時折、小さく頷くだけだった。
「結崎は、どこに写ってた?」
「……右下に」
少し考えてから、葵は続けた。
「端っこで……誰かと一緒に、って感じじゃなくて……」
三年間もそこにいたのに、結局誰にも心を開けなかった。
その事実を静かに突きつけられた気がして、葵は堪らず俯いた。
けれど杉原は気にした様子もなく、「そうか」と小さく頷いた。
まるで、今聞いた内容を頭の中で並べ替えているようだった。
暗室の赤い光が、静かに二人の間に落ちている。
――写真……
葵の胸の奥で何かが引っかかった。
あの文化祭から数日後。
確か、教室で杉原から呼び止められた。
そして、茶色い封筒を渡されたのだ。
『文化祭の写真、現像しておいたから』――そんなふうに言っていた気がする。
けれど、そのあと杉原は少し言い淀み、こう付け加えた。
『ただ、俺がいいって言うまで、中を見ないでほしい』
正直を言えば、見たかった。
けれど、彼がそんな風に頼んでくるからには、何か理由があるのだろうと思った。
そう思った途端、杉原の纏ういつもと違う空気が、急に現実味を帯びて感じられた。
これ以上、この沈黙の中にいるのが落ち着かなくて、思わず口を開く。
「……あ、あの、今日の集まりって……もしかして……本当はなかったの?」
絞り出すような葵の問いに、杉原の視線が揺れる。
しばらくの後、彼は観念したように息を吐いた。
「……ごめん。やむを得ず、嘘をついた」
葵は言葉をなくした。
責める気持ちよりも先に、困惑が込み上げる。
ここまで強引な真似をしてまで、二人きりにならなければならなかった理由が分からない。
「……どうして……。私に写真のことを聞いて、何を確認したかったの?」
杉原はそれに答えなかった。
話すべきかどうか逡巡するような沈黙。
やがて彼は、まっすぐに葵を見つめた。
「……結崎。過去は変わらないと思う?」
「え?」
唐突な問いだった。
けれど杉原の声には、冗談や思いつきの軽さは微塵もなかった。
それどころか、まるで答えを必死に確かめようとしているような切実ささえあった。
『過去は、変わらないと思う?』――?
脳裏をよぎる、いくつかの出来事。
本当は違う誰かが火傷するはずだった、杉原の火傷。
芽美との間に流れる、以前とは違う空気。
——掌に残る、あの文字の感触。
葵は小さくかぶりを振った。
「……そんなの、わからない」
視線を合わせたら、胸の内を読まれそうな気がして、葵は俯いて答えた。
杉原はしばらく黙っていた。
やがて、言葉を選ぶように口を開く。
「……じゃあ、確かめて欲しい」
「え……?」
「帰ったら、封筒の中を確認して」
葵は戸惑いのまま、顔を上げた。
「いいの?開けて」
「構わない。……中を見れば分かると思う」
「……わかった。帰ったら見てみる」
葵の返事に安堵したように、杉原は目を伏せた。
話はこれで終わりなのだと察して、葵はほっとする。
「あ、それと」
不意に杉原が顔を上げる。
「このことは、誰にも言わないで」
「……え?」
「もし誰かに“何の話だった?”って聞かれたら——」
一瞬だけ考えてから、言った。
「女子の仮装と、衣装の確認って答えて。お化け屋敷だし、着替えもある。それで通る」
わずかな沈黙のあと、杉原は視線を落とした。
「……それ以上は、言わないで」
暗室の赤い光が、杉原の横顔を切り取る。
その言葉の意味を、葵はうまく理解できなかった。
『ピンポンパンポーン』
軽快な音が鳴り、葵は思わずびくっと肩を揺らした。
校内アナウンスが流れる。教員の呼び出しだった。
杉原は、わずかに眉を動かしただけで、それ以上何も言わない。
アナウンスが終わるのを待って、葵は声を掛けた。
「……じゃあ、気付いたことがあれば明日、話すね」
杉原が静かに頷いた。
葵は一度だけ振り返り、扉を開けた。
室内の蛍光灯の光が暗室に細く差し込み、赤い部屋が一瞬だけ色を失う。
そのまま外へ出る。
歩きながら、胸の奥にひとつだけ、棘のような違和感が引っかかっていた。
『もし誰かに“何の話だった?”って聞かれたら』――。
クラスの中で、葵がそんな話題を出す相手など、いない。
それを、杉原が知らないはずはなかった。
……では、彼は一体、誰を想定してあの言葉を口にしたのだろう?
「おかえり。早かったわね」
近くで待っていたQちゃんが、ひらひらと手を振って笑顔を向けた。
緊張の余韻のせいで、葵の指先はまだ少し冷たい。
葵が何も言わずに歩き出すと、Qちゃんは慌てて付いてきた。
「ねえ、なんの話だったの?」
好奇心に満ちた目で覗き込んでくる。
葵はQちゃんをちらりと見て、それから前を向いた。
「……女子の仮装と、衣装の確認」
杉原に言われた通りの言葉が、驚くほど自然に口をついて出た。
「お化け屋敷だし、着替えとかあるから……」
その説明に、Qちゃんの視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
(聞かれるとしたら……Qちゃん?)
杉原は、彼の存在に気付いているのだろうか。
――まさか。
そんなはずはない。
思わず足を止めて、隣を見た。
Qちゃんは葵の視線に気付き、不思議そうに首を傾げる。
「なぁに?」
「……ううん、なんでもない」
慌てて首を振る葵の横顔を、Qちゃんは少しだけ目を細めて見つめる。
「……ふうん?」
その声は、いつものからかいよりも、どこか探るような色を帯びていた。
けれど、それ以上は何も追求してこなかった。
西日の差し込む廊下を、二人は静かに歩き出した。
夜、葵の部屋には深い静寂が落ちていた。
玄関の灯りはもう消え、家の中はしんと静まり返っている。
机の上のランプだけが、淡い橙色の光を落としていた。
ベランダのほうに、微かな気配がある。
外を向いたQちゃんが、黙ってそこに佇んでいた。
風に混じって、煙草の匂いがほんのりと流れ込んでくる。
葵は気づかれないように息を整え、引き出しの奥から古い封筒を引っ張り出した。
杉原から渡された、文化祭の写真の封筒だ。
『いいよって言うまで、見ないで』
不意に蘇った言葉に、指先が止まる。
――どうして、今まで忘れていたんだろう。
胸を過った疑問を振り払うように、ゆっくりと封を切る。
中から滑り出てきたのは、もう一回り小さな封筒だった。
その縁は、古びたセロハンテープで丁寧に目張りされている。
「……え?」
思わず声が漏れた。
表側には、マジックペンで大きめに書かれた文字。
『開けないで』
――間違いなく、杉原の字だ。
葵は文字の輪郭を指でなぞった。
これを書いたときの杉原には、それほどまでに『開けてほしくない理由』があったのだ。
「なんで……」
意を決して、中身を机の上へと滑らせた。
舞台の上で撮られた集合写真。
照明が強すぎて、全体の輪郭が白く飛んでいる。
あの一枚だ――そう確信して見つめた瞬間、葵の手が止まった。
心臓が、一拍遅れて跳ねる。
写真の中で、自分は端のほうに立っている。けれど――
立っている位置が、記憶と違った。
右側だと思っていた自分は、写真の中では左側にいた。
しかも、すぐ隣には芽美がいる。
肩が触れるほど近く、顔を寄せ合って楽しそうに笑っている。
そんなふうに並んで写った記憶など、どこにもない。
胸の奥が、すうっと冷える。——記憶違いだろうか。
そう思ったとき、さらに激しい違和感が襲いかかった。
(――『どっち』の記憶が?)
掘り起こそうとする過去が、急に砂のように形を失っていく。
思い出そうと抗うほど、確実だったはずの事実が揺らぎ、塗り替えられていく。
そして――
写真の隅へ視線を走らせた次の瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
二列目の端、白飛びした照明の光の縁に、一人の輪郭が静かに浮かび上がっていた。
顔立ちは朧げなのに、間違えようがなかった。
(……久遠、先輩――?)
久遠はカメラのほうを向いて、穏やかに、優しく笑っていた。
「……どうして……?」
掠れた声が、暗い部屋に消えた。
結崎メモ:
・お化け屋敷が苦手?
