校内に、放課後のチャイムが低く鳴り響く。
演劇部の部室前で、葵はふと足を止めた。
視線の先にある扉が、なぜかひどく遠く見える。
(ほんとに行っても、いいのかな……)
退部して以来、一度も部室には来ていなかった。
久しぶりすぎて、どうにも踏ん切りがつかない。
葵は無意識に長い前髪へ触れ、そのまま少しだけ顔を隠すように俯いた。
不意に、桜井の言葉が耳の奥をかすめる。
『よかったら、今度顔出してあげて?』
今度、は今日でもいいのだろうか。
急に不安になってくる。
躊躇っていると、階段の下から軽やかな足音が近づいてきた。
葵ははっと顔を上げる。
リズムよく階段を上ってきたのは、後輩の河野だった。
彼女は葵に気づかないまま、慣れた様子で部室の扉に手をかける。
「……あ」
思わず、葵の口から小さな声がこぼれた。その声に、河野の手が止まる。
振り返った彼女と視線がぶつかり、彼女はぱっと目を見開いた。
「結崎先輩!」
葵は、「えっと……久しぶり」とぎこちなく笑った。
「お久しぶりです。今、帰るところですか?」
「……え、あ、ううん……なんとなくこっち来ちゃって」
「じゃあ、少し寄っていきませんか? ちょうど練習も一段落ついたところなんです」
そう言って部室の扉を開ける河野の背中を見つめ、葵は足をすくませた。
背後で、Qちゃんがそっと囁く。
「行ってあげれば? 向こうも、せっかくの厚意で声かけてくれてるんだし」
隣を盗み見ると、Qちゃんは「大丈夫」とでも言うように、小さく頷いてみせた。
彼に後押しされたことで、わだかまっていたものがすっと軽くなる。
「……じゃあ……少しだけ」
「やった」
河野が屈託ない笑みを零した。
その笑顔に背中を押されるように、葵は、ゆっくりと一歩、部室のほうへ足を向けた。
開いた窓から滑り込む風が、カーテンを静かに揺らしていた。
奥のテーブルでは、部員たちが数人、並んで台詞の読み合わせをしている。
途切れ途切れの声が、広い室内にやわらかく反響していた。
最近入部した子たちなのだろう、どの生徒も初めて見る顔だった。
「あ、先輩。ここどうぞ」
河野に促され、葵は窓際の席に腰を下ろした。
見慣れていたはずの光景なのに、どこか違う場所に見える。
自分のいないところで、時間だけが先へ進んでしまったように。
ふと、棚の上に置かれた銀色のりんごが目に入った。
発泡スチロールで作った小道具。
——舞台の上に佇んでいた、石像姿の彼が、一瞬だけ鮮明に蘇る。
懐かしさと、うまく言葉にできない苦さが同時に胸の奥に広がり、葵はそっと視線をそらした。
「もしかして、桜井先輩から誘われました?」
「えっ?」
芽美のことだ。
図星を指され、葵は目を丸くする。河野はくすっと笑った。
「この間、桜井先輩がたこ焼き買ってきてくれたんです。差し入れに」
「たこ焼き……」
「はい。前に皆で食べたとき、盛り上がって楽しかったよね、って。その時に結崎先輩の話が出て」
「あ……、そうだったんだ」
「たこ焼き、結崎先輩、口にやけどしてましたよね」
「えっ……」
不意に持ち出された昔の話に、葵は目を瞬かせた。
「熱いってわかってるのに、そのまま食べちゃって。……誰かさんに気を取られてたせいで」
「ちょっ……」
葵は反射的に声を詰まらせる。
それが誰のことを指しているのかは、聞かなくてもわかった。
「『大丈夫です』って言いながら涙目になってたの、可愛かったです」
「……そんなの覚えてなくていいよ。恥ずかしいから」
葵が赤面すると、河野はふふふ、と優しく微笑んだ。
それから彼女は、最近の部活の様子や失敗談をたくさん聞かせてくれた。
笑い声が、さっきまでの静けさをやわらかくほどいていく。
ふと、机の端の台本に目が止まった。タイトルを見て、思わず息をのむ。
革命の時代を背景に、人の愛と生きる強さを描く大作——演劇部の規模でやるには、かなり挑戦的だ。
「……今年は、これをやるの?」
「そうなんです」
河野が、少し身を乗り出すようにして頷いた。
「今年は創立五十周年なので、大きい作品にチャレンジしてみようってことになって」
そのあたりで他の後輩も加わり、大道具や照明の苦労話をしてくれた。
けれど、どのエピソードを聞いてもどこか楽しそうで、それが少し眩しく映った。
――来てよかった。
ふと、そんな思いが浮かぶ。
壁際で腕を組んだまま見ていたQちゃんが、ふっと表情を緩めた。
「よかったじゃない」――そう言っているようだった。
「あ、それでですね。部で話し合って決めたんですけど」
ソファに腰掛けていた別の後輩が、思い出したように口を開く。
「今年は、OBの先輩方をお招きしてるんです」
「え……?」
思わず、声が少し上ずった。
「OBを……?」
卒業生。つまり、葵からしても先輩だ。
「五十周年で大作上演。せっかくだから声をかけようってことになって。とはいえ、私たちが入学した頃に在籍されてた先輩方だけですけど」
その時、Qちゃんの視線がほんの少し鋭くなった気がした。
「……そうなんだ」
葵は、棚の上のりんごにもう一度だけ視線を向けた。
――聞いてみようか。
久遠の名前が喉元まで込み上げる。
ここで急に尋ねたら不自然かもしれない。
それでも、連絡を取っているかもしれないという期待が、胸の奥で膨らんでいく。
「……じゃあ」
考えたら、もう聞けなくなるような気がした。
「久遠先輩……も、呼ぶの?」
意外にも、その名前はするりと口から出てきた。
部屋の空気が、一瞬だけ止まる。後輩たちは顔を見合わせた。
河野が、ぎこちなく笑みを消す。
「……あ」
何か言いかけて、言葉に詰まる。
重くなった沈黙を埋めるように、別の後輩が小さく口を開いた。
「久遠先輩は……ちょっと、難しいかもしれなくて」
「難しい?」
その不穏な響きを打ち消したくて、先を促す。
「えっと……これは、はっきりした話じゃないんですけど……」
河野が言い淀む。
「OBの案内を送るときに、顧問の先生が連絡先を探してくださったらしいんです。でも、今は誰とも連絡が繋がってないみたいで……」
すると、少し離れた場所にいた後輩が、小さな声で口を開いた。
「結崎先輩もご存知ですよね。はじめの頃、“神隠し”だって、みんな騒いでたの」
――神隠し。
そう騒がれていた頃も、きっと何か事情があるだけなのだと思っていた。
どこか遠くで、ちゃんと生きているのだと。
「でも、あの文化祭のあと、急にいなくなって……帰るところを見た人も、誰もいなかったらしくて。今も誰とも連絡が繋がらないらしいし。それで今は……亡くなったんじゃないか、って噂もあって」
胸の奥で膨らんでいた期待が、音もなくしぼんでいく。
「亡くなった」――その五文字だけが、熱を持たない記号のように、静まり返った部室を白く塗り潰していく。
「だから、その……」
河野が慌てたように口を開く。
「本当かどうか分からないし、みんなも確かめようがなくて。だから、あくまで『噂』なんですけど」
身体が、動かない。
動揺する葵を気遣うように、誰かがふわりと話題を変えた。
「今年の公演、ほんとに気合入ってて」
「照明も衣装も、去年よりずっと——」
後輩たちの言葉が、するするとすり抜けていく。
自分だけが、見知らぬ空間へ置き去りにされてしまったように。
ふと視線を滑らせると、Qちゃんが静かに目を伏せていた。
慰めの言葉も、軽口も、何一つ口にはしなかった。
ただ、冷ややかな静寂を纏って、そこに佇んでいる。
(……どうして、何も言ってくれないの?)
否定してほしかった。
そんなの嘘よと、いつもみたいに笑ってほしかった。
けれど、Qちゃんの頑ななまでの無言は、「その噂の重みを知っている」かのようで、葵の胸を引き裂いていく。
——そんなはず、ない。
けれど、否定の言葉は喉につかえたまま、外へは出てこなかった。
窓から入り込む風が、カーテンを優しく揺らす。
棚の上のりんご。 少しだけ欠けた塗装。
目に映る全てがいつもと同じはずなのに、葵の視界だけが、音を失った映画のように色褪せていった。
部員に別れを告げて、葵は部室を後にした。
隣を歩くQちゃんは、まだ何も言わない。
ただ、葵の重い足取りに合わせるように、影のように寄り添っているだけだった。
「……結崎?」
廊下の途中、不意に声が落ちてきた。
杉原だった。
実行委員のファイルを片手に、廊下の端に立っている。
「これ……」
そう言いかけて、杉原は言葉を止めた。
葵の顔には生気がなかった。
彼に気付くこともなく、そのまま通り過ぎていく。
杉原はゆっくりと振り返り、遠ざかっていく背中を見つめた。
それから、彼女が出てきたばかりの演劇部の部室へ視線を向ける。
扉は閉まっていて、中の様子はわからない。
杉原はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて何事もなかったように歩き出した。
校舎を抜け、校門を出る。
外は、いつもと変わらない穏やかな夕方だった。
まるで自分のものではないような感覚のまま、一歩一歩、踏み締める。
「葵。家、そっちじゃないでしょ。どこ行くの?」
窘めるようなQちゃんの声に、葵は答えなかった。
しばらく歩くと、見慣れた街並みが少しずつ遠ざかっていく。
大通りを一本外れると、視界が開けて河原に出た。
川に架かる古い橋が、夕暮れの光の中に静かに伸びている。
葵は立ち止まり、辺りを見渡した。
「この辺り……なのかな」
以前、久遠が、この橋が家から見えるのだと、何気なく話していたことがあった。
それだけだ。
それでも、気付けばここまで来ていた。
「……わかるわけないよね」
ぽつりと独り言をこぼして、また歩き出す。
欄干の隙間から落ちる影が、水面の上でゆらゆらと揺れていた。
さらさらと、耳に心地よい水の音。
葵は吸い寄せられるように橋の下へと歩いていく。
足元に、小さく揺れる白い花が目に留まり、葵はその場にしゃがみ込んだ。
「……」
今、泣いてしまったら、ここに来た理由まで失ってしまう気がした。
花を一本、指先で摘む。
それから、もう一本。
葵は川の縁まで歩み寄り、掌の中の花をそっと水面へ落とした。
白い花びらは一瞬だけその場に浮かび、やがて橋の影をくぐるように流れていく。
「……でも、どこかで」
葵は、風に溶けてしまいそうな声で呟いた。
「そうかもしれないって、思ってたんだよね……」
声は、すぐに風にさらわれて、形を失う。
足元を流れる水は、途切れることなく、同じ早さで先へ進んでいく。
何もなかったみたいに。
Qちゃんは小さく息を吐いた。
けれど何も言わず、同じ流れを見つめていた。
その時、背後から砂利を踏む足音が近づいてきた。
ざく、ざく、としっかりとした歩調。
通り過ぎるだけだと思った、その人影を、葵は吸い寄せられるように目で追った。
——見覚えがあった。
いつも久遠の隣で、楽しそうに笑ってた人。
部室にも、何度か顔を出していた。
遠ざかっていく背中に向かって、葵は喉の奥から声を絞り出した。
「あ、あの……っ!」
少し裏返った声が、夕暮れの空気に溶ける。
「え?」
男性が足を止めて、振り返った。怪訝そうに、けれどどこか驚いたような顔。
葵の胸が大きく波打つ。
「日高先輩、ですよね」
去年、卒業した先輩だ。
「あ、あの、私……」
葵が自分の名前を名乗ろうと、慌てて口を開いたその時だった。
「おー、久しぶり」
朗らかな声が降ってきた。
「結崎さん、でしょ」
「……えっ?」
葵の心臓が大きく脈打つ。
隣にいるQちゃんの視線が、わずかに揺れた。
まともに話したこともないのに、なぜ自分の名前を知っているのか。
葵が当惑に固まっていると、日高はふっと目元を緩めた。
「久遠から、話を聞いてたからね」
そう言って、彼は川べりの芝生に腰を下ろした。
(……久遠先輩が?)
戸惑いながら、葵もその隣に座る。
「それにしても、よく俺のこと覚えてたね」
「……あ、はい。久遠先輩と楽しそうに話してるの、よく見かけてたので……」
日高はどこか含みのある笑みを浮かべたまま、葵の顔を見つめた。
「……どうかしました?」
「いや、なんでも」
日高は小さく笑った。
「あの頃は、よく顔出してたからな。懐かしいな」
葵の脳裏に、当時の記憶が鮮明に蘇る。
いつも一歩引いて、どこか影を背負っているように見えた久遠が、日高の前でだけは、年相応の、呆れたような、でも本当に嬉しそうな笑顔を見せていた。
それが、当時の葵には少しだけ眩しくて、羨ましかったのだ。
日高は橋の上へ視線を向けた。
「俺ら、部活帰りによくあそこで話してたんだよ」
「……橋の上で?」
「うん。なんか、帰るタイミング一緒になること多くてさ。気づいたら、毎回あそこで立ち話してた」
日高は懐かしむように、遠くを見つめる。
「くだらない話ばっかだったけどな。自販機の当たりって本当に出るのかとか、購買の焼きそばパンは何分で売り切れるのかとか」
「……それ、どっちも日高先輩からふった話題ですよね」
「あ、バレた?」
葵は小さく笑った。
夕暮れの橋の上を、自転車が一台、静かに通り過ぎていく。
葵は、無意識に橋を見上げた。
――久遠が、そこにいた。
風に吹かれながら、欄干にもたれて、日高と並んで笑っている。
そんな光景が、ふと脳裏をよぎる。
「……久遠先輩は……私のこと、どんなふうに話してたんですか?」
葵は、恐る恐る問いかけた。
真実を知りたい気持ちと、触れるのが怖い気持ちが、胸の中でせめぎ合っていた。
「ああ」
日高は葵を振り返り、わずかに笑った。
「メイクの手伝いをしてくれてる、すごく気が利く後輩がいるんだって」
日高は懐かしい記憶を辿るように、言葉を継ぐ。
「あいつ、あんまり人には執着しないタイプなんだけどさ、君のことは褒めてたんだよ。『俺が使い散らかしたメイク道具まで、いつの間にか全部綺麗に拭いて、元の位置に戻してくれてる。あの子がいてくれて助かってるんだ』って。……あんなに嬉しそうに誰かの話をする久遠、珍しかったんだよね」
――葵は、言葉を失った。
視界の端がじわじわ熱く、滲んでいく。
(……見ててくれたんだ)
自分でも無意識にやっていたような、些細なこと。
ちゃんと見付けてくれていた。
「……そうですか」
葵は、声が震えるのを隠せなかった。
日高はそれには気付かない振りをして、「真面目すぎたんだよ、あいつ」と零した。
「俺、久遠とは中学一年の頃からずっと腐れ縁でさ」
寂しそうな微笑を浮かべ、言葉を選ぶように続けた。
「あの頃、家のことで少し立て込んでたみたいなんだ。……自分からは、絶対に表に出さなかったけどね」
「家のこと……」
「うん。俺も、詳しくは聞いてない。あいつ、そういうとこ頑なだったから」
不意に沈黙が降りた。
微かに夏の名残を含んだ風が、二人の間をすり抜けていく。
「実はさ……一度、連絡しようとしたんだ」
葵は、思わず息を呑む。
「でも……やめた。もし既読がつかなかったら、その瞬間に『あいつはもういない』ってことが現実になりそうで」
日高は力なく苦笑した。
「まあ、単なる既読無視なら、それはそれで凹むんだけどね」
おどけるような表情。けれど、その奥にある臆病なほどの切実さが、葵には痛いほど分かってしまった。
日高はそれ以上何も言わず、ただ川の流れに目を向けた。
「……ごめんね」
しばらくしてから、ぽつりと呟いた。
「後輩の君に、こんな湿っぽい話して」
葵は首を横に振った。
「いえ……こちらこそ、ごめんなさい」
日高は軽く会釈をして立ち上がり、「じゃあね」と、背中を向けた。
けれど数歩進んでから、ふと立ち止まる。
彼は振り返って、最後にこう言い残した。
「……久遠が君を気にかけてたってこと。それだけは、忘れないであげて」
押しつけのない、静かなエール。
日高は今度こそ手を振って歩き出した。
砂利を踏む音が少しずつ遠ざかっていく。
葵は、その背中をただ黙って見守った。
久遠が、自分のことを『あの子がいてくれて助かってる』――そう話していた。
胸の奥がじんわりと熱くなるのに、その奥底だけが冷え切っていく。
足音が完全に消え、川の音がようやく戻ってきた。
川は、何事もなかったかのように、ただ静かに流れていた。
杉原は、帰宅するとすぐ机に向かった。
鞄を下ろし、制服のまま椅子に腰掛ける。
やがて鞄の奥から一冊のノートを取り出すと、迷いなく、あるページを開いた。
結崎メモ:
・『四年前の事故』は、事実
・2023年(中学三年)文化祭以降、結崎の気力低下
→原因がある?
・2023年 文化祭終了後、『久遠 紡』失踪
書き殴られた幾つかの箇条書きの最後に、今日の日付を記す。
さらに、その下へ書き足した。
・また何かと話していた(内容不明)
・思い出すこと自体が、引き金になっている?
杉原はペンを止め、窓の外へ視線を投げた。
今朝の会話。
そして、放課後の教室。
結崎が返事をする、その直前。
ほんの一瞬――彼女は、無意識に視線を逸らした。
誰かの助言を待つような、あるいは、そこにいる誰かの機嫌を伺うような動き。
けれど、そこには埃の舞う午後の光があるだけで、何もなかった。
(――また、だ)
四年前の光景が蘇る。
何もない空間に向かって話していた、彼女の真剣な表情。
そしてさっきの戸惑ったような、どこか怯えたような瞳。
追い詰められた時に、彼女は『それ』を頼るのか。
「……」
杉原は小さく息を吐き、視線を伏せた。
あんな話を持ち出したのは、少し急ぎすぎたかもしれない。
突然の話題で、彼女を追い詰めすぎただろうか。
そこまで考えて、杉原は小さく首を横に振った。
情に流されるべきではない。
今はまだ、事実を集めるほうが先だ。
彼女が何に反応し、何を恐れているのか。
まずは、それを見極める必要がある。
杉原はノートを鞄の奥へと戻し、ゆっくりと立ち上がった。
今日のところは、これで十分だ。
これ以上は、彼女の「境界線」を乱しかねない。
窓の外では、夜の気配が静かに忍び寄っていた。
