名前のない想いの果てに


  翌朝は、文化祭実行委員会の招集がかかっていた。
 ホームルーム前のわずかな時間を使って、進捗の確認と連絡事項を共有することになっている。
 まだ人の疎らな廊下を歩きながら、葵はぼんやりと窓の外を眺めた。
 朝露を残した校庭が、淡い朝日に濡れていた。

「ねえ、ちょっと変なこと聞いていい?」
 隣を歩くQちゃんが、不意に声を掛けた。
「なに?」
「杉原くん、だっけ。あの火傷した子」
 瞬間、ざわりとした感触が蘇る。
「……うん、そうだよ」
「彼、あの時、何の担当だったの?」
「え?」
 意外な問いに、葵は瞬きをした。
 文化祭当日のカフェで、杉原が何をしていたのか――
 記憶は妙にぼやけていて、うまく掴めない。
 無理もない。四年前のことなのだ。
「杉原くんはお店には出てなかったし、確か……食材の調達とか、そういうのやってた気がする……」
「ふうん」
 Qちゃんは短く頷き、視線を真っ直ぐ前へ向けた。
「つまり、あの日、お店に来る予定はなかったってこと?」
 念を押すような問いに、葵は言葉に詰まる。
 クラス全員の動線を把握していた訳ではない。自信を持って言い切れなかった。
「……たぶん。でも、なんでそんなこと聞くの?」
「ううん」Qちゃんはふっと視線を逸らした。
「ちょっと、引っかかっただけ」
 珍しく、言葉を濁すような言い方だった。
 葵は微かに眉をひそめ、Qちゃんの顔を覗き込む。
「引っかかったって、何が?」
「気にしなくていいわよ」
「……そんな言い方されたら、よけい気になるじゃない」
 そこでようやく、Qちゃんはいつもの不敵な笑みを口元に浮かべた。
「いいってば。あんた、深刻ぶった顔しても似合わないし」
「なにそれ」
 Qちゃんはくすっと笑った。
「なんていうか、あんたが真剣な顔してる時って、だいたいろくなことにならないんだもの」
「……ひどくない?」
「事実でしょ」
 どこかで否定しきれない事実に、葵は口を閉ざす。
 余裕の笑みのQちゃんと視線がぶつかり、葵は軽く睨んだ。

 会議室の扉を開けると、すでに数人の生徒が席についていた。
 窓際の席に杉原の姿を見つけ、その隣へと歩み寄る。
「おはよう」
 小さく声をかけると、彼はプリントから顔を上げ、「おはよう」と小さく返した。
 葵も席につき、机に置かれていたプリントへ目を落とした。
 びっしりと並んだ活字の羅列に眠気が込み上げ、思わず欠伸を噛み殺す。
 その様子を見て、杉原がぽつりと声をかけた。
「寝不足?」
「……うん。なんか、変な夢見ちゃって……」
「どんな?」
「え? えぇと……」
 杉原が興味を示してきたことに、葵はわずかに戸惑った。
 ​夢の内容を口にするのは、なんとなく気恥ずかしい。
 けれど、彼のいつになく柔らかな表情に促されるようにして、葵は躊躇いがちに口を開いた。
「……暗い体育館にいるんだけど、私一人しかいないの。なのに、まわりから拍手が聞こえてきて……それも、すごい大きい音。まるでたくさんの人に囲まれてるような……」
「……不気味だな」
 杉原は、趣味の悪いホラー映画の感想でも聞いたように、わずかに口元を歪ませた。
 葵は苦笑いして、手元のプリントの端を無意識にいじった。
​「でも、そのうち拍手が少しずつ小さくなって……気づいたら一つだけになってた。しかもそれ……私が叩いてる音だったの」
 ​そこまで話して、葵はふと我に返った。
 朝の教室、それも杉原を相手に話すような内容ではなかったかもしれない。
​「ごめんね、朝から変な話。……杉原くんは? 変な夢とか、見ない?」
 ​杉原は視線を机に戻し、ペンを指先で弄んだ。
​「俺は……あまり見ないな。寝たらそれっきりだ」
​「そっか。……いいな」
​「でも」と、杉原が言葉を継ぐ。
​「拍手ってことは、誰もお前を攻撃してないんだろ。不気味だけど、悪い予兆じゃないんじゃないか。……たぶん」
 ​ぶっきらぼうだが彼なりの気遣いが混じった言葉に、葵は目を瞬いた。
 胸の奥の強張りが、ほんの少しだけほどける。
​「……そうだといいんだけど」

 葵は、窓の外に広がる青い空を見上げた。 夢の中で自分の手が刻んでいた、あの熱いリズム。
 あれは過去の自分への称賛だったのか、それとも、これから始まる何かへのエールだったのか。

 コ、コ、と杉原のペンが机を叩く単調な音を聞きながら、葵は消えかけた手のひらの感覚を、もう一度だけ確かめるように握りしめた。

 ――ピタ、と音が止まる。
 杉原はしばらくペンを弄びながら、何かを咀嚼するように一点を見つめていた。
 が、ふと顔を上げて、葵に視線を戻す。 

「それ、似たようなこと、実際にあったりした?」
「え……」
 不意を突かれ、葵は思わず言葉に詰まった。

(実体験……)

 体育館。拍手。
 最近の出来事で重なるのは、昨日見た、四年前の文化祭だ。
 けれど、そんな昔のことを実体験として語るのは少し不自然な気がした。
 無意識に視線が彼の背後へと流れる。
 そこには腕を組んだQちゃんが立っていた。一瞬、彼と目が合う。
 Qちゃんは表情を消したまま、けれど明確に拒絶するように首を横に振った。
(そうだよね……変なこと言わないほうがいいよね)
 葵は手元のプリントに目を落とした。
「……どうかな……。よくわからない。でも、忘れてるだけかも」
 あからさまに泳いだ視線、不自然な間。
 その時、何気なく葵を見ていた杉原の目が、微かに見開かれた。
 それは驚きというより、葵が一瞬向けた視線の意味を、測りかねたような表情だった。

 次の瞬間――杉原の瞳が、葵の視線の先をなぞるように動いた。

 そこには、誰もいない。

 朝の陽光が透けるカーテンと、何もない、ただの空白。

 けれど、杉原の視線はその「空白」の真ん中でぴたりと止まった。

 確かめるように、わずかに目を細める。
 
 葵は、その視線に気づかないまま、ふと杉原の腕に目をやった。
 熱いスープが、彼の肌を襲ったあの瞬間がフラッシュバックする。
 今は長袖のシャツに隠され、その痕跡を窺い知ることはできない。
「……そっか」
 杉原は、淡々と頷いた。
「まぁ、夢ってそんなものだよな」
 そう続けて視線をプリントに落とす。
 けれど、ページをめくることも、内容を追いかけることもしない。
 ただ一点、同じ行をじっと見つめたまま、彼の思考はどこか遠い場所で止まっていた。


 二時間目は数学の授業だった。
 葵は黒板の文字を目で追いながら、昨日見た光景を思い出していた。
 メイク助手として、久遠の隣にいた時間。
 幕が下りたあとの、部員たちの弾けるような笑顔。
 それから、カーテンコールが始まり、メイク道具を片付けていた時――

(……久遠先輩に、名前を呼ばれた?)

 拍手の音に紛れて、聞いた気がした。
 けれど、はっきりとは思い出せない。
(……気のせい、だったのかな)

 その不確かな感触をなぞるように、視線をノートに落とした――その時だった。
(……え?)

 突然、強い目眩が葵を襲った。

 チョークの音が遠ざかる。
 代わりに、部室特有の湿った木の匂いとスナック菓子の匂いが鼻を掠めた。

 次の瞬間、目の前の景色がふっと揺らぐ。
 そこは、公演後の熱気が残る演劇部の部室だった。

――『葵ちゃん」

 賑やかな喧騒を、不意に割る声。
 顔を上げると、そこには久遠がいた。
 いつも通り、穏やかな表情。
 彼はすぐ近くで葵を見つめている。

「部長、いま『葵ちゃん』って呼んだ?」「久遠先輩、いつから名前呼び?」「距離近くない?」
 茶化すような声が次々と上がり、部室の温度が一段階跳ね上がる。
 葵はいたたまれず視線を逸らした。その先で、芽美が(やったね)と小さくピースを向けて笑っている。

(……こんなこと、あったっけ?)

 懐かしさはなかった。まるで今はじめて経験したかのように。
 けれど――それは、逃げ場のなくなるような恐ろしい鮮明さで、最初からそこにあったかのように、葵の記憶の隙間にぴたりと収まっていく。

「……結崎」
 低く名前を呼ばれて、葵は弾かれたように顔を上げた。
 脳裏に流れていた記憶の景色が、一瞬にして霧散する。
「この問題、どうなる?」
 ​教壇に立つ教師が、チョークの先で黒板を指した。葵は慌てて手元の教科書を開く。
 けれど、めくる指先がどこかもたついて、目指すページが見当たらない。
「えっと……」
 助けを求めるように黒板を仰ぎ見る。
 白い曲線で描かれた二次関数のグラフが、葵の当惑を見透かすように冷たく鎮座していた。
 けれどまだ、どの問いを投げかけられているのかわからず、焦りで鼓動が速くなる。
 そのとき、隣からかすかな気配がした。
 杉原が、顔を伏せたまま、自分のノートの端にペンを走らせている。
 誘われるように視線を落とすと、そこには見慣れた彼の筆跡で、小さな数式が並んでいた。
 y=a(x−1)²+2
 さらにその下には、頂点(1,2)と書き添えられている。​葵は、その数字をなぞるように黒板を見つめた。
「……頂点が、(1,2)なので……」
 声に出した瞬間、杉原のペンが止まる。
「そう。じゃあ、aはいくつ?」​重なる問いかけに、今度は少しだけ落ち着きを取り戻して答える。
「……1、です」
「正解」
 先生は満足気に頷いて、次の問題に進んだ。葵は、こっそりと胸の内で息を吐く。
 ノートに視線を戻すと、杉原はもう何事もなかったかのように、自分の計算を続けていた。
「……ありがとう」
 小さく伝えると、杉原は顔を上げないまま、短く返した。
「どういたしまして」
 けれどそっけないその一言が、浮き上がっていた葵の意識を、少しだけ現実へと引き戻してくれた。

 終礼のチャイムが鳴って、教室の空気が一気に緩む。
 椅子を引く音や、あちこちで弾ける楽しそうな声が教室を満たしていく。
 葵は、ちらりと隣の席を見た。杉原は手際よく帰り支度を進めていて、今にも立ち上がってしまいそうな雰囲気だ。

(もう一度、ちゃんとお礼を言わなきゃ……)

 心を決めて、一歩踏み出した時だった。
 杉原が、不意にこちらを振り返った。
 目が合い、葵はどきりとする。

 思ったよりも近い距離にいたことに、彼も一瞬だけ目を見開いたが、すぐにふっと表情を緩めた。
 一瞬だけ、その距離に意識が引っかかる。
 けれど次の瞬間には、もうそれも薄れていた。

「……授業中、なんか考え事してた?」
「え?」
「いや、なんか上の空みたいだったから」
 図星を指されて、恥ずかしくなる。
 「……考え事、っていうか……」
 葵は視線を伏せ、小さく息を吐いた。
「昔のこと、ちょっと思い出してて」
「昔?」
「うん。でもなんか……思い出すうちに、自分の記憶にないことまで浮かんできて……」
 うまく説明できなくて、言葉が途切れる。
「……変だよね。思い違いだと思うんだけど」
 曖昧に笑おうとした、その時――

 さっき流れ込んできた記憶の断片が、遅れて浮かび上がってきた。
 部室のざわめきを静めるように響いた、久遠のさり気ない声。

 ――「なんか、葵ちゃん、のほうがイメージに合うかなって」――

 それはあまりに自然で、迷いのない響きだった。
 そこにいた全員が、それ以上何も言えなくなってしまったほどに。

 嬉しさと、懐かしさと。
 それから、もう二度と触れられないかもしれない時間の重みが、波のように押し寄せてくる。

(ああ、そうだったんだ…)

 鼻の奥がつんと熱くなり、視界がじわりと滲む。
 逃げ場を失った感情が、一気に熱となって頬へ駆け上がった。

 黙り込んだ葵の様子を、杉原は黙って見つめていたが、
「……顔、赤いけど。大丈夫か?」
 わずかに眉を寄せ、心配そうに覗き込んだ。
 至近距離でかけられた戸惑い混じりの声に、葵は弾かれたように視線を逸らす。
 その先では、腕を組んで立つQちゃんが、赤面する葵を心底わけが分からないといった顔でこちらを凝視していた。
「ち、違うの」
 誰にともなく、言葉が口をつく。
「……なにが?」
 杉原が、少しだけ首を傾げた。
 葵は言葉に詰まり、唇を噛む。この状況が説明できるはずもない。
「ね、寝不足のせいかな……ほら、変な夢見て、ちょっと早起きしちゃったから……」
 苦し紛れの言い訳。杉原はどこか納得していない様子で「そうか」と短く返したが、やがて何かを思い出したように自分の鞄を探る。
「これ」
 差し出されたのは、杉原のノートだった。
「今日の数学。あんまりきれいな字じゃなくて悪いけど」彼は小さく笑った。
 板書が追えていなかったことまで、しっかり見抜かれていたらしい。
 葵はいたたまれない気持ちになりながらも、
「……ありがとう」と、両手でノートを受け取った。

「そうだ、昨日思い出したんだけどさ」
 杉原が、何気ない口調で言葉を継いだ。
「結崎ってたしか、中等部のとき演劇部に入ってたよな」
 その瞬間、教室のざわめきが遠のいた。
 身体が強張る。
 杉原の顔を見上げると、その目はもう笑っていなかった。
「なんで、やめたの?」
「……」

 思いがけない問いに、一瞬、言葉を失った。
 それは、何か事情があるのだと察して、部員も、家族も、誰も聞いてこなかった聖域。——踏み込まれずに済んでいたはずだった。

 返答に困り、視線を滑らせると、Qちゃんは少し考える素振りをしてから、小さくため息をついた。
「……高校に上がったら、勉強が忙しくなると思って。でいいんじゃない?」
 葵は、機械的にその言葉をなぞった。
「……高校に上がったら、勉強が忙しくなると思って」
「そうか」
 杉原はそれ以上、深追いはしなかった。
「でも、ちょっと意外だった」
「……え?」
「なんか、部活紹介の劇、かなり真剣に見てたから。てっきり高校でも続けるのかと思ってた」
 杉原は、そこで一度言葉を切った。
「あの時、石像を演じてた人。覚えてる?」
 どくん、と心臓が大きく跳ねた。
 けれど、杉原の声は穏やかに、ただ記憶の糸をたどっているだけだ。
 そこにはもちろん特別な意図も、探るような色も含まれてはいない。
 久遠の失踪は、表向きには「転校」ということになっている。
 接点のなかった杉原なら、その裏側を知るはずもないのだ。
​「俺、本物の石像かと思ったよ。メイクも、彫りの深さも。あそこまで徹底できる人って、なかなかいないと思う」
 ​耳に届く彼の声だけが、やけに鮮明で、やけに遠い。
 すぐ傍で、ふっと柔らかな気配がした。
「不器用ね、あなたは」
 低い声が、そっと肩口に触れる。
 ほんの少し、ため息を混ぜたような響きだった。
「そういうときは、そのまま言葉を返せばいいのよ」
 葵は反射的に視線を上げかけて――杉原の前だと思い出し、慌てて手元のノートに目を戻した。
「……すごかったね。本当に、石像みたいで」
 自分の声なのに、どこか遠くから響いているみたいだ。
 杉原はそんな葵をしばらく見ていたが、やがてわずかに視線を横に滑らせた。
 葵の、斜め上。――まるで、そこに「何か」があるのを確かめるように。
 Qちゃんもまた、杉原のほうを見ていた。
 ほんの一瞬、お互いの姿に気付いているのではないかと思ってしまうほどの、しじま。

 やがて杉原は小さく頷くと、それ以上話を広げることはしなかった。                  
 教室のざわめきが、元に戻っていく。
 杉原が席を立とうとした、その時だった。
「……あ、あの」
 葵は引き留めるように声を絞り出した。
「ノート、ありがとう。……さっきも、助けてくれて」
 今度は、ちゃんと言えた。
 杉原は少し意外そうに目を見張ったあと、短く頷き、そのまま教室を出ていった。
 その背中を見送りながら、葵は胸の奥に残った戸惑いを、そっと心の隅にしまい込んだ。