扉を押し開けた瞬間、世界から一切の音が消えた。
「……っ!」
突き刺さるような光に、思わず腕で顔を覆う。
恐る恐る腕を下ろし、目を瞬いた葵は、その光景に息を呑んだ。
――がらんとした体育館。
さっきまでそこにあったはずの数百の人の姿が、跡形もなく消えている。
――いや、それだけじゃない。
整然と並んでいたはずの椅子も、床のラインテープすらも、綺麗さっぱり剥ぎ取られていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
耳の奥で鳴り響いていた、あの耳障りな電子音すら、いつの間にか消えていた。
代わりに落ちてきたのは、じりじりと肌を焼くような熱だった。
傾いた西日が、鋭く体育館を斜めに切り裂いている。
(……さっきまで、あんなに薄暗くて、寒かったのに)
肌にまとわりつく、濃密な夏の熱気。
眩しさに目を細めながら、葵はそっと足を踏み出した。
「……先輩」
はっとして、葵は声を漏らした。
胸の奥が、急激に冷えていく。
「先輩!」
再び舞台裏へと駆け込み、控え室の扉を押し開ける。
——誰も、いない。
さっきまで確かにあったはずの人の気配が、嘘のように消えていた。
メイク台も、椅子も、ただ整然と並んでいるだけだ。
言葉が喉の奥でつかえ、膝から力が抜けた。
そのままその場に崩れ落ち、座り込む。
床の無機質な感触がじわりと伝わってきた。
「……ちょっと。私のことは気にならないわけ」
背後から、聞き慣れた声がした。
弾かれたように振り返る。
影の中に溶け込むように佇むQちゃんが、呆れ顔でこちらを眺めていた。
「探すの、先輩ばっかり。……薄情よねぇ」
彼はそう言って肩をすくめる。
けれどその瞳は、柔らかく葵の目を捉えていた。
ふらつく足取りで舞台裏を抜け、体育館の真ん中まで歩みを進めると、葵はゆっくりと辺りを見回した。
「夢だったの⋯?」
思わず漏れた声に、Qちゃんがわずかに肩をすくめる。
「夢じゃないわ。元の世界に戻ってきたのよ。二〇二五年に」
そう言って、彼は人気のない館内をぐるりと見回す。
葵は震える手でスマホを取り出し、画面を点けた。
「……二〇二五年、九月五日」
――間違いない。現在の日付だった。
Qちゃんはわずかに視線を漂わせて、
「二十五時間、ね」
ぽつりと呟いた。
「……え?」
「向こうでの滞在時間。まぁ、想定内かしら」
淡々とした口調。それが、長いのか短いのかも、葵にはよくわからなかった。
ふと、視界の端に自分の腕が映り込んだ。
さっきまで纏っていたはずの厚い長袖の袖口はなく、剥き出しの肌が西日に白く照らされている。
(……半袖)
慌てて胸元へ視線を落とす。
銀色に光る校章は、中等部のものではなく、確かに高等部のものだった。
二日間、確かに「向こう」にいたはずなのに。
まるでその時間だけが、きれいに切り取られてしまったようだ。
「……とにかく、外へ出よう」
外に出れば、何か分かるかもしれない。
足早に入口へ向かう。けれど、扉の前で葵は不意に立ち止まった。
「鍵……」
そうだ、施錠されたのだった。
隣を仰ぎ見ると、Qちゃんのきょとんとした目と視線がぶつかった。
「……ね、Qちゃんの能力で開けられない?鍵」
「は?」
Qちゃんが即座に顔をしかめる。
「開けられるわけないでしょ。なんで私がそんな都合のいい存在なのよ。物理干渉できないって言ったの、忘れたの?」
「そうじゃなくて……例えば『閉め出された時の鍵の開け方』とか知ってるじゃない」
Qちゃんは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから小さく息を漏らした。
「……まぁ、ピッキングの理論とか、この型番のシリンダー構造ならデータにあるわよ」
呆れたように肩をすくめる。
「でも、それを実行する“指”がないの。私が解説したところで、あんたにヘアピン一本で開けられる?」
「う……それは、無理かも」
「でしょ。知識があっても意味ないのよ。……ていうか」
Qちゃんが顎で扉を指した。
「まず、開けてみたら?」
「……え」
葵は扉に向き直る。恐る恐るドアノブに手をかけ、押し込む。
——開いた。あっけないほど、何の抵抗もなく。
葵は固まったまま、ゆっくりと振り返った。
「……開いた」
「見ればわかるわよ」
Qちゃんは呆れたように顔を顰めた。
そう言えばあの時、確か先輩たちが、鍵を開けてくれて――。
(でも、あれは……四年前でのことだよね?)
頭の中で、時間の感覚がねじれていく。
混乱したように表情を揺らす葵を、腕組みをして見守っていたQちゃんが、ぽつりと声をかける。
「そもそも施錠が、四年前のことだったんでしょ」
「……え」
「こっちでは、閉められてもいないの」
葵は数秒黙り込んでから、じわじわと顔を赤くした。
「……なんで先に言ってくれないの」
「面白かったから」
飄々と言うQちゃんのおでこに、背伸びしてデコピンを――空振りして、葵は体育館をあとにする。
背後でQちゃんが小さく笑うのが聞こえたが、気付かない振りをした。
渡り廊下へ出た瞬間、湿り気を帯びた生暖かい風が頬を撫でた。
西日の残る校庭の向こうに、白く霞んだ、まだ夏の終わりの色が濃い空が広がっていた。
校舎の中へ足を踏み入れると、行き交う生徒の姿に、胸の奥がわずかにほどける。
——戻ってきたんだ。
その事実がようやく現実味を帯びてきて、ゆっくりと息を吐き出す。
教室へ向かって歩き出そうとした、その時だった。
向こうから、見覚えのある姿が近付いてきた。
「あっ、あおちゃん」
目が合うと、芽美がぱっと笑った。
「あ……」
笑顔を返そうとして、不意に止まる。
(『あおちゃん』――?)
呼ばれ慣れない響き。
部活だけでしか接点のない彼女は、いつも『結崎さん』と呼んでいた――はずだ。
(……そうだっけ?)
急に、その記憶が曖昧になってくる。
『部長のこと、好き?』
さっきまでいた、四年前の文化祭の日。
彼女にそう聞かれて、そのあと少しずつ言葉を交わすようになった――そんな『別の過去』がぼんやりと浮かんでくる。
「……めぐ」
唇から溢れた声に、芽美が「ん、なに?」と首を傾げてくる。
桜井さん、ではなく、めぐ。
そんな風に呼ぶようになったのは、いつからだろう。
記憶の輪郭は霧のようにぼやけていて、掴もうとすればするほど指の隙間からこぼれ落ちていく。
葵は奇妙な感覚を振り払うように「ううん、何でもない」と首を振った。
「ね、あおちゃん、実行委員やるんだって?」
「うん」
葵の迷いない返事に、芽美は少し驚いた顔をした。
「すごいね。うちのクラス誰もやりたがらなくて。結局くじ引きになったんだよ」
「あ、うちもそう。それで私が引いちゃって……」
「あはは。そうなんだ。それは大変だね。ペアは誰?」
「杉原くん」
その名前を出した瞬間、彼女の身体がぴたりと止まった。
それから少し身を寄せて、声を潜める。
「……杉原くんのクラスに、彼の熱狂的なファンのグループがいるって聞いてるけど……大丈夫? 変なことされたりしてない?」
「熱狂的なファン……」
ふと、保健室に入ってきた女の子たちの、刺すような視線が蘇る。
「ちょっと黒い噂もあるみたいだし。何かあったら、すぐ先生に言いなね」
「……そうする」
その時はじめて、背中にひやりとしたものが走った。
実行委員になれば、放課後や朝の時間など、どうしても二人きりで行動する機会が増える。
相方の存在など、彼女たちにとっては目の上のこぶも同然だろう。
「でも、よかったね。くじ引きなら誰も恨みようがないもんね」
芽美がほっとしたように笑う。
「うん……ん?」
頷きながら、ふと違和感が頭をもたげる。
(くじ……)
あの時、くじを引いて自分が実行委員に決まった、あの直後。
男子も同じようにくじを引こうとして――
『俺がやります』
杉原が挙手した光景が一瞬、脳裏をよぎった。
「そうだ」
不意に、芽美が明るい声を上げた。
思考がふっと途切れる。
「この間ね、河野さんがあおちゃんの話してたよ」
「え……河野さんが?」
一個下の後輩で、演劇部の裏方をよく手伝っていた女子だ。
「うん。みんなで昔の打ち上げの話してる流れで、『結崎先輩、最近見ないけど元気かな』って。会いたがってたよ」
「え、えぇ……?そうなの?」
芽美は現在も演劇部を続けている。
会う度にこうして部内の様子を教えてもらえるのは、有難かった。
「ね。よかったら時間あるときにでも顔出してあげて? 喜ぶと思うよ」
「……うん。わかった」
葵が頷くと、芽美は安心したように笑った。
「じゃあ、またね」
軽く手を振って、芽美が軽やかな足取りで歩き出す。
その小さくなっていく後ろ姿を、Qちゃんはいつになく真剣な眼差しで、じっと見つめていた。
「……どうしたの?」
葵が不思議そうに声をかけると、Qちゃんは「ああ……」と、どこか上の空で応じる。
「……ああいう子が、あんたのクラスにもいたらよかったのにね」
意外な言葉に、葵はきょとんとした。
それから、あまりの唐突さがおかしくなって、小さく笑った。
「……Qちゃん、少し過保護すぎない?」
図星を突かれたのか、彼は少し拗ねたような表情を見せた。
「……なによ。ああいう緩衝材みたいな子、必要でしょ」
理屈っぽい言い訳。
少しぶっきらぼうなその声に、葵の口元が自然と緩む。
「ごめん、心配してくれた?」
葵は一歩踏み出し、歩きながらQちゃんを振り返った。
「でも、居場所は違っても……いてくれるだけで充分だよ」
一瞬、Qちゃんの動きが止まった。
レンズの奥の光が瞬くような――あるいは、プログラムにないノイズが走ったような、形容しがたい空白。
けれど葵はそれに気づかないまま、「行こ」と促して教室の方へと歩き出した。
その夜。
ひどく静かな体育館に、葵はぽつんと一人で立っていた。
そこには色も熱もなく、ただ深い闇だけが澱んでいる。
照明は落ち、舞台も客席も、まるで亡霊のように輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
誰も、いない。
それなのに――どこからか、拍手が聞こえてくる。
最初は遠く、霧の向こうから響くような音だった。
それが次第に近づき、密度を増し、体育館の冷たい天井に反響し始める。
どこを見ても、人影はない。
ただ、空間そのものが拍手の音に支配されていた。
葵はその音に耳を澄ませた。
拍手の合間に、規則正しい足音が混じる。
誰かが舞台を横切った気配がして、自分の名前を呼ばれたような気がした。
けれど、それが誰の声なのか、はっきりとは聞き取れない。
(……だれ?)
闇に目を凝らすうちに、拍手の数が少しずつ減り始めた。
一つ、また一つと音が間引かれていく。
最後に残ったのは、たった一人分の拍手だった。
――見下ろすと、自分の手の音だった。
葵は確かに、自分の手を叩いていた。
がらんとした体育館に響くその音は、やけに大きく、無遠慮に鼓膜を叩く。
驚いて手を止めた瞬間、体育館から音が消えた。
――はっと息を吸い込んで、目が覚めた。
暗闇に浮かぶ天井と、激しく刻まれる心音だけがそこに残る。
枕元では、時計の秒針だけが、淡々と時を刻んでいた。
葵は起き上がり、暗闇の中でしばらく自分の手を見つめていた。
さっきまで、誰かに向けて熱心に拍手を送っていた感覚。
手のひらに残る微かな痺れと熱が、冷え切った夜の空気の中で、いつまでも消えずに残っていた。
・『久遠 紡』文化祭の後に失踪
