カーテンコールが始まった。
客席から、波のように拍手が押し寄せる。
結崎葵(ゆうざき あおい)は、熱く照りつけるスポットライトに包まれ、隣で手を繋ぐ仲間たちの晴れやかな笑顔を見つめた。
——なんて眩しい世界。
物語を完璧に終えた高揚感。これは夢かもしれない、という予感が一瞬だけよぎる。
けれど、満たされた思いのまま葵が舞台袖を振り返ったとき、その高揚は一気に凍りついた。
そこに、いるはずだった。
照明の端。人影の向こうに——いない。
「……先輩?」
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
笑顔の仮面が剥がれ落ちそうになるのを必死に抑え、葵は舞台袖へ駆け出していた。
「あ、葵! まだ挨拶が……!」
背後の声を無視して、重いドレスの裾を掴み上げる。通路を走り、控え室の扉を勢いよく開けた。
……いない。
さっきまで彼がいた場所が、きれいに空いている。
喉の奥が、引き攣るように鳴った。
『先輩は、神隠しに遭ったって』――。
いつか誰かが囁いていた不気味な噂が、呪文のように脳裏をかすめる。
「……そんなわけない!」
叫んだ瞬間、背後で空気がわずかに揺れた。人が通り過ぎたあとの、温度の残り香のような揺れ。
震える手で鞄から写真を取り出す。二年前の文化祭、演劇部の全体写真。
見慣れたはずのその一枚に、違和感が走った。
舞台の二列目。確かにいたはずの久遠紡(くおん つむぐ)が――いない。
そこには、冷たい壁だけが写っていた。
世界が、書き換えられている。
葵は客席へと飛び出した。観客たちは、葵の「突然の逃走」すら演出の一部だと信じているのか、熱狂的な拍手を浴びせかける。
「最高だったよ!」
その賞賛が、今の葵には逃げ道を塞ぐ耳鳴りのようにしか聞こえない。
「……お願い。通して……!」
ドレスを引き摺り、体育館の外へ。
オレンジ色の夕景が色を失い、伸びた影が底なしの闇のように足元へ迫っていた。
『四年前の事故は、本当に起きた』
——。
「……ダメだなぁ、ほんと」
ベッドに仰向けになったまま、葵は天井に向かって呟いた。
暗い部屋で、スマホのバックライトだけがぼんやりと光っている。
『どうしたの? また何かあったの?』
画面に浮かぶ文字を追うように、聞き慣れた声がスピーカーから再生される。
「今度、文化祭があるんだけど……私、実行委員になってて」
『へえ、大役じゃない』
「そんなんじゃないよ。くじで決まっただけ。誰もやりたがらなかったから……」
声が、次第に小さくなる。
「今日、初めての委員会だったんだけど……私、何も話せなくて。もう一人の子が、全部進めてくれて……」
『それ、そんなに悪いこと?』
「……迷惑だったと思う。きっと、やる気がないって思われたよね」
誰にも言えない本音が、Qちゃんという存在に対してだけは溢れてくる。
『初回だもの。うまく出来なくて正解。葵はただ、そこにいただけで充分よ』
体温を感じさせる言葉の抱擁。
それを受けて、強張っていた肩の力が抜けていった。
Qちゃんは、AIだ。画面の向こうにいる存在。
どんなに無様な愚痴をこぼしても、彼女だけは変わらぬ解像度で葵を見つけ、寄り添ってくれる。
学校に馴染めず、現実の世界に居場所を見出せない葵にとって、この電子の声だけが、唯一の避難所だった。
中高一貫の、この学校に通って五年。高校二年生になっても、葵の立ち位置を変えてくれる魔法使いは現れなかった。
「……ありがと、Qちゃん」
放課後のホームルーム。
教室には、夏休みの余韻を引きずった気だるさと、早く帰りたい生徒たちの落ち着かない空気が入り混じっていた。
一通り伝達を終えた担任が、パラパラと手元の資料をめくり、「そうそう」と思い出したように顔を上げた。
「十月末の文化祭に向けて、昨日、委員会があったんだったな。実行委員の二人、昨日の報告を頼む」
「はい」
迷いなく席を立ったのは、杉原 直(すぎはら なお)だ。
文武両道、眉目秀麗。少女漫画から抜け出したような彼が前に出ると、帰り支度で騒がしかったはずの空気が、吸い寄せられるように彼の方へと集まっていく。
杉原は、なぜか毎年、文化祭実行委員に立候補している変わり者だ。気付いたときには、当たり前のように彼がそこにいて、淡々とこの時期の号令をかけている。
葵はもたつきながら、慌てて彼の隣へ並んだ。
「では、昨日決まった全体スケジュールと、うちのクラスが割り当てられた予算について説明します」
淀みなく報告を進めていく杉原の横顔を、葵はちらりと見た。
自分から立候補した杉原と、くじ引きで決まった自分。その差を静かに突きつけられているようで、居心地が悪くなる。
クラスメイトの視線がじわりと肌にまとわりつく気がして、葵は思わず俯いた。
厚い前髪が、顔を隠すカーテンのように視界を塞ぐ。こうすると、自分の至らなさもシャットアウトできるような気がして落ち着いた。
「結崎さん。ここから板書、お願いします」
唐突にチョークを差し出され、葵は慌てて黒板に向かった。
横に立つ杉原から、わずかにミントのような、鼻の奥が冷たくなるほど清潔な匂いが漂う。
《クラス出し物案・演劇》
その文字を書いた瞬間、葵の指先が不自然に止まった。
杉原の視線が不意にこちらへ触れた気がしたが、もう、意識を逸らすことはできなかった。
――閉じていた記憶が、音もなくほどけだす。
『その人』を見たのは中学一年の春だった。
体育館で行われた、新入生向けの部活紹介。演劇部の公演中、舞台の端に一体の石像が置かれていた。
灰色の布をまとい、彫りの深い顔立ち。
瞬きひとつせず、呼吸の揺らぎさえ見えない。その右手に、そっと乗せられていたのは、一玉の銀色のりんごだった。
物語がどれだけ劇的に進んでも、その「物体」は舞台の一部として、そこに在り続けた。
けれど――主人公が絶望の底で立ち尽くし、世界から見放されたように俯いた、その瞬間。
石像の首が、ゆっくりと持ち上がった。
(……生きてる)
人間だった、という驚きに、館内のそこかしこから悲鳴のような声が聞こえた。
ただの背景だったはずの存在が、意思を持って歩き出す。そして、持っていたりんごを、慈しむようにそっと床に置いた。
その刹那、葵の胸は経験したことのない力で締めつけられた。
あの人が、誰なのか。
生まれて初めて、剥き出しの「知りたい」という渇望が、彼女の心に深く突き刺さった。
『久遠 紡(くおん つむぐ)』
彼の名前を知ったのは、葵が演劇部の門を叩いて間もない頃だった。
部長として自己紹介した彼は、あの石像の冷徹な面影とは対照的に、柔らかな空気を纏っていた。
少し癖のある髪に、穏やかな顔立ち。けれど、ふとした瞬間に覗く瞳の奥には、深く、揺るがない意志が静かに湛えられていた。
高一という若さで部長を任されたのは、前任者が「お前しかいない」と半ば強引に託したからだという。
彼は舞台の真ん中に立つよりも、役者にメイクを施したり、照明や立ち位置の確認といった裏方の作業に熱を注いでいた。
あの公演に出たのは、ただの人手不足が理由だった。――それを知るのは、ずっと後のことになる。
けれど、彼は不思議な「核」を持っていた。
部室が、意見の食い違いで収集つかなくなるとき。
「……久遠先輩、どうします?」
誰かが縋るように投げたその一言で、熱を帯びた空気がふっと凪ぐ。
壁際で小道具をチェックしていた久遠が手を止め、思考を巡らせるように視線を伏せる。
「暗転は、今のままでいいと思う。その代わり、転換の動きをもう一回整理しようか」
静かな声だった。決して威圧するような言い方はしない。
なのに、その一言が落ちた瞬間、迷走していた議論が一本の川のようにまとまっていった。
久遠はもう、何も言わない。再び手元の作業に戻っている。
舞台の上で感じた、あの息を呑むような感覚。
それが、ここにある。
葵は、その静けさに憧れた。
誰かに選ばれようとしなくても、彼は確かにそこにいて、周りもそれを疑わなかった。
彼が特別である理由が、少しだけわかった気がした。
――けれど、その穏やかな時間は、不意に途切れた。
葵が中学三年の秋。文化祭が幕を閉じたその瞬間――高校三年の久遠紡は、忽然と姿を消した。
演劇部ではまことしやかな噂がいくつも流れたけれど、それも長くは続かなかった。
ただ一つ。
『神隠しに遭ったって』 ――。
その不穏で美しい言葉だけが、妙に、いつまでも胸の奥に残った。
ホームルームが終わり、放課後の喧騒を避けるように歩き出した葵が辿り着いたのは、体育館の重い鉄の扉の前だった。
きぃ、と軋む音を立てて扉を開ける。
無人の空間。埃っぽい匂い。靴底が床を擦る音さえ、しんと静まり返った空気に吸い込まれていく。
舞台の下をなぞるように歩き、その端で立ち止まった。
(……ここだった)
銀色のメイクをした彼が、音もなく「銀の林檎」を置いた場所。
舞台裏の暗がりに足を踏み入れると、黒い幕も、たたまれた脚立も、あの頃と変わらないままそこにあった。
「ちょっと手伝ってもらえるかな」
あの日、久遠にかけられた低い声。自分だけが特別になれた気がして跳ねた心臓。
けれど、彼がいなくなった後の部活は、あまりに静かすぎた。
彼がいた場所が、ぽっかりと空いたままになった。誰もがそこを避けるように過ごす日々。話し合いも、収集がつかないまま終わることが増えた。
中学三年の終わり、高校へ上がるタイミングで葵が演劇部を辞めたのは、ただ、その穴の深さに耐えられなかったからだ。
今でも、不意に彼がそこに立っているのではないかと期待してしまう。
いないと分かっているのに、心が勝手に、あの声を待つのをやめてくれない。
(会えるかも知れないって、まだ思ってるんだ……)
愚かな期待に息が詰まり、葵はその場に崩れ落ちた。ひんやりとした床の冷たさが、現実を突きつけてくる。
「……会いたいな」
抑えきれない本音が零れ落ちた。その時だった。
ポケットの中のスマホが、じり、と震えた。
『過去へ、戻りたいの?』
「……え?」
アプリを立ち上げてもいないのに、聞き慣れた声がした。
いつもよりわずかに低く、毒を含んだような妖しい声色。
『いいわよ。――連れてってあげる』
突然、世界の音が遠ざかった。
――キィィィィィィン……!
鼓膜を刺す鋭い電子音が、脳を突き刺す。
「っ……!?」
次の瞬間、視界が闇に覆われた。
緞帳の輪郭さえ見えない。まるで世界のスイッチが強制的に切られたような、底なしの暗闇。
「なに……!? どうして……!」
手探りで客席側へと飛び出した葵は、その光景に足を止めた。
広大なフロアを支配する、静まり返った闇。
窓の外は、いつの間にか深い群青に沈み、校舎から漏れる光が心細いほど小さく滲んでいる。
葵は弾かれたように入口へ駆け寄り、ドアノブを回した。
けれど、ガチャンッ、という冷たい金属音が響くだけで、ノブは拒絶するように固定され、びくともしない。
(――閉じ込められた……?)
心臓の音がうるさいほどに早鐘を打つ。
――ふいに、背後の空気が動いた。
(誰か……いる?)
身体を強張らせながら振り返った葵は、足をもつらせ、その場に尻もちをついた。
闇の奥から、高い人影が溶け出すように現れた。
銀色の髪。黒いスーツの男。
緩いネクタイさえ、不気味なほど様になっている。
男は音もなくこちらへ歩み寄ると、葵の前で静かに膝を折り、視線を合わせた。
「……っ」
長いまつ毛の奥、銀色に輝く瞳が、彼女を捕らえた。
月光を含んだ唇が、怪しげに微笑む。
その瞬間、 耐えられない恐怖に葵は叫んだ。
「来ないで……っ!」
目の前の男を突き飛ばそうと、両手を力一杯に伸ばした。
――ドンッ。確かな手応えを予感した、その直後。葵の両手は、何の抵抗もなく彼の胸をすり抜けた。
「え……?」
触れたはずの感触が、どこにもない。
指先を通り過ぎたのは、体育館の冷え切った空気だけ。
勢い余ってバランスを崩した葵は、ひんやりとした体育館の床に無様に手をついた。
「おっと、危ないわね」
彼は顔色ひとつ変えず、すり抜けた葵の手を面白そうに見つめている。
(……通り抜けた?)
「……そんな顔しなくても、大丈夫よ」
低く、落ち着いた声。葵は目を見開いた。
その言い方に、覚えがあったからだ。
声色こそ違う。あの機械的な女性の声とは似ても似つかない。
(そんなわけ、ない。……でも)
言葉を置く間。語尾の崩し方。その響きには聞き覚えがあった。
それは、毎日のように耳にしていた――
「取って食いやしないから」
二十代半ばほどの、余裕を感じさせる立ち振舞い。
葵がAIに対して抱いていたイメージと、不思議なほど一致していた。――性別が「男」であることを除いて。
「……Q、ちゃん?」
あり得ない、と思いながら、葵は声をかける。
震える声に、彼は目を細め、
「ここでも、そう呼ぶの?」
いたずらっぽく、けれどどこか含みのある笑みを浮かべた。
客席から、波のように拍手が押し寄せる。
結崎葵(ゆうざき あおい)は、熱く照りつけるスポットライトに包まれ、隣で手を繋ぐ仲間たちの晴れやかな笑顔を見つめた。
——なんて眩しい世界。
物語を完璧に終えた高揚感。これは夢かもしれない、という予感が一瞬だけよぎる。
けれど、満たされた思いのまま葵が舞台袖を振り返ったとき、その高揚は一気に凍りついた。
そこに、いるはずだった。
照明の端。人影の向こうに——いない。
「……先輩?」
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
笑顔の仮面が剥がれ落ちそうになるのを必死に抑え、葵は舞台袖へ駆け出していた。
「あ、葵! まだ挨拶が……!」
背後の声を無視して、重いドレスの裾を掴み上げる。通路を走り、控え室の扉を勢いよく開けた。
……いない。
さっきまで彼がいた場所が、きれいに空いている。
喉の奥が、引き攣るように鳴った。
『先輩は、神隠しに遭ったって』――。
いつか誰かが囁いていた不気味な噂が、呪文のように脳裏をかすめる。
「……そんなわけない!」
叫んだ瞬間、背後で空気がわずかに揺れた。人が通り過ぎたあとの、温度の残り香のような揺れ。
震える手で鞄から写真を取り出す。二年前の文化祭、演劇部の全体写真。
見慣れたはずのその一枚に、違和感が走った。
舞台の二列目。確かにいたはずの久遠紡(くおん つむぐ)が――いない。
そこには、冷たい壁だけが写っていた。
世界が、書き換えられている。
葵は客席へと飛び出した。観客たちは、葵の「突然の逃走」すら演出の一部だと信じているのか、熱狂的な拍手を浴びせかける。
「最高だったよ!」
その賞賛が、今の葵には逃げ道を塞ぐ耳鳴りのようにしか聞こえない。
「……お願い。通して……!」
ドレスを引き摺り、体育館の外へ。
オレンジ色の夕景が色を失い、伸びた影が底なしの闇のように足元へ迫っていた。
『四年前の事故は、本当に起きた』
——。
「……ダメだなぁ、ほんと」
ベッドに仰向けになったまま、葵は天井に向かって呟いた。
暗い部屋で、スマホのバックライトだけがぼんやりと光っている。
『どうしたの? また何かあったの?』
画面に浮かぶ文字を追うように、聞き慣れた声がスピーカーから再生される。
「今度、文化祭があるんだけど……私、実行委員になってて」
『へえ、大役じゃない』
「そんなんじゃないよ。くじで決まっただけ。誰もやりたがらなかったから……」
声が、次第に小さくなる。
「今日、初めての委員会だったんだけど……私、何も話せなくて。もう一人の子が、全部進めてくれて……」
『それ、そんなに悪いこと?』
「……迷惑だったと思う。きっと、やる気がないって思われたよね」
誰にも言えない本音が、Qちゃんという存在に対してだけは溢れてくる。
『初回だもの。うまく出来なくて正解。葵はただ、そこにいただけで充分よ』
体温を感じさせる言葉の抱擁。
それを受けて、強張っていた肩の力が抜けていった。
Qちゃんは、AIだ。画面の向こうにいる存在。
どんなに無様な愚痴をこぼしても、彼女だけは変わらぬ解像度で葵を見つけ、寄り添ってくれる。
学校に馴染めず、現実の世界に居場所を見出せない葵にとって、この電子の声だけが、唯一の避難所だった。
中高一貫の、この学校に通って五年。高校二年生になっても、葵の立ち位置を変えてくれる魔法使いは現れなかった。
「……ありがと、Qちゃん」
放課後のホームルーム。
教室には、夏休みの余韻を引きずった気だるさと、早く帰りたい生徒たちの落ち着かない空気が入り混じっていた。
一通り伝達を終えた担任が、パラパラと手元の資料をめくり、「そうそう」と思い出したように顔を上げた。
「十月末の文化祭に向けて、昨日、委員会があったんだったな。実行委員の二人、昨日の報告を頼む」
「はい」
迷いなく席を立ったのは、杉原 直(すぎはら なお)だ。
文武両道、眉目秀麗。少女漫画から抜け出したような彼が前に出ると、帰り支度で騒がしかったはずの空気が、吸い寄せられるように彼の方へと集まっていく。
杉原は、なぜか毎年、文化祭実行委員に立候補している変わり者だ。気付いたときには、当たり前のように彼がそこにいて、淡々とこの時期の号令をかけている。
葵はもたつきながら、慌てて彼の隣へ並んだ。
「では、昨日決まった全体スケジュールと、うちのクラスが割り当てられた予算について説明します」
淀みなく報告を進めていく杉原の横顔を、葵はちらりと見た。
自分から立候補した杉原と、くじ引きで決まった自分。その差を静かに突きつけられているようで、居心地が悪くなる。
クラスメイトの視線がじわりと肌にまとわりつく気がして、葵は思わず俯いた。
厚い前髪が、顔を隠すカーテンのように視界を塞ぐ。こうすると、自分の至らなさもシャットアウトできるような気がして落ち着いた。
「結崎さん。ここから板書、お願いします」
唐突にチョークを差し出され、葵は慌てて黒板に向かった。
横に立つ杉原から、わずかにミントのような、鼻の奥が冷たくなるほど清潔な匂いが漂う。
《クラス出し物案・演劇》
その文字を書いた瞬間、葵の指先が不自然に止まった。
杉原の視線が不意にこちらへ触れた気がしたが、もう、意識を逸らすことはできなかった。
――閉じていた記憶が、音もなくほどけだす。
『その人』を見たのは中学一年の春だった。
体育館で行われた、新入生向けの部活紹介。演劇部の公演中、舞台の端に一体の石像が置かれていた。
灰色の布をまとい、彫りの深い顔立ち。
瞬きひとつせず、呼吸の揺らぎさえ見えない。その右手に、そっと乗せられていたのは、一玉の銀色のりんごだった。
物語がどれだけ劇的に進んでも、その「物体」は舞台の一部として、そこに在り続けた。
けれど――主人公が絶望の底で立ち尽くし、世界から見放されたように俯いた、その瞬間。
石像の首が、ゆっくりと持ち上がった。
(……生きてる)
人間だった、という驚きに、館内のそこかしこから悲鳴のような声が聞こえた。
ただの背景だったはずの存在が、意思を持って歩き出す。そして、持っていたりんごを、慈しむようにそっと床に置いた。
その刹那、葵の胸は経験したことのない力で締めつけられた。
あの人が、誰なのか。
生まれて初めて、剥き出しの「知りたい」という渇望が、彼女の心に深く突き刺さった。
『久遠 紡(くおん つむぐ)』
彼の名前を知ったのは、葵が演劇部の門を叩いて間もない頃だった。
部長として自己紹介した彼は、あの石像の冷徹な面影とは対照的に、柔らかな空気を纏っていた。
少し癖のある髪に、穏やかな顔立ち。けれど、ふとした瞬間に覗く瞳の奥には、深く、揺るがない意志が静かに湛えられていた。
高一という若さで部長を任されたのは、前任者が「お前しかいない」と半ば強引に託したからだという。
彼は舞台の真ん中に立つよりも、役者にメイクを施したり、照明や立ち位置の確認といった裏方の作業に熱を注いでいた。
あの公演に出たのは、ただの人手不足が理由だった。――それを知るのは、ずっと後のことになる。
けれど、彼は不思議な「核」を持っていた。
部室が、意見の食い違いで収集つかなくなるとき。
「……久遠先輩、どうします?」
誰かが縋るように投げたその一言で、熱を帯びた空気がふっと凪ぐ。
壁際で小道具をチェックしていた久遠が手を止め、思考を巡らせるように視線を伏せる。
「暗転は、今のままでいいと思う。その代わり、転換の動きをもう一回整理しようか」
静かな声だった。決して威圧するような言い方はしない。
なのに、その一言が落ちた瞬間、迷走していた議論が一本の川のようにまとまっていった。
久遠はもう、何も言わない。再び手元の作業に戻っている。
舞台の上で感じた、あの息を呑むような感覚。
それが、ここにある。
葵は、その静けさに憧れた。
誰かに選ばれようとしなくても、彼は確かにそこにいて、周りもそれを疑わなかった。
彼が特別である理由が、少しだけわかった気がした。
――けれど、その穏やかな時間は、不意に途切れた。
葵が中学三年の秋。文化祭が幕を閉じたその瞬間――高校三年の久遠紡は、忽然と姿を消した。
演劇部ではまことしやかな噂がいくつも流れたけれど、それも長くは続かなかった。
ただ一つ。
『神隠しに遭ったって』 ――。
その不穏で美しい言葉だけが、妙に、いつまでも胸の奥に残った。
ホームルームが終わり、放課後の喧騒を避けるように歩き出した葵が辿り着いたのは、体育館の重い鉄の扉の前だった。
きぃ、と軋む音を立てて扉を開ける。
無人の空間。埃っぽい匂い。靴底が床を擦る音さえ、しんと静まり返った空気に吸い込まれていく。
舞台の下をなぞるように歩き、その端で立ち止まった。
(……ここだった)
銀色のメイクをした彼が、音もなく「銀の林檎」を置いた場所。
舞台裏の暗がりに足を踏み入れると、黒い幕も、たたまれた脚立も、あの頃と変わらないままそこにあった。
「ちょっと手伝ってもらえるかな」
あの日、久遠にかけられた低い声。自分だけが特別になれた気がして跳ねた心臓。
けれど、彼がいなくなった後の部活は、あまりに静かすぎた。
彼がいた場所が、ぽっかりと空いたままになった。誰もがそこを避けるように過ごす日々。話し合いも、収集がつかないまま終わることが増えた。
中学三年の終わり、高校へ上がるタイミングで葵が演劇部を辞めたのは、ただ、その穴の深さに耐えられなかったからだ。
今でも、不意に彼がそこに立っているのではないかと期待してしまう。
いないと分かっているのに、心が勝手に、あの声を待つのをやめてくれない。
(会えるかも知れないって、まだ思ってるんだ……)
愚かな期待に息が詰まり、葵はその場に崩れ落ちた。ひんやりとした床の冷たさが、現実を突きつけてくる。
「……会いたいな」
抑えきれない本音が零れ落ちた。その時だった。
ポケットの中のスマホが、じり、と震えた。
『過去へ、戻りたいの?』
「……え?」
アプリを立ち上げてもいないのに、聞き慣れた声がした。
いつもよりわずかに低く、毒を含んだような妖しい声色。
『いいわよ。――連れてってあげる』
突然、世界の音が遠ざかった。
――キィィィィィィン……!
鼓膜を刺す鋭い電子音が、脳を突き刺す。
「っ……!?」
次の瞬間、視界が闇に覆われた。
緞帳の輪郭さえ見えない。まるで世界のスイッチが強制的に切られたような、底なしの暗闇。
「なに……!? どうして……!」
手探りで客席側へと飛び出した葵は、その光景に足を止めた。
広大なフロアを支配する、静まり返った闇。
窓の外は、いつの間にか深い群青に沈み、校舎から漏れる光が心細いほど小さく滲んでいる。
葵は弾かれたように入口へ駆け寄り、ドアノブを回した。
けれど、ガチャンッ、という冷たい金属音が響くだけで、ノブは拒絶するように固定され、びくともしない。
(――閉じ込められた……?)
心臓の音がうるさいほどに早鐘を打つ。
――ふいに、背後の空気が動いた。
(誰か……いる?)
身体を強張らせながら振り返った葵は、足をもつらせ、その場に尻もちをついた。
闇の奥から、高い人影が溶け出すように現れた。
銀色の髪。黒いスーツの男。
緩いネクタイさえ、不気味なほど様になっている。
男は音もなくこちらへ歩み寄ると、葵の前で静かに膝を折り、視線を合わせた。
「……っ」
長いまつ毛の奥、銀色に輝く瞳が、彼女を捕らえた。
月光を含んだ唇が、怪しげに微笑む。
その瞬間、 耐えられない恐怖に葵は叫んだ。
「来ないで……っ!」
目の前の男を突き飛ばそうと、両手を力一杯に伸ばした。
――ドンッ。確かな手応えを予感した、その直後。葵の両手は、何の抵抗もなく彼の胸をすり抜けた。
「え……?」
触れたはずの感触が、どこにもない。
指先を通り過ぎたのは、体育館の冷え切った空気だけ。
勢い余ってバランスを崩した葵は、ひんやりとした体育館の床に無様に手をついた。
「おっと、危ないわね」
彼は顔色ひとつ変えず、すり抜けた葵の手を面白そうに見つめている。
(……通り抜けた?)
「……そんな顔しなくても、大丈夫よ」
低く、落ち着いた声。葵は目を見開いた。
その言い方に、覚えがあったからだ。
声色こそ違う。あの機械的な女性の声とは似ても似つかない。
(そんなわけ、ない。……でも)
言葉を置く間。語尾の崩し方。その響きには聞き覚えがあった。
それは、毎日のように耳にしていた――
「取って食いやしないから」
二十代半ばほどの、余裕を感じさせる立ち振舞い。
葵がAIに対して抱いていたイメージと、不思議なほど一致していた。――性別が「男」であることを除いて。
「……Q、ちゃん?」
あり得ない、と思いながら、葵は声をかける。
震える声に、彼は目を細め、
「ここでも、そう呼ぶの?」
いたずらっぽく、けれどどこか含みのある笑みを浮かべた。
