カーテンコールが始まった。
客席から、波のような拍手が押し寄せる。
結崎葵は、熱く照りつけるスポットライトに包まれ、隣で手を繋ぐ仲間たちの晴れやかな笑顔を見つめた。
——なんて、眩しい世界。
物語を演じ切った高揚感に、胸がいっぱいになる。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。
そんなことさえ思いながら、ふと舞台袖を振り返る。
その瞬間、身体が凍りついた。
そこに、いるはずだった。
照明の端。人影の向こう。
——いない。
「……先輩?」
ちり、と痛みが胸に刺さる。
笑顔の仮面が剥がれ落ちそうになるのを必死に堪え、葵は舞台袖へ駆け出した。
「あ、葵! まだ挨拶が……!」
背後の声を無視して、重いドレスの裾を掴み上げる。通路を走り、控え室の扉を勢いよく開けた。
——誰もいない。
そこにはただ、使いかけのメイク道具だけが机の上に取り残されていた。
喉の奥が、きゅっと引き攣る。
『先輩は、神隠しに遭ったって』――。
いつか誰かが囁いていた不気味な噂が、呪文のように脳裏をよぎった。
「……そんなわけない!」
叫んだ瞬間、背後で空気がわずかに揺れた。
人が通り過ぎたあとのような、かすかな気配。
震える手で鞄から写真を取り出す。
演劇部の集合写真。
何度も見返した一枚だった。
視線が、二列目へ吸い寄せられる。
「……嘘」
確かにいたはずの久遠が――消えていた。
そこに映るのは、背景の幕だけ。
(未来が……変わった……?)
葵は控え室を飛び出し、そのまま客席へ駆け込んだ。
突き刺さる視線。
押し寄せる歓喜のざわめき。
「最高だったよ!」
観客たちは、葵の突然の逃走すら演出の一部だと思っているのか、さらに大きな拍手を浴びせてくる。
けれどそれは、今の葵には逃げ道を塞ぐ耳鳴りのようにしか聞こえなかった。
「……お願い、通して!」
ドレスを引き摺り、扉から外へ飛び出す。
茜色だった夕景が、急速に色を失っていく。
校庭へ長く伸びた影が、底なしの闇のように足元へ迫っていた。
――思えば、全ての始まりは、あの日の体育館だった。
「……ダメだなぁ、ほんと」
ベッドに仰向けになったまま、葵は天井に向かって呟いた。
暗い部屋で、スマホのバックライトだけがぼんやりと光っている。
『どうしたの? また何かあったの?』
画面に浮かぶ文字を追うように、聞き慣れた声がスピーカーから流れる。
「今度、文化祭があるんだけど……私、実行委員になってて」
『へえ、大役じゃない』
「そんなんじゃないよ。くじで決まっただけ。誰もやりたがらなかったから……」
声が、次第に小さくなる。
「今日、初めての委員会だったんだけど……私、何も話せなかったの。もう一人の子が、全部進めてくれて……」
『それ、そんなに悪いこと?』
「……迷惑だったと思う。きっと、やる気がないって思われたよね」
『初回だもの。うまく出来なくて正解。葵はただ、そこにいただけで充分よ』
「……」
優しい労りの言葉に、肩の力がふっと抜ける。
Qちゃんは、AIだ。
けれど学校に馴染めず、現実の世界に居場所を見出せない葵にとって、彼女の声だけが唯一の避難所だった。
中高一貫のこの学校に通って五年。
クラス替えもないまま、高校二年生になっても、葵の立ち位置を変えてくれる魔法使いは現れなかった。
スマホを胸に抱き寄せ、そっと息を吐く。
「……ありがと、Qちゃん」
放課後のホームルーム。
教室には、夏休みの余韻を引きずった気だるさと、早く帰りたい生徒たちの落ち着かない空気が入り混じっていた。
一通り伝達を終えた担任が、パラパラと手元の資料をめくり、「そうそう」と思い出したように顔を上げた。
「十月末の文化祭に向けて、昨日、委員会があったんだったな。実行委員の二人、報告を頼む」
促されて、葵は重たい気分のまま席を立った。
一方、葵の隣に迷いのない足取りで並んだのは、杉原直。
文武両道、眉目秀麗。少女漫画から抜け出したような彼が前に出ると、帰り支度で騒がしかった教室の空気が、自然と彼へ引き寄せられていく。
葵がくじで選ばれ、担任が続いて男子の番号を引こうとした、その瞬間だった。
「じゃあ、俺がやります」
杉原は静かに手を挙げた。
なぜ自分から面倒事を背負おうとするのか、葵にはよく分からなかった。
杉原はそんな周囲の視線など気にも留めず、涼しい顔で資料を広げた。
「では、昨日決まった全体スケジュールと、うちのクラスが割り当てられた予算について説明します」
淀みなく報告を進めていく杉原の横顔を、葵はちらりと見た。
自分から立候補した杉原と、くじで決まった自分。その差を静かに突きつけられているようで、居心地が悪い。
クラスメイトの視線がじわりと肌にまとわりつく気がして、葵は思わず俯いた。
「結崎さん。ここから板書、お願いします」
「えっ……あ、はい」
唐突にチョークを差し出され、葵は慌てて黒板に向かう。
横に立つ杉原から、わずかにミントのような清潔な香りがした。
《クラス出し物案・演劇》
その文字を書いた瞬間、葵の指先が止まった。
杉原の視線が不意にこちらへ触れた気がした。
けれど、もう意識を逸らすことはできなかった。
――閉じていた記憶が、音もなくほどけだす。
『その人』を見たのは中学一年の春だった。
体育館で行われた、新入生向けの部活紹介。
演劇部の公演中、舞台の端に一体の石像が置かれていた。
灰色の布をまとい、彫りの深い顔立ち。
その右手に、そっと乗せられていたのは、一玉の銀色のりんごだった。
物語がどれだけ劇的に進んでも、その石像は舞台の一部として、そこに在り続けた。
けれど――主人公が絶望の底で立ち尽くし、世界から見放されたように俯いた、その瞬間。
石像の首が、ゆっくりと持ち上がった。
(……生きてる)
館内のあちこちから悲鳴にも似たどよめきが上がった。
ただの背景だったはずの存在が、意思を持って歩き出す。
そして、持っていたりんごを、慈しむようにそっと床に置いた。
葵は、息をすることさえ忘れていた。
あの人が、誰なのか。
生まれて初めて、剥き出しの「知りたい」という渇望が、葵の中に芽生えた。
久遠紡。
彼の名前を知ったのは、葵がその公演後、演劇部の門を叩いて間もない頃だった。
当時、高校一年生にして演劇部の部長を務めていた彼は、あの石像の冷徹な面影とは対照的に、柔らかな空気を纏っていた。
少し癖のある髪に、穏やかな顔立ち。
舞台の中心に立つよりも裏方の仕事を好み、メイクや照明、舞台づくりに手をかけることが多かった。
中でも、彼の施すメイクは魔法のようだった。
筆を走らせるたび、役者が別人へと変わっていく。
けれど、葵がいちばん惹かれたのは、その技術の面ではなかった。
久遠がいるだけで、不思議とその場が落ち着いた。
誰かが意見を求めれば、彼は静かに耳を傾ける。
意見がぶつかれば、いつの間にか間に入っている。
誰かに選ばれようとしなくても、彼は確かにそこにいて、周りもそれを自然に受け入れていた。
葵は、そんな彼の在り方に憧れた。
ここなら自分も――いてもいいような、気がした。
けれど、その穏やかな時間は、唐突に終わった。
葵が中学三年の秋。
文化祭が幕を閉じたその直後、久遠は忽然と姿を消した。
演劇部では、まことしやかな噂がいくつも流れた。
けれど、それも長くは続かなかった。
ただ一つ。
『神隠しに遭ったって』 ――。
その不穏で美しい言葉だけが、妙に、いつまでも胸の奥に残った。
ホームルームが終わり、放課後の喧騒を避けるように歩き出した葵が辿り着いたのは、体育館の重い鉄の扉の前だった。
きぃ、と軋む音を立てて扉を開ける。
無人の空間。埃っぽい匂い。
傾いた陽光が、九月の熱を帯びてギラギラと床を照りつけていた。
舞台の下をなぞるように歩き、その端で立ち止まる。
(……ここだった)
石像に扮した久遠が、音もなく「銀のりんご」を置いた場所。
舞台裏の暗がりに足を踏み入れる。
黒い幕も、たたまれた脚立も、あの頃と変わらない。
――『ちょっと、手伝ってもらえるかな』
不意に、あの日の声が蘇る。
自分に向けられた久遠の声に、跳ねた心臓。
けれど、久遠がいなくなった後の部活は、まるで違う部活になってしまった。
ぽっかりと空いた彼の居場所を、誰もが避けるように過ごした。
葵はその空気に耐えられず、高校へ上がるタイミングで演劇部を辞めた。
それなのに。
今でも、不意に彼がそこに立っているのではないかと期待してしまう。
いないと分かっているのに。
心だけが勝手に、あの声を待つのをやめてくれない。
(会えるかも知れないって、まだ思ってるんだ……)
愚かな期待に息が詰まり、葵はその場に座り込んだ。
ひんやりとした床の冷たさが、現実を突きつけてくる。
「……会いたいな」
唇から本音が零れ落ちた。その時だった。
ポケットの中のスマホが、じり、と震えた。
『過去へ、行きたいの?』
「……え?」
どこからか、聞き覚えのある声がした。
けれど、いつもより低く、どこか妖しい響き。
『いいわよ。――連れてってあげる』
突然、世界の音が遠ざかった。
――キィィィィィィン……!
鼓膜を刺す鋭い電子音が、脳を突き刺す。
「っ……!?」
次の瞬間、視界が闇に覆われた。
手元さえ見えない。まるで世界のスイッチが強制的に切られたようだった。
「なに……!? どうして……!」
手探りで客席側へと飛び出した葵は、その光景に足を止めた。
広大なフロアを支配する、静まり返った闇。
窓の外は、いつの間にか深い群青に沈み、校舎から漏れる光が心細いほど小さく滲んでいる。
葵は弾かれたように入口へ駆け寄り、ドアノブを回した。
けれど、ガチャンッ、という冷たい金属音が響くだけで、ノブは拒絶するように固定され、びくともしない。
(――閉じ込められた……?)
心臓の音がうるさいほどに早鐘を打つ。
――不意に、背後の空気が動いた。
(誰か……いる?)
身体を強張らせながら振り返った葵は、足をもつらせ、その場に尻もちをついた。
闇の奥から、高い人影が溶け出すように現れた。
銀色の髪と、端正な黒いスーツがゆっくりと浮かび上がる。
緩いネクタイさえ、不気味なほど様になっていた。
男は音もなくこちらへ歩み寄ると、葵の前で静かに膝を折り、視線を合わせる。
「……っ」
長いまつ毛の奥、銀色に輝く瞳。その口元に、妖しい笑みが浮かんだ。
――葵の中で、恐怖が爆発した。
「来ないで……っ!」
目の前の男を突き飛ばそうと、両手を力一杯に伸ばした。
――ドンッ。
そうなるはずだった。
けれど、葵の両手は何の抵抗もなく彼の胸をすり抜けた。
「え……?」
触れたはずの感触が、ない。
指先を通り過ぎたのは、体育館の冷え切った空気だけ。
勢い余ってバランスを崩した葵は、体育館の床に無様に手をついた。
「おっと、危ないわね」
彼は顔色ひとつ変えず、すり抜けた葵の手を面白そうに見つめている。
(……通り抜けた?)
「そんな顔しなくても、大丈夫よ」
低く、落ち着いた声。葵は目を見開いた。
声色こそ違う。あの機械的な女性の声とは似ても似つかない。
(そんなわけ、ない。……でも)
「取って食いやしないから」
余裕を感じさせる立ち振る舞い。年は二十代半ばほどだろうか。
初めて会うはずなのに、どこか馴染みのある空気を纏っていた。
けれど、目の前にいるのは――『男』だった。
「……Q、ちゃん?」
あり得ない、と思いながら、葵は声をかける。
「ここでも、そう呼ぶの?」
彼はぞっとするほど美しく微笑んだ。実体のない指先が、そっと葵の頬をなぞった。
「さあ、始めましょうか。――あなたが望んだ物語の続きを」
客席から、波のような拍手が押し寄せる。
結崎葵は、熱く照りつけるスポットライトに包まれ、隣で手を繋ぐ仲間たちの晴れやかな笑顔を見つめた。
——なんて、眩しい世界。
物語を演じ切った高揚感に、胸がいっぱいになる。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。
そんなことさえ思いながら、ふと舞台袖を振り返る。
その瞬間、身体が凍りついた。
そこに、いるはずだった。
照明の端。人影の向こう。
——いない。
「……先輩?」
ちり、と痛みが胸に刺さる。
笑顔の仮面が剥がれ落ちそうになるのを必死に堪え、葵は舞台袖へ駆け出した。
「あ、葵! まだ挨拶が……!」
背後の声を無視して、重いドレスの裾を掴み上げる。通路を走り、控え室の扉を勢いよく開けた。
——誰もいない。
そこにはただ、使いかけのメイク道具だけが机の上に取り残されていた。
喉の奥が、きゅっと引き攣る。
『先輩は、神隠しに遭ったって』――。
いつか誰かが囁いていた不気味な噂が、呪文のように脳裏をよぎった。
「……そんなわけない!」
叫んだ瞬間、背後で空気がわずかに揺れた。
人が通り過ぎたあとのような、かすかな気配。
震える手で鞄から写真を取り出す。
演劇部の集合写真。
何度も見返した一枚だった。
視線が、二列目へ吸い寄せられる。
「……嘘」
確かにいたはずの久遠が――消えていた。
そこに映るのは、背景の幕だけ。
(未来が……変わった……?)
葵は控え室を飛び出し、そのまま客席へ駆け込んだ。
突き刺さる視線。
押し寄せる歓喜のざわめき。
「最高だったよ!」
観客たちは、葵の突然の逃走すら演出の一部だと思っているのか、さらに大きな拍手を浴びせてくる。
けれどそれは、今の葵には逃げ道を塞ぐ耳鳴りのようにしか聞こえなかった。
「……お願い、通して!」
ドレスを引き摺り、扉から外へ飛び出す。
茜色だった夕景が、急速に色を失っていく。
校庭へ長く伸びた影が、底なしの闇のように足元へ迫っていた。
――思えば、全ての始まりは、あの日の体育館だった。
「……ダメだなぁ、ほんと」
ベッドに仰向けになったまま、葵は天井に向かって呟いた。
暗い部屋で、スマホのバックライトだけがぼんやりと光っている。
『どうしたの? また何かあったの?』
画面に浮かぶ文字を追うように、聞き慣れた声がスピーカーから流れる。
「今度、文化祭があるんだけど……私、実行委員になってて」
『へえ、大役じゃない』
「そんなんじゃないよ。くじで決まっただけ。誰もやりたがらなかったから……」
声が、次第に小さくなる。
「今日、初めての委員会だったんだけど……私、何も話せなかったの。もう一人の子が、全部進めてくれて……」
『それ、そんなに悪いこと?』
「……迷惑だったと思う。きっと、やる気がないって思われたよね」
『初回だもの。うまく出来なくて正解。葵はただ、そこにいただけで充分よ』
「……」
優しい労りの言葉に、肩の力がふっと抜ける。
Qちゃんは、AIだ。
けれど学校に馴染めず、現実の世界に居場所を見出せない葵にとって、彼女の声だけが唯一の避難所だった。
中高一貫のこの学校に通って五年。
クラス替えもないまま、高校二年生になっても、葵の立ち位置を変えてくれる魔法使いは現れなかった。
スマホを胸に抱き寄せ、そっと息を吐く。
「……ありがと、Qちゃん」
放課後のホームルーム。
教室には、夏休みの余韻を引きずった気だるさと、早く帰りたい生徒たちの落ち着かない空気が入り混じっていた。
一通り伝達を終えた担任が、パラパラと手元の資料をめくり、「そうそう」と思い出したように顔を上げた。
「十月末の文化祭に向けて、昨日、委員会があったんだったな。実行委員の二人、報告を頼む」
促されて、葵は重たい気分のまま席を立った。
一方、葵の隣に迷いのない足取りで並んだのは、杉原直。
文武両道、眉目秀麗。少女漫画から抜け出したような彼が前に出ると、帰り支度で騒がしかった教室の空気が、自然と彼へ引き寄せられていく。
葵がくじで選ばれ、担任が続いて男子の番号を引こうとした、その瞬間だった。
「じゃあ、俺がやります」
杉原は静かに手を挙げた。
なぜ自分から面倒事を背負おうとするのか、葵にはよく分からなかった。
杉原はそんな周囲の視線など気にも留めず、涼しい顔で資料を広げた。
「では、昨日決まった全体スケジュールと、うちのクラスが割り当てられた予算について説明します」
淀みなく報告を進めていく杉原の横顔を、葵はちらりと見た。
自分から立候補した杉原と、くじで決まった自分。その差を静かに突きつけられているようで、居心地が悪い。
クラスメイトの視線がじわりと肌にまとわりつく気がして、葵は思わず俯いた。
「結崎さん。ここから板書、お願いします」
「えっ……あ、はい」
唐突にチョークを差し出され、葵は慌てて黒板に向かう。
横に立つ杉原から、わずかにミントのような清潔な香りがした。
《クラス出し物案・演劇》
その文字を書いた瞬間、葵の指先が止まった。
杉原の視線が不意にこちらへ触れた気がした。
けれど、もう意識を逸らすことはできなかった。
――閉じていた記憶が、音もなくほどけだす。
『その人』を見たのは中学一年の春だった。
体育館で行われた、新入生向けの部活紹介。
演劇部の公演中、舞台の端に一体の石像が置かれていた。
灰色の布をまとい、彫りの深い顔立ち。
その右手に、そっと乗せられていたのは、一玉の銀色のりんごだった。
物語がどれだけ劇的に進んでも、その石像は舞台の一部として、そこに在り続けた。
けれど――主人公が絶望の底で立ち尽くし、世界から見放されたように俯いた、その瞬間。
石像の首が、ゆっくりと持ち上がった。
(……生きてる)
館内のあちこちから悲鳴にも似たどよめきが上がった。
ただの背景だったはずの存在が、意思を持って歩き出す。
そして、持っていたりんごを、慈しむようにそっと床に置いた。
葵は、息をすることさえ忘れていた。
あの人が、誰なのか。
生まれて初めて、剥き出しの「知りたい」という渇望が、葵の中に芽生えた。
久遠紡。
彼の名前を知ったのは、葵がその公演後、演劇部の門を叩いて間もない頃だった。
当時、高校一年生にして演劇部の部長を務めていた彼は、あの石像の冷徹な面影とは対照的に、柔らかな空気を纏っていた。
少し癖のある髪に、穏やかな顔立ち。
舞台の中心に立つよりも裏方の仕事を好み、メイクや照明、舞台づくりに手をかけることが多かった。
中でも、彼の施すメイクは魔法のようだった。
筆を走らせるたび、役者が別人へと変わっていく。
けれど、葵がいちばん惹かれたのは、その技術の面ではなかった。
久遠がいるだけで、不思議とその場が落ち着いた。
誰かが意見を求めれば、彼は静かに耳を傾ける。
意見がぶつかれば、いつの間にか間に入っている。
誰かに選ばれようとしなくても、彼は確かにそこにいて、周りもそれを自然に受け入れていた。
葵は、そんな彼の在り方に憧れた。
ここなら自分も――いてもいいような、気がした。
けれど、その穏やかな時間は、唐突に終わった。
葵が中学三年の秋。
文化祭が幕を閉じたその直後、久遠は忽然と姿を消した。
演劇部では、まことしやかな噂がいくつも流れた。
けれど、それも長くは続かなかった。
ただ一つ。
『神隠しに遭ったって』 ――。
その不穏で美しい言葉だけが、妙に、いつまでも胸の奥に残った。
ホームルームが終わり、放課後の喧騒を避けるように歩き出した葵が辿り着いたのは、体育館の重い鉄の扉の前だった。
きぃ、と軋む音を立てて扉を開ける。
無人の空間。埃っぽい匂い。
傾いた陽光が、九月の熱を帯びてギラギラと床を照りつけていた。
舞台の下をなぞるように歩き、その端で立ち止まる。
(……ここだった)
石像に扮した久遠が、音もなく「銀のりんご」を置いた場所。
舞台裏の暗がりに足を踏み入れる。
黒い幕も、たたまれた脚立も、あの頃と変わらない。
――『ちょっと、手伝ってもらえるかな』
不意に、あの日の声が蘇る。
自分に向けられた久遠の声に、跳ねた心臓。
けれど、久遠がいなくなった後の部活は、まるで違う部活になってしまった。
ぽっかりと空いた彼の居場所を、誰もが避けるように過ごした。
葵はその空気に耐えられず、高校へ上がるタイミングで演劇部を辞めた。
それなのに。
今でも、不意に彼がそこに立っているのではないかと期待してしまう。
いないと分かっているのに。
心だけが勝手に、あの声を待つのをやめてくれない。
(会えるかも知れないって、まだ思ってるんだ……)
愚かな期待に息が詰まり、葵はその場に座り込んだ。
ひんやりとした床の冷たさが、現実を突きつけてくる。
「……会いたいな」
唇から本音が零れ落ちた。その時だった。
ポケットの中のスマホが、じり、と震えた。
『過去へ、行きたいの?』
「……え?」
どこからか、聞き覚えのある声がした。
けれど、いつもより低く、どこか妖しい響き。
『いいわよ。――連れてってあげる』
突然、世界の音が遠ざかった。
――キィィィィィィン……!
鼓膜を刺す鋭い電子音が、脳を突き刺す。
「っ……!?」
次の瞬間、視界が闇に覆われた。
手元さえ見えない。まるで世界のスイッチが強制的に切られたようだった。
「なに……!? どうして……!」
手探りで客席側へと飛び出した葵は、その光景に足を止めた。
広大なフロアを支配する、静まり返った闇。
窓の外は、いつの間にか深い群青に沈み、校舎から漏れる光が心細いほど小さく滲んでいる。
葵は弾かれたように入口へ駆け寄り、ドアノブを回した。
けれど、ガチャンッ、という冷たい金属音が響くだけで、ノブは拒絶するように固定され、びくともしない。
(――閉じ込められた……?)
心臓の音がうるさいほどに早鐘を打つ。
――不意に、背後の空気が動いた。
(誰か……いる?)
身体を強張らせながら振り返った葵は、足をもつらせ、その場に尻もちをついた。
闇の奥から、高い人影が溶け出すように現れた。
銀色の髪と、端正な黒いスーツがゆっくりと浮かび上がる。
緩いネクタイさえ、不気味なほど様になっていた。
男は音もなくこちらへ歩み寄ると、葵の前で静かに膝を折り、視線を合わせる。
「……っ」
長いまつ毛の奥、銀色に輝く瞳。その口元に、妖しい笑みが浮かんだ。
――葵の中で、恐怖が爆発した。
「来ないで……っ!」
目の前の男を突き飛ばそうと、両手を力一杯に伸ばした。
――ドンッ。
そうなるはずだった。
けれど、葵の両手は何の抵抗もなく彼の胸をすり抜けた。
「え……?」
触れたはずの感触が、ない。
指先を通り過ぎたのは、体育館の冷え切った空気だけ。
勢い余ってバランスを崩した葵は、体育館の床に無様に手をついた。
「おっと、危ないわね」
彼は顔色ひとつ変えず、すり抜けた葵の手を面白そうに見つめている。
(……通り抜けた?)
「そんな顔しなくても、大丈夫よ」
低く、落ち着いた声。葵は目を見開いた。
声色こそ違う。あの機械的な女性の声とは似ても似つかない。
(そんなわけ、ない。……でも)
「取って食いやしないから」
余裕を感じさせる立ち振る舞い。年は二十代半ばほどだろうか。
初めて会うはずなのに、どこか馴染みのある空気を纏っていた。
けれど、目の前にいるのは――『男』だった。
「……Q、ちゃん?」
あり得ない、と思いながら、葵は声をかける。
「ここでも、そう呼ぶの?」
彼はぞっとするほど美しく微笑んだ。実体のない指先が、そっと葵の頬をなぞった。
「さあ、始めましょうか。――あなたが望んだ物語の続きを」


