その色は、ただ君のために

 どれくらいの時間が、経っただろう。
 凱は、床に散らばったアクリル片を、一人でずっと眺めていた。
 外には灰色の雨雲が広がり、窓ガラスを打つ雨音は、刻々と強さを増していく。電気の点いていない美術室は、いつの間にかすっかり薄暗くなっていた。

 ――大嫌い。

 暁から告げられたその言葉が、ずっと頭に響いていた。自分から突き放しておきながら、初めて暁の口から拒絶の言葉を浴びせられた瞬間、心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に襲われた。
「これでいいんだ」
 そう自分に言い聞かせながら、凱はバラバラに散った破片を集め、棚に戻していく。
「もう、これであいつを傷つけずに済む」
 頭の中で必死に整理しようとしながら、凱の目は、無意識のうちに、笑って隣を歩く誰かを探してしまっていた。
 ちぐはぐな感情を抱えたまま、凱は、本降りになった雨の坂道を、一人で下っていった。
 雨に打たれながらも、胸の奥に響いてくるのは、暁のやさしい声ばかりだった。
「僕と凱のタッグなら、大丈夫ですよ」
「凱と一緒に作れて、僕は今、本当に、嬉しいです」
 そして、祭りの夜――。
「大丈夫です。凱はちゃんと、普通の人間です」
 あいつはいつも、やさしく笑って、俺の隣にいてくれた。変な力を持っていると告げても、肯定し続けてくれた。だからこそ、そんなあいつを巻き込んで、傷つけてしまうのが怖かった。だから、これでいいんだ。これで。
 降りしきる雨が、すべてを洗い流してくれたらいいのに。
 凱は顔を上げ、目をぐっと閉じて、雨を真正面から受け止めた。それでも、瞼の裏の暗闇に浮かんでくるのは、やっぱり、暁の笑顔だった。

 心の芯を抜き取られたような足取りで玄関のドアを開けると、ダイニングテーブルでお茶をすすっていた由美が、飛び上がるように声を上げた。
「あんた、ちょっとどうしたの! ビショビショじゃない」
 由美は脱衣所からタオルを取り出し、うつむく凱の頭の上にふわりと広げた。肌や制服から滴り落ちる雨粒が、玄関の床を点々と濡らしていく。
 由美は何かを察したように、声を柔らかく落とした。
「とりあえずお風呂、入っちゃいなさい」
 凱が風呂から上がってくると、テーブルには湯気を立てる丸いオムライスが待っていた。
「あんた、昔から好きだったもんね。ぐじゅぐじゅな半熟玉子のオムライス、バター多め」
 ニカッと笑う由美の顔を、凱はまっすぐには見られなかった。椅子に腰を下ろしたまま、太ももの辺りに視線を落とし、ゆっくりと口を開く。
「母さんはさ……俺が小学生とか中学生のとき、やっぱり苦労した?」
 由美はフッと息を漏らすように笑った。
「そりゃ苦労したわよぉ。何度学校に呼び出されたことか。あんたのせいだって、はっきり説明もつかないようなことで、担任とか相手の親とかから、あれこれ言われてね」
「……だよな」
 由美は身を軽く前に傾け、頬杖をついて笑う。
「でもね」
「……」
「大事な息子のことでかけられる苦労なら、あたしは喜んで受けるよ」
 凱はうつむいたまま、わずかに目を見開いた。
「気にかけたいって思うおせっかいな人に甘えるのは、何も恥じらうことじゃないのよ。そういう人は、好きで気にかけてるんだから。あんたが気に病むようなことじゃないの」
「でも、そのせいで、良くしてくれた人を困らせることになる」
「そしたら、ありがた迷惑だって突き放して、距離を置く? 母さんは、そっちの方が寂しいな」
「……傷つけたく、ないんだ」
「あんたは、傷ついてもいいの?」
「……」
「親っていうのはね、子供の幸せを願う生き物なの。わがまま言って、周りに甘えて、自分に正直に生きなさい。父ちゃんだって、きっとそれを願ってる」
 由美は、食器棚に置かれた父の写真立てに目をやる。写真の中で、父の笑顔が咲いている。
 凱は、自分の手のひらをじっと見つめた。
 それから由美は、テーブルに置いてあったボールペンを手に取り、メモ用紙に「凱」という漢字を書いて見せた。
「凱。あんたの名前はね、『かちどき』って読むの、いい? 戦いに勝ったときに叫ぶ声。それからもう一つ、『やわらぐ』とも読むのよ。楽しむって意味。父ちゃんと一生懸命悩んで、付けた名前なの」
 由美はそっとペンを置く。それからもう一度、メモ用紙に視線を落とした。
「父ちゃんもね、若い頃は、なかなか自分の気持ちを口にできない人だった。ずっと一人で何かを抱え込んで、なかなか自分の思いをうまく外に出せなかった人。だからあんたには、ちゃんと、声に出して生きてほしくて、付けた名前なのよ」
 由美は顔を上げて、ニカッと笑った。
「いつまでもウジウジしてないで、人生楽しんで、心の底から幸せだって叫んでやりなさい!」
 ――俺は、馬鹿だ。
 俺の周りには、こんなにも、俺のことを思ってくれる人がいた。それを、変な力のせいにして、勝手に一人で拗ねていただけだった。
 暁の笑った顔が、ふと脳裏に浮かび上がる。
 あいつも、きっと。
 なら、俺がするべきことは、たった一つだ。
 凱は堰を切ったようにスプーンを握り、オムライスを次々と口に運び始めた。由美はその様子を、ただ黙って、そっと見守っていた。

   *

 金曜日の昼休み。鮫島が、勢いよく踊り場に顔を出した。
「よっ……って、誰もいねえぇ!」
 そこには、凱の姿も、暁の姿もなかった。
「なんだよ。メイド喫茶の『萌え萌えポーズ』とかいう、訳わからん女子の悪ノリを愚痴ろうと思ったのにぃ」
 そのころ、暁は教室で千夏に誘われて、女子グループの中で弁当を広げていた。昼休みのチャイムと同時に凱が廊下へ出ていったのは、視界の端で確かに捉えていた。けれど、踊り場へ向かう気には、どうしてもなれなかった。
 それでも、ふと、教室の後ろ、窓際の凱の席に視線が吸い寄せられる。カーテンが、風を(はら)んでゆるやかに揺れているだけだった。
「その友達の彼氏がひどくてさぁ、って、暁くん、聞いてる?」
 千夏の隣に座る女子が、暁に話を振った。
「あ、はい。ちょっと、いい天気だなぁ……なんて」
 空笑いをする暁の様子を、千夏は見透かしたように横目で窺う。
「てか、暁くんはどうなの? 前から気になってたんだけどさ、彼女とかいないの?」と別の女子が被さった。
 恋愛トークの矛先が、途端に暁へと向けられる。千夏を除いた四人が、揃って前のめりになり、好奇の視線が圧となって押し寄せてきた。
「い、いえ。僕は、いませんよ」
「へぇ、そうなんだぁ。モテそうなのに」
「前の学校のときもいなかったの?」
「元カノと文化祭で遭遇とか!?」
「え、どんな子がタイプ?」
 マシンガンのように飛び交う質問に、暁はただ、苦笑いを返すしかなかった。
「朝倉くん、ごめんね。こいつら、こういう話になると芸能レポーター並みにグイグイくるからさ」と千夏が割って入り、助け船を出した。
「はい、優等生発言いりません!」
「千夏? ちょっとだけ黙っててくれる?」
 女子たちがおどけてはしゃぐ。暁はもう一度、笑顔を作り直した。千夏は小さなため息をつき、揺れるカーテンを、ちらと見つめた。
 その日の放課後は、クラスの出し物の準備を手伝った。凱は足早に帰ったようだったが、暁は、もう気にしないことに決めていた。
 フランクフルトを焼く手順。トレーに乗せて受け渡す流れ。当日の役割分担と、休憩時間のシフト表を確認する。展示作品の制作で、ずっとクラスの準備に参加できていなかった暁は、必然的に、当日もっとも忙しい「焼く係」に回されていた。
 そして、まるで二人はセットだと言わんばかりに、凱もまた、暁とまったく同じ動きを割り振られていた。しょうがないか、と暁は小さく肩を落とした。

 土曜日が、来た。
 普段なら、部活の生徒たちの足音だけがまばらに響くはずの校舎は、文化祭前日の浮き足立った熱気で、廊下の隅々までざわめいていた。
 暁は午前のうちから、机を運び、値札の看板を貼り、教室のあちこちを駆けまわっていた。背の高い凱は、入り口の装飾を任されていた。手を伸ばす長い腕と、その横顔。視界の端に入りそうになるたび、暁はわざと別のほうを向いた。この学校に来て、初めての文化祭だ。気まずさを、こんな日にまで持ち込みたくはなかった。
 昼休憩の時間になっても、暁は教室に残った。クラスの男子たちに誘われ、床に輪になって座り、弁当のふたを開ける。凱の姿は教室になかったが、踊り場へ向かう足は、どうしても動かなかった。
 ――もういいから。
 あの日の凱の声が、嘘だとわかっているからこそ、いつまでも耳の奥に貼りついて剥がれない。
「朝倉ってさ、黒瀬とよく一緒にいるよな。あいつ、怖くないの?」
 弁当箱越しに、誰かがそう振ってきた。
「……怖くないですよ」
 言葉を選ぶより先に、声が出ていた。
「ただ、意地っ張りで、どうしようもなく不器用な人なだけです」
 自分でも、思ったより強い声色だった。
 別の男子が、白米を頬張りながら割り込む。
「でもさ、朝倉って永瀬たち女子のグループともたまに飯食ってるよな。だから今まであまり絡めてなかったんだけど、俺たちともたまに飯食おうよ」
 目の前に、ふわりと、穏やかな黄緑が広がった。
 悪意のない色だ。柔らかく、初夏の若葉のような――いい人たちだ。これでいい。これで、いいんだ。
 暁は心の中でそう繰り返しながら、笑顔をつくった。
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
「え、ほんと? じゃあさ、暁って呼んでもいい?」
「俺らのことも、名前で呼んでよ」
 男子たちの輪が、ぱあっと明るく弾けた。
「もちろんです。皆さんのこと、いろいろ教えてください」
 暁は自分から、その会話の波に飛び込んでいった。凱と過ごした時間の記憶を、波の音で揉みくちゃにして、押し流してしまおうとでもいうように。
 その様子を、女子たちの輪の中にいた千夏は、黙って見ていた。それからまた一つ、ため息を漏らし、唇の端をわずかに歪ませた。

 昼休みが終わる、ほんの数分前だった。
 凱が、教室に戻ってきた。
 ゆっくりとこちらへ近づいてくる気配を、暁は男子の輪の中にいながら察した。
「さ、皆さん、そろそろ休憩終わりの時間みたいですよ。夕方までには、準備、終わらせちゃいましょう」
 立ち上がりながら、視線を、座ったままの男子たちの顔だけに向けた。
 凱とは、目を合わせたくなかった。
「おお、そうだな」
「よし、やるか」
 立ち上がる男子たちが、暁と凱の間に、人の壁を作っていく。
 その、ほんの一瞬。
 壁の隙間越しに、二人の視線が、ぶつかった。
 ぶつかってしまった。
 何か言いたげに口を開きかけた凱から、暁はとっさに目を逸らし、机の天板へと手を伸ばした。
 凱は、力なくうつむき、きびすを返していった。

   *

 教室のレイアウトも、入り口の飾りつけも、備品の配置も、刷り上がったチラシを束ねる作業も、全部終わったのは、午後四時を過ぎたころだった。
 空は、まだ昼の名残を腹のあたりに残しながら、西の縁だけを、静かに焦がしはじめていた。
「終わったー!」
「これで完璧だな!」
 歓声をあげる男子たちの中で、暁もまた、達成感に肩を緩めていた。途中からは作業に没頭していて、凱の影さえ、頭の隅から少しずつ薄らいでいた。
 各々が帰り支度をはじめる。
 暁が椅子の背に掛けていたカーディガンに手を伸ばしたそのとき、教室のドアの方から声があった。
「あのぉ」
 現れたのは、暁にとって見覚えのない、別のクラスの男子だった。視線を泳がせて、用件の宛先を探している。
「朝倉と黒瀬って、いる?」
 名前を呼ばれて、二人はほぼ同時に顔を向けた。
「津田先生が、美術室に来るようにって呼んでたよ」
 それだけを早口に告げて、足早に廊下へ消えていった。
 暁の指先が、カーディガンの袖口で、ほんの一瞬とまった。それから、小さなため息を一つだけ溢した。

   *

 二階へ続く階段は、文化祭の準備を終えて昇降口に向かう生徒らでにぎやかだった。
 美術室に進むごとに喧噪が遠ざかり、上履きの底が廊下をこする音だけが、やけに大きく耳の奥に届いてくる。
 凱は、何度か口を開きかけた。
 そのたびに、空気がわずかに動くのを、暁は隣で感じていた。けれども、暁は決して横を向かなかった。視線をまっすぐ廊下の先に固定して、少し早足で歩いた。
 凱は結局何も言えず、二人は無言のまま、美術室の前にたどり着いた。
 深く息を吸いこんで、暁が引き戸に手をかける。
「失礼します」
 乾いた声が、自分の喉から出たとは思えないほど、薄っぺらかった。
 美術室の中は、人気がなかった。
 窓から差し込む西陽が、絵の具の汚れた机を斜めに切り取って、床に長い影を落としている。
 石膏像の白い肩。
 壁にかかったままの、誰かの未完成のデッサン。
 空気は、油彩の匂いと、わずかなテレピンの揮発と、それから、なぜか胸の奥を妙にざわつかせる、別の何かのにおいを薄く含んでいた。
「……先生は?」
 暁が、つぶやくように言ったときだった。
 背後で、ガタン、と、戸の鳴る音がした。