雨音の中、何か光るものが見えた気がして、暁は薄く目を開けた。
ベッドの上だった。掛け布団の重み。借りた寝間着の、やさしい柔軟剤の匂い。窓の外では、雨足はもう少しだけ弱まっていた。ぼんやりとした視界の隅で、テーブルに向かって座り、出来かけの正十二面体にスマホのライトを照らす凱の背中が見えた。スマホの淡い光が、凱の輪郭をうっすらと縁取っていた。
ふと、視線がずれて、暁は壁の方を見た。
心臓が、止まりそうになった。
凱の背中の影が、壁に長く伸びていた。けれど、その影の縁に、もう一つの影が、ぴったりと寄り添うようにして、いた。
凱のものではない。
凱より、ほんの少しだけ縦に長い。輪郭が、人のかたちをしているようでいて、人のかたちをしていない――。
暁は息を呑んだ。瞬きを、一度した。
次に目を開けたとき、そこには、もう、凱の影しか、なかった。
寝起きの混濁した頭が、見間違えただけかもしれない。あるいは、夢の続きが目の縁に残っていただけかもしれない。けれど、寒気のようなものが、首筋を伝って降りていく。
雨の音だけが、また、規則正しく窓を叩いていた。
凱は、ふと、ゆっくりと顔を上げた。窓の外を見るでも、机の上を見るでもなく――ただ、虚空を、じっと見つめている。瞬きもしない。
「凱……?」
声に出したつもりだったが、喉の奥でかすれただけだった。それでも、凱の肩がふっと小さく揺れて、こちらを振り返った。
「……起きてたのか」
いつもの、低くて穏やかな凱の声だった。さっき、何を見つめていたんですか、と聞きたかった。でも、聞いてはいけない気が、なぜか、した。
まぶたが、また重くなっていく。
「いえ。寝ます……」
「おやすみ」
遠ざかっていく意識の中で、暁はもう一度だけ、ちらりと壁の方を見た。
やはり、凱の影しかなかった。
*
スズメの鳴き声と、まぶしい朝日に、暁は薄く目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む光が、頬の上をゆっくりと撫でている。暁は手の甲を額に重ね、しばらく、ぼうっと天井を見上げていた。柔らかい枕。馴染みのない掛け布団。
ここは、僕の部屋じゃない。
ようやく頭が現実に追いつくと、暁は弾かれたように上半身を起こし、周囲を見渡した。
部屋の隅に寄せられたテーブル。その上に、まだ未完成のままの正十二面体が、朝日を浴びて、静かに置かれていた。色を宿した十二枚のうちの九枚が立体を成し、残りの三枚は、まだその身を待っている。差し込む光が、組み上がった面を透かして、机の表面に淡い色の影を落としていた。
そのとき、トイレのドアが開く音がして、凱が出てきた。
「凱。あれ、昨日……?」
まだ状況を飲み込みきれていない暁を見て、凱は、口角をわずかに上げた。
「ちゃんと寝れたか?」
「あれ、いつの間に? というか凱、昨日どこで寝たんですか」
暁は夜中に目を覚ましたことを覚えていなかった。部屋の床に空いたスペースを目で追って、暁の中に嫌な予感がよぎる。
「そんなことより、そろそろ帰らないと、学校、間に合わないんじゃないか?」
凱が指さした時計は、午前八時を、わずかに過ぎていた。
「え、もうこんな時間! すぐに着替えて家に戻ります。学校で、また」
慌てて立ち上がった暁は、借りていたスウェットを脱ぎ、几帳面に折り畳んでベッドの上に置いた。それから、昨日着ていた服を頭から被るように身につけ、玄関へと急ぐ。
ふと足を止めて、ダイニングキッチン越しに、凱の部屋を振り返った。
机の上に、未完成の正十二面体。色を乗せた九枚の面が、朝日を受けて、キラキラと、静かに輝いていた。
始業のチャイムが鳴る午前八時四十分まで、残り五分。
暁は息を切らせて教室の戸を引いた。汗の滲んだ顎を手の甲で拭い、肩で大きく呼吸を整える。視線を巡らせると、すでに自席に腰を下ろしている凱と目が合った。暁は腰の辺りで、凱にだけ伝わるよう、小さくピースサインを掲げる。
凱がほんのわずかにうなずく。それを合図に、暁は早足で歩み寄った。
「ギリギリセーフ」
「ほんとにギリギリだったな」
「めちゃくちゃダッシュしたんですよ。朝から登り坂は、さすがにキツいです」
凱は頬杖をついたまま、口の端にだけ苦笑を滲ませた。
「あれ、作品はどうしました?」
机の周りを見回しながら、暁が尋ねた。
「まだ未完成だから、今朝、美術室の棚に置いてきた」
「ありがとうございます。今日の放課後には、ついに完成ですね」
「ああ」
二人を包む小さな高揚感を割るように、チャイムが鳴り響いた。暁は急ぎ足で席に戻る。座るやいなや、隣の千夏が椅子を軋ませながら身を乗り出してきた。
「ちょっと、黒瀬くんとすごい仲良さそうに話してたじゃん。何かあったの?」
「いえ、大したことじゃないですよ。文化祭の展示作品で、少しだけ」
「そっか。でも、友達になれたんだね。よかった」
千夏が笑みを浮かべると同時に、津田が口を開き、二人の話はそこで途切れた。
「文化祭まで、あと三日となりました。クラスの出し物の準備も順調に進んでいるようですね。展示作品を作っている人は、明日の金曜日までに、私のところへ提出してください。それから……」
津田の声が、暁には遠くでぼやけるようにしか聞こえず、内容が入ってこなかった。
――友達。
暁は、千夏に言われたその単語を頭の中で何度も転がしていた。自分と凱との関係を表す言葉は、いったい何になるのだろう。互いに不思議な力を抱えていることを共有した、秘密の関係。それは、ただの「友達」ではもう片づけられない。けれど、「恋人」と呼ぶには遠すぎる。凱はきっと、自分の気持ちには気づいていない。凱の側にも、そんな感情はないだろう。友達以上ではあっても、「恋人未満」と呼べるところまでも、たどり着いていない。それどころか、凱にとって自分は、やはりただの「友達」でしかないのかもしれない。
名前のつかない感情が、胸の奥で小さくくすぶり続けていた。
*
昼休み、いつもの踊り場。
凱の隣で弁当箱を広げていると、久しぶりに鮫島が顔を出した。
「よっ」
「あ、鮫島さん」
暁が応じると、「聞いてくれよぉ」といつもの入りから、鮫島の愚痴が滝のように流れ出た。
「うちのクラス、メイド喫茶だぜ? なぜか男もフリフリのメイド服着させられて、笑顔で紅茶注いで接客とか……あ、り、え、ね、え、だ、ろ! 女子に面白がられて写真も動画も撮られるしよぉ。一生の汚点だ……」
「坊主のメイドなんかいないもんな」
凱がさらりと茶化すと、鮫島は「うるせっ」と噛みついてから、暁の方へ視線を流した。
「暁とかなら、いくらでも似合いそうなのに」
「いや、僕は……遠慮しておきます」
暁は耳まで赤くしながら、両手を小さく振った。
「絶対似合うから、変わってほしいわ。なあ、凱もそう思わない?」
矛先を向けられた凱は、ほんのわずかに頬を赤らめ、ぼそりと答えた。
「……似合うと、思う」
その瞬間、凱の脳裏には、メイド服姿の暁の影が確かに浮かんでいた。
「凱まで。もう、からかわないでください」
暁は口を尖らせて、玉子焼きを乱暴に頬張る。
「お前たちのところはフランクフルトだろ? いいよなぁ、無難で」
「女の子たちが特に張り切って準備してくれてるので、なんとか間に合いそうみたいですよ」
「間に合いそうみたいって……お前ら、他人事だな」
「二人で展示作品を作っているので。その分、当日は頑張って焼くからって、許してもらってます」
「え、二人で作ってんの? 凱、お前どうしちゃったんだよ!」
鮫島は目を見開き、驚きと興味のないまぜになった顔で凱をのぞき込む。
「いいだろ、別に。そういう気分になっただけだ」
凱はそっけなく言って視線を逸らしたが、暁は、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じていた。
その日の放課後、美術室へ向かおうとした二人を、千夏が呼び止めた。
「朝倉くん。今日も作品づくりだよね?」
「はい。今日で完成するので、明日からはクラスの方に合流できそうです」
「そっか。あの、ちょっとお願いなんだけどさ」
千夏は声を控えめに落とし、隣の凱をちらりと窺った。
「これから教室の入り口に看板を貼り付けたいんだけど、黒瀬くん、背が高いから……ちょっとだけお手伝い、お願いできないかな?」
クラスで一番背の高い凱への、ほぼ名指しの依頼だった。
「別に、それくらいなら構わない」
凱が口を開いた。暁と話すときよりは少し低い声色だったが、一学期の彼を思えば、それは大きな変化と言ってよかった。
「え、ほんと?」
千夏は驚きに目を見張る。
「じゃあ、僕は先に美術室で準備してますね」
暁は微笑みを残して教室を出た。胸の内側に、小さな明かりがともる。凱の変化が、嬉しくてたまらなかった。
美術室に着き、棚の上にそっと置かれていたアクリル板の結晶を見つけると、暁はその場に立ち尽くしたまま、しばらくじっと眺めた。
凱との出会い。検証の日々。昨日、凱の家で並んで作業した時間。それらが流れる水のように頭の中を駆け抜けていく。感情を押し込め、他人を遠ざけていた最初のダークブルー。その色が少しずつ淡くなり、時折、柔らかな表情さえのぞかせるようになった凱。検証の中で見せてくれた、無数の色たち。それらが、目の前で放つ色とりどりのアクリル板の輝きに重なって見えた。
これからもっと、凱のいろんな色を見ることができるのだろうか――。
そう思った瞬間だった。美術室のドアが、勢いよく開く音がした。
「凱」
反射的に呼びかけた暁の前に立っていたのは、しかし、見慣れない男子生徒二人だった。黒い塊のような、敵意と悪意を全身に纏った気配。暁は思わず一歩、後ずさった。
「お前、三組の転校生だろ?」
「黒瀬と、よくここでつるんでるらしいな」
二人は一歩、また一歩と、距離を詰めてくる。
「……何か用ですか?」
暁は警戒を声に滲ませながら、それでも視線を逸らさなかった。
「お前、鮫島とも昼飯食ってんだろ。あいつから聞いてないのか? 黒瀬に近づくと、呪われるってウワサ」
「あいつは、周りの物を勝手に動かす、ポルターガイスト人間なの。てか人間っていうより、バケモノか」
一人がケラケラと笑い、もう一人が両手を前に垂らして、幽霊めいた仕草をして茶化してみせる。
――バケモノ。
その言葉が、暁の胸を鋭く突き刺した。凱は、ずっとこんな思いをしてきたのか。周りから恐れられ、疎まれ、馬鹿にされ、存在そのものを否定される。その日々を耐えるために、自分の感情そのものを殺して、孤独に染まることを選んだのだ。
胸の奥の痛みが止まらない。暁は目を真っ赤にして、拳を固く握りしめた。視線を床に落とし、震える唇から、絞り出すように声を漏らす。
「……ないです」
か細い声が、空気の中に頼りなく散った。
「え、何だって?」
「怖くて泣いちゃった?」
「俺たちだって、転校生くんのこと心配して言ってやってんだぜ」
からかうような口ぶりが続いた、そのとき。
「……凱は、バケモノなんかじゃない!」
暁は両足を踏ん張り、腹の底から声を放った。
「え――」
二人の動きが止まる。
「が、凱は、甘いものが大好きです。パフェを食べると、柔らかい笑顔を見せてくれます。嫌いなものはパクチー。カメムシみたいな匂いが、絶対無理なんです」
「何言ってんだ、こいつ……」
顔を見合わせる二人に構わず、暁は言葉を継いだ。
「僕が滑って頭を打ったときは、本気で心配してくれました。映画を見れば、涙だって流します。凱は、凱は――みんなと同じ、ただの普通の人なんです!」
暁の目から、大粒の涙が雨のように零れ落ちていた。ただ悔しくて、悔しくて仕方なかった。
その様子を、凱は美術室前の廊下で、腕を組み、壁にもたれて聞いていた。最初は入るタイミングを逃しただけだった。けれど、途中からは、足が動かなかった。
「凱は、みんなを怖がらせないように、みんなを傷つけないように、自分から感情を押さえ込んでいたんです。一人で孤独の道を選んで、本音を全部封じ込めて……。そんな人の気持ちが、あなたたちにはわからないんですか!」
暁はブレザーの袖で涙を拭い、二人を真正面から睨み付けた。
毒気を抜かれていた男子生徒の一人が、ハッ、と我に返り、すぐに先ほどの調子を取り戻して暁を睨み返す。
「んだテメェ、転校生だからって調子乗んなよ!」
胸ぐらをグッと掴まれ、引き寄せられる。華奢な暁の身体は、いとも簡単に持ち上がった。かかとが床から離れ、首が絞まる。
「ぐっ……」
苦悶の声が漏れた、その瞬間――。
美術室のドアの近くにあった木製の椅子が、勢いよく蹴り飛ばされて激しく宙を舞い、けたたましい音を立てた。
男子生徒らが弾かれたように振り返る。
そこには、たった今までバケモノと嘲られていた男が、立っていた。
男の肩はかすかに上下し、眉間に刻まれた皺は、もう表情ではなく、刃物で掘り込まれた傷のようだった。瞬きもしない両目は燃えていて、視線は寸分も逸れない。射抜くというより、焼き尽くそうとしているかのようだった。握りしめた拳の関節だけが、白く浮き上がっている。
締め上げられて歪んだ視界の中で、暁は、これまでで最も赤黒い、錆びた鉄のような色を纏った凱を捉えていた。
止めないと、また……。
しかし、絞まった首からは、声を上手く絞り出せない。
やがて凱は、男子生徒らの前に立ち、空気そのものを振動させるような低い声を放った。
「放せ」
もう一度、繰り返す。
「そいつから、手を放せ」
暁を絞めていた男子生徒は、虚勢だけは崩さぬように暁を奥へ押しやり、後ずさった。その拍子に、暁の足が机の角に強くぶつかる。
「……っ!」
もう、間に合わなかった。
痛みで暁の表情が歪んだ瞬間、凱の色は、黒煙をはらんだ火柱のように燃え上がった。
「放せって言ってんだろ!」
その刹那、美術室の窓ガラスがビリビリと振動した。同時に――暁の視界の中で、凱の輪郭から、墨色の跡がぐうん、と外に向かって膨らんだ。
輪郭を大きく離れ、煙のような障気がその場を覆い尽くした。喉を絞った、あの低い唸りのような音が重たく響く。
近くの棚にあったあの結晶に、すうっと一筋のひびが走る。そして次の瞬間、バキッ、と乾いた音を立てて砕け、無数の破片となって床に散らばった。
続けて、暁を絞めていた男子生徒の手が、何かに弾かれたように、ふっと跳ね上がった。手の甲の皮膚が裂け、零れた血が腕を伝って真っ白な制服のシャツに赤いシミが広がる。もう一人の白目には細い赤の網が走り、鼻孔から細い血の筋が垂れていた。
やったのは、凱ではなかった。
――あれだった。
暁の目に、灰色が雲がかった。
突然襲いかかった禍々しい力に、男子生徒らは叫び声を上げ、傷口を押さえながら転がるように美術室を逃げ出していった。
「ゲホッ、ゲホッ」
暁は、ようやく緩んだ喉から咳が止まらない。床にへたり込んでむせ返りながら、顔を上げた。
凱の輪郭から離れたあの墨色が、徐々に凱の中へ引き戻されていく。そして、赤黒い炎のような色を纏ったままうつむく凱だけが残った。
凱はうつむいたまま、表情をのぞかせなかった。文化祭の準備に沸く生徒たちの笑い声が廊下から漏れ聞こえてきて、それがどうしようもなく哀しく響く。
暁は、散乱したアクリル板を呆然と眺めるしかなかった。
長い沈黙のあと、ようやく、凱が口を開いた。
「あーあ、やってらんねぇ」
それは、いつもの凱の声よりも、少しだけ上ずって聞こえた。
「やっぱり俺の近くにいると、ろくなことがないな。お前も、もうわかっただろ。結局、俺は周りのものを全部傷つけちまう。いつもそうだ。今まで、色々付き合わせて悪かったな。でも、もういいから。俺のことは放っておいてくれ」
凱の纏った色が、徐々に消えていく。代わりに表れたのは、転校初日に見た、あのダークブルーだった。いや、あのときよりも、もっと濃く、もっと深い濁りが、凱を覆ってしまった。
暁は何かを言おうと口を開きかけ、そして、その言葉を喉の奥で飲み込んだ。
また、転校したばかりのころの凱に戻ってしまった。それが、ただただ悔しかった。
「もういいから」という、突き放すための言葉。本音じゃない。偽りの言葉だと、暁には痛いほどわかった。
どうして、また一人で潜っていってしまうのか。どうして、すぐ自分を押し殺すのか。込み上げる切なさに、暁は顔を歪め、肩を震わせながら苦々しく言葉を吐いた。
「そんな色をした凱なんか、大嫌いです」
ベッドの上だった。掛け布団の重み。借りた寝間着の、やさしい柔軟剤の匂い。窓の外では、雨足はもう少しだけ弱まっていた。ぼんやりとした視界の隅で、テーブルに向かって座り、出来かけの正十二面体にスマホのライトを照らす凱の背中が見えた。スマホの淡い光が、凱の輪郭をうっすらと縁取っていた。
ふと、視線がずれて、暁は壁の方を見た。
心臓が、止まりそうになった。
凱の背中の影が、壁に長く伸びていた。けれど、その影の縁に、もう一つの影が、ぴったりと寄り添うようにして、いた。
凱のものではない。
凱より、ほんの少しだけ縦に長い。輪郭が、人のかたちをしているようでいて、人のかたちをしていない――。
暁は息を呑んだ。瞬きを、一度した。
次に目を開けたとき、そこには、もう、凱の影しか、なかった。
寝起きの混濁した頭が、見間違えただけかもしれない。あるいは、夢の続きが目の縁に残っていただけかもしれない。けれど、寒気のようなものが、首筋を伝って降りていく。
雨の音だけが、また、規則正しく窓を叩いていた。
凱は、ふと、ゆっくりと顔を上げた。窓の外を見るでも、机の上を見るでもなく――ただ、虚空を、じっと見つめている。瞬きもしない。
「凱……?」
声に出したつもりだったが、喉の奥でかすれただけだった。それでも、凱の肩がふっと小さく揺れて、こちらを振り返った。
「……起きてたのか」
いつもの、低くて穏やかな凱の声だった。さっき、何を見つめていたんですか、と聞きたかった。でも、聞いてはいけない気が、なぜか、した。
まぶたが、また重くなっていく。
「いえ。寝ます……」
「おやすみ」
遠ざかっていく意識の中で、暁はもう一度だけ、ちらりと壁の方を見た。
やはり、凱の影しかなかった。
*
スズメの鳴き声と、まぶしい朝日に、暁は薄く目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む光が、頬の上をゆっくりと撫でている。暁は手の甲を額に重ね、しばらく、ぼうっと天井を見上げていた。柔らかい枕。馴染みのない掛け布団。
ここは、僕の部屋じゃない。
ようやく頭が現実に追いつくと、暁は弾かれたように上半身を起こし、周囲を見渡した。
部屋の隅に寄せられたテーブル。その上に、まだ未完成のままの正十二面体が、朝日を浴びて、静かに置かれていた。色を宿した十二枚のうちの九枚が立体を成し、残りの三枚は、まだその身を待っている。差し込む光が、組み上がった面を透かして、机の表面に淡い色の影を落としていた。
そのとき、トイレのドアが開く音がして、凱が出てきた。
「凱。あれ、昨日……?」
まだ状況を飲み込みきれていない暁を見て、凱は、口角をわずかに上げた。
「ちゃんと寝れたか?」
「あれ、いつの間に? というか凱、昨日どこで寝たんですか」
暁は夜中に目を覚ましたことを覚えていなかった。部屋の床に空いたスペースを目で追って、暁の中に嫌な予感がよぎる。
「そんなことより、そろそろ帰らないと、学校、間に合わないんじゃないか?」
凱が指さした時計は、午前八時を、わずかに過ぎていた。
「え、もうこんな時間! すぐに着替えて家に戻ります。学校で、また」
慌てて立ち上がった暁は、借りていたスウェットを脱ぎ、几帳面に折り畳んでベッドの上に置いた。それから、昨日着ていた服を頭から被るように身につけ、玄関へと急ぐ。
ふと足を止めて、ダイニングキッチン越しに、凱の部屋を振り返った。
机の上に、未完成の正十二面体。色を乗せた九枚の面が、朝日を受けて、キラキラと、静かに輝いていた。
始業のチャイムが鳴る午前八時四十分まで、残り五分。
暁は息を切らせて教室の戸を引いた。汗の滲んだ顎を手の甲で拭い、肩で大きく呼吸を整える。視線を巡らせると、すでに自席に腰を下ろしている凱と目が合った。暁は腰の辺りで、凱にだけ伝わるよう、小さくピースサインを掲げる。
凱がほんのわずかにうなずく。それを合図に、暁は早足で歩み寄った。
「ギリギリセーフ」
「ほんとにギリギリだったな」
「めちゃくちゃダッシュしたんですよ。朝から登り坂は、さすがにキツいです」
凱は頬杖をついたまま、口の端にだけ苦笑を滲ませた。
「あれ、作品はどうしました?」
机の周りを見回しながら、暁が尋ねた。
「まだ未完成だから、今朝、美術室の棚に置いてきた」
「ありがとうございます。今日の放課後には、ついに完成ですね」
「ああ」
二人を包む小さな高揚感を割るように、チャイムが鳴り響いた。暁は急ぎ足で席に戻る。座るやいなや、隣の千夏が椅子を軋ませながら身を乗り出してきた。
「ちょっと、黒瀬くんとすごい仲良さそうに話してたじゃん。何かあったの?」
「いえ、大したことじゃないですよ。文化祭の展示作品で、少しだけ」
「そっか。でも、友達になれたんだね。よかった」
千夏が笑みを浮かべると同時に、津田が口を開き、二人の話はそこで途切れた。
「文化祭まで、あと三日となりました。クラスの出し物の準備も順調に進んでいるようですね。展示作品を作っている人は、明日の金曜日までに、私のところへ提出してください。それから……」
津田の声が、暁には遠くでぼやけるようにしか聞こえず、内容が入ってこなかった。
――友達。
暁は、千夏に言われたその単語を頭の中で何度も転がしていた。自分と凱との関係を表す言葉は、いったい何になるのだろう。互いに不思議な力を抱えていることを共有した、秘密の関係。それは、ただの「友達」ではもう片づけられない。けれど、「恋人」と呼ぶには遠すぎる。凱はきっと、自分の気持ちには気づいていない。凱の側にも、そんな感情はないだろう。友達以上ではあっても、「恋人未満」と呼べるところまでも、たどり着いていない。それどころか、凱にとって自分は、やはりただの「友達」でしかないのかもしれない。
名前のつかない感情が、胸の奥で小さくくすぶり続けていた。
*
昼休み、いつもの踊り場。
凱の隣で弁当箱を広げていると、久しぶりに鮫島が顔を出した。
「よっ」
「あ、鮫島さん」
暁が応じると、「聞いてくれよぉ」といつもの入りから、鮫島の愚痴が滝のように流れ出た。
「うちのクラス、メイド喫茶だぜ? なぜか男もフリフリのメイド服着させられて、笑顔で紅茶注いで接客とか……あ、り、え、ね、え、だ、ろ! 女子に面白がられて写真も動画も撮られるしよぉ。一生の汚点だ……」
「坊主のメイドなんかいないもんな」
凱がさらりと茶化すと、鮫島は「うるせっ」と噛みついてから、暁の方へ視線を流した。
「暁とかなら、いくらでも似合いそうなのに」
「いや、僕は……遠慮しておきます」
暁は耳まで赤くしながら、両手を小さく振った。
「絶対似合うから、変わってほしいわ。なあ、凱もそう思わない?」
矛先を向けられた凱は、ほんのわずかに頬を赤らめ、ぼそりと答えた。
「……似合うと、思う」
その瞬間、凱の脳裏には、メイド服姿の暁の影が確かに浮かんでいた。
「凱まで。もう、からかわないでください」
暁は口を尖らせて、玉子焼きを乱暴に頬張る。
「お前たちのところはフランクフルトだろ? いいよなぁ、無難で」
「女の子たちが特に張り切って準備してくれてるので、なんとか間に合いそうみたいですよ」
「間に合いそうみたいって……お前ら、他人事だな」
「二人で展示作品を作っているので。その分、当日は頑張って焼くからって、許してもらってます」
「え、二人で作ってんの? 凱、お前どうしちゃったんだよ!」
鮫島は目を見開き、驚きと興味のないまぜになった顔で凱をのぞき込む。
「いいだろ、別に。そういう気分になっただけだ」
凱はそっけなく言って視線を逸らしたが、暁は、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じていた。
その日の放課後、美術室へ向かおうとした二人を、千夏が呼び止めた。
「朝倉くん。今日も作品づくりだよね?」
「はい。今日で完成するので、明日からはクラスの方に合流できそうです」
「そっか。あの、ちょっとお願いなんだけどさ」
千夏は声を控えめに落とし、隣の凱をちらりと窺った。
「これから教室の入り口に看板を貼り付けたいんだけど、黒瀬くん、背が高いから……ちょっとだけお手伝い、お願いできないかな?」
クラスで一番背の高い凱への、ほぼ名指しの依頼だった。
「別に、それくらいなら構わない」
凱が口を開いた。暁と話すときよりは少し低い声色だったが、一学期の彼を思えば、それは大きな変化と言ってよかった。
「え、ほんと?」
千夏は驚きに目を見張る。
「じゃあ、僕は先に美術室で準備してますね」
暁は微笑みを残して教室を出た。胸の内側に、小さな明かりがともる。凱の変化が、嬉しくてたまらなかった。
美術室に着き、棚の上にそっと置かれていたアクリル板の結晶を見つけると、暁はその場に立ち尽くしたまま、しばらくじっと眺めた。
凱との出会い。検証の日々。昨日、凱の家で並んで作業した時間。それらが流れる水のように頭の中を駆け抜けていく。感情を押し込め、他人を遠ざけていた最初のダークブルー。その色が少しずつ淡くなり、時折、柔らかな表情さえのぞかせるようになった凱。検証の中で見せてくれた、無数の色たち。それらが、目の前で放つ色とりどりのアクリル板の輝きに重なって見えた。
これからもっと、凱のいろんな色を見ることができるのだろうか――。
そう思った瞬間だった。美術室のドアが、勢いよく開く音がした。
「凱」
反射的に呼びかけた暁の前に立っていたのは、しかし、見慣れない男子生徒二人だった。黒い塊のような、敵意と悪意を全身に纏った気配。暁は思わず一歩、後ずさった。
「お前、三組の転校生だろ?」
「黒瀬と、よくここでつるんでるらしいな」
二人は一歩、また一歩と、距離を詰めてくる。
「……何か用ですか?」
暁は警戒を声に滲ませながら、それでも視線を逸らさなかった。
「お前、鮫島とも昼飯食ってんだろ。あいつから聞いてないのか? 黒瀬に近づくと、呪われるってウワサ」
「あいつは、周りの物を勝手に動かす、ポルターガイスト人間なの。てか人間っていうより、バケモノか」
一人がケラケラと笑い、もう一人が両手を前に垂らして、幽霊めいた仕草をして茶化してみせる。
――バケモノ。
その言葉が、暁の胸を鋭く突き刺した。凱は、ずっとこんな思いをしてきたのか。周りから恐れられ、疎まれ、馬鹿にされ、存在そのものを否定される。その日々を耐えるために、自分の感情そのものを殺して、孤独に染まることを選んだのだ。
胸の奥の痛みが止まらない。暁は目を真っ赤にして、拳を固く握りしめた。視線を床に落とし、震える唇から、絞り出すように声を漏らす。
「……ないです」
か細い声が、空気の中に頼りなく散った。
「え、何だって?」
「怖くて泣いちゃった?」
「俺たちだって、転校生くんのこと心配して言ってやってんだぜ」
からかうような口ぶりが続いた、そのとき。
「……凱は、バケモノなんかじゃない!」
暁は両足を踏ん張り、腹の底から声を放った。
「え――」
二人の動きが止まる。
「が、凱は、甘いものが大好きです。パフェを食べると、柔らかい笑顔を見せてくれます。嫌いなものはパクチー。カメムシみたいな匂いが、絶対無理なんです」
「何言ってんだ、こいつ……」
顔を見合わせる二人に構わず、暁は言葉を継いだ。
「僕が滑って頭を打ったときは、本気で心配してくれました。映画を見れば、涙だって流します。凱は、凱は――みんなと同じ、ただの普通の人なんです!」
暁の目から、大粒の涙が雨のように零れ落ちていた。ただ悔しくて、悔しくて仕方なかった。
その様子を、凱は美術室前の廊下で、腕を組み、壁にもたれて聞いていた。最初は入るタイミングを逃しただけだった。けれど、途中からは、足が動かなかった。
「凱は、みんなを怖がらせないように、みんなを傷つけないように、自分から感情を押さえ込んでいたんです。一人で孤独の道を選んで、本音を全部封じ込めて……。そんな人の気持ちが、あなたたちにはわからないんですか!」
暁はブレザーの袖で涙を拭い、二人を真正面から睨み付けた。
毒気を抜かれていた男子生徒の一人が、ハッ、と我に返り、すぐに先ほどの調子を取り戻して暁を睨み返す。
「んだテメェ、転校生だからって調子乗んなよ!」
胸ぐらをグッと掴まれ、引き寄せられる。華奢な暁の身体は、いとも簡単に持ち上がった。かかとが床から離れ、首が絞まる。
「ぐっ……」
苦悶の声が漏れた、その瞬間――。
美術室のドアの近くにあった木製の椅子が、勢いよく蹴り飛ばされて激しく宙を舞い、けたたましい音を立てた。
男子生徒らが弾かれたように振り返る。
そこには、たった今までバケモノと嘲られていた男が、立っていた。
男の肩はかすかに上下し、眉間に刻まれた皺は、もう表情ではなく、刃物で掘り込まれた傷のようだった。瞬きもしない両目は燃えていて、視線は寸分も逸れない。射抜くというより、焼き尽くそうとしているかのようだった。握りしめた拳の関節だけが、白く浮き上がっている。
締め上げられて歪んだ視界の中で、暁は、これまでで最も赤黒い、錆びた鉄のような色を纏った凱を捉えていた。
止めないと、また……。
しかし、絞まった首からは、声を上手く絞り出せない。
やがて凱は、男子生徒らの前に立ち、空気そのものを振動させるような低い声を放った。
「放せ」
もう一度、繰り返す。
「そいつから、手を放せ」
暁を絞めていた男子生徒は、虚勢だけは崩さぬように暁を奥へ押しやり、後ずさった。その拍子に、暁の足が机の角に強くぶつかる。
「……っ!」
もう、間に合わなかった。
痛みで暁の表情が歪んだ瞬間、凱の色は、黒煙をはらんだ火柱のように燃え上がった。
「放せって言ってんだろ!」
その刹那、美術室の窓ガラスがビリビリと振動した。同時に――暁の視界の中で、凱の輪郭から、墨色の跡がぐうん、と外に向かって膨らんだ。
輪郭を大きく離れ、煙のような障気がその場を覆い尽くした。喉を絞った、あの低い唸りのような音が重たく響く。
近くの棚にあったあの結晶に、すうっと一筋のひびが走る。そして次の瞬間、バキッ、と乾いた音を立てて砕け、無数の破片となって床に散らばった。
続けて、暁を絞めていた男子生徒の手が、何かに弾かれたように、ふっと跳ね上がった。手の甲の皮膚が裂け、零れた血が腕を伝って真っ白な制服のシャツに赤いシミが広がる。もう一人の白目には細い赤の網が走り、鼻孔から細い血の筋が垂れていた。
やったのは、凱ではなかった。
――あれだった。
暁の目に、灰色が雲がかった。
突然襲いかかった禍々しい力に、男子生徒らは叫び声を上げ、傷口を押さえながら転がるように美術室を逃げ出していった。
「ゲホッ、ゲホッ」
暁は、ようやく緩んだ喉から咳が止まらない。床にへたり込んでむせ返りながら、顔を上げた。
凱の輪郭から離れたあの墨色が、徐々に凱の中へ引き戻されていく。そして、赤黒い炎のような色を纏ったままうつむく凱だけが残った。
凱はうつむいたまま、表情をのぞかせなかった。文化祭の準備に沸く生徒たちの笑い声が廊下から漏れ聞こえてきて、それがどうしようもなく哀しく響く。
暁は、散乱したアクリル板を呆然と眺めるしかなかった。
長い沈黙のあと、ようやく、凱が口を開いた。
「あーあ、やってらんねぇ」
それは、いつもの凱の声よりも、少しだけ上ずって聞こえた。
「やっぱり俺の近くにいると、ろくなことがないな。お前も、もうわかっただろ。結局、俺は周りのものを全部傷つけちまう。いつもそうだ。今まで、色々付き合わせて悪かったな。でも、もういいから。俺のことは放っておいてくれ」
凱の纏った色が、徐々に消えていく。代わりに表れたのは、転校初日に見た、あのダークブルーだった。いや、あのときよりも、もっと濃く、もっと深い濁りが、凱を覆ってしまった。
暁は何かを言おうと口を開きかけ、そして、その言葉を喉の奥で飲み込んだ。
また、転校したばかりのころの凱に戻ってしまった。それが、ただただ悔しかった。
「もういいから」という、突き放すための言葉。本音じゃない。偽りの言葉だと、暁には痛いほどわかった。
どうして、また一人で潜っていってしまうのか。どうして、すぐ自分を押し殺すのか。込み上げる切なさに、暁は顔を歪め、肩を震わせながら苦々しく言葉を吐いた。
「そんな色をした凱なんか、大嫌いです」
