「数学、無理だわ……」
「終わったー!」
中間テスト最終日、終了のチャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちから、嘆きとも歓声ともつかない声が同時に上がった。机に突っ伏す者、伸びをする者、答案用紙を投げるように前に回す者。緊張の糸が一斉に切れて、空気がふっと緩んだ。
試験監督と入れ替わりに教壇に立った担任の津田が、生徒たちにねぎらいの言葉をかけて、長かった試験期間がようやく終わりを告げる。ホームルームの最中、暁はそっと左を振り返った。視線がぶつかった凱に、ほんの小さく目配せをする。凱は表情を変えないまま、顎を軽く引くだけで返した。
その日の放課後から、二人はまるで合図を待っていたかのように、作業の続きに取りかかった。
凱がカッターで正五角形を切り出し、暁がやすりで断面を整える。地味な反復だ。でも暁にとって、この時間はたまらなく愛おしいものだった。凱と二人きりでいられる時間。少しだけ、凱の身に纏うダークブルーが淡くなる、この時間。
凱は長袖のシャツを肘までまくり、それでも額にうっすらと汗を浮かべながら、無言でカッターを走らせていく。そのまっすぐな横顔を、暁は時折、やすりを動かしながら盗み見ていた。
この日も、新たに三枚が仕上がった。これで必要な枚数の半分。
「やっぱり一日三枚のペースか」
凱は時計に目を移して、独り言のように言った。
「明後日の金曜には十二枚、揃えられそうだな。ただ、肝心の色付けと組み立てを、その次の一週間で終わらせないと間に合わない。来週の水曜は開校記念日で学校に入れないし……結構、時間ないな」
少し焦りの混じった声色だった。
「そのようですね」
暁はうなずいてから、思い付いたように、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「凱にも色付け、手伝ってもらわないと間に合いませんね」
「え、俺もか?」
虚を突かれた凱が、思わず口を開ける。色は暁の担当、というのが、なんとなくの了解だったはずだった。
「そうですよ。一緒に頑張りましょう!」
暁は今度はさっきよりも大きく、目を糸のように細めて、無邪気に笑った。
一緒に――。
その言葉が、また、凱の胸の内側で小さく響いた。最初に聞いたときよりも、なじみ深く、けれど、なぜか少しだけ重く。
「……わかったよ。フォロー、頼んだぞ」
凱は短く答えながら、頬がほのかに温かくなるのを感じていた。窓の外では、傾きはじめた夕陽が、校舎の壁を蜂蜜色に染めていた。
*
十二枚の正五角形が机の上に揃ったのは、予定どおり、金曜日の日暮れだった。二人は並んで帰り道を歩いていた。日はすでに沈み、街灯が柔らかい光を灯している。冷たくなりはじめた空気が、頬をかすかに撫でた。
「来週から、いよいよ色付けだな」
凱が前を向いたまま、思い出したように口を開いた。
「でも、何色にするか、お前はもう決めてるのか」
「ステンドカラーは、赤、青、黄色、色の三原色が揃ってるんです。混ぜ方次第で、どんな色だって作れるんですよ」
暁の声は、すでに想像でいっぱいだった。
「だから、いろんな色を使いたいです」
「単純に、ただ塗ればいいって訳じゃないんだな」
「はい。でも、色は自由ですから――僕としては、そうですね。凱の好きな色を塗ってほしい、ですかね」
「急にそう言われても、難しいな……」
困ったように頭をかく凱を、暁はそっとのぞき込むようにして笑う。
「週末、少し考えてみてくださいね」
戸惑いを浮かべる凱の表情を、これから少しずつ、ほぐしていけたらいい。暁は胸の奥で、ひっそりとそう願った。
月曜日の放課後、暁はペンの形をしたステンドカラーを机の上に一列に並べた。
「今回は透明の接着剤を使うので、まずはこの黒いインクで縁取りをしましょう。貼り合わせたときの仕上がりが、ぐっとステンドグラスっぽく見えるはずですから」
「それが乾いてから、内側を塗るってわけか」
「はい、そういうことです。土日のあいだに、ネットでばっちり予習してきました」
暁は得意げに歯を見せて笑った。その表情は、いつもより少しだけ子供っぽく見えた。
「まずは僕がやってみますね」
そう言って暁は黒いペンを手に取り、アクリル板に顔を寄せた。息を整え、五角形の縁に沿ってゆっくりとインクを引いていく。透明な板の上に、黒い線が静かに伸びていった。
一周し終えて顔を上げた暁は、自分の引いた線をじっと見つめてから、少しだけ眉を寄せた。
「線の太さを均一に出すのって、思ったより難しいですね」
口を曲げる暁の肩越しから、凱が画面をのぞき込むようにして、その線を見つめた。
「それも味が出て、意外といいかもしれないぞ」
意外なほど真剣な口ぶりだった。
凱の顔が、すぐ近くにあった。凱の体温が空気を伝って、頬にほんのり触れるような気がする。作品作りに集中しなきゃいけないのに、何を意識しているんだ。暁は心の中で自分を叱り、視線をアクリル板に戻した。
「じゃあ、もう一本のペンで、凱も同じようにお願いします」
暁は、自分の右隣の席の前に、新しいアクリル板と黒のペンを置いた。
広い美術室に、二人だけが並んで腰かけている。アクリル板に向かう凱の真剣な横顔を、暁はこっそりと横目で見た。やっぱり、凱の睫毛が長いのが分かる。視線を落としたときに、その影が頬にうっすら落ちる。胸の奥がそっと高鳴る。暁はその鼓動を、少しの罪悪感と一緒に、必死で抑え込んだ。
その日は、十二枚すべての縁取りを終えて乾かしたところで、ようやく顔を上げた。空は、もうすっかり藍色に染まっていた。
帰り道、いつものように肩を並べて歩きながら、暁は静かに切り出した。
「色付けは、明日からですね」
「ああ」
「十二枚、いろんな色にしたいです」
「そうだな」と凱はうなずいてから、ふと夜空を見上げた。「ペース的には、明日、半分くらい塗り終えられるといいんだけどな」
「どんな色がいいか、凱も考えてきてくださいね」
凱は頭をガシガシとかきながら、「わかったってば」と、ぶっきらぼうに返した。
冷えた夜風の中を、二人の足音だけが、とんとんと、同じ歩幅で重なっていった。
火曜日、ホームルームが終わるなり、教室の中央には女子たちが集まり、文化祭の準備に取りかかっていた。千夏は油性ペンを握って、厚紙にフランクフルトの屋台の看板を描き入れていた。マジックの匂いが机のあいだに漂い、笑い声がそこかしこから上がる。
ふと顔を上げた拍子に、教室のドアの方が視界に入った。暁が凱に何か小声で話しかけ、二人は連れ立って廊下へ出ていくところだった。
「暁くんにも手伝ってほしいんだけどなぁ」
隣で看板に色を入れていた女子が、唇を尖らせるように言った。
「ここんとこ、黒瀬くんと仲良さそうだよね」
愚痴とも世間話ともつかない声色だった。千夏はちらりと、廊下の方へと消えていく二人の背中を目で追ってから、ペン先を止めて微笑んだ。
「何か二人で展示作品作ってるらしいよ。ま、人手は足りてるし、当日たくさん焼いてもらえばいいでしょ。ほら、そっちの色塗って」
千夏の声に責める色はなく、やさしく気遣うような温かさを帯びていた。
美術室の長机に、暁は赤・青・黄のステンドカラーを並べた。さらに、かばんの中から、ツヤ出し用のニスと、小さな紙コップを取り出してみせる。
「なんだ、それは?」
凱が首をかしげる。
「調べたら、この透明なニスと混ぜることで、インクの色を淡くできるらしいんです。グラデーションの表現にも使えるみたいですよ」
「そうなのか。なんか難しそうだな……」
凱は珍しく自信なさげな声を出した。
「大胆にいきましょう。色に正解はありませんから」
暁は微笑む。その笑みに押されるように、凱は黙ってインクに手を伸ばした。
――色。俺が塗りたい色って、なんだ。
凱は紙コップを前にして、しばらく動きを止めた。俺には、暁のように他人の感情が色で見えるわけじゃない。自分の色だって、直接見たことはない。それでも、この板に乗せるなら、自分の何かを乗せたい。俺が、好きだと思える色を。
少し迷ってから、凱は青のインクを数滴、それから黄色を少しだけ、紙コップに垂らした。プラスチックの棒で、ニスと一緒に、ゆっくりと混ぜていく。やがて、コップの底に淡い緑が広がった。
それを正五角形の上に伸ばすと、表面にチョコミントアイスのようなやさしい緑が、ふうっと広がった。ニスのツヤが蛍光灯を反射して、表面が小さな星をちりばめたように光る。
「……綺麗」
暁はため息のように、その言葉をこぼした。
「凱。何でこの色にしたんですか」
「……何となく」
凱は視線を逸らし、わざとぶっきらぼうに答えた。耳の縁が、わずかに赤くなっているのを、暁は見逃さなかった。けれど、それ以上は問わなかった。アクリル板の上に広がる淡い緑が、暁がよくスケッチブックに落とし込んでいた、教室を包む空気の色によく似ていたから。
その日、暁は鮮やかな黄色を一面に敷いた。喜びの色。塗った面に触れないように、二人はそうっと板を棚に並べた。机に積まれた残りの透明なアクリル板は、まだ十枚ある。
「手のひらくらいの大きさでも、一枚塗るのに思ったより時間がかかりますね」
時計に目をやって、暁が言う。針はすでに五時半を過ぎていた。
「これ、明日の休み明けの二日間、放課後だけで組み立てまで完成させるのは、ちょっと間に合いそうにありませんね」
焦りの色が、暁の言葉に混じる。
「そうだな……」と凱は神妙な面持ちで腕を組み、しばらくの静寂が訪れた。
やがて、凱が口を開いた。
「明日、うちでやるか?」
暁の胸が轟くように高鳴る。
凱の家。一緒に映画を見たあの日。キスしそうになりかけた、あの日以来の、凱の家。
頭の中でよみがえりそうになった映像を、暁は慌てて遠くに押しやった。代わりに、跳ねた心の勢いをそのまま声にした。
「最後の追い込みですね、やりましょう! 明日の朝、十時くらいでいいですか?」
「早いな」と凱は少し考えるように顎に手を当ててから、「けど、そうも言ってられないもんな。わかった」と答えた。
「あと二十分くらいでインクが乾くと思うので、乾いたら、僕がまとめて持って帰りますね」
暁はスケッチブックの入っていないトートバッグをかばんから取り出した。ところが凱は、「どうせ俺んちに来るなら、俺が持って帰る」と短く言い放ち、貸せ、と言わんばかりに無言で手を差し出した。
開いた窓から、ほんの少し冷たさを含んだ風が流れ込み、暁の頬を撫でた。ただ、火照った頬を冷ますには、まだ秋が浅すぎる。
「……はい」
それだけ短く返してから、暁は口角が上がってしまうのを見られたくなくて、すっと床に視線を落とした。そして、凱には届かないくらいの小さな声で、独り言を一つだけこぼした。
「いつもズルいなぁ、凱は」
*
開校記念日の水曜日は、朝から空がぐずついていた。
暁は雨が降り出す前にと、少しだけ早めに家を出た。自転車のかごには、昨夜のうちに買い込んだポテトチップスやチョコ菓子が入った袋が押し込んである。橋を渡るとき、ふと左に視線を流す。鳴海湾の上にいつもの紺碧はなく、灰色の雲の重い屋根が、海面に低く垂れ込めていた。
凱のアパートの前に着くと、暁は軽く息を整えた。袋の持ち手を握り直し、鉄製の階段を一段、また一段と登っていく。
二階の角部屋の前に立ち、チャイムに指を伸ばしかけたその瞬間、扉のほうが先に動いた。
「うわっ」
驚いて一歩下がった目の前に、茶色の髪が肩までかかった柔和な女性が立っていた。
「あら、びっくりした。うちに用ですか?」
「は、はい。が……黒瀬さんと同じクラスの、朝倉と申します」
舌の根に変な力が入って、語尾が浮いた。
「あぁ、凱の」
女性は、ふっと一拍置くようにして、後ろを振り返った。それから笑みを浮かべて言った。
「凱の母です。いつも凱と仲良くしてくれて、ありがとう」
凱の、お母さん。心の準備のないままの対面に、暁は口を金魚のようにぱくぱくさせた。そのとき、部屋の奥からドタドタと早い足音が近づいてきた。
「母さん!」
由美の肩越しに、顔を赤くした凱が現れる。
「もう時間だろ、早く行きなって」
「はいはい、慌てちゃって」
由美はからかうように笑い、もう一度、暁の方に向き直った。
「今日はこれから出かけちゃうんだけど、ゆっくりしていってね」
「あ、はひ! お邪魔しますです」
動転した頭が、勝手に変な日本語を組み立てた。由美はくすくす笑いながら、「かわいいわねぇ」と独り言のようにつぶやいて、軽い足取りで階段を降りていった。
凱は気まずさを隠しきれない頬の赤みのまま、「上がれよ」と短く言った。暁は緊張がほどけて、肩で笑ってから、玄関に足を踏み入れた。
凱の部屋に入ると、暁はお菓子の袋を前に差し出した。
「これ、差し入れです」
「おお、サンキュ」
「凱のお母さん、若いんですね」
「まぁな。今日は友達の家に泊まって、昔のママ友の会をするそうだ。帰ってこないから、気にするな」
「そうですか。じゃあ、早速、塗っていきますか」
すでにテーブルには、アクリル板とインクが並べられていた。暁は袖をまくりながら、その横に腰を下ろす。
「できるだけいろんな色を使いたいので、一色ずつ決めていきましょう。僕はまず、赤を塗りますね」
「わかった。そしたら俺は、青にする」
二人はテーブルを挟んで向かい合い、それぞれの色を、透明な五角形の上にゆっくりと広げていった。
ほどなくして、窓の方から、ぽつ、ぽつ、と細い音が始まった。
「降ってきましたね」
ふと顔を上げた暁が、つぶやくように言った。
「あぁ、今日は昼から雨の予報だからな。海風で天気も変わりやすいから、少し早めに降ってきたんだろ」
凱はアクリル板の上のインクから視線を離さず、淡々と答えた。
六畳間の部屋には、しばらく、柔らかな雨音だけが響いた。
塗り終えたアクリル板は、ベッドや床に敷いた新聞紙の上に並べて乾かしていった。オレンジ、茶色、桃色。次から次へと、透明だった板に色が宿っていく。雨の音と、インクをならす棒のかすれる音だけが、部屋の中を行ったり来たりした。
その静けさを破ったのは、午後三時を回ったころのことだった。
――バララッ。
突然、強い雨粒が窓ガラスを叩いた。同時に、風が窓枠を揺らし、ガタガタと音を立てる。二人は、ほぼ同時に顔を上げた。
「雨、強くなってきたな」
凱が窓の方を見やる。
「そうですね」
「お前、帰り、大丈夫か」
「時間が経てば弱まるかもしれませんし、まだ作業も残っていますから、大丈夫です」
「そうか。とりあえず、少し休憩するか」
座ったまま大きく伸びをする暁を横目に、凱は材料を一旦床に下ろし、テーブルを片づけた。
「飲み物、麦茶でいいか?」
「はい、ありがとうございます。お菓子、開けちゃいますね」
ほどなく、テーブルの上には、ポテトチップス、クッキー、ミニドーナツ、グミ、チョコスナックが、にぎやかに並んだ。冷えた麦茶のポットを持って戻ってきた凱が、その光景を見て、ぽかんとした顔になる。
「すごいな。なんか、甘いのが多くないか」
「そうですかね?」
暁はいたずらっぽく笑い、ようやく二人は緩んだ。
「今のところ塗り終えたのは、二人合わせて六枚ですね。グラデーションとか凝り始めちゃったので、思ったよりも時間かかっちゃいましたね」
クッキーを小さくかじりながら、暁が周りを見渡す。
「やるからには妥協したくないからな」
凱はポテトチップスの袋の上で手を迷わせてから、その奥のチョコスナックをつまみ取った。
「それに、案外、色を混ぜたりニスで淡くしたりするのは楽しい」
「そうですね。いろんな色が集まれば、それだけ綺麗に見えると思います」
暁はクッキーを天井の照明に透かすような仕草をしてから、楽しそうに笑った。
「こないだ美術室で二枚仕上げたから、八枚……残りは四枚か。このペースなら、今日中に全部塗り終えられるかもな」
「そうすれば、明日学校で組み立てて、完成できるかもしれませんね」
「どんな仕上がりになるか、全く想像つかねぇな」
凱はチョコスナックを、続けてもう一つ口に放り込んだ。
「あと少しですね。一緒に頑張りましょう」
暁もクッキーの残りを口の中に押し込んで、噛みしめるように笑った。
休憩を切り上げた二人は、再びアクリル板に向き合った。プラスチックの棒の先を紙コップに浸し、透明な板の上にゆっくりと色を広げていく。
凱が、最後の透明な部分を埋めるように紫を伸ばす様子を、暁は固唾を呑んで見守った。
「やりましたね、凱!」
緊張した空気を、暁の声が割った。
「終わった!」
凱は止めていた息を吐くかのように、肩から力を抜いた。
「これで文化祭に間に合います」
「そうだな」
凱が、笑った。心の底から浮かんできたような、自然な笑みだった。それを暁は、初めて見たような気がした。ぼうっとする暁に気付かない凱は、「明日学校で組み立てような」と暁に声をかけた。
「おい、聞いてるのか?」
「あ、はい。すみません」と暁は慌てて応じた。
「後は片付けておくから……」
凱は時計に目をやった。針はもう、午後六時を回っている。続けようとした言葉が、止まった。窓の向こうでは、先ほどよりも強くなった雨粒が、絶え間なくガラスを叩いていた。
「雨、さっきよりひどいな」
「ですね」
雨音と、強風に揺らされる窓ガラスの軋みが、しばらく部屋を埋めた。
やがて、凱がぽつりと言った。
「……腹、減らねぇか」
暁は少しだけ、目を見開いた。
「……簡単なものなら、作るけど」
「凱、作れるんですか?」
「俺が夕飯当番の日も多いからな。一応、自炊はできる」
また一つ、凱の知らなかった面を見つけてしまった。暁の頬が、自然にほころんだ。
「はい、食べます!」
「わかった。味の保証はしないからな」
「それでも食べます」
暁はふふっと笑い、そっとスマホを取り出して、母親に短いメッセージを送った。
〈今日は友達の家で夜ご飯食べるね〉
*
乾いたアクリル板を重ねて部屋を片付けながら、暁はキッチンに立つ凱の背中を、横目でちらちらと見ていた。すらりと背の高い凱が、慣れた手つきで包丁を動かしている。とん、とん、と何かを刻むリズムからも、これが日常の作業であることが伝わってきた。昼休み、いつもパンばかりかじっている凱の、また知らなかった一面。
じゅわっ、と、温まったフライパンの上で食材と油の踊る音が立つ。バターの、甘く、腹の奥をそっと撫でるような香りが、雨と暗い空のことを、しばらくのあいだ忘れさせた。
「できたぞ」
二十分ほどで、凱は暁をダイニングテーブルに呼んだ。
目の前に置かれた皿を見て、暁は思わず声を上げた。
照明を反射して、つやつやと光る半熟玉子のオムライス。乳白色と明るい黄色が混ざり合ったぷるぷるの卵が、丸い掛け布団のようにご飯を覆っている。表面には、赤いケチャップが、糸を引くように一筆で斜めに描かれていた。
「オムライスだ! 形も綺麗……すごいですね」
「味は保証しないぞ」
凱は念を押した。
「それは聞きましたよ」
暁は笑いながら手を合わせ、「いただきます」とつぶやいた。
銀色のスプーンが、玉子の表面をすっと割って、内側に入っていく。軽く横に引くと、少し茶色を帯びた温かみのある赤いケチャップライスが現れた。立ちのぼる湯気で、スプーンの腹がうっすらと曇る。すくい上げた一口を、口へ運ぶ。
芳醇なバターの香り。玉ねぎの甘味。香ばしい鶏肉。それらが、ふわふわの玉子と一緒に、舌の上で溶けるように一つになって、消えていった。
「……」
暁は、しばらく言葉を失ったまま、テーブルの真ん中の一点から視線を動かせずにいた。
「ほらな、言ったろ。口に合わなかったら――」
言いかけた凱を、暁は思わず遮った。
「おいしい……おいしいですよ、凱!」
「え」
「味付けもちょうどいいですし、バターのコクがすごくて、もう、すごいです!」
興奮のあまり、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
「そうか。ならいいんだけど」
凱は少し顔を赤らめながら、再びスプーンを動かし始めた。
「さすが凱です。オムライス好きは、伊達じゃない」
「お前、うるさい。黙って食え」
凱の頬が、さらに赤くなった。
「うるさい」という言葉が、こんなにも甘く響いたのは、暁にとって初めてのことだった。ずっと、ずっと、ほしかった凱からのその一言。それは、突き放す壁ではなく、近しい者にだけ向ける、不器用な甘えのように聞こえた。暁は、つられるように、そっと頬を赤らめた。
暁にとっての思わぬ晩餐が終わり、二人は向かい合って麦茶のグラスを傾けた。
「ごちそうさまでした。凱のオムライス、大好きです。また作ってください」
「こんなの、大したもんじゃないだろ。大げさだ」
「大げさなんかじゃありませんよ。お腹いっぱいで、大満足です」
「そうか。なら、よかった」
会話が途切れた。代わりに、一段と大きくなった雨音が、部屋いっぱいに響いた。
「雨、どんどん強くなってるな。予報だと、明日の朝まで止まないみたいだぞ」
スマホで天気予報を確かめた凱が、心配そうに眉を寄せた。
「弱まる時間帯もあるかなと思ったんですけど、どうやら、そうはならなさそうですね」
暁は苦笑した。時計の針は、午後七時半に近づいている。
凱はスマホをテーブルに置いた。それから、ごく冷静な口調で、言葉を続けた。
「風も強いし、外ももう暗いから、今から外に出ていくのはさすがに危険だろ。うち泊まれよ」
「へっ!?」
虚を突かれて、暁の声が裏返った。
「母親も帰ってこないから、そんなに気使わなくていいだろ。このまま帰すのは、危ない」
「……」
暁は、喉元までせり上がった鼓動を、どうにか飲み込んだ。平静を装おうとすればするほど、胸の奥だけが忙しなく騒いだ。冷たい雨に守られた部屋の中で、自分一人だけが熱を持っているような、不思議な錯覚に陥った。
「……本当に、いいんですか?」
「俺は全然問題ない。というか、お前を今から帰す方が心配だ。まぁ、ベッドは一つしかないけど、俺は床でも平気だ。明日は学校だから、朝になったら一度、着替えに帰らないといけないだろうけど」
「凱が床で、なんてダメです! 僕が床じゃないとダメです」
慌てて否定してから、暁は、ほうっと息をついた。
「ありがとうございます。凱は、本当にやさしいですね」
「やさしいとか、そういう問題じゃないだろ」
凱の眉が、また心配そうに寄る。暁はテーブルの端に両手をつき、「では、お世話になります」と、座ったまま土下座のような仕草をしてみせた。
「大げさだな」
たじろぎながら、凱はたしかに笑った。
「じゃあ、決まりだな。先、風呂入っていいぞ」
「いえ、食器洗っちゃいますので、凱が先に入ってください」
暁はそう言うと、もう袖をまくり上げて立ち上がっていた。
「気使わなくていいって言ったろ」
凱の声を背中に受けながらも、暁はすでにシンクに食器を運び、スポンジを泡立てている。何だか楽しそうに洗い物を流している暁を見て、凱はそれ以上、止められなかった。
「わりいな。じゃあ先に、ぱぱっと入ってくる」
「気にしないで、ゆっくり入ってきてください」
脱衣所のドアが閉まる音を聞き届けてから、暁はもう一度スマホを取り出した。
〈雨風が強いから、今日はこのまま友達の家に泊まるね。明日の朝、早めに帰って制服に着替えるから〉
すぐに既読の印がつき、しばらくして、猫がうなずく横に「OK」の文字が書かれたスタンプが返ってきた。
それを確認してから、暁はスマホをポケットに押し込み、皿、スプーン、コップ、フライパン――凱が使った調理器具を、一つずつ丁寧に洗っていった。流水ですすぎ、布巾でやさしく水気を拭う。
凱のオムライス、おいしかったな。
そんなことを考えながら、布巾を動かす手は止まらない。今日ですべての板に色が乗った。あとは接着剤で立体に組み上げて、乾かせば完成する。文化祭に間に合う。どんな色になるんだろう。見てくれる人たちは、どんな顔をするんだろう――。
何分、ぼんやりとそんなことを考えていただろう。
突然、脱衣所のドアが開いた。
黒色のジャージのズボンを履き、上半身は何も身につけていない凱が、タオルで濡れた髪をガシガシとこすりながら出てきた。
「入ってきた。……ん、食器、そのまま置いといてくれればよかったのに。拭いてもらって、悪かったな」
湯上がりの熱をまだ逃しきれていない凱の肌に、淡い水気が残っていた。肩から腹へと続くラインは、無防備なほどあらわで、滴る雫がその輪郭をなぞるたび、息を呑むほど鮮やかに浮かび上がる。腹部に刻まれた筋は硬質というよりしなやかで、触れればすぐに体温を返してきそうな柔らかさを秘めていた。ふとした呼吸でわずかに動くその起伏に、視線が吸い寄せられてしまう。こんな距離で見ていいものじゃない、と頭ではわかっているのに、どうしても目で追ってしまう。
途端に顔が紅潮した暁は、しばらく行き場を失った配膳ロボットのように固まってしまった。
「おい、どうした?」
不思議そうに、凱が一歩近づいてくる。ふわりと、ボディソープの柔らかい香りが鼻先をかすめた。風呂上がりの熱が伝わってきたものなのか、自分自身の熱なのかわからなくなった暁は、
「ぼ、ぼ、僕も入ります!」と早口で言って、拭いていた皿を台に置いた。
「おう。タオルは置いてある。服はそうだな……俺の寝間着を貸すから、出しておく。お前にはちょっと大きいかもしれないけど、勘弁してくれな」
「あ、ありがとうございます」
たどたどしく返した暁の頭の中は、もう、何かを冷静に処理できる容量が残っていなかった。逃げるように脱衣所に入ってドアを閉めた。胸の鼓動がうるさい。耳を塞ぐ代わりに、洗濯機の上に置いてあった白いバスタオルを持ち、そこに顔をうずめた。やさしい柔軟剤の匂いがして、また一つ、胸が高鳴った。
脱いだ服を丁寧にたたんで、洗濯機の上にそっと置く。風呂の椅子に座ったまま、熱めのシャワーを頭から浴びた。凱に変な風に思われちゃったかな、と後悔が頭をよぎり、濡れた両手で顔を覆うと、足の指先で小さく床を踏むように、じれったく揺れた。
凱と同じ香りを纏って風呂場を出ると、たたんだ服の横に、灰色のスウェットが用意されていた。タオルで体の水気を取ってから、袖を通す。袖口も、裾も、たっぷりと余って、まるで服に着させられた子供のようになってしまった。
洗面所の三面鏡の中で、自分の童顔と、ぶかぶかのスウェットが向き合っていた。改めて、凱の大人っぽさと、自分にまだ少し残る子供っぽさの差を、思い知らされる。それと同時に、凱の男らしさが改めて脳裏をよぎった。腕を交差させて自分の身体を抱くような姿勢を取ると、逃げ場をなくした体温がその内側にこもった。ゆっくりと顔を沈め、袖口に触れた瞬間、柔軟剤に紛れた凱の香りがかすかに届いた。
凱――。
胸の高鳴りは、まだ止まらないままだった。
袖と裾をたくし上げて脱衣所を出ると、冷蔵庫の前で麦茶を飲んでいた凱と目が合った。一拍おいて、凱は顔を背け、口元を片手で覆った。
「はいはい、どうせ僕は、凱みたく背が高くないし、腕も足も短いですよ」
暁は気恥ずかしさと一緒に、投げ捨てるような声でいじけてみせた。
「いや、悪い。思ったより、サイズに差があって」
そう言いながら、凱はまた楽しそうに笑った。確実に、凱の表情は、この数週間で少しずつ豊かになってきている。それが、暁にはたまらなく嬉しかった。
「時間もあるので、よかったら今日、完成させちゃいませんか?」
「あとは接着剤でくっつけるだけだもんな。完成しても片手で持てるサイズだから、うちで作って学校に持っていく方がいいかもな」
「じゃあ、そうしましょう」
*
二人は凱の部屋に戻り、十二枚の正五角形と、接着剤、注入器、ティッシュをテーブルに並べた。今度は二人ともベッドを背にして、肩が触れるか触れないかくらいの距離で、横に並んで座った。
「うまくくっつきますかね?」
「ああ。安定して接着するように、色を塗る前にアクリル板の断面を斜めにやすりがけしておいたから、問題ない」
「いつの間に。さすが、詳しいですね」
「まずは二枚の断面をこうやって合わせて、セロハンテープで仮止めするんだ。そしたら、接着面に沿って溶剤を流し込む」
凱は説明しながら、注入器の先を慎重に動かした。透明な液体が、合わせ目に、すうっと吸い込まれていく。
「はみ出た接着剤は、拭き取らないと白い跡になるから、ティッシュですぐ取る」
繊細な手つきで、凱はちょんちょんと、はみ出た雫を吸い取っていった。
「あとは二分くらい待てば固定されるから、そしたら、次の面に進められる」
「へぇ、結構早くくっつくんですね」
暁は興味津々な様子で、接着面を眺めた。
「やってみるか?」
凱が、注入器を差し出す。暁は、一拍、間を置いてから、首を横に振った。
「……いえ。この色たちは、凱に集めて繋いでもらいたいので、お願いします」
凱は少し首をひねって、その真意を測りかねたような表情を浮かべたが、「そうか」とだけ返して、次の一枚を手に取った。
時計の秒針が、こつ、こつ、と進む音と、窓を強く打ちつける雨音だけが、部屋中に響く。凱の手の中で、五角形が一枚、また一枚と、立体へとかたちを変えていく。十二枚の色が、少しずつ、一つの身体に集まっていく。
午後十時を回るころには、正十二面体の輪郭はほぼ立ち上がり、残るは三枚を残すばかりとなっていた。暁は体育座りをしたまま、真剣な凱の横顔を、時折、そっと盗み見ていた。
「あと一息だな」
凱が、久しぶりに声を出して、次の一枚を手に取った――その瞬間だった。
ふっ、と、部屋の電気が一斉に消えた。
「うわっ!」
暁の口から、思わず大きな声が出る。とっさに、凱の右腕を掴んでしまった。そして、すぐに離した。
「停電か」
凱はため息をつきながら、手にした一枚を、そのままそっと机に戻した。月明かりも届かない夜だった。部屋は、輪郭ごと、闇に飲まれた。
「今の時代でも、停電とか、あるんですね……」
暁の声がかすかに震える。
「そりゃあるだろ。多分、強風で電線が切れたりしたんじゃないか」
凱は動じる様子もなく、淡々と応じた。
暁はスマホを取り出して、画面を点けた。淡い人工の光が、二人の顔と、テーブルの上にある出来かけの正十二面体を、ぼんやりと浮かび上がらせる。ニュース画面に指を滑らせると、線状降水帯発生のニュースが、大きく映し出されていた。
「これみたいですね」と凱に見せた。
「台風ならまだ予測もできるけど、これはさすがに、わかりませんでした」
「まぁ、それなら一晩経てば落ち着くだろ。ただ、この雨で停電だと、復旧には時間がかかりそうだな」
「作業の続きは学校でもできますから、大丈夫ですよ」
そこで会話は途切れた。再び、強い雨音が部屋に満ちる。
けれど、肩を並べて座る凱の存在のせいか、暁の心は、徐々に落ち着きを取り戻していった。雨音さえ、やがて、心地よい音楽のように聞こえてきた。
ふと思いついたように、暁はスマホを操作して、カメラ用のライトを点灯させた。
「眩しっ。おい、充電なくなるぞ」
凱が少し驚いた声を出して、暁の方を見た。
暁は、答えなかった。
ライトが出来かけのアクリル板のからだを透過し、部屋の壁が様々な色に薄く染まった。その壁を、ぼんやりと眺めていた。
「いろんな色があって、綺麗ですね」
凱も視線を、その光に染まる壁へと移した。
暁が、ぽつりと話し始めた。
「人はみんな、いろんな感情を抱えて、ときには表に出して、ときには抱え込んで――そうやって、何とかうまくやりながら生きていることを、僕はよく知っています。黄色は、喜び。赤は、怒り。青は、哀しみ。たくさんの色、もっと複雑に混ざりあった色も、これまで見てきました。表に出さない感情も僕には見えてしまうので、時々、申し訳ないような気持ちになることもあるんです。逆に、感情を出した結果、周りと衝突する人も、たくさんいます。ただ……」
「ただ?」
「それでもやっぱり、感情というのは、どれも尊いものだと、僕は思うんです。だってそれが、一番、人間らしいじゃないですか」
暁が、スマホをわずかに動かす。それに合わせて、壁の色たちが、万華鏡のように、ゆっくりと位置を変えた。
「だから、この作品には、そうした思いを込めたいと考えていました。凱と一緒に作れて、僕は今、本当に嬉しいです」
色彩豊かな壁を眺めながら、暁は一言一言を置くように落としていった。やがて、ライトを消した。部屋は、再び、深い闇に戻る。
ヒョオオオ、と、外で吹き荒れる強風の音が、凱の胸を揺らした。
しばらくの静寂のあと、凱は言葉をこぼし始めた。
「俺は……持ちたくもない力を持って、そのせいで、たくさんの人を驚かせて、傷つけてきた。自分で自分を制御できないのが怖くて、いつからか、自分の感情にふたをすることを選んだ。なるべく感情が生まれないように、周りに人のいない沖合に出て、ずっと、凪のような海面に一人で留まることをイメージしてきたんだ」
外壁が強風に煽られ、家がぐらりと揺れる音が、地響きのように響く。
「そうすれば、誰も傷つかずに済む。自分も、痛みを覚えなくて済む。そうやって、人を遠ざけて、物を遠ざけて、何も見ないように生きてきた。高校に入ってからは、それなりにうまくできていた方だと思う。そんなときに、お前がやってきたんだ」
凱は、ふっと小さく息を吐いた。
「最初は、変なヤツだと思った。他のヤツらは、視界に入れないようにしたり、声を聞かないようにすれば、大抵、離れていく。でもお前は、何度も俺に近づいてきた。冷たくあしらっても、黒板消しが勝手に落ちても、それでもお前はいつも笑って、俺の前に現れた。不思議な力を持ってるって、打ち明けてくれたとき。一人だけのはずだった海に、少しだけ、小さな波が起きたような景色が見えたんだ。だから、その……お前は、他のヤツらとは違うって、思った。今は、うまく言えねぇけど……とにかく、他のヤツらとは、違う。特別、っていうか、まぁ、そういう感じだ」
凱は、赤くなった顔を悟られたくないのか、最後まで窓の方を向いたまま、ぶっきらぼうに、けれど確かに、その言葉を一つひとつ、紡いでいった。
ことり――。
その瞬間、凱の右の二の腕に、軽いものがもたれかかってきた。
驚いて振り向くと、暁が静かに寝息を立てていた。華奢な肩が、呼吸に合わせて小さく上下している。ほんのりと温かなぬくもりが、薄いTシャツの布越しに伝わった。
「ったく、人がせっかく……」
凱は、拗ねたような独り言を一つこぼしてから、ふっと、息を漏らすように笑った。
「終わったー!」
中間テスト最終日、終了のチャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちから、嘆きとも歓声ともつかない声が同時に上がった。机に突っ伏す者、伸びをする者、答案用紙を投げるように前に回す者。緊張の糸が一斉に切れて、空気がふっと緩んだ。
試験監督と入れ替わりに教壇に立った担任の津田が、生徒たちにねぎらいの言葉をかけて、長かった試験期間がようやく終わりを告げる。ホームルームの最中、暁はそっと左を振り返った。視線がぶつかった凱に、ほんの小さく目配せをする。凱は表情を変えないまま、顎を軽く引くだけで返した。
その日の放課後から、二人はまるで合図を待っていたかのように、作業の続きに取りかかった。
凱がカッターで正五角形を切り出し、暁がやすりで断面を整える。地味な反復だ。でも暁にとって、この時間はたまらなく愛おしいものだった。凱と二人きりでいられる時間。少しだけ、凱の身に纏うダークブルーが淡くなる、この時間。
凱は長袖のシャツを肘までまくり、それでも額にうっすらと汗を浮かべながら、無言でカッターを走らせていく。そのまっすぐな横顔を、暁は時折、やすりを動かしながら盗み見ていた。
この日も、新たに三枚が仕上がった。これで必要な枚数の半分。
「やっぱり一日三枚のペースか」
凱は時計に目を移して、独り言のように言った。
「明後日の金曜には十二枚、揃えられそうだな。ただ、肝心の色付けと組み立てを、その次の一週間で終わらせないと間に合わない。来週の水曜は開校記念日で学校に入れないし……結構、時間ないな」
少し焦りの混じった声色だった。
「そのようですね」
暁はうなずいてから、思い付いたように、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「凱にも色付け、手伝ってもらわないと間に合いませんね」
「え、俺もか?」
虚を突かれた凱が、思わず口を開ける。色は暁の担当、というのが、なんとなくの了解だったはずだった。
「そうですよ。一緒に頑張りましょう!」
暁は今度はさっきよりも大きく、目を糸のように細めて、無邪気に笑った。
一緒に――。
その言葉が、また、凱の胸の内側で小さく響いた。最初に聞いたときよりも、なじみ深く、けれど、なぜか少しだけ重く。
「……わかったよ。フォロー、頼んだぞ」
凱は短く答えながら、頬がほのかに温かくなるのを感じていた。窓の外では、傾きはじめた夕陽が、校舎の壁を蜂蜜色に染めていた。
*
十二枚の正五角形が机の上に揃ったのは、予定どおり、金曜日の日暮れだった。二人は並んで帰り道を歩いていた。日はすでに沈み、街灯が柔らかい光を灯している。冷たくなりはじめた空気が、頬をかすかに撫でた。
「来週から、いよいよ色付けだな」
凱が前を向いたまま、思い出したように口を開いた。
「でも、何色にするか、お前はもう決めてるのか」
「ステンドカラーは、赤、青、黄色、色の三原色が揃ってるんです。混ぜ方次第で、どんな色だって作れるんですよ」
暁の声は、すでに想像でいっぱいだった。
「だから、いろんな色を使いたいです」
「単純に、ただ塗ればいいって訳じゃないんだな」
「はい。でも、色は自由ですから――僕としては、そうですね。凱の好きな色を塗ってほしい、ですかね」
「急にそう言われても、難しいな……」
困ったように頭をかく凱を、暁はそっとのぞき込むようにして笑う。
「週末、少し考えてみてくださいね」
戸惑いを浮かべる凱の表情を、これから少しずつ、ほぐしていけたらいい。暁は胸の奥で、ひっそりとそう願った。
月曜日の放課後、暁はペンの形をしたステンドカラーを机の上に一列に並べた。
「今回は透明の接着剤を使うので、まずはこの黒いインクで縁取りをしましょう。貼り合わせたときの仕上がりが、ぐっとステンドグラスっぽく見えるはずですから」
「それが乾いてから、内側を塗るってわけか」
「はい、そういうことです。土日のあいだに、ネットでばっちり予習してきました」
暁は得意げに歯を見せて笑った。その表情は、いつもより少しだけ子供っぽく見えた。
「まずは僕がやってみますね」
そう言って暁は黒いペンを手に取り、アクリル板に顔を寄せた。息を整え、五角形の縁に沿ってゆっくりとインクを引いていく。透明な板の上に、黒い線が静かに伸びていった。
一周し終えて顔を上げた暁は、自分の引いた線をじっと見つめてから、少しだけ眉を寄せた。
「線の太さを均一に出すのって、思ったより難しいですね」
口を曲げる暁の肩越しから、凱が画面をのぞき込むようにして、その線を見つめた。
「それも味が出て、意外といいかもしれないぞ」
意外なほど真剣な口ぶりだった。
凱の顔が、すぐ近くにあった。凱の体温が空気を伝って、頬にほんのり触れるような気がする。作品作りに集中しなきゃいけないのに、何を意識しているんだ。暁は心の中で自分を叱り、視線をアクリル板に戻した。
「じゃあ、もう一本のペンで、凱も同じようにお願いします」
暁は、自分の右隣の席の前に、新しいアクリル板と黒のペンを置いた。
広い美術室に、二人だけが並んで腰かけている。アクリル板に向かう凱の真剣な横顔を、暁はこっそりと横目で見た。やっぱり、凱の睫毛が長いのが分かる。視線を落としたときに、その影が頬にうっすら落ちる。胸の奥がそっと高鳴る。暁はその鼓動を、少しの罪悪感と一緒に、必死で抑え込んだ。
その日は、十二枚すべての縁取りを終えて乾かしたところで、ようやく顔を上げた。空は、もうすっかり藍色に染まっていた。
帰り道、いつものように肩を並べて歩きながら、暁は静かに切り出した。
「色付けは、明日からですね」
「ああ」
「十二枚、いろんな色にしたいです」
「そうだな」と凱はうなずいてから、ふと夜空を見上げた。「ペース的には、明日、半分くらい塗り終えられるといいんだけどな」
「どんな色がいいか、凱も考えてきてくださいね」
凱は頭をガシガシとかきながら、「わかったってば」と、ぶっきらぼうに返した。
冷えた夜風の中を、二人の足音だけが、とんとんと、同じ歩幅で重なっていった。
火曜日、ホームルームが終わるなり、教室の中央には女子たちが集まり、文化祭の準備に取りかかっていた。千夏は油性ペンを握って、厚紙にフランクフルトの屋台の看板を描き入れていた。マジックの匂いが机のあいだに漂い、笑い声がそこかしこから上がる。
ふと顔を上げた拍子に、教室のドアの方が視界に入った。暁が凱に何か小声で話しかけ、二人は連れ立って廊下へ出ていくところだった。
「暁くんにも手伝ってほしいんだけどなぁ」
隣で看板に色を入れていた女子が、唇を尖らせるように言った。
「ここんとこ、黒瀬くんと仲良さそうだよね」
愚痴とも世間話ともつかない声色だった。千夏はちらりと、廊下の方へと消えていく二人の背中を目で追ってから、ペン先を止めて微笑んだ。
「何か二人で展示作品作ってるらしいよ。ま、人手は足りてるし、当日たくさん焼いてもらえばいいでしょ。ほら、そっちの色塗って」
千夏の声に責める色はなく、やさしく気遣うような温かさを帯びていた。
美術室の長机に、暁は赤・青・黄のステンドカラーを並べた。さらに、かばんの中から、ツヤ出し用のニスと、小さな紙コップを取り出してみせる。
「なんだ、それは?」
凱が首をかしげる。
「調べたら、この透明なニスと混ぜることで、インクの色を淡くできるらしいんです。グラデーションの表現にも使えるみたいですよ」
「そうなのか。なんか難しそうだな……」
凱は珍しく自信なさげな声を出した。
「大胆にいきましょう。色に正解はありませんから」
暁は微笑む。その笑みに押されるように、凱は黙ってインクに手を伸ばした。
――色。俺が塗りたい色って、なんだ。
凱は紙コップを前にして、しばらく動きを止めた。俺には、暁のように他人の感情が色で見えるわけじゃない。自分の色だって、直接見たことはない。それでも、この板に乗せるなら、自分の何かを乗せたい。俺が、好きだと思える色を。
少し迷ってから、凱は青のインクを数滴、それから黄色を少しだけ、紙コップに垂らした。プラスチックの棒で、ニスと一緒に、ゆっくりと混ぜていく。やがて、コップの底に淡い緑が広がった。
それを正五角形の上に伸ばすと、表面にチョコミントアイスのようなやさしい緑が、ふうっと広がった。ニスのツヤが蛍光灯を反射して、表面が小さな星をちりばめたように光る。
「……綺麗」
暁はため息のように、その言葉をこぼした。
「凱。何でこの色にしたんですか」
「……何となく」
凱は視線を逸らし、わざとぶっきらぼうに答えた。耳の縁が、わずかに赤くなっているのを、暁は見逃さなかった。けれど、それ以上は問わなかった。アクリル板の上に広がる淡い緑が、暁がよくスケッチブックに落とし込んでいた、教室を包む空気の色によく似ていたから。
その日、暁は鮮やかな黄色を一面に敷いた。喜びの色。塗った面に触れないように、二人はそうっと板を棚に並べた。机に積まれた残りの透明なアクリル板は、まだ十枚ある。
「手のひらくらいの大きさでも、一枚塗るのに思ったより時間がかかりますね」
時計に目をやって、暁が言う。針はすでに五時半を過ぎていた。
「これ、明日の休み明けの二日間、放課後だけで組み立てまで完成させるのは、ちょっと間に合いそうにありませんね」
焦りの色が、暁の言葉に混じる。
「そうだな……」と凱は神妙な面持ちで腕を組み、しばらくの静寂が訪れた。
やがて、凱が口を開いた。
「明日、うちでやるか?」
暁の胸が轟くように高鳴る。
凱の家。一緒に映画を見たあの日。キスしそうになりかけた、あの日以来の、凱の家。
頭の中でよみがえりそうになった映像を、暁は慌てて遠くに押しやった。代わりに、跳ねた心の勢いをそのまま声にした。
「最後の追い込みですね、やりましょう! 明日の朝、十時くらいでいいですか?」
「早いな」と凱は少し考えるように顎に手を当ててから、「けど、そうも言ってられないもんな。わかった」と答えた。
「あと二十分くらいでインクが乾くと思うので、乾いたら、僕がまとめて持って帰りますね」
暁はスケッチブックの入っていないトートバッグをかばんから取り出した。ところが凱は、「どうせ俺んちに来るなら、俺が持って帰る」と短く言い放ち、貸せ、と言わんばかりに無言で手を差し出した。
開いた窓から、ほんの少し冷たさを含んだ風が流れ込み、暁の頬を撫でた。ただ、火照った頬を冷ますには、まだ秋が浅すぎる。
「……はい」
それだけ短く返してから、暁は口角が上がってしまうのを見られたくなくて、すっと床に視線を落とした。そして、凱には届かないくらいの小さな声で、独り言を一つだけこぼした。
「いつもズルいなぁ、凱は」
*
開校記念日の水曜日は、朝から空がぐずついていた。
暁は雨が降り出す前にと、少しだけ早めに家を出た。自転車のかごには、昨夜のうちに買い込んだポテトチップスやチョコ菓子が入った袋が押し込んである。橋を渡るとき、ふと左に視線を流す。鳴海湾の上にいつもの紺碧はなく、灰色の雲の重い屋根が、海面に低く垂れ込めていた。
凱のアパートの前に着くと、暁は軽く息を整えた。袋の持ち手を握り直し、鉄製の階段を一段、また一段と登っていく。
二階の角部屋の前に立ち、チャイムに指を伸ばしかけたその瞬間、扉のほうが先に動いた。
「うわっ」
驚いて一歩下がった目の前に、茶色の髪が肩までかかった柔和な女性が立っていた。
「あら、びっくりした。うちに用ですか?」
「は、はい。が……黒瀬さんと同じクラスの、朝倉と申します」
舌の根に変な力が入って、語尾が浮いた。
「あぁ、凱の」
女性は、ふっと一拍置くようにして、後ろを振り返った。それから笑みを浮かべて言った。
「凱の母です。いつも凱と仲良くしてくれて、ありがとう」
凱の、お母さん。心の準備のないままの対面に、暁は口を金魚のようにぱくぱくさせた。そのとき、部屋の奥からドタドタと早い足音が近づいてきた。
「母さん!」
由美の肩越しに、顔を赤くした凱が現れる。
「もう時間だろ、早く行きなって」
「はいはい、慌てちゃって」
由美はからかうように笑い、もう一度、暁の方に向き直った。
「今日はこれから出かけちゃうんだけど、ゆっくりしていってね」
「あ、はひ! お邪魔しますです」
動転した頭が、勝手に変な日本語を組み立てた。由美はくすくす笑いながら、「かわいいわねぇ」と独り言のようにつぶやいて、軽い足取りで階段を降りていった。
凱は気まずさを隠しきれない頬の赤みのまま、「上がれよ」と短く言った。暁は緊張がほどけて、肩で笑ってから、玄関に足を踏み入れた。
凱の部屋に入ると、暁はお菓子の袋を前に差し出した。
「これ、差し入れです」
「おお、サンキュ」
「凱のお母さん、若いんですね」
「まぁな。今日は友達の家に泊まって、昔のママ友の会をするそうだ。帰ってこないから、気にするな」
「そうですか。じゃあ、早速、塗っていきますか」
すでにテーブルには、アクリル板とインクが並べられていた。暁は袖をまくりながら、その横に腰を下ろす。
「できるだけいろんな色を使いたいので、一色ずつ決めていきましょう。僕はまず、赤を塗りますね」
「わかった。そしたら俺は、青にする」
二人はテーブルを挟んで向かい合い、それぞれの色を、透明な五角形の上にゆっくりと広げていった。
ほどなくして、窓の方から、ぽつ、ぽつ、と細い音が始まった。
「降ってきましたね」
ふと顔を上げた暁が、つぶやくように言った。
「あぁ、今日は昼から雨の予報だからな。海風で天気も変わりやすいから、少し早めに降ってきたんだろ」
凱はアクリル板の上のインクから視線を離さず、淡々と答えた。
六畳間の部屋には、しばらく、柔らかな雨音だけが響いた。
塗り終えたアクリル板は、ベッドや床に敷いた新聞紙の上に並べて乾かしていった。オレンジ、茶色、桃色。次から次へと、透明だった板に色が宿っていく。雨の音と、インクをならす棒のかすれる音だけが、部屋の中を行ったり来たりした。
その静けさを破ったのは、午後三時を回ったころのことだった。
――バララッ。
突然、強い雨粒が窓ガラスを叩いた。同時に、風が窓枠を揺らし、ガタガタと音を立てる。二人は、ほぼ同時に顔を上げた。
「雨、強くなってきたな」
凱が窓の方を見やる。
「そうですね」
「お前、帰り、大丈夫か」
「時間が経てば弱まるかもしれませんし、まだ作業も残っていますから、大丈夫です」
「そうか。とりあえず、少し休憩するか」
座ったまま大きく伸びをする暁を横目に、凱は材料を一旦床に下ろし、テーブルを片づけた。
「飲み物、麦茶でいいか?」
「はい、ありがとうございます。お菓子、開けちゃいますね」
ほどなく、テーブルの上には、ポテトチップス、クッキー、ミニドーナツ、グミ、チョコスナックが、にぎやかに並んだ。冷えた麦茶のポットを持って戻ってきた凱が、その光景を見て、ぽかんとした顔になる。
「すごいな。なんか、甘いのが多くないか」
「そうですかね?」
暁はいたずらっぽく笑い、ようやく二人は緩んだ。
「今のところ塗り終えたのは、二人合わせて六枚ですね。グラデーションとか凝り始めちゃったので、思ったよりも時間かかっちゃいましたね」
クッキーを小さくかじりながら、暁が周りを見渡す。
「やるからには妥協したくないからな」
凱はポテトチップスの袋の上で手を迷わせてから、その奥のチョコスナックをつまみ取った。
「それに、案外、色を混ぜたりニスで淡くしたりするのは楽しい」
「そうですね。いろんな色が集まれば、それだけ綺麗に見えると思います」
暁はクッキーを天井の照明に透かすような仕草をしてから、楽しそうに笑った。
「こないだ美術室で二枚仕上げたから、八枚……残りは四枚か。このペースなら、今日中に全部塗り終えられるかもな」
「そうすれば、明日学校で組み立てて、完成できるかもしれませんね」
「どんな仕上がりになるか、全く想像つかねぇな」
凱はチョコスナックを、続けてもう一つ口に放り込んだ。
「あと少しですね。一緒に頑張りましょう」
暁もクッキーの残りを口の中に押し込んで、噛みしめるように笑った。
休憩を切り上げた二人は、再びアクリル板に向き合った。プラスチックの棒の先を紙コップに浸し、透明な板の上にゆっくりと色を広げていく。
凱が、最後の透明な部分を埋めるように紫を伸ばす様子を、暁は固唾を呑んで見守った。
「やりましたね、凱!」
緊張した空気を、暁の声が割った。
「終わった!」
凱は止めていた息を吐くかのように、肩から力を抜いた。
「これで文化祭に間に合います」
「そうだな」
凱が、笑った。心の底から浮かんできたような、自然な笑みだった。それを暁は、初めて見たような気がした。ぼうっとする暁に気付かない凱は、「明日学校で組み立てような」と暁に声をかけた。
「おい、聞いてるのか?」
「あ、はい。すみません」と暁は慌てて応じた。
「後は片付けておくから……」
凱は時計に目をやった。針はもう、午後六時を回っている。続けようとした言葉が、止まった。窓の向こうでは、先ほどよりも強くなった雨粒が、絶え間なくガラスを叩いていた。
「雨、さっきよりひどいな」
「ですね」
雨音と、強風に揺らされる窓ガラスの軋みが、しばらく部屋を埋めた。
やがて、凱がぽつりと言った。
「……腹、減らねぇか」
暁は少しだけ、目を見開いた。
「……簡単なものなら、作るけど」
「凱、作れるんですか?」
「俺が夕飯当番の日も多いからな。一応、自炊はできる」
また一つ、凱の知らなかった面を見つけてしまった。暁の頬が、自然にほころんだ。
「はい、食べます!」
「わかった。味の保証はしないからな」
「それでも食べます」
暁はふふっと笑い、そっとスマホを取り出して、母親に短いメッセージを送った。
〈今日は友達の家で夜ご飯食べるね〉
*
乾いたアクリル板を重ねて部屋を片付けながら、暁はキッチンに立つ凱の背中を、横目でちらちらと見ていた。すらりと背の高い凱が、慣れた手つきで包丁を動かしている。とん、とん、と何かを刻むリズムからも、これが日常の作業であることが伝わってきた。昼休み、いつもパンばかりかじっている凱の、また知らなかった一面。
じゅわっ、と、温まったフライパンの上で食材と油の踊る音が立つ。バターの、甘く、腹の奥をそっと撫でるような香りが、雨と暗い空のことを、しばらくのあいだ忘れさせた。
「できたぞ」
二十分ほどで、凱は暁をダイニングテーブルに呼んだ。
目の前に置かれた皿を見て、暁は思わず声を上げた。
照明を反射して、つやつやと光る半熟玉子のオムライス。乳白色と明るい黄色が混ざり合ったぷるぷるの卵が、丸い掛け布団のようにご飯を覆っている。表面には、赤いケチャップが、糸を引くように一筆で斜めに描かれていた。
「オムライスだ! 形も綺麗……すごいですね」
「味は保証しないぞ」
凱は念を押した。
「それは聞きましたよ」
暁は笑いながら手を合わせ、「いただきます」とつぶやいた。
銀色のスプーンが、玉子の表面をすっと割って、内側に入っていく。軽く横に引くと、少し茶色を帯びた温かみのある赤いケチャップライスが現れた。立ちのぼる湯気で、スプーンの腹がうっすらと曇る。すくい上げた一口を、口へ運ぶ。
芳醇なバターの香り。玉ねぎの甘味。香ばしい鶏肉。それらが、ふわふわの玉子と一緒に、舌の上で溶けるように一つになって、消えていった。
「……」
暁は、しばらく言葉を失ったまま、テーブルの真ん中の一点から視線を動かせずにいた。
「ほらな、言ったろ。口に合わなかったら――」
言いかけた凱を、暁は思わず遮った。
「おいしい……おいしいですよ、凱!」
「え」
「味付けもちょうどいいですし、バターのコクがすごくて、もう、すごいです!」
興奮のあまり、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
「そうか。ならいいんだけど」
凱は少し顔を赤らめながら、再びスプーンを動かし始めた。
「さすが凱です。オムライス好きは、伊達じゃない」
「お前、うるさい。黙って食え」
凱の頬が、さらに赤くなった。
「うるさい」という言葉が、こんなにも甘く響いたのは、暁にとって初めてのことだった。ずっと、ずっと、ほしかった凱からのその一言。それは、突き放す壁ではなく、近しい者にだけ向ける、不器用な甘えのように聞こえた。暁は、つられるように、そっと頬を赤らめた。
暁にとっての思わぬ晩餐が終わり、二人は向かい合って麦茶のグラスを傾けた。
「ごちそうさまでした。凱のオムライス、大好きです。また作ってください」
「こんなの、大したもんじゃないだろ。大げさだ」
「大げさなんかじゃありませんよ。お腹いっぱいで、大満足です」
「そうか。なら、よかった」
会話が途切れた。代わりに、一段と大きくなった雨音が、部屋いっぱいに響いた。
「雨、どんどん強くなってるな。予報だと、明日の朝まで止まないみたいだぞ」
スマホで天気予報を確かめた凱が、心配そうに眉を寄せた。
「弱まる時間帯もあるかなと思ったんですけど、どうやら、そうはならなさそうですね」
暁は苦笑した。時計の針は、午後七時半に近づいている。
凱はスマホをテーブルに置いた。それから、ごく冷静な口調で、言葉を続けた。
「風も強いし、外ももう暗いから、今から外に出ていくのはさすがに危険だろ。うち泊まれよ」
「へっ!?」
虚を突かれて、暁の声が裏返った。
「母親も帰ってこないから、そんなに気使わなくていいだろ。このまま帰すのは、危ない」
「……」
暁は、喉元までせり上がった鼓動を、どうにか飲み込んだ。平静を装おうとすればするほど、胸の奥だけが忙しなく騒いだ。冷たい雨に守られた部屋の中で、自分一人だけが熱を持っているような、不思議な錯覚に陥った。
「……本当に、いいんですか?」
「俺は全然問題ない。というか、お前を今から帰す方が心配だ。まぁ、ベッドは一つしかないけど、俺は床でも平気だ。明日は学校だから、朝になったら一度、着替えに帰らないといけないだろうけど」
「凱が床で、なんてダメです! 僕が床じゃないとダメです」
慌てて否定してから、暁は、ほうっと息をついた。
「ありがとうございます。凱は、本当にやさしいですね」
「やさしいとか、そういう問題じゃないだろ」
凱の眉が、また心配そうに寄る。暁はテーブルの端に両手をつき、「では、お世話になります」と、座ったまま土下座のような仕草をしてみせた。
「大げさだな」
たじろぎながら、凱はたしかに笑った。
「じゃあ、決まりだな。先、風呂入っていいぞ」
「いえ、食器洗っちゃいますので、凱が先に入ってください」
暁はそう言うと、もう袖をまくり上げて立ち上がっていた。
「気使わなくていいって言ったろ」
凱の声を背中に受けながらも、暁はすでにシンクに食器を運び、スポンジを泡立てている。何だか楽しそうに洗い物を流している暁を見て、凱はそれ以上、止められなかった。
「わりいな。じゃあ先に、ぱぱっと入ってくる」
「気にしないで、ゆっくり入ってきてください」
脱衣所のドアが閉まる音を聞き届けてから、暁はもう一度スマホを取り出した。
〈雨風が強いから、今日はこのまま友達の家に泊まるね。明日の朝、早めに帰って制服に着替えるから〉
すぐに既読の印がつき、しばらくして、猫がうなずく横に「OK」の文字が書かれたスタンプが返ってきた。
それを確認してから、暁はスマホをポケットに押し込み、皿、スプーン、コップ、フライパン――凱が使った調理器具を、一つずつ丁寧に洗っていった。流水ですすぎ、布巾でやさしく水気を拭う。
凱のオムライス、おいしかったな。
そんなことを考えながら、布巾を動かす手は止まらない。今日ですべての板に色が乗った。あとは接着剤で立体に組み上げて、乾かせば完成する。文化祭に間に合う。どんな色になるんだろう。見てくれる人たちは、どんな顔をするんだろう――。
何分、ぼんやりとそんなことを考えていただろう。
突然、脱衣所のドアが開いた。
黒色のジャージのズボンを履き、上半身は何も身につけていない凱が、タオルで濡れた髪をガシガシとこすりながら出てきた。
「入ってきた。……ん、食器、そのまま置いといてくれればよかったのに。拭いてもらって、悪かったな」
湯上がりの熱をまだ逃しきれていない凱の肌に、淡い水気が残っていた。肩から腹へと続くラインは、無防備なほどあらわで、滴る雫がその輪郭をなぞるたび、息を呑むほど鮮やかに浮かび上がる。腹部に刻まれた筋は硬質というよりしなやかで、触れればすぐに体温を返してきそうな柔らかさを秘めていた。ふとした呼吸でわずかに動くその起伏に、視線が吸い寄せられてしまう。こんな距離で見ていいものじゃない、と頭ではわかっているのに、どうしても目で追ってしまう。
途端に顔が紅潮した暁は、しばらく行き場を失った配膳ロボットのように固まってしまった。
「おい、どうした?」
不思議そうに、凱が一歩近づいてくる。ふわりと、ボディソープの柔らかい香りが鼻先をかすめた。風呂上がりの熱が伝わってきたものなのか、自分自身の熱なのかわからなくなった暁は、
「ぼ、ぼ、僕も入ります!」と早口で言って、拭いていた皿を台に置いた。
「おう。タオルは置いてある。服はそうだな……俺の寝間着を貸すから、出しておく。お前にはちょっと大きいかもしれないけど、勘弁してくれな」
「あ、ありがとうございます」
たどたどしく返した暁の頭の中は、もう、何かを冷静に処理できる容量が残っていなかった。逃げるように脱衣所に入ってドアを閉めた。胸の鼓動がうるさい。耳を塞ぐ代わりに、洗濯機の上に置いてあった白いバスタオルを持ち、そこに顔をうずめた。やさしい柔軟剤の匂いがして、また一つ、胸が高鳴った。
脱いだ服を丁寧にたたんで、洗濯機の上にそっと置く。風呂の椅子に座ったまま、熱めのシャワーを頭から浴びた。凱に変な風に思われちゃったかな、と後悔が頭をよぎり、濡れた両手で顔を覆うと、足の指先で小さく床を踏むように、じれったく揺れた。
凱と同じ香りを纏って風呂場を出ると、たたんだ服の横に、灰色のスウェットが用意されていた。タオルで体の水気を取ってから、袖を通す。袖口も、裾も、たっぷりと余って、まるで服に着させられた子供のようになってしまった。
洗面所の三面鏡の中で、自分の童顔と、ぶかぶかのスウェットが向き合っていた。改めて、凱の大人っぽさと、自分にまだ少し残る子供っぽさの差を、思い知らされる。それと同時に、凱の男らしさが改めて脳裏をよぎった。腕を交差させて自分の身体を抱くような姿勢を取ると、逃げ場をなくした体温がその内側にこもった。ゆっくりと顔を沈め、袖口に触れた瞬間、柔軟剤に紛れた凱の香りがかすかに届いた。
凱――。
胸の高鳴りは、まだ止まらないままだった。
袖と裾をたくし上げて脱衣所を出ると、冷蔵庫の前で麦茶を飲んでいた凱と目が合った。一拍おいて、凱は顔を背け、口元を片手で覆った。
「はいはい、どうせ僕は、凱みたく背が高くないし、腕も足も短いですよ」
暁は気恥ずかしさと一緒に、投げ捨てるような声でいじけてみせた。
「いや、悪い。思ったより、サイズに差があって」
そう言いながら、凱はまた楽しそうに笑った。確実に、凱の表情は、この数週間で少しずつ豊かになってきている。それが、暁にはたまらなく嬉しかった。
「時間もあるので、よかったら今日、完成させちゃいませんか?」
「あとは接着剤でくっつけるだけだもんな。完成しても片手で持てるサイズだから、うちで作って学校に持っていく方がいいかもな」
「じゃあ、そうしましょう」
*
二人は凱の部屋に戻り、十二枚の正五角形と、接着剤、注入器、ティッシュをテーブルに並べた。今度は二人ともベッドを背にして、肩が触れるか触れないかくらいの距離で、横に並んで座った。
「うまくくっつきますかね?」
「ああ。安定して接着するように、色を塗る前にアクリル板の断面を斜めにやすりがけしておいたから、問題ない」
「いつの間に。さすが、詳しいですね」
「まずは二枚の断面をこうやって合わせて、セロハンテープで仮止めするんだ。そしたら、接着面に沿って溶剤を流し込む」
凱は説明しながら、注入器の先を慎重に動かした。透明な液体が、合わせ目に、すうっと吸い込まれていく。
「はみ出た接着剤は、拭き取らないと白い跡になるから、ティッシュですぐ取る」
繊細な手つきで、凱はちょんちょんと、はみ出た雫を吸い取っていった。
「あとは二分くらい待てば固定されるから、そしたら、次の面に進められる」
「へぇ、結構早くくっつくんですね」
暁は興味津々な様子で、接着面を眺めた。
「やってみるか?」
凱が、注入器を差し出す。暁は、一拍、間を置いてから、首を横に振った。
「……いえ。この色たちは、凱に集めて繋いでもらいたいので、お願いします」
凱は少し首をひねって、その真意を測りかねたような表情を浮かべたが、「そうか」とだけ返して、次の一枚を手に取った。
時計の秒針が、こつ、こつ、と進む音と、窓を強く打ちつける雨音だけが、部屋中に響く。凱の手の中で、五角形が一枚、また一枚と、立体へとかたちを変えていく。十二枚の色が、少しずつ、一つの身体に集まっていく。
午後十時を回るころには、正十二面体の輪郭はほぼ立ち上がり、残るは三枚を残すばかりとなっていた。暁は体育座りをしたまま、真剣な凱の横顔を、時折、そっと盗み見ていた。
「あと一息だな」
凱が、久しぶりに声を出して、次の一枚を手に取った――その瞬間だった。
ふっ、と、部屋の電気が一斉に消えた。
「うわっ!」
暁の口から、思わず大きな声が出る。とっさに、凱の右腕を掴んでしまった。そして、すぐに離した。
「停電か」
凱はため息をつきながら、手にした一枚を、そのままそっと机に戻した。月明かりも届かない夜だった。部屋は、輪郭ごと、闇に飲まれた。
「今の時代でも、停電とか、あるんですね……」
暁の声がかすかに震える。
「そりゃあるだろ。多分、強風で電線が切れたりしたんじゃないか」
凱は動じる様子もなく、淡々と応じた。
暁はスマホを取り出して、画面を点けた。淡い人工の光が、二人の顔と、テーブルの上にある出来かけの正十二面体を、ぼんやりと浮かび上がらせる。ニュース画面に指を滑らせると、線状降水帯発生のニュースが、大きく映し出されていた。
「これみたいですね」と凱に見せた。
「台風ならまだ予測もできるけど、これはさすがに、わかりませんでした」
「まぁ、それなら一晩経てば落ち着くだろ。ただ、この雨で停電だと、復旧には時間がかかりそうだな」
「作業の続きは学校でもできますから、大丈夫ですよ」
そこで会話は途切れた。再び、強い雨音が部屋に満ちる。
けれど、肩を並べて座る凱の存在のせいか、暁の心は、徐々に落ち着きを取り戻していった。雨音さえ、やがて、心地よい音楽のように聞こえてきた。
ふと思いついたように、暁はスマホを操作して、カメラ用のライトを点灯させた。
「眩しっ。おい、充電なくなるぞ」
凱が少し驚いた声を出して、暁の方を見た。
暁は、答えなかった。
ライトが出来かけのアクリル板のからだを透過し、部屋の壁が様々な色に薄く染まった。その壁を、ぼんやりと眺めていた。
「いろんな色があって、綺麗ですね」
凱も視線を、その光に染まる壁へと移した。
暁が、ぽつりと話し始めた。
「人はみんな、いろんな感情を抱えて、ときには表に出して、ときには抱え込んで――そうやって、何とかうまくやりながら生きていることを、僕はよく知っています。黄色は、喜び。赤は、怒り。青は、哀しみ。たくさんの色、もっと複雑に混ざりあった色も、これまで見てきました。表に出さない感情も僕には見えてしまうので、時々、申し訳ないような気持ちになることもあるんです。逆に、感情を出した結果、周りと衝突する人も、たくさんいます。ただ……」
「ただ?」
「それでもやっぱり、感情というのは、どれも尊いものだと、僕は思うんです。だってそれが、一番、人間らしいじゃないですか」
暁が、スマホをわずかに動かす。それに合わせて、壁の色たちが、万華鏡のように、ゆっくりと位置を変えた。
「だから、この作品には、そうした思いを込めたいと考えていました。凱と一緒に作れて、僕は今、本当に嬉しいです」
色彩豊かな壁を眺めながら、暁は一言一言を置くように落としていった。やがて、ライトを消した。部屋は、再び、深い闇に戻る。
ヒョオオオ、と、外で吹き荒れる強風の音が、凱の胸を揺らした。
しばらくの静寂のあと、凱は言葉をこぼし始めた。
「俺は……持ちたくもない力を持って、そのせいで、たくさんの人を驚かせて、傷つけてきた。自分で自分を制御できないのが怖くて、いつからか、自分の感情にふたをすることを選んだ。なるべく感情が生まれないように、周りに人のいない沖合に出て、ずっと、凪のような海面に一人で留まることをイメージしてきたんだ」
外壁が強風に煽られ、家がぐらりと揺れる音が、地響きのように響く。
「そうすれば、誰も傷つかずに済む。自分も、痛みを覚えなくて済む。そうやって、人を遠ざけて、物を遠ざけて、何も見ないように生きてきた。高校に入ってからは、それなりにうまくできていた方だと思う。そんなときに、お前がやってきたんだ」
凱は、ふっと小さく息を吐いた。
「最初は、変なヤツだと思った。他のヤツらは、視界に入れないようにしたり、声を聞かないようにすれば、大抵、離れていく。でもお前は、何度も俺に近づいてきた。冷たくあしらっても、黒板消しが勝手に落ちても、それでもお前はいつも笑って、俺の前に現れた。不思議な力を持ってるって、打ち明けてくれたとき。一人だけのはずだった海に、少しだけ、小さな波が起きたような景色が見えたんだ。だから、その……お前は、他のヤツらとは違うって、思った。今は、うまく言えねぇけど……とにかく、他のヤツらとは、違う。特別、っていうか、まぁ、そういう感じだ」
凱は、赤くなった顔を悟られたくないのか、最後まで窓の方を向いたまま、ぶっきらぼうに、けれど確かに、その言葉を一つひとつ、紡いでいった。
ことり――。
その瞬間、凱の右の二の腕に、軽いものがもたれかかってきた。
驚いて振り向くと、暁が静かに寝息を立てていた。華奢な肩が、呼吸に合わせて小さく上下している。ほんのりと温かなぬくもりが、薄いTシャツの布越しに伝わった。
「ったく、人がせっかく……」
凱は、拗ねたような独り言を一つこぼしてから、ふっと、息を漏らすように笑った。
