その色は、ただ君のために

 あっという間に九月が終わろうとしていた。気がつけば、朝の通学路で半袖のシャツが少し心許なく感じる日が増えてきた。校庭のハナミズキの葉が、少しずつ赤みを帯びている。時折吹く風の中に、夏の匂いはもう、ほとんど残っていなかった。
 あの放課後の美術室から、二週間と少しが経っていた。暁はこれまで通り、昼休みになると踊り場に来た。菓子パンをかじる凱の隣に座り、弁当を膝の上に広げた。そんな日々を繰り返していたら、ぎこちなさは徐々に薄れていき、いつしか日常になっていた。
 放課後も、凱は時々、美術室に顔を出した。窓辺の同じ椅子に座って、頬杖をついて、校庭を眺める。暁は何も言わず、その隣で、白いスケッチブックを筆で染めていく。
 凱と暁の検証は、もう終わってしまっていた。だが、今は凱のそばでいつも通りに過ごすことで、あのダークブルーがほんの少しでも淡くなればいい、と暁は思っていた。

   *

 その週末、暁は一人で自転車を走らせていた。
 頭の中では、もう何度目になるかわからない、夏祭りのあの瞬間が繰り返されていた。凱の輪郭からふっと剥がれて、三人組の方へ伸びていった墨色の跡。地を這うように聞こえた、低い唸り。力が収まった直後、満ち足りたように緩んだ気配。
 あれは、凱そのものではないのではないだろうか。
 凱自身の怒りなら、あんなふうに、凱から離れて、独立して動くはずがない。あれは、凱の感情に乗じて暴れる、別の意思を持った何か――。
 なら、あれは、いつから、凱の縁にいるのだろう。
 暁の目には、転校してきた初日から、もうそれは見えていた。だとすれば、それより前。もっと、ずっと前。凱が、まだ小さかったころからか。
 そして、暁の頭の中で、もう一つ、ずっと小さく引っかかっていたものがあった。
 以前、凱と二人で、あの廃工場に行ったときのこと。あのとき、凱の足取りには、迷いがなかった。一度も来たことがないはずの場所で、地面の段差を見もしないで跨ぎ、暗がりの曲がり角で、ためらわずに曲がっていた。
 そしてもう一つ。奥まった一角で、凱はほんの一拍だけ足を止め、その瞬間、ダークブルーをわずかに濃くした。墨色が広がりかけて、すぐ引っ込んだ。あれは、何かを思い出したような色の動きだった。
 あのときは、気のせいだろうと思った。
 今は、思わない。
 あの工場の壁に滲んでいた、淡い灰色の縁取り――あれが、凱の縁の墨色と同じ色味だと気付いてから、暁の中で、ばらばらだった点が、少しずつ結ばれはじめていた。

 風はもう完全に秋のもので、Tシャツ一枚では肌をひりつかせる温度を含み始めている。それでも、ペダルを踏む足は止まらなかった。橋を渡り、海沿いの道を外れて、川沿いの細い道に折れる。坂を一つ越えると、見覚えのある景色が現れた。
 あの夜、凱と来た廃工場だった。
 昼の光の下で見るそれは、夜のときよりもずっと無防備に錆びていた。コンクリートの壁のひび。蔦。割れた窓。ただの廃墟だった。
 暁は自転車を脇に倒すように立てかけ、壊れたゲートの隙間をすり抜けて、敷地の中へ足を踏み入れた。
 暁の目には、淡い灰色の縁取りが、建物のあちこちに、薄く、薄く、滲んで見えていた。あの夜よりも、今のほうが、ずっとはっきりと見えている。歩を進めるごとに、ふくらはぎの裏で、何かが砂のように降りていく感覚があった。風が止む。耳鳴りのような静かな高音だけが、頭の奥で細く鳴っていた。
 暁は、迷わなかった。
 あの夜、凱と歩いた道筋を、そのままなぞった。同じ場所で右に曲がり、同じ段差を跨ぎ、同じ柱の脇を抜けた。
 そして、足が、止まった。
 奥まった一角。コンクリートの壁が直角に交わるその場所。あの夜、凱がほんの一拍だけ足を止めた、まさにあの場所だった。
 その壁に、灰色がいちばん濃く滲んでいた。
 暁はしゃがみ込み、目を凝らして壁にそっと触れた。
 間違いなかった。
 単なる「灰色」ではなかった。色の深さ、滲み方、奥の方にほんの少しだけ混じる青みのあるかげり――その一つひとつが、凱の縁で、半年近く暁が見続けてきた墨色と、寸分違わなかった。
 暁は、これまでにいくつもの人の色を見てきた。けれど、物体から色が滲んで見えるのは初めてだった。そして、あんなふうに深く、何かを抱え込んだような墨色を纏った人は、凱の他にいなかった。あの色は、世界にあれ一つだけの色だ。
 その色が、ここに、染みついている。
 暁は、ゆっくりと立ち上がり、視線を周囲に巡らせた。
 すぐ近くの古い鉄パイプが、不自然に、外側へ膨らむように曲がっていた。廃材の経年劣化では、こんなふうに膨らみはしない。さらに視線を移すと、コンクリートの壁面のあちこちに、握り拳ほどの大きさの、丸く深い窪みがあった。誰かが見えない手で、力いっぱい叩きつけたような跡。
 そして、その傷たちもまた、薄い灰色の縁取りで、うっすらと縁を取られていた。
 暁の頭の中で、すべての点が、一本の線として結ばれた。

 凱は、ここに来ている。

 暁は、まだ小学生だったころの凱を思った。感情が高ぶるたびに、周りの物が勝手に動き、勝手に壊れる。最初は驚かれ、やがて、気味悪がられた。仲が良かったはずの友達が、ある日からふっと距離を置く。教室で笑い声が立つと、振り返ったときには、もう声がやんでいる。陰で「バケモノ」と囁かれていることを、凱はちゃんと、聞いていた。
 だから、凱は、感情を殺すことを選んだ。表の自分は、いつも何も感じていない顔をしていられるように。怒りも、悔しさも、悲しみも、すべて押し込めて、心の奥に沈めた。そうしていれば、奇妙なことは起きないし、誰も怖がらない。母も、悲しまない。
 けれど、感情は消えてはくれない。
 押し込めれば押し込めるほど、内側でふくらみ続ける。ふくらみ続けて、いつかは、漏れる。漏れれば、また物が壊れる。誰かが、また怖がる。
 だから凱は、ここに通ったんだ。
 誰の目にも、誰の声にも届かないこの場所に。物を壊しても、もとから錆びた廃材しかない。声を上げても、誰にも聞こえない。家族も、傷つけない。ここでだけは、押し込めていたものを、一人で、外に出すことができた。
 学校で溜まった負の感情を抑えきれなくなった日の放課後。家に帰る前に、川沿いの道を折れて、ここまで歩いてきた。この壁と対峙し、見えない力で壁を壊し、パイプを歪ませ、自分の中身を空にした。表の「無感情な凱」を、明日もまた保てるように。
 壁の灰色の濃さが、その時間の長さを、教えていた。
 ――そして、ある時点から、何かが変わったのだ。
 あまりにも長く、ここで吐き出され続けた感情の塊は、いつしか、行き場をなくし、形になった。それが、凱の縁にとどまった。
 あれは、凱に外から取り憑いた何かじゃない。
 あれは、凱がずっと、内側で殺してきた感情そのものなのだ。表の「無感情な凱」を守るために、ここでだけ、自分に許してきた――もう一人の凱の輪郭。
 風が、また動き始めていた。耳の奥の高音が、少しずつ遠ざかっていく。秋の空は、上の方では、もう冬の入り口の色をしていた。
 帰り道、ペダルを踏みながら、暁はずっと、凱のことを考えていた。
 ひとりぼっちでここまで歩いてきた、幼い凱のことを考えていた。

   *

 九月最後の月曜日、ロングホームルームの時間だった。津田が教壇で一度、軽く手を打ち、教室中の視線を集めた。
「知ってると思いますが、十一月三日の文化の日に合わせて、二日間、文化祭があります。今日はみんなで話し合って、クラスの出し物を決めてください」
 教室が一気にざわついた。早くもどこかの男子が「お化け屋敷一択でしょ!」と叫び、女子からは「勝手に決めないでよ」と牽制の声が飛んだ。
 その浮ついた空気に割って入るように、津田が続けた。
「それと、今年も有志による展示作品を募集します」
 ほんの少し、教室が静まる。
「写真でも、絵でも、模型でもいいので、展示したい人は是非挑戦してみてください。力作を期待していますよ」
 津田は笑みを浮かべ、それから学級委員の名前を呼んで、教壇を譲った。学級委員の女子が前に出て、「えーっと、それじゃあ、出し物の候補から決めていきたいと思います」と、控えめな声で会議を始めた。
 教室には、すぐに出し物の案が飛び交った。クレープ、お化け屋敷、メイド喫茶、射的、ファッションショー。もう一人の学級委員の男子が慌てながら、出た案を黒板に書き出していく。誰かが言うたびに、賛成と反対の声が、にぎやかに飛び交った。
 その中で一人、暁は別のことを考えていた。
 ――展示作品。
 津田の声が、まだ耳の奥に残っている。
 何か、作る。凱と一緒に、作れたら。
 胸の真ん中に、すうっと一筋の道が通った。これだ、と思った。口実と言ってしまえば、そうなのかもしれない。けれど、口実だっていい。凱と、何かをして一緒に過ごす時間がほしかった。
 教室の端、いつもの席で、凱は頬杖をついたまま議論の輪の外にいる。凱が今、何を考えているのかはわからない。けれど、ダークブルーの色は、まだそこに漂っていた。机の上で組んでいた暁の指に、ぐっ、と力がこもった。

 放課後のチャイムが鳴ると、暁は、かばんを肩にかけて立ち上がりかけた凱を呼び止めた。
「ちょっと話がしたいのですが、これから美術室に来られますか?」
 凱は、特に用事もなかった。まっすぐ家に帰りたい気分でもなかった。
「ああ」と短く答え、二人は美術室へと向かった。
 階段を降りながら、暁が苦笑した。
「いやぁ、フランクフルトに決まるとは思いませんでした。結構、ベタなものに落ち着きましたね」
「まあ、楽そうだから俺はいいけど」
「去年は何をやったんですか」
「輪投げ。景品のぬいぐるみがどれも可愛くなかった」
 ふふ、と暁が小さく笑う。その笑い方は、夏休みのときとほとんど変わらなかった。
 美術室の前に着くと、暁が先に伸ばした手を凱が覆うようにしてドアを引いた。凱の胸元から少し、汗の匂いがする。久々に近くで感じた凱の温もりに意識を奪われていると、凱の声で呼び戻された。
「で、話ってなんだ?」
 はっ、となって、暁は本題に入った。
「文化祭の展示作品、一緒に何か作りませんか」
 凱の中で、一拍、間が空いた。
「展示作品?」
「はい」
 暁は、少しはにかんで、手を後ろに組んで続けた。
「津田先生の話を聞いて、凱と一緒に、何か作れたらいいなぁと思いまして」
「一緒に」という言葉が、暁の口から、するりと出てきた。それは、暁本人にとっては、ごく自然な言い方だったのかもしれない。けれど、凱の胸の中で、その言葉は小さな音を立てて響いた。その音が外に漏れないよう、凱はわざと少し顔をそらした。
「作るって、何を?」
「それが、まだ思いついてなくて。ですが、何を作るにしても、材料はいりますよね。ホームセンターとかに行けば、何かヒントがあるかなと思って」
 暁は、両手を後ろに組んだまま、わずかに首を傾けた。
「面白そうだと思うんですが、どうですかね」
 凱は、すぐには答えられなかった。暁と一緒に、作業をする。それはつまり、暁にもっと近づく、ということではないのか。いや、でも暁が「一緒にやりたい」と言っている。俺は……?
 凱は目をつぶり、胸の内側を直視した。やりたくない、ではなかった。「一緒に」と暁が言ってくれたことが、少しだけ心を軽くした。それを認めるところから、始めるしかないような気がした。
 凱は、目を開けた。
「……わかった」
 短く、けれど、しっかりと答えた。
「俺も最近暇だったし、やるよ」
 付け足した一言は半分は本音、半分は照れ隠しだった。それでも、暁にとっては、どちらでもよかったらしい。暁の表情が、ぱあっ、と明るくなった。
「ほんとですか!? 嬉しいです!」
 暁の声が、放課後の美術室いっぱいに跳ねた。そして、ほとんど間を置かずにかばんの肩紐を握っていた。
「早速、ホームセンターに行ってみましょう!」
「って、これから行くのか?」
「はい!」
 暁はドアまで近づくと足をぴたりと止めて、凱の方を振り返った。その目が、いたずらっぽく、きゅっと細められた。
「善は急げ、です」
 そういうと、軽やかな足取りでドアを開けて廊下に出ていった。凱はその背中をしばらく見ていたが、それから口元をほんの少しだけ緩めた。緩めたことに自分でも気づいて、すぐに片手で口元を雑にこすった。
「……ったく」
 声に出して言ってみると、思っていたより、それはぼやきに聞こえなかった。凱は机に置いていたかばんを持って、暁の背中を追った。
 暁の肩で揺れるトートバッグの中に、寒色だらけのスケッチブックが眠っている。けれど、そのかばんは今、美術室を背にして、別の景色の方へと運ばれていこうとしていた。

   *

 校舎を出ると、九月下旬のぬるい風が、まっすぐに頬を撫でていった。
 坂を下りた先にある、駅前から延びる商店街に、銀行や古い百貨店、チェーン店と昔ながらの個人商店が、ごちゃ混ぜに並んでいる。降りたままのシャッターに、地元議員の選挙ポスターが少し色あせて残っていた。
「やっぱり、夕方のこの時間、いいですね」と暁が笑う。横断歩道で信号待ちをする人の影が、夕方の光を受けて長く伸びている。
「夏のころより、影がちょっと長くなりました」
「お前、本当そういうのよく見てるな」
「観察するのが好きなので」
 信号が青に変わり、二人は再び歩き出した。
 通りの中ほどまで来たところで、凱の足が、ふと止まった。道の左手に、昭和のころからそのままにしてあるような、古い喫茶店があった。モルタルの外壁は、長い年月を経てくすんでいる。けれど、その壁にはめ込まれていた大きな縦長の窓だけは、夕方の光を浴びて、別世界のように輝いていた。
 ステンドグラスだった。緑、水色、橙、黄色。まっすぐで、混じりけのない色たちが、鉛のフレームの中に並んでいる。
 凱は、口を半分開けたまま、ただ、ぼうっと、それを見つめていた。
「凱?」
 返事がない。
「……凱?」
 二度目の声に、ようやく、凱は瞬きをした。
「あ、わりぃ」
 慌てて視線を戻す。けれど、その目の奥には、まだステンドグラスの色が残っているようだった。
「ステンドグラス、好きなんですか?」
 凱は、すぐには答えなかった。ひと呼吸、ふた呼吸分の間。それから、ゆっくりと、言葉を一つずつ落とすように話し始めた。
「昔、家族で旅行に行ったことがあってな。まだ、小学校に入る前のことだから、ほとんど覚えてないんだけど」
 声が、いつもより少しだけ低かった。凱の視線はステンドグラスの方に移ったが、どこか、もっと遠い場所を見ているように感じた。
「泊まったホテルに、でかいステンドグラスがあった。階段の踊り場のとこだったかな。父親が肩車してくれて、手を伸ばせば届くんじゃないかって思ったんだ。その景色がやたら綺麗だったってことだけは、覚えてる。それが、父親との唯一の思い出だ」
 凱は、今はもう特に何とも思っていないという口調で言った。
 暁は何も言わずに、隣でステンドグラスを見ていた。
「そういえば、美術室の窓辺にも、色のついたガラスが飾られていましたね。初めて美術室に入ったとき、床に色のついた光が落ちていて、綺麗だなって思ったんです」
「ああ」

 ――そうか、だから凱は放課後に。

 けやき並木の隙間から西陽が差し込み、喫茶店のステンドグラスが色鮮やかにきらめいた。その目に入ってきた光が突然、暁の頭の中を駆け巡った。
「それ、一緒に作りませんか?」
「……え?」
 凱が、少し驚いたように聞き返す。
「展示作品の話ですよ。ステンドグラス。一緒に作りませんか!」
 暁の声が、少しずつ弾んでいった。
「僕、ちょうど、いろんな色を使ったものを作りたいなって考えていたんです。凱とだったら、きっと綺麗な作品が作れますよ」
 暁の瞳の奥が、ぱっと明るくなる。凱はすぐには答えられず、言葉を探した。けれど、その言葉が見つかる前に、暁はもう前に進んでいた。
「うーん、でも、本物のガラスは加工が難しそうですよね。素人がいきなりはんだ付けとか無理そうですし。アクリル板とかで代用できるかも。薄いものならカッターでも切れますし。色は、絵の具で着色できるかな。だめならインクで……」
 右手を顎に当てて、独り言のように、暁はぶつぶつと続ける。凱は、あっけにとられたまま、それを見ているしかなかった。
「フレーム部分はやっぱり黒で縁取ったほうが、それっぽくなりますね。そこに着色していくのが、多分いちばん……」
 暁は、そこで言葉を切り、ぱっと顔を上げた。
「よしっ。そうと決まれば、ホームセンターで材料を集めましょう!」
「お、おい」
 凱がぼやく前に、暁はもう半歩、先を歩き出していた。いつものように、軽やかな足取りで。肩にかけたトートバッグが、揺れている。凱は、その背中をしばらく見ていた。
 こうやって、こいつはいつも、俺を外の世界へと連れていく。じっと座り込んで、外を見ないようにしていた俺を、何でもないような顔で引っ張り出していく。そのペースに、いつも巻き込まれていく。気づいたら、自分の歩幅が、こいつの歩幅に合わせるようになっている。それを、自分でも、もう止められなくなっている。
 なのに、不思議と。それが嫌だとは思わなかった。
 凱はステンドグラスの方を、もう一度だけ振り返った。夕方の光を浴びたガラスたちは、まだそこで輝いていた。
 凱は、ふっ、と、口の端だけをわずかに上げた。
「おい、待てって」
 暁の背中を追って、凱は歩き出した。けやきの葉ずれの音と、自分の靴音が、夕方の通りの中で軽く重なった。

 ホームセンターの自動ドアをくぐると、木材や塗料が混じった独特のにおいが鼻を打った。暁は店内に足を踏み入れるなり、すぐにスマホを取り出して画面に指を走らせる。
「アクリル板に色をつけたいんですけど……あ、ありました。『ステンドカラー』っていうらしいです。アクリルにもプラスチックにも塗れるインクなんですって」
 画面を凱に見せながら、暁の声は弾んでいた。
 アクリル板のコーナーは奥の壁際にあった。透明、半透明、淡い水色、深い赤――厚みも色も様々な板が、隙間なく整然と立てかけられている。蛍光灯の白い光が、磨かれた断面を伝って静かに揺れていた。
「色付きのもありますけど、僕らで透明なアクリル板に色を塗った方が豊かな表現ができそうですね」
 暁が振り返って提案する。凱は腕を組んだまま、しばらくその板の列を眺めていた。やがて、ぽつりと言葉を落とした。
「立体にするのはどうだ?」
「立体?」
「平面だと一方向からしか光が通らないだろ。でも立体なら、いろんな角度から入った光が中で混ざり合って、見る向きで色が変わる」
 そう言ってから、凱はわずかに眉をひそめた。
「まぁ、その分、切ったりくっつけたり、大変にはなるけど」
 暁の目が、ぱっと光を宿した。
「凱、それすごくいいです! 床にも色が反射して、もっとキラキラして見えそう。すごいな、思いつきませんでした」
 興奮を隠せないまま、暁は何度もうなずいた。凱はその反応に少しだけ照れたのか、視線を上の方へ逃がす。
「子供のころ、プラモデルばっか作ってたんだ。アクリル板を切ってつなぎ合わせるくらいなら任せろ。アクリル用の接着溶剤さえあれば、断面も綺麗に仕上がるはずだ」
「へえ、凱って意外と器用な一面もあるんですね」
 暁は口の端を持ち上げて、いたずらっぽく笑う。
「意外と、ってなんだよ。その代わり、色の方はお前の得意分野だろ。そっちは任せるぞ」
「わかりました。一緒にいい作品にしましょうね」
 笑い返す暁の「一緒に」という言葉が、凱の耳のすぐそばにふわりと落ちる。何度もさらりと口にされるそのフレーズに、凱はなるべく意識を向けないようにした。意識すれば、たぶん、何かがほどけてしまう気がしたから。
 形は、ネットで調べて、安定して置けそうな正十二面体に決めた。幾何学的なデザインの方が、見る角度によって色合いが変わる面白さが伝わるはず――そう判断したのは暁だったが、凱もすぐにうなずいた。
 レジで会計を済ませると、ずっしりとした袋を、凱が当然のように引き取った。半袖のシャツから伸びた腕に、袋の重みでうっすらと筋が浮き上がる。その隆起を視界の端に捉えた瞬間、暁の胸の奥で、作品作りの高揚とは別の熱が小さく跳ねた。
「材料は明日、俺が美術室まで持ってく。設計図は明日作ろう」
 凱は前を向いたまま、淡々と言った。誘ったとき、断られても仕方ないと身構えていた暁にとって、思いのほか前のめりな凱の姿は意外で――そして、まっすぐに嬉しかった。

   *

 凱が玄関の扉を開けると、廊下の奥から出汁の匂いと油の匂いが混ざって流れてきた。キッチンには母親の由美(ゆみ)が立っていた。今年で四十になるはずだが、傍目には十は若く見える。肩までかかった茶髪からのぞく耳には、金色のイヤリングが小さく揺れている。
 凱が大きな袋をぶら下げているのに気づいて、由美が手を止めずに振り向いた。
「おかえり。何それ」
「何だっていいだろ」
 凱は少し面倒くさそうに答え、自分の部屋の引き戸を開けて袋を床に置いた。キッチンを通り抜ける一瞬、袋の口からのぞいたアクリル板の透明な光沢を、由美は見逃さなかった。
「何か作るの?」
「……ああ。文化祭で展示するもの、作ることになった」
 そう言いながら、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。ダイニングチェアに腰を下ろすと、目の前に焼きそばの皿と味噌汁が置かれた。湯気の向こうで、由美は凱の正面に座り、頬杖をついて、息子の顔をまじまじと見つめた。
「ふうん。あんた、少し変わったね」
 口元には、ニヤリとした笑み。
「別に変わってねぇよ」
「何、友達でもできた?」
 凱はそれには答えず、麺をほおばった。ソースの甘辛さが舌に広がる。
 由美は麦茶をひと口飲んでから、視線をテーブルの一点に落としてつぶやいた。
「友達は、大事にするんだよ」

   *

 翌日の放課後、誰もいない美術室は、夕方の光をたっぷりと吸い込んで、ほんのりと黄ばんで見えた。
 凱と暁は、昨日買い込んだ材料を長机の上に一つひとつ並べていく。アクリル板、ステンドカラー、アクリル用の接着剤。それから、アクリルカッターとカッターマットに、紙やすり。整然と並んだそれらを前に、凱はスマホを取り出して、正十二面体の見取り図を画面に映し出した。
「正十二面体を作るには、正五角形が十二枚いる。まずはアクリル板を切り出そう」
 そう言うと、凱はブレザーを脱いで椅子に乱雑に置いた。美術室の棚の隅にあったステンレス定規を取り、持参した分度器で角度を慎重に測っていく。アクリル板の保護紙の上を、鉛筆の先がすうっと走る。線が引かれるたび、暁の頭の中にも幾何学が組み上がっていった。
 凱は黒い作業手袋をはめると、線に沿ってアクリルカッターを引いた。一回、二回、三回。同じ場所を何度も丁寧になぞっていく。やがて、机の角を支点にしてしならせると、ぱきっ、と乾いた音を立てて割れた。それを繰り返すと、三十分ほどで、手のひらと同じくらいの大きさの正五角形が出来上がった。
 その手際の良さが、たまらなく様になっていた。
「凱、やっぱり扱い慣れてますね」
 隣から見上げる暁の目は、もうすっかり輝いている。
「お前は、このやすりで断面を磨いてくれ。危ないから、ちゃんと手袋つけろよ」
「わかりました」
 暁は張り切って答え、凱とお揃いの黒い手袋を両手にはめた。
 窓の外からは、部活に励む生徒たちの声と、金属バットがボールを打つ乾いた音が、時折風に乗って届く。廊下のずっと向こうでは、吹奏楽部の金管楽器が同じフレーズを何度も繰り返していた。けれど、今この美術室では、それらの音はどこか別の世界の出来事のように遠かった。アクリル板の透明な平面と向き合う、二人だけの世界。そこには、やすりが断面を撫でるかすかな音と、カッターが直線を刻む小さな摩擦音だけが満ちていた。
 その日のうちに、正五角形は三枚仕上がった。空はもう薄紫と橙のグラデーションに染まり、夕陽が校舎の影を長く伸ばしていた。日が落ちるのが、ずいぶん早くなった。
「今日はこのくらいにしておくか。お前、手は大丈夫か?」
 凱は道具を片づけながら、それとなく暁を気遣った。声に出してから、自分の口調がいつもより少し柔らかかったことに、本人は気づいていない。
「はい、楽しくて、時間が経つのがあっという間でした」
 暁は微笑む。凱は「ならいい」とだけ短く返して、スマホでカレンダーを開いた。眉間にうっすらと皺が寄る。
「展示まであと一か月か。来週は中間テストがあるし、意外と時間ないかもな」
「僕と凱のタッグなら大丈夫ですよ」
 暁は心配そうな凱の横顔をのぞき込むようにして、ふっと笑った。
「勉強もちゃんとして、続きは試験が終わってから、ですね。待ち遠しいなぁ」
 こいつは、いつも人の心をくすぐるようなことをさらりと言う――凱は、また内側から浮かび上がりそうになる感情をぐっと押し下げて、「ああ」とため息まじりにうなずいた。上着に袖を通しながら、わざと、目を合わせないようにした。
 そのため息と一緒に、凱を覆っているダークブルーの色合いに、淡い黄色がぽつりと一滴落ちて、波紋のように広がるのが、暁には見えた。誰にも気づかれないその一瞬を、暁はそっと、自分だけの目に焼き付けた。