暑さがようやく和らぎ始めた、九月の朝だった。
教室の窓は半分だけ開いていて、入ってくる風はまだ少し湿っているけれど、肌をひりつかせるような熱はもうない。セミの声も、気がつけば聞こえなくなっていた。
二学期の始業式の翌日。クラスの空気には、まだ夏休みの高揚感が残っている。
「ええー、ハワイ行ってきたの? いいなぁ」
「二組のヤツらとやった花火の動画、かなりヤベえよ」
「部活の合宿、先輩が鬼スパルタで、ほんとしんどかったぁ」
休み時間のたびに、机のあちこちで小さな輪ができる。日に焼けた腕、見慣れない髪型、配られる小さなお土産。それぞれの夏を持ち寄って、笑い声に変えていく時間だった。
教室の端、一番後ろの窓際。凱はいつもの席で、その喧騒を眺めていた。頬杖をついて、視線だけを泳がせる。
視線の先には、暁がいた。
千夏たち女子のグループに混じって、暁はなにやら笑っている。今度は男子が駆け寄り、夏休みの宿題を昨日徹夜で終わらせたというぼやきを聞いて、暁はまた声を立てて笑った。冗談を言い返している。すっかりクラスになじんだ様子だ。
その笑顔を、凱はじっと見ていた。
夏休み、二人で食べたパフェ。その味に、ほころばせた顔。
うちに来たときに犬のペンケースを見て浮かべられた笑み。
祭りの屋台で見せた、弾けるような笑い方。
頭の中で再生されるいくつもの暁の笑顔と、今、教室の真ん中で誰かに向けられている笑顔が、ゆっくりと重なる。
重なって――ずれた。
凱の胸の奥で、何かが、ぐっとねじられた。
なんだ、これは。
うまく名前がつけられない感情だった。怒りでもない。哀しみでもない。ただ、内側のどこかが鈍くくすぶって、ちりちりと、嫌な匂いを立てている。それを直視しないように、凱は窓の外へ視線を逃がした。校庭の木々が強い風に揺れ、ザワザワと音を立てている。
感情がおさまらなかった。
凱は、ゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が床をこするかすかな音がして、教室の一番近くにいた女子が、一瞬振り返る。けれど、すぐ会話に戻った。普段から物静かなこの男が、休み時間に席を立つくらいで、誰も気にしない。
ただ、一人だけ、別だった。
暁の笑顔が、ふっと、止まった。
話の途中で、はっきりと視線を上げて、教室の端へと向ける。
「すみません、少し外します」と短く断って、暁は輪を抜けた。
凱は、目的もなく廊下の窓辺に立っていた。サッシに肘を預けて、ぼんやりと外の木々を見ている。そこに、軽い足音が近づいてきた。
「凱」
振り向かなくても、誰だかわかった。だからこそ、振り向きたくなかった。
「何かありましたか?」
凱は小さく息を吐いて、ちらりとだけ、暁の方に目をやった。
「……何でもない」
声が、驚くほど淡泊だった。暁は間合いを一歩詰める代わりに、じっと、凱の輪郭のあたりを見つめた。そこには、濃い紫のオーラが、低くたゆたっていた。
暁の目には、はっきりと見えた。嫌悪の色。
「大丈夫じゃ、ないですよね」
暁の声が、いつもより少しだけ低くなる。
「何があったんですか」
凱は少しだけ間を空けて、「ちょっと、腹が痛いだけだ」と小さく答えた。それが嘘だということを、暁ははっきりと分かっていた。
「凱。僕には、違う色が見えていますよ」
暁の言葉に、凱の眉が、ぴく、と動いた。深紫の輪郭が、ふっと揺れる。そこに、じわりと赤が滲み始めた。怒りの色。
「お前は教室に戻れ」
凱はできるだけ平坦に、そう伝えるのが精一杯だった。
「凱……?」
教室の方から、夏休みの土産話と、誰かの笑い声が、また廊下に流れてくる。さっきまで暁が混じっていた、あの笑い声が。
凱の中で、何かが、はぜた。
「俺なんかに構ってるより、あいつらといろよ!」
凱の声が廊下に響いた。ガタガタと、廊下の壁が震える。壁に留まっていた画鋲が外れ、ポスターがバサッと床に落ちた。
凱の輪郭の赤が、痛いほどに鮮やかだった。けれど、その中に、もう一つ、別の色が滲んでいる。もどかしく、けれどどこか甘さを含んだ、淡い桃のような色。
――これは、もしかして。
暁の喉が、こくりと鳴った。
瞬間、暁は、自分の頬がじわっと赤くなるのを感じた。
凱の方も同じだった。口に出した瞬間に、自分が何を言ったのかが、はっきりと自分でわかってしまった。一番見られたくない場所を、自分から開けて、暁の前にさらけ出してしまったような気分だった。
「……くそっ」
凱は小さく吐き捨てて、乱暴に頭をかいた。それから暁の顔をまともに見ないまま、足早にその場を離れた。廊下から階段の方に曲がって、凱の背中が見えなくなる。
ちょうど四限目の授業が始まるチャイムが鳴り、暁は追いかけられなかった。胸の中が、まだざわついたまま、ゆっくりと教室の方へ足を向けた。
「起立、礼、着席」
英語教師が教室に入ってくると、いつもの号令とともに、生徒たちが揃って腰を下ろす。教師は教室を見回して、ふと口を開いた。
「あれ、黒瀬は? 誰か、知ってるヤツいないか?」
教室が、わずかにざわついた。誰も明確には答えない。前の方の男子が「さぁ」と気のない声を漏らしただけだった。
「ったく、しょうがないな」
教師はため息まじりにそうつぶやいて、すぐに教科書を開かせて授業を始めた。
チョークが黒板をこする音、ノートのページをめくる音、誰かの咳払い。いつも通りの音が淡々と刻まれていく。
暁は、胸の鼓動を押さえられないまま、ゆっくりと視線を教室の左後ろに移した。いつもならそこにいるはずの、無口な男の席。そこをしばらく見つめていた。それから机の上に視線を移し、何かを考えるように、指先をそっと組んだ。
*
凱は、いつも昼休みに使う、あの踊り場の壁にもたれて、床に座り込んでいた。
――俺なんかに構ってるより、あいつらといろよ!
廊下で口走った言葉が、頭の中で繰り返される。そのたびに、凱は両手で頭を抱えたくなった。
なんで、あんなことを。あんな、子供みたいなことを。
俺が、暁に……?
そこまで考えて、凱は自分で自分の思考を遮った。
いや、そんな訳があるか。互いに、人に言えない力を抱えているという秘密を共有した同士だ。その相手が他の人と楽しそうにしているのを見て、少し心がざわついた。それだけのことだ。
凱は曲げた膝に肘を突いて、手を額に押しつけた。
たしかに暁といると、息がしやすい。普通に話せるし、自然体でいられる。童顔で、口調がいつも丁寧で、たまに意地悪なことを言って、無防備に笑う。
夏休みの映像が、また、頭をよぎる。
カフェのテラス席、祭りでほおばったかき氷、坂の上から見た海に沈みゆく夕陽。自分の腰に回った腕の軽さ。
嫌な気分には、ならなかった。それは、認めざるを得なかった。ただ、その感情に、名前をつけるのが怖かった。
凱はもう一度、深く息を吐いた。
「やっぱり、ここでしたか」
ふいに、声が降ってきた。凱は、はっとして顔を上げた。
踊り場に、暁が姿を現した。いつもの制服姿。それなのに、なぜか夏祭りの浴衣姿が一瞬、重なって見えた。
「……お前、授業は」
声が、思ったよりかすれた。暁は、いたずらっぽく目を細めた。
「お腹が痛いから、お手洗いに、と」
そう言って、ふふっ、と肩をすくめるように小さく笑う。
その瞬間、凱の中の時間が、ほんのわずか、止まった。
大きな丸い目がきゅっと細められた笑顔。白くて繊細な肌。笑うとほんのり桜色になる頬。柔らかい陽だまりに溶けるような、軽やかで無造作な栗色の髪。屋上のドア越しの光が、その髪の先を、ふわりと縁取っていた。
凱は思わず、見惚れた。
――可愛い。
そう、思った。思ってしまった。そしてそのあとで、自分の思考にぎょっとした。
可愛い、とは、なんだ。これは何の感情だ。弟を見たときの兄の感情か。小さな動物を見たときの感情か。それとも。
凱は、答えを持っていなかった。ふわっと浮かびかけた何かを、凱は、ぐっと内側に押し戻した。
俺は、まだ自分の力を制御できていない。さっきも、廊下の壁を震わせ、ポスターを床に落とした。祭りの夜には、人を、本気で壊しかけた。そんな人間が、誰かに、自分から近づいていい訳がない。そんな資格は俺にはない。近づけば、いつか絶対に、傷つける。
凱は、目を閉じた。一つ、深く、息を吸った。
吐いたときには、もう、表情はいつもの凱に戻っていた。
「……さっきは、悪かった」
平坦な声だった。
「午後の授業からは、ちゃんと出る。お前はもう教室に戻れ」
暁は、何も答えなかった。ただ、見えていた。
ほんの一瞬前まで、凱の周りには、淡い、見たことのない色が漂っていた。桃色とも、橙色とも、金色ともつかない、温度のある色。それが、凱の言葉と一緒に、すうっと引いていく。代わりに戻ってきたのは、嫌悪の紫と、寂しさの青が混ざった、あのダークブルー。
暁の喉の奥で、声にならない言葉が、いくつか消えた。理由はわからなかった。けれど、今、何を言っても、この色はもう晴れないということだけは分かった。
「……はい」
それだけ言って、ゆっくりと階段を一歩ずつ降りていった。
凱は、暁の足音が完全に聞こえなくなるまで、動かなかった。やがて、誰もいなくなった踊り場で、ずるりと、壁にもたれた背中をさらに低く滑らせた。
深いため息が一つ、踊り場の床に落ちていった。
*
四限目の終わりを知らせるチャイムが鳴ると、教室には机や椅子を引きずる音が響き、一気に昼休みの喧騒に包まれた。
暁は踊り場に行こうか、授業中ずっと考えていたが、答えが出せないでいた。休み時間に見た、凱の色。震えるような赤と、その奥で一瞬だけ滲んだ淡い桃のような色。そして、踊り場でそれを自分の手で押しつぶすように引っ込め、代わりに出てきたダークブルー。
ふと、夏の終わりのカフェのテーブルに倒れていた、小さなメニュー立てのことが頭をよぎった。あれは本当に、ただの偶然だったのだろうか。怒りだけが力の引き金だと、自分は決めつけていたけれど――。
だが、暁はその思い付きを、すぐに頭の隅へ追いやった。今は、力のことよりも、凱の心の動きを追わなければならない。きっと、凱にも整理がついていない。すぐのぞき込もうとすると、きっと、また凱は身を硬くするだろう。
授業が終わっても自席で思考を巡らせていたら、千夏が話しかけてきた。
「あれ、朝倉くん、今日は黒瀬くんとこ行かないの?」
「ああ……はい」
「へー、珍しっ。そんじゃ、私たちと一緒に食べよ」
暁は教室の隅を一瞥してから、千夏のいるグループに机をつけた。
凱は昼休みに入ってからもずっと、踊り場の壁にもたれていた。
四限目の途中に、ここに暁が現れた。今は、一人だ。それが当然のはずだった。暁が転校してくる前は、ずっとそうだった。それが、自分にとって自然な時間だったはずだ。なのに。
ぐちゃぐちゃに絡まっている思考に戸惑っている、そのときだった。
階段の方から、軽い足音がした。
凱は一瞬、背を壁から離した。
「よっ」
現れたのが鮫島だとわかると、凱はすぐに姿勢を戻した。
水筒と弁当箱を持った鮫島は、いつも暁が座っていたスペースにドカッと座った。
「……て、あれ、今日は暁いないの?」
凱は、天井を仰いだまま短く答えた。
「ああ」
「へぇ、珍しいじゃん」
深い意味はなさそうな相づちを打った鮫島は、弁当包みの結び目をほどいた。
「いやー、聞いてくれよ凱」
唐揚げに箸を突き刺しながら、鮫島はペラペラと話し始めた。
「夏休みの県大会、二回戦敗退だぜ? 二回戦」
「……」
「相手、春の県大会準優勝だったから、まぁしょうがないっちゃしょうがないんだけどさ。けど完封負けは、ない。あれはさすがにヘコんだわー」
鮫島は、自分で言って自分で笑っている。凱は、口の端だけを動かして、ふっ、と一応の反応を返した。鮫島は特に気にせず、そのまま話を続ける。
「でもな、その試合のあとがすごくてさ。うちのキャプテンが一年のマネジャーと付き合いだしたんだよ」
「……ふうん」
「ふうん、じゃねえよ! お前わかってんのか、あの硬派キャプテンだぞ。負けた次の日に後輩使ってまで呼び出して告ったってさ。めっちゃ驚いたわ」
凱は相づちのような形で、もう一度うなずいた。けれど、頭の中は別のところにあった。
――踊り場で、寂しそうな顔をしていたな。
四限目、暁が階段を降りていった、あの後ろ姿。少し細く見えた肩。
あいつが笑っていないのは、よくない。それは、はっきりとわかった。
なら、と凱は心の中で、整理を始める。
これまで通り、接すればいいだけだ。朝、廊下で会ったら、軽くうなずく。廊下で声をかけられたら、返す。昼飯は、踊り場に来るなら、また一緒に食う。放課後、美術室に寄ったら、あいつの絵を見る。帰り道は、踏切の先の分かれ道まで一緒に歩く。
それでいい。変に意識する必要なんてない。さっき廊下で口を滑らせたあれは、たまたまだ。昨日少し寝付きが悪かったから寝不足のせいか、始まったばかりの二学期で少し気が立っていたせいで、変な言葉が出ただけだ。それだけのことだ。
これまで通りでいい。これまで通りで。
胸の奥で、何度も同じ言葉を、自分に言い聞かせる。
「おい、凱」
ふっ、と現実に引き戻される。
「聞いてんのか?」
鮫島が怪訝そうな顔をして凱をのぞき込んでいた。
「あ、ああ」
「ああ、じゃねえよ。今、すげえこと話してたのに」
鮫島は唐揚げを口に放り込み、もぐもぐとかみながら、ふと、ニヤっと笑った。
「お前もしかして、暁がいなくて寂しいとか? メシも食ってねぇし」
凱の中で、ほんの一拍、空気が止まった。けれど、それは表に出さなかった。出さない心づもりを、もうずっと前からしてきている。
「そんなんじゃねえよ」
平坦な声だった。あまりに平坦だったので、鮫島はそれ以上、突っ込む気をなくしたらしい。へえへえ、と気のない返事をして、また唐揚げに戻っていった。
凱は、また天井を仰いだ。食欲はとうに失せていた。
*
終礼が終わると、教室は一気に放課後の空気に包まれた。暁は凱の方は見ずに、かばんとスケッチブックの入ったトートバッグを持って美術室に向かった。
いつものように窓際の席にイーゼルを引き寄せてスケッチブックを開き、絵の具のチューブと、水を入れたプラスチックの容器を並べる。頭の中を空っぽにして、今の自分の感情の色を想像し、目の前の白に落とそうと集中する。
永瀬さん、昼休みは黄色がいつも以上に眩しかったな。もしかして気を使ってくれたのかな。津田先生、今日も穏やかな黄緑色だったな。
――凱、赤かったな。あの赤の奥にあった淡い桃色、掴めそうで掴めない、儚い色。あの色の名前は、何ていうんだろうか。
そのとき、美術室のドアがガラっと開く音がして、暁は、ふっ、と現実に戻った。
凱だった。凱は、まるで既に美術室に人がいることを知っているかのように、よどみなく部屋に入ってドアを閉め、いつもの窓際に椅子を引き寄せて座った。
しばらく、無言が続いた。暁の目の前にあるスケッチブックは白いままだった。
それから凱は、一つ、息を吸った。
「……さっきは、悪かった」
暁は首をほんの少しだけ動かして、視線を凱に向けた。凱は暁の方を見ないまま、続けた。
「少し、混乱してたみたいだ。でも、もう大丈夫だから」
そこで、凱は一呼吸置き、そしてできるだけ平らな声で言った。
「これまで通りで、いこう」
今度はもう少し、暁の首が凱の方に向いた。
これまで通り。それはつまり、休み時間の廊下でのことを、なかったことにするという意味だった。あの色を、あの言葉を、あの一瞬上がった温度を、お互い感じなかったことにする、という意味だった。
暁はゆっくりと目を閉じた。それから、小さく鼻で息を吐いて、目を開けた。
「わかりました」
暁は筆を取り、スケッチブックの上にゆっくりと色を置いていった。
深い紺。群青。ところどころグレーがかった藍。寒色だけが、紙の上に、静かに混じり合って溶けていく。紙の隅で、窓辺から注ぐ色光が、わずかに位置を変えていた。
凱は、その絵を横目でちらりと見た。何の絵かは、聞かなかった。聞けなかったのかもしれない。代わりに、窓の外に視線を移した。かけ声を上げる野球部員らが、グラウンドに散っている。
筆が、紙を滑る音。時計の秒針が、こつ、こつ、と鳴る音。それ以外、何の音もしなかった。二人の間に、言葉はもう、なかった。ただ、静かな放課後の美術室の空気が二人の肩のあたりにゆっくりと降りてきた。その静けさを、暁は青で塗っていった。凱はそれを見ないふりをした。
夏がほんとうに、終わりに近づいていた。
教室の窓は半分だけ開いていて、入ってくる風はまだ少し湿っているけれど、肌をひりつかせるような熱はもうない。セミの声も、気がつけば聞こえなくなっていた。
二学期の始業式の翌日。クラスの空気には、まだ夏休みの高揚感が残っている。
「ええー、ハワイ行ってきたの? いいなぁ」
「二組のヤツらとやった花火の動画、かなりヤベえよ」
「部活の合宿、先輩が鬼スパルタで、ほんとしんどかったぁ」
休み時間のたびに、机のあちこちで小さな輪ができる。日に焼けた腕、見慣れない髪型、配られる小さなお土産。それぞれの夏を持ち寄って、笑い声に変えていく時間だった。
教室の端、一番後ろの窓際。凱はいつもの席で、その喧騒を眺めていた。頬杖をついて、視線だけを泳がせる。
視線の先には、暁がいた。
千夏たち女子のグループに混じって、暁はなにやら笑っている。今度は男子が駆け寄り、夏休みの宿題を昨日徹夜で終わらせたというぼやきを聞いて、暁はまた声を立てて笑った。冗談を言い返している。すっかりクラスになじんだ様子だ。
その笑顔を、凱はじっと見ていた。
夏休み、二人で食べたパフェ。その味に、ほころばせた顔。
うちに来たときに犬のペンケースを見て浮かべられた笑み。
祭りの屋台で見せた、弾けるような笑い方。
頭の中で再生されるいくつもの暁の笑顔と、今、教室の真ん中で誰かに向けられている笑顔が、ゆっくりと重なる。
重なって――ずれた。
凱の胸の奥で、何かが、ぐっとねじられた。
なんだ、これは。
うまく名前がつけられない感情だった。怒りでもない。哀しみでもない。ただ、内側のどこかが鈍くくすぶって、ちりちりと、嫌な匂いを立てている。それを直視しないように、凱は窓の外へ視線を逃がした。校庭の木々が強い風に揺れ、ザワザワと音を立てている。
感情がおさまらなかった。
凱は、ゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が床をこするかすかな音がして、教室の一番近くにいた女子が、一瞬振り返る。けれど、すぐ会話に戻った。普段から物静かなこの男が、休み時間に席を立つくらいで、誰も気にしない。
ただ、一人だけ、別だった。
暁の笑顔が、ふっと、止まった。
話の途中で、はっきりと視線を上げて、教室の端へと向ける。
「すみません、少し外します」と短く断って、暁は輪を抜けた。
凱は、目的もなく廊下の窓辺に立っていた。サッシに肘を預けて、ぼんやりと外の木々を見ている。そこに、軽い足音が近づいてきた。
「凱」
振り向かなくても、誰だかわかった。だからこそ、振り向きたくなかった。
「何かありましたか?」
凱は小さく息を吐いて、ちらりとだけ、暁の方に目をやった。
「……何でもない」
声が、驚くほど淡泊だった。暁は間合いを一歩詰める代わりに、じっと、凱の輪郭のあたりを見つめた。そこには、濃い紫のオーラが、低くたゆたっていた。
暁の目には、はっきりと見えた。嫌悪の色。
「大丈夫じゃ、ないですよね」
暁の声が、いつもより少しだけ低くなる。
「何があったんですか」
凱は少しだけ間を空けて、「ちょっと、腹が痛いだけだ」と小さく答えた。それが嘘だということを、暁ははっきりと分かっていた。
「凱。僕には、違う色が見えていますよ」
暁の言葉に、凱の眉が、ぴく、と動いた。深紫の輪郭が、ふっと揺れる。そこに、じわりと赤が滲み始めた。怒りの色。
「お前は教室に戻れ」
凱はできるだけ平坦に、そう伝えるのが精一杯だった。
「凱……?」
教室の方から、夏休みの土産話と、誰かの笑い声が、また廊下に流れてくる。さっきまで暁が混じっていた、あの笑い声が。
凱の中で、何かが、はぜた。
「俺なんかに構ってるより、あいつらといろよ!」
凱の声が廊下に響いた。ガタガタと、廊下の壁が震える。壁に留まっていた画鋲が外れ、ポスターがバサッと床に落ちた。
凱の輪郭の赤が、痛いほどに鮮やかだった。けれど、その中に、もう一つ、別の色が滲んでいる。もどかしく、けれどどこか甘さを含んだ、淡い桃のような色。
――これは、もしかして。
暁の喉が、こくりと鳴った。
瞬間、暁は、自分の頬がじわっと赤くなるのを感じた。
凱の方も同じだった。口に出した瞬間に、自分が何を言ったのかが、はっきりと自分でわかってしまった。一番見られたくない場所を、自分から開けて、暁の前にさらけ出してしまったような気分だった。
「……くそっ」
凱は小さく吐き捨てて、乱暴に頭をかいた。それから暁の顔をまともに見ないまま、足早にその場を離れた。廊下から階段の方に曲がって、凱の背中が見えなくなる。
ちょうど四限目の授業が始まるチャイムが鳴り、暁は追いかけられなかった。胸の中が、まだざわついたまま、ゆっくりと教室の方へ足を向けた。
「起立、礼、着席」
英語教師が教室に入ってくると、いつもの号令とともに、生徒たちが揃って腰を下ろす。教師は教室を見回して、ふと口を開いた。
「あれ、黒瀬は? 誰か、知ってるヤツいないか?」
教室が、わずかにざわついた。誰も明確には答えない。前の方の男子が「さぁ」と気のない声を漏らしただけだった。
「ったく、しょうがないな」
教師はため息まじりにそうつぶやいて、すぐに教科書を開かせて授業を始めた。
チョークが黒板をこする音、ノートのページをめくる音、誰かの咳払い。いつも通りの音が淡々と刻まれていく。
暁は、胸の鼓動を押さえられないまま、ゆっくりと視線を教室の左後ろに移した。いつもならそこにいるはずの、無口な男の席。そこをしばらく見つめていた。それから机の上に視線を移し、何かを考えるように、指先をそっと組んだ。
*
凱は、いつも昼休みに使う、あの踊り場の壁にもたれて、床に座り込んでいた。
――俺なんかに構ってるより、あいつらといろよ!
廊下で口走った言葉が、頭の中で繰り返される。そのたびに、凱は両手で頭を抱えたくなった。
なんで、あんなことを。あんな、子供みたいなことを。
俺が、暁に……?
そこまで考えて、凱は自分で自分の思考を遮った。
いや、そんな訳があるか。互いに、人に言えない力を抱えているという秘密を共有した同士だ。その相手が他の人と楽しそうにしているのを見て、少し心がざわついた。それだけのことだ。
凱は曲げた膝に肘を突いて、手を額に押しつけた。
たしかに暁といると、息がしやすい。普通に話せるし、自然体でいられる。童顔で、口調がいつも丁寧で、たまに意地悪なことを言って、無防備に笑う。
夏休みの映像が、また、頭をよぎる。
カフェのテラス席、祭りでほおばったかき氷、坂の上から見た海に沈みゆく夕陽。自分の腰に回った腕の軽さ。
嫌な気分には、ならなかった。それは、認めざるを得なかった。ただ、その感情に、名前をつけるのが怖かった。
凱はもう一度、深く息を吐いた。
「やっぱり、ここでしたか」
ふいに、声が降ってきた。凱は、はっとして顔を上げた。
踊り場に、暁が姿を現した。いつもの制服姿。それなのに、なぜか夏祭りの浴衣姿が一瞬、重なって見えた。
「……お前、授業は」
声が、思ったよりかすれた。暁は、いたずらっぽく目を細めた。
「お腹が痛いから、お手洗いに、と」
そう言って、ふふっ、と肩をすくめるように小さく笑う。
その瞬間、凱の中の時間が、ほんのわずか、止まった。
大きな丸い目がきゅっと細められた笑顔。白くて繊細な肌。笑うとほんのり桜色になる頬。柔らかい陽だまりに溶けるような、軽やかで無造作な栗色の髪。屋上のドア越しの光が、その髪の先を、ふわりと縁取っていた。
凱は思わず、見惚れた。
――可愛い。
そう、思った。思ってしまった。そしてそのあとで、自分の思考にぎょっとした。
可愛い、とは、なんだ。これは何の感情だ。弟を見たときの兄の感情か。小さな動物を見たときの感情か。それとも。
凱は、答えを持っていなかった。ふわっと浮かびかけた何かを、凱は、ぐっと内側に押し戻した。
俺は、まだ自分の力を制御できていない。さっきも、廊下の壁を震わせ、ポスターを床に落とした。祭りの夜には、人を、本気で壊しかけた。そんな人間が、誰かに、自分から近づいていい訳がない。そんな資格は俺にはない。近づけば、いつか絶対に、傷つける。
凱は、目を閉じた。一つ、深く、息を吸った。
吐いたときには、もう、表情はいつもの凱に戻っていた。
「……さっきは、悪かった」
平坦な声だった。
「午後の授業からは、ちゃんと出る。お前はもう教室に戻れ」
暁は、何も答えなかった。ただ、見えていた。
ほんの一瞬前まで、凱の周りには、淡い、見たことのない色が漂っていた。桃色とも、橙色とも、金色ともつかない、温度のある色。それが、凱の言葉と一緒に、すうっと引いていく。代わりに戻ってきたのは、嫌悪の紫と、寂しさの青が混ざった、あのダークブルー。
暁の喉の奥で、声にならない言葉が、いくつか消えた。理由はわからなかった。けれど、今、何を言っても、この色はもう晴れないということだけは分かった。
「……はい」
それだけ言って、ゆっくりと階段を一歩ずつ降りていった。
凱は、暁の足音が完全に聞こえなくなるまで、動かなかった。やがて、誰もいなくなった踊り場で、ずるりと、壁にもたれた背中をさらに低く滑らせた。
深いため息が一つ、踊り場の床に落ちていった。
*
四限目の終わりを知らせるチャイムが鳴ると、教室には机や椅子を引きずる音が響き、一気に昼休みの喧騒に包まれた。
暁は踊り場に行こうか、授業中ずっと考えていたが、答えが出せないでいた。休み時間に見た、凱の色。震えるような赤と、その奥で一瞬だけ滲んだ淡い桃のような色。そして、踊り場でそれを自分の手で押しつぶすように引っ込め、代わりに出てきたダークブルー。
ふと、夏の終わりのカフェのテーブルに倒れていた、小さなメニュー立てのことが頭をよぎった。あれは本当に、ただの偶然だったのだろうか。怒りだけが力の引き金だと、自分は決めつけていたけれど――。
だが、暁はその思い付きを、すぐに頭の隅へ追いやった。今は、力のことよりも、凱の心の動きを追わなければならない。きっと、凱にも整理がついていない。すぐのぞき込もうとすると、きっと、また凱は身を硬くするだろう。
授業が終わっても自席で思考を巡らせていたら、千夏が話しかけてきた。
「あれ、朝倉くん、今日は黒瀬くんとこ行かないの?」
「ああ……はい」
「へー、珍しっ。そんじゃ、私たちと一緒に食べよ」
暁は教室の隅を一瞥してから、千夏のいるグループに机をつけた。
凱は昼休みに入ってからもずっと、踊り場の壁にもたれていた。
四限目の途中に、ここに暁が現れた。今は、一人だ。それが当然のはずだった。暁が転校してくる前は、ずっとそうだった。それが、自分にとって自然な時間だったはずだ。なのに。
ぐちゃぐちゃに絡まっている思考に戸惑っている、そのときだった。
階段の方から、軽い足音がした。
凱は一瞬、背を壁から離した。
「よっ」
現れたのが鮫島だとわかると、凱はすぐに姿勢を戻した。
水筒と弁当箱を持った鮫島は、いつも暁が座っていたスペースにドカッと座った。
「……て、あれ、今日は暁いないの?」
凱は、天井を仰いだまま短く答えた。
「ああ」
「へぇ、珍しいじゃん」
深い意味はなさそうな相づちを打った鮫島は、弁当包みの結び目をほどいた。
「いやー、聞いてくれよ凱」
唐揚げに箸を突き刺しながら、鮫島はペラペラと話し始めた。
「夏休みの県大会、二回戦敗退だぜ? 二回戦」
「……」
「相手、春の県大会準優勝だったから、まぁしょうがないっちゃしょうがないんだけどさ。けど完封負けは、ない。あれはさすがにヘコんだわー」
鮫島は、自分で言って自分で笑っている。凱は、口の端だけを動かして、ふっ、と一応の反応を返した。鮫島は特に気にせず、そのまま話を続ける。
「でもな、その試合のあとがすごくてさ。うちのキャプテンが一年のマネジャーと付き合いだしたんだよ」
「……ふうん」
「ふうん、じゃねえよ! お前わかってんのか、あの硬派キャプテンだぞ。負けた次の日に後輩使ってまで呼び出して告ったってさ。めっちゃ驚いたわ」
凱は相づちのような形で、もう一度うなずいた。けれど、頭の中は別のところにあった。
――踊り場で、寂しそうな顔をしていたな。
四限目、暁が階段を降りていった、あの後ろ姿。少し細く見えた肩。
あいつが笑っていないのは、よくない。それは、はっきりとわかった。
なら、と凱は心の中で、整理を始める。
これまで通り、接すればいいだけだ。朝、廊下で会ったら、軽くうなずく。廊下で声をかけられたら、返す。昼飯は、踊り場に来るなら、また一緒に食う。放課後、美術室に寄ったら、あいつの絵を見る。帰り道は、踏切の先の分かれ道まで一緒に歩く。
それでいい。変に意識する必要なんてない。さっき廊下で口を滑らせたあれは、たまたまだ。昨日少し寝付きが悪かったから寝不足のせいか、始まったばかりの二学期で少し気が立っていたせいで、変な言葉が出ただけだ。それだけのことだ。
これまで通りでいい。これまで通りで。
胸の奥で、何度も同じ言葉を、自分に言い聞かせる。
「おい、凱」
ふっ、と現実に引き戻される。
「聞いてんのか?」
鮫島が怪訝そうな顔をして凱をのぞき込んでいた。
「あ、ああ」
「ああ、じゃねえよ。今、すげえこと話してたのに」
鮫島は唐揚げを口に放り込み、もぐもぐとかみながら、ふと、ニヤっと笑った。
「お前もしかして、暁がいなくて寂しいとか? メシも食ってねぇし」
凱の中で、ほんの一拍、空気が止まった。けれど、それは表に出さなかった。出さない心づもりを、もうずっと前からしてきている。
「そんなんじゃねえよ」
平坦な声だった。あまりに平坦だったので、鮫島はそれ以上、突っ込む気をなくしたらしい。へえへえ、と気のない返事をして、また唐揚げに戻っていった。
凱は、また天井を仰いだ。食欲はとうに失せていた。
*
終礼が終わると、教室は一気に放課後の空気に包まれた。暁は凱の方は見ずに、かばんとスケッチブックの入ったトートバッグを持って美術室に向かった。
いつものように窓際の席にイーゼルを引き寄せてスケッチブックを開き、絵の具のチューブと、水を入れたプラスチックの容器を並べる。頭の中を空っぽにして、今の自分の感情の色を想像し、目の前の白に落とそうと集中する。
永瀬さん、昼休みは黄色がいつも以上に眩しかったな。もしかして気を使ってくれたのかな。津田先生、今日も穏やかな黄緑色だったな。
――凱、赤かったな。あの赤の奥にあった淡い桃色、掴めそうで掴めない、儚い色。あの色の名前は、何ていうんだろうか。
そのとき、美術室のドアがガラっと開く音がして、暁は、ふっ、と現実に戻った。
凱だった。凱は、まるで既に美術室に人がいることを知っているかのように、よどみなく部屋に入ってドアを閉め、いつもの窓際に椅子を引き寄せて座った。
しばらく、無言が続いた。暁の目の前にあるスケッチブックは白いままだった。
それから凱は、一つ、息を吸った。
「……さっきは、悪かった」
暁は首をほんの少しだけ動かして、視線を凱に向けた。凱は暁の方を見ないまま、続けた。
「少し、混乱してたみたいだ。でも、もう大丈夫だから」
そこで、凱は一呼吸置き、そしてできるだけ平らな声で言った。
「これまで通りで、いこう」
今度はもう少し、暁の首が凱の方に向いた。
これまで通り。それはつまり、休み時間の廊下でのことを、なかったことにするという意味だった。あの色を、あの言葉を、あの一瞬上がった温度を、お互い感じなかったことにする、という意味だった。
暁はゆっくりと目を閉じた。それから、小さく鼻で息を吐いて、目を開けた。
「わかりました」
暁は筆を取り、スケッチブックの上にゆっくりと色を置いていった。
深い紺。群青。ところどころグレーがかった藍。寒色だけが、紙の上に、静かに混じり合って溶けていく。紙の隅で、窓辺から注ぐ色光が、わずかに位置を変えていた。
凱は、その絵を横目でちらりと見た。何の絵かは、聞かなかった。聞けなかったのかもしれない。代わりに、窓の外に視線を移した。かけ声を上げる野球部員らが、グラウンドに散っている。
筆が、紙を滑る音。時計の秒針が、こつ、こつ、と鳴る音。それ以外、何の音もしなかった。二人の間に、言葉はもう、なかった。ただ、静かな放課後の美術室の空気が二人の肩のあたりにゆっくりと降りてきた。その静けさを、暁は青で塗っていった。凱はそれを見ないふりをした。
夏がほんとうに、終わりに近づいていた。
