「え?」
凱はよく聞こえなかったようで、聞き直した。
今度はもっと凱の顔に近づいて、先ほどより小さな声でささやいた。
「キス、してみませんか」
「は……?」
暁が身を乗り出してベッドに手をつく。ギシっ、ときしむ音がした。ずっと鳴いていたヒグラシの声が、一段と大きく響き渡るように聞こえた。
突然爆発したように、凱の色が、プールの底のような濃い水色に変化した。強い驚きの色が光っている。眩しい光の奥で、凱の顔が赤くなっているのがわかった。
「お前、今、何て」
凱は、口を開いたり閉じたりした。言葉が出ない、という表情だった。
凱の視界には天井がほとんど見えず、代わりに暁の柔らかな栗色の髪と琥珀色の瞳、わずかに開いた、吐息のこぼれそうな唇が光って見えた。
「検証、終了」
暁は顔を離して、笑った。
「凱、すごく驚いていましたね。でも物は動きませんでした」
「……お前、なあ」
凱は無意識に、手の甲を自分の唇に当てた。
「そういうの、心臓に悪い」
「そうですか?」
「そうだ」
暁はノートに書き込んだ。
「驚き、発動せず」
「こんなんで物が動くか!」と声を張りながら、凱は上半身を起こした。
「でも、確認することが大事なんです」
凱は大きく息を吐いて、「もう、変な検証は勘弁してくれ」と肩を落とした。
でも、凱の顔はまだ少しだけ赤いままだった。
暁は「へへっ」と笑って平静を装っていたが、本当は胸の鼓動が破裂するくらい早く動いていた。検証のつもりで言ったのに、言った瞬間、一瞬、本気でしそうになった。凱の長い睫毛と黒く光る瞳に、吸い込まれそうになった。
「……僕も一緒か」
*
「あとは怒りの感情だけですね」
暁はそう言いながら、DVDをかばんにしまった。
「怒り……か。それはもう検証する必要はないだろう」
そう言った凱の声には、乾いた風のような寂しさが滲んでいた。
暁は、転校初日の赤黒く染まった凱を思い出し、目を伏せた。
部屋に重たい空気が漂った。
ふと、外からお囃子の音が聞こえてくるのに暁は気づいた。
「……何の音ですかね」
「あぁ、もうすぐ祭りがあるんだ」
「夏祭りですか。どんなお祭りなんですか」
凱はスマホをいじり、暁に渡した。
「鳴海……幽灯祭?」
暁がスマホに映った画像の文字を読み上げた。大きな船のような形をした山車が中央に映った、告知ポスターだった。
凱は画面を食い入るように見る暁に、無感情のまま説明した。
「豊漁を祈願する地元の祭りだ。うちの近くの神社から、鳴海湾の方に向かって山車が出る。祭りの日が近くなると、山車に乗る子供たちが演奏の練習をするんだ」
「だから船の形なんですね。港町らしくていいですね」
暁の声が弾む。画面の中の山車に取り付けられた、たくさんの提灯の温かな光に見入っていた。
「凱は毎年行っているんですか?」
「……いや」
凱の声が、少し低くなった。
「小学生のころ、鮫島と行ったきりだ」
「……そう、ですか」
暁はそれ以上、深くは聞かなかった。ただ、スマホに目を戻して「いいな、こういうの」と小さくつぶやいた。
凱は、その横顔をじっと見ていた。気がついたら、声が先に出ていた。
「行ってみるか?」
ぽつり、と。
暁がぱっと振り向いた。目を見開いている。
「いいんですか!?」
真っ直ぐ見つめられた凱は視線をそらした。
「お前が、興味あるなら……」
「行きたいです!」
暁は即答した。
「まぁ色々、付き合ってもらったからな」と、自分自身に言い訳するかのように小さく吐いた凱の言葉を、舞い上がっていた暁は全く聞いていなかった。
「祭りは、盆入りする今度の水曜だ。午後に山車が神社を出るから、昼ごろに橋のところで合流しよう」
一人で無邪気にはしゃいでいた暁は、少し大きな凱の声に気づいて、「はい!」と答えた。
*
祭りの日は、すぐにやってきた。どことなく、いつもと空気が違う。町のどこからともなく、お囃子の音が風に乗って流れてくる。笛の音、太鼓の響き、子供たちの甲高い笑い声。いつもは落ち着いた港町が、その日ばかりは、どこか浮き立った空気に包まれていた。
暁は約束の時間よりも二十分早く、橋の上に着いた。茶色の生地に黒のドットが入った浴衣に袖を通している。慣れない帯が少しだけきついせいなのか、心臓の鼓動がいつもより若干早い。川面を流れる風が、夏の木々の匂いを運んできた。
少し早く着きすぎたかな、と思っていたら、橋の向こうに、見慣れた影が一つ、現れた。
反射的に、背筋が伸びる。深緑の甚平。凱だ。
「お前、早いな」
「へへっ、楽しみすぎて」
甚平の広い袖からのぞく腕は、布地の余裕を裏切るように太い。深い色の生地のせいか、凱の輪郭はいつもより、ひとまわり重く見える。風が裾を揺らした拍子に、鍛えられたふくらはぎの線がふいに浮いて、暁は思わず視線を川面に移した。
「が、凱だって早いじゃないですか」と暁は仕返しするかのように煽った。
「俺は……その、思ったより道が混んでなかったからだ」
凱はわかりやすくごまかすと、浴衣姿の暁を直視できずに、頭をかきながら「行くぞ」と切り返した。
神社が近づくにつれ、人の流れが密になってきた。イカ焼きや、焼きそばのソースの香りが風に混じって漂ってくる。浴衣姿の子供たちが、手に綿菓子を持って走り抜けていった。
「すごい賑わいですね」
屋台に目を移す人の波が、進路を遮るように滞留していた。
思うように進めずに焦れったくなった凱は、目を丸くしている暁の腕を取り、「こっちだ」とその波を縫うように進んだ。
――凱の手は、とても温かかった。
ようやく鳥居をくぐると、この日一番の人だかりができていた。その中心に、あの大きな山車があった。その威容に、暁は思わず息を呑んだ。
色とりどりの吹き流しが、海からの風にはためいている。朱色、藍色、黄色、緑色。船首には龍の装飾が施され、船体の側面は所々に三つ巴の文様が施された深紅の布で覆われている。それを囲むようにして、青い法被を着た男衆たちが太い縄を握っていた。皆、鉢巻きを締め、日に焼けた腕に筋を浮かべている。
「ヨーイ!」
一人の頭領らしき男が声を張り上げると、男衆たちが一斉に腰を落とした。
「エイヤー!」
大地を揺るがすようなかけ声。太い縄がピンと張り、大きな山車が、ぎしり、ぎしりと音を立てながら、ゆっくりと動き始めた。山車に乗った子供たちの太鼓が打ち鳴らされる。笛の音が空に昇っていく。
「うわ、すごい……」
暁の口から、思わず声が漏れた。
「凱、船が動いてますよ!」
いつもの丸い目をさらに丸くさせた暁は、興奮しながら凱の甚平の袖を引っ張った。その横顔を、凱は隣でじっと見ていた。
暁は、嬉しいときは嬉しいと顔に出す。驚いたときは驚く。それが時々、凱には眩しすぎて、目をそらしたくなる。
でも、今は――。
凱の口元が、ほんのわずかに緩んだ。笑顔というには、あまりにささやかな。
来てよかった、と胸の内側で、凱は確かにそう思った。
小学校のとき、鮫島と来た記憶が、ふとよみがえる。あのころはまだ、何も知らない子供だった。綿菓子を買い、山車の前ではしゃぎ回っていた。あれから何年も、凱はこの祭りから足を遠ざけてきた。家の中で一人、窓から聞こえる祭りの熱を、冷えた感情で聞き流していた。それが、今は。
「凱、すごいですよ! お囃子、すごく上手ですね!」
「あぁ」
凱は興奮した暁を見守るように、少し目を細めてうなずいた。
山車が鳥居をくぐって町へと出ていくのを、二人は人垣の後ろから見送った。男衆の声が、坂の下へと遠ざかっていく。
「腹へったな」
「はい、僕も」
屋台の並ぶ参道へと戻る。暁は迷ったあげく、焼きそばを選んだ。凱も同じものにした。普段家で食べる焼きそばと大差のない作りのはずだが、祭りの雰囲気が特別な味に変えてくれる。それから、かき氷も食べた。メロン、イチゴ、ブルーハワイ、パイナップル。色とりどりのシロップから好きなものを一つ選べるが、今度は凱が悩んでいた。
凱はイチゴのシロップでピンクに染まった山を、プラスチックのスプーンで丁寧に崩していった。暁はそれを横で微笑ましそうに見つめてから、メロン味の氷を口いっぱいにほおばった。
今度はヨーヨー釣りの屋台の前で、暁が足を止めた。
「凱、これやりたいです!」
凱は、目を輝かせてはしゃぐ暁を、子供を見守るように見つめ、しゃがむ暁の後ろに立った。
暁は慣れない手つきで紙縒りを水に浸し、ぷかぷかと浮かぶ色とりどりのヨーヨーの中から、薄い黄色の一つを引き上げた。受け取ったゴム風船を、両手でそっと包むように持つ。振り返った顔は満面の笑みで、凱は祭りの会場を包む熱気を肌でたしかに感じていた。
*
西の空が、橙に染まり始めていた。人の数は先ほどより増えている。屋台の明かりが提灯と混じって、参道は息苦しいほどの賑わいになっていった。
凱は人混みにもまれる暁の細い肩が気になって、「一回、外に出るか。橋のところ」と暁に声をかけた。最初の集合場所だった橋からは、鳴海湾が一望できる。夕陽に染まる海は、この町が誇る景色の一つだった。
「はい、ぜひ」
暁の顔が、ぱっと明るくなる。
神社を出て、坂を下る。喧騒が背中の方へと薄らぎ、代わりに、潮の香りが風に混じり始めた。暁は黄色のヨーヨーを子供のように突きながら歩いていた。
「今日はとても楽しいです。お祭りなんてずいぶん久しぶりで」
「そうか」
「それに、凱と一緒だから、余計に」
ぽろりと落ちたその一言に、凱は返す言葉を見つけられないまま、ただ、「ああ」と、短く応えた。耳の裏が、なぜか熱い。
暁は凱の方を見たまま、また何かを言いかけて――。
その瞬間だった。
ドン、と鈍い音。暁の小さな体の半分が後ろに飛び上がり、よろめいて尻もちをついた。
「痛ぇな、おい。どこ見て歩いてんだよ」
太い声が、頭の上から降ってきた。手を離れたヨーヨーが、軽い破裂音とともに地面で弾け、ぺしゃりとつぶれる。割けてしぼんだゴムが、アスファルトの水の染みに重なった。
顔を上げると、若い男が三人、立っていた。色の抜けた髪、安っぽい銀のネックレス、胸元をはだけた黒い柄物の上下。先頭の一人が、ぶつかった肩を芝居がかった仕草でさすっている。その後ろの一人が、暁の足元で割れたヨーヨーをのぞき込み、ドス黒い色を放ちながら、ニヤリと笑った。
「あれ、ボクぅ。これ慰謝料じゃね?」
凱の中の音が、すうっと、引いた。祭り囃子も、潮騒も、誰かの笑い声も、先ほどまで聞こえていた何もかもが遠くなる。代わりに、自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「……大丈夫か」
凱は暁の横にしゃがみ、できるだけ落ち着いて声をかけた。暁はうつむいたまま、すぐに首を縦に振る。
「僕は、大丈夫です」
立ち上がろうとして、暁が右手を地面につけた。その白い手の側面を、凱は見た。アスファルトにこすれて、薄い皮膚がむけていた。滲み出た血が、小さな石粒と混じり合っている。
ぷつ、と。頭の奥で、何かが切れる音がした。
凱は、ゆっくりと立ち上がると、暁を背にして、前に歩を進めた。息は、していたと思う。だが、自分の体の輪郭が、よくわからなくなっていた。三人組の方へ、足が勝手に動く。一歩。また一歩。声も出さず、表情もない。ただ、ゆっくり近づいていく。
「な……」
ニヤついていた男の一人が、何かを言いかけて、口をつぐんだ。凱の周りの空気が、揺らいでいるように見える。夕暮れの中で、それは陽炎にも似ていた。
――赤い。
地面に座ったままの暁の目には、はっきりと、それが見えていた。凱の輪郭から立ち上がる、燃え上がるような赤いオーラ。怒りそのものが形を持って、凱を取り巻いていた。
凱は、まだ無言だった。その足音すら、もはや聞こえない。
「……うっ」
最初に、先頭の男がうめいた。耳を押さえる。次の男が頭を抱えて膝から崩れ、最後の一人がえずいて、それからねばつくものを地面に吐いた。
「な、なんだ、これ……」
「耳が……、頭が、痛ぇ……っ」
それでも凱の足は、止まらない。
凱は、誰にも触れていない。なのに、三人は揃って苦悶の表情を浮かべ、まるで見えない手に締め上げられているかのように、地面にうずくまった。凱の足は、止まらない。
暁は、息ができなかった。怖かったのは三人ではなかった。彼らをそうしているのが、自分の隣にいたはずの人だということ。その人の輪郭が、いま、人のかたちを保っていないように見えること。その人の赤いオーラの縁で、転校初日に一度だけ見た、あの墨のような何かが、確かに渦を巻き始めていた。
いや――渦を巻く、というよりも。
その墨色の跡は、いま、凱の輪郭から、ほんのわずかに剥がれかけていた。煙が紙の縁を伝うように、凱の体の外側を、すうっと先に伸びていく。地に伏した三人組の方へ。
同時に、暁の耳の奥で、低い音が鳴った。
人の声でも、風の音でもなかった。喉を絞って絞って、無理矢理引きずり出したような、誰かがずっと長いあいだ叫ぶことを我慢していて、それでも我慢しきれずに漏れた、低い唸りのような音。
「――がい!!」
悲鳴にも近い暁の声が、空気を裂いた。立ち上がろうとして手のひらに走った痛みに眉をひそめながらも、それでも凱の名前を、力の限り呼んでいた。
その声で、凱の足が止まる。まるで、深い海の底から引き上げられたように、凱は、ひゅっ、と息を吸い込んだ。視界が戻ってくる。遠くで、まだ祭り囃子が鳴っていた。
うずくまっていた三人組は、耳鳴りが嘘のように引いていくのを感じながら、互いに目を見合わせる。恐ろしいものでも見たような顔で凱の方を見ると、転がるように立ち上がってその場から逃げていった。
暁の視界の中で、凱の輪郭から伸びかけていた墨色の跡が、しゅう、と、煙のように凱の中へ引き戻されていく。
暁は、息を呑んだ。
いまのは、見間違いだろうか。
残されたのは、橙色に染まる坂道に弾けたヨーヨーと、立ち尽くす凱と座り込んだままの暁だけだった。
「……また、俺は、やったのか?」
凱の声が、震えていた。膝が崩れそうになるのを、無理矢理こらえている。両手を見下ろす。何も握っていないはずの手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
――俺は、人を、壊そうとしたのか。
あの三人を、本当に、壊してしまおうとしたのか。ぞっと、背筋を冷たいものが走った。自分の中の何かを、自分で制御できなかった。その事実だけが、重く、ずしりと残っていた。凱の体は、小さく震え始めていた。
そのとき、誰かの腕が、凱の腰に回った。
暁だった。いつの間に立ち上がったのか。怪我をしている手のひらはそっと逃がして、けれども腕はしっかりと、凱の身体を抱きしめていた。肌に残った石鹸のやさしい香りと、かすかな汗の匂いが、凱の鼻先をかすめる。
「大丈夫ですよ、凱」
背中の方から、温かく落ち着いた声がした。
「大丈夫ですよ」
もう一度、繰り返される。暁の声は、いつもより少しだけ、柔らかかった。
暁には分かっていた。凱が怒ってくれたのは、自分のためだったのだということが。普段は無理に感情を押し込めている凱が、自分のために感情を露わにし、何かを失いかけてまで、踏み込もうとしてくれたことが。だから、暁は、凱を抱きしめた。それしか、自分にできることがなかった。
凱の震えは、すぐには止まらなかった。けれど、ひと呼吸、ふた呼吸と、暁の鼓動が伝わってくるたびに、少しずつ、少しずつ、肩から力が抜けていった。
やがて、凱は腕をだらんと垂らし、小さく言った。
「……ごめん」
暁は、凱の背中に顔を押し当てて、ゆっくりと首を横に振った。それから、小さな声で、「ありがとう、凱」と、つぶやいた。
坂の向こう、橋の先で、海が燃えていた。鳴海湾が、夕陽を一面に受けて、橙色と紅色の入り交じった光の海になっている。二人はしばらくそのまま、動かなかった。水平線が、茜から紫へと染め変わっていく。最後の光が溶けるように消えていくまで、どのくらいの時間が経ったのか、二人にもよくわからなかった。夏祭りの音が、遠くでかすかに、まだ続いていた。
*
辺りが暗くなりだしたころ、二人は橋の近くまで坂を下り、植え込みを囲う低い石の縁に並んで腰を下ろした。視界の先では、山車が神社へと戻っていく姿を間近で見ようと、橋の両側に多くの人が集まっている。
ほどなくして、遠くからまた、「エイヤー、エイヤー」という男たちの低く太い声が近づいてきた。橋の奥の暗闇から、ぽつ、ぽつ、と灯りが見え始める。山車に取り付けられていた何十という提灯がすべて灯され、昼と装いを変えていた。ゆっくり、ゆっくりと光の塊が橋を渡ってくる。船首の龍が金色にきらめく。人波が静かにどよめき、誰もが息を呑むようにして、その光を見ていた。
「……綺麗ですね」
暁が、ぽつりと言った。
凱は、すぐには答えなかった。道を照らすように頭上に並んだ提灯の光が、甚平の袖の上で揺れているのを、ぼんやりと見ていた。やがて、視線を上げないまま、低く言った。
「俺、今までずっと思ってたんだ。綺麗なものを見て『綺麗だ』って言うのは、意味がないって」
夜風が、二人の間を通り抜けていく。
「周りのヤツらもみんなそうだった。本当に思っていることなんて、直接口にはしない。みんな俺に作り笑いを見せながら、陰でバケモノと呼んでいたことだって知ってる」
暁は、瞳の奥をかすかに揺らして凱の様子を窺った。
「それに、俺にだけじゃない。髪型が似合ってると囃した裏でダサいと笑い合う女子。仲良くしていた友達の陰口を平気で叩いて、表では何ともないように振る舞うヤツ。みんな、表面では『いい人』の顔をして笑うんだ。俺はそれをずっと、遠くから見てた。本音でぶつかるとか、心をさらけ出すとか、そんなのフィクションの中だけだろって思ってた」
暁は何も言わず、黙って聞いていた。
「だから俺は、自分からは近づかず、すべてを遠ざけて、何も感じないようにした。何も言わない。笑わない。そうしていれば奇妙なことは起きないし、自分も周りも、みんな安全でいられると思ってた」
凱の声が、少しだけかすれた。
「なのに、今日――」
その先を、凱は飲み込んだ。言わなくても、暁にはわかっていた。
「凱は、ちゃんと、感じていましたよ」
凱が、初めて顔を上げる。提灯の柔らかい明かりに照らされた暁の表情は、やさしい笑みだった。
「廃墟でコウモリが出たとき、凱は一瞬、驚いていました。パフェを食べたとき、喜びが漏れていました。映画を見たとき、涙を流していました」
凱は、何も言えなかった。言葉を探そうとしても見つからなかった。
「言葉にしなくても、声に出さなくても、少なくとも僕にはわかります。凱の感情は、色で見えるんです。大丈夫。凱はちゃんと、普通の人間です」
暁はそっと凱を包み込むように伝えた。
凱は顔をゆがめ、しばらく黙っていた。山車の光の塊が、神社へと続く坂の上への少しずつ遠ざかっていく。
「僕は今日、凱と一緒にお祭りに来ることができて、すごく楽しかったですよ」
そう言って、暁は微笑んだ。
凱はその笑顔には答えなかった。ただ、遠ざかっていく山車の明かりを、じっと見つめていた。
暁は凱の目線の先を追って、もう一度言った。
「山車、本当に綺麗ですね」
「……ああ」とだけ、つぶやいた。それ以上、凱は何も言わなかったし、暁も何も言わなかった。
潮の匂いを含んだ風が、二人の頬を撫でて通り抜けていく。昼間の熱が嘘のように、その風はもう、どこか涼しさを帯びていた。夏の盛りが、ゆっくりと終わりに向かい始めていることを、静かに告げていた。
凱はよく聞こえなかったようで、聞き直した。
今度はもっと凱の顔に近づいて、先ほどより小さな声でささやいた。
「キス、してみませんか」
「は……?」
暁が身を乗り出してベッドに手をつく。ギシっ、ときしむ音がした。ずっと鳴いていたヒグラシの声が、一段と大きく響き渡るように聞こえた。
突然爆発したように、凱の色が、プールの底のような濃い水色に変化した。強い驚きの色が光っている。眩しい光の奥で、凱の顔が赤くなっているのがわかった。
「お前、今、何て」
凱は、口を開いたり閉じたりした。言葉が出ない、という表情だった。
凱の視界には天井がほとんど見えず、代わりに暁の柔らかな栗色の髪と琥珀色の瞳、わずかに開いた、吐息のこぼれそうな唇が光って見えた。
「検証、終了」
暁は顔を離して、笑った。
「凱、すごく驚いていましたね。でも物は動きませんでした」
「……お前、なあ」
凱は無意識に、手の甲を自分の唇に当てた。
「そういうの、心臓に悪い」
「そうですか?」
「そうだ」
暁はノートに書き込んだ。
「驚き、発動せず」
「こんなんで物が動くか!」と声を張りながら、凱は上半身を起こした。
「でも、確認することが大事なんです」
凱は大きく息を吐いて、「もう、変な検証は勘弁してくれ」と肩を落とした。
でも、凱の顔はまだ少しだけ赤いままだった。
暁は「へへっ」と笑って平静を装っていたが、本当は胸の鼓動が破裂するくらい早く動いていた。検証のつもりで言ったのに、言った瞬間、一瞬、本気でしそうになった。凱の長い睫毛と黒く光る瞳に、吸い込まれそうになった。
「……僕も一緒か」
*
「あとは怒りの感情だけですね」
暁はそう言いながら、DVDをかばんにしまった。
「怒り……か。それはもう検証する必要はないだろう」
そう言った凱の声には、乾いた風のような寂しさが滲んでいた。
暁は、転校初日の赤黒く染まった凱を思い出し、目を伏せた。
部屋に重たい空気が漂った。
ふと、外からお囃子の音が聞こえてくるのに暁は気づいた。
「……何の音ですかね」
「あぁ、もうすぐ祭りがあるんだ」
「夏祭りですか。どんなお祭りなんですか」
凱はスマホをいじり、暁に渡した。
「鳴海……幽灯祭?」
暁がスマホに映った画像の文字を読み上げた。大きな船のような形をした山車が中央に映った、告知ポスターだった。
凱は画面を食い入るように見る暁に、無感情のまま説明した。
「豊漁を祈願する地元の祭りだ。うちの近くの神社から、鳴海湾の方に向かって山車が出る。祭りの日が近くなると、山車に乗る子供たちが演奏の練習をするんだ」
「だから船の形なんですね。港町らしくていいですね」
暁の声が弾む。画面の中の山車に取り付けられた、たくさんの提灯の温かな光に見入っていた。
「凱は毎年行っているんですか?」
「……いや」
凱の声が、少し低くなった。
「小学生のころ、鮫島と行ったきりだ」
「……そう、ですか」
暁はそれ以上、深くは聞かなかった。ただ、スマホに目を戻して「いいな、こういうの」と小さくつぶやいた。
凱は、その横顔をじっと見ていた。気がついたら、声が先に出ていた。
「行ってみるか?」
ぽつり、と。
暁がぱっと振り向いた。目を見開いている。
「いいんですか!?」
真っ直ぐ見つめられた凱は視線をそらした。
「お前が、興味あるなら……」
「行きたいです!」
暁は即答した。
「まぁ色々、付き合ってもらったからな」と、自分自身に言い訳するかのように小さく吐いた凱の言葉を、舞い上がっていた暁は全く聞いていなかった。
「祭りは、盆入りする今度の水曜だ。午後に山車が神社を出るから、昼ごろに橋のところで合流しよう」
一人で無邪気にはしゃいでいた暁は、少し大きな凱の声に気づいて、「はい!」と答えた。
*
祭りの日は、すぐにやってきた。どことなく、いつもと空気が違う。町のどこからともなく、お囃子の音が風に乗って流れてくる。笛の音、太鼓の響き、子供たちの甲高い笑い声。いつもは落ち着いた港町が、その日ばかりは、どこか浮き立った空気に包まれていた。
暁は約束の時間よりも二十分早く、橋の上に着いた。茶色の生地に黒のドットが入った浴衣に袖を通している。慣れない帯が少しだけきついせいなのか、心臓の鼓動がいつもより若干早い。川面を流れる風が、夏の木々の匂いを運んできた。
少し早く着きすぎたかな、と思っていたら、橋の向こうに、見慣れた影が一つ、現れた。
反射的に、背筋が伸びる。深緑の甚平。凱だ。
「お前、早いな」
「へへっ、楽しみすぎて」
甚平の広い袖からのぞく腕は、布地の余裕を裏切るように太い。深い色の生地のせいか、凱の輪郭はいつもより、ひとまわり重く見える。風が裾を揺らした拍子に、鍛えられたふくらはぎの線がふいに浮いて、暁は思わず視線を川面に移した。
「が、凱だって早いじゃないですか」と暁は仕返しするかのように煽った。
「俺は……その、思ったより道が混んでなかったからだ」
凱はわかりやすくごまかすと、浴衣姿の暁を直視できずに、頭をかきながら「行くぞ」と切り返した。
神社が近づくにつれ、人の流れが密になってきた。イカ焼きや、焼きそばのソースの香りが風に混じって漂ってくる。浴衣姿の子供たちが、手に綿菓子を持って走り抜けていった。
「すごい賑わいですね」
屋台に目を移す人の波が、進路を遮るように滞留していた。
思うように進めずに焦れったくなった凱は、目を丸くしている暁の腕を取り、「こっちだ」とその波を縫うように進んだ。
――凱の手は、とても温かかった。
ようやく鳥居をくぐると、この日一番の人だかりができていた。その中心に、あの大きな山車があった。その威容に、暁は思わず息を呑んだ。
色とりどりの吹き流しが、海からの風にはためいている。朱色、藍色、黄色、緑色。船首には龍の装飾が施され、船体の側面は所々に三つ巴の文様が施された深紅の布で覆われている。それを囲むようにして、青い法被を着た男衆たちが太い縄を握っていた。皆、鉢巻きを締め、日に焼けた腕に筋を浮かべている。
「ヨーイ!」
一人の頭領らしき男が声を張り上げると、男衆たちが一斉に腰を落とした。
「エイヤー!」
大地を揺るがすようなかけ声。太い縄がピンと張り、大きな山車が、ぎしり、ぎしりと音を立てながら、ゆっくりと動き始めた。山車に乗った子供たちの太鼓が打ち鳴らされる。笛の音が空に昇っていく。
「うわ、すごい……」
暁の口から、思わず声が漏れた。
「凱、船が動いてますよ!」
いつもの丸い目をさらに丸くさせた暁は、興奮しながら凱の甚平の袖を引っ張った。その横顔を、凱は隣でじっと見ていた。
暁は、嬉しいときは嬉しいと顔に出す。驚いたときは驚く。それが時々、凱には眩しすぎて、目をそらしたくなる。
でも、今は――。
凱の口元が、ほんのわずかに緩んだ。笑顔というには、あまりにささやかな。
来てよかった、と胸の内側で、凱は確かにそう思った。
小学校のとき、鮫島と来た記憶が、ふとよみがえる。あのころはまだ、何も知らない子供だった。綿菓子を買い、山車の前ではしゃぎ回っていた。あれから何年も、凱はこの祭りから足を遠ざけてきた。家の中で一人、窓から聞こえる祭りの熱を、冷えた感情で聞き流していた。それが、今は。
「凱、すごいですよ! お囃子、すごく上手ですね!」
「あぁ」
凱は興奮した暁を見守るように、少し目を細めてうなずいた。
山車が鳥居をくぐって町へと出ていくのを、二人は人垣の後ろから見送った。男衆の声が、坂の下へと遠ざかっていく。
「腹へったな」
「はい、僕も」
屋台の並ぶ参道へと戻る。暁は迷ったあげく、焼きそばを選んだ。凱も同じものにした。普段家で食べる焼きそばと大差のない作りのはずだが、祭りの雰囲気が特別な味に変えてくれる。それから、かき氷も食べた。メロン、イチゴ、ブルーハワイ、パイナップル。色とりどりのシロップから好きなものを一つ選べるが、今度は凱が悩んでいた。
凱はイチゴのシロップでピンクに染まった山を、プラスチックのスプーンで丁寧に崩していった。暁はそれを横で微笑ましそうに見つめてから、メロン味の氷を口いっぱいにほおばった。
今度はヨーヨー釣りの屋台の前で、暁が足を止めた。
「凱、これやりたいです!」
凱は、目を輝かせてはしゃぐ暁を、子供を見守るように見つめ、しゃがむ暁の後ろに立った。
暁は慣れない手つきで紙縒りを水に浸し、ぷかぷかと浮かぶ色とりどりのヨーヨーの中から、薄い黄色の一つを引き上げた。受け取ったゴム風船を、両手でそっと包むように持つ。振り返った顔は満面の笑みで、凱は祭りの会場を包む熱気を肌でたしかに感じていた。
*
西の空が、橙に染まり始めていた。人の数は先ほどより増えている。屋台の明かりが提灯と混じって、参道は息苦しいほどの賑わいになっていった。
凱は人混みにもまれる暁の細い肩が気になって、「一回、外に出るか。橋のところ」と暁に声をかけた。最初の集合場所だった橋からは、鳴海湾が一望できる。夕陽に染まる海は、この町が誇る景色の一つだった。
「はい、ぜひ」
暁の顔が、ぱっと明るくなる。
神社を出て、坂を下る。喧騒が背中の方へと薄らぎ、代わりに、潮の香りが風に混じり始めた。暁は黄色のヨーヨーを子供のように突きながら歩いていた。
「今日はとても楽しいです。お祭りなんてずいぶん久しぶりで」
「そうか」
「それに、凱と一緒だから、余計に」
ぽろりと落ちたその一言に、凱は返す言葉を見つけられないまま、ただ、「ああ」と、短く応えた。耳の裏が、なぜか熱い。
暁は凱の方を見たまま、また何かを言いかけて――。
その瞬間だった。
ドン、と鈍い音。暁の小さな体の半分が後ろに飛び上がり、よろめいて尻もちをついた。
「痛ぇな、おい。どこ見て歩いてんだよ」
太い声が、頭の上から降ってきた。手を離れたヨーヨーが、軽い破裂音とともに地面で弾け、ぺしゃりとつぶれる。割けてしぼんだゴムが、アスファルトの水の染みに重なった。
顔を上げると、若い男が三人、立っていた。色の抜けた髪、安っぽい銀のネックレス、胸元をはだけた黒い柄物の上下。先頭の一人が、ぶつかった肩を芝居がかった仕草でさすっている。その後ろの一人が、暁の足元で割れたヨーヨーをのぞき込み、ドス黒い色を放ちながら、ニヤリと笑った。
「あれ、ボクぅ。これ慰謝料じゃね?」
凱の中の音が、すうっと、引いた。祭り囃子も、潮騒も、誰かの笑い声も、先ほどまで聞こえていた何もかもが遠くなる。代わりに、自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「……大丈夫か」
凱は暁の横にしゃがみ、できるだけ落ち着いて声をかけた。暁はうつむいたまま、すぐに首を縦に振る。
「僕は、大丈夫です」
立ち上がろうとして、暁が右手を地面につけた。その白い手の側面を、凱は見た。アスファルトにこすれて、薄い皮膚がむけていた。滲み出た血が、小さな石粒と混じり合っている。
ぷつ、と。頭の奥で、何かが切れる音がした。
凱は、ゆっくりと立ち上がると、暁を背にして、前に歩を進めた。息は、していたと思う。だが、自分の体の輪郭が、よくわからなくなっていた。三人組の方へ、足が勝手に動く。一歩。また一歩。声も出さず、表情もない。ただ、ゆっくり近づいていく。
「な……」
ニヤついていた男の一人が、何かを言いかけて、口をつぐんだ。凱の周りの空気が、揺らいでいるように見える。夕暮れの中で、それは陽炎にも似ていた。
――赤い。
地面に座ったままの暁の目には、はっきりと、それが見えていた。凱の輪郭から立ち上がる、燃え上がるような赤いオーラ。怒りそのものが形を持って、凱を取り巻いていた。
凱は、まだ無言だった。その足音すら、もはや聞こえない。
「……うっ」
最初に、先頭の男がうめいた。耳を押さえる。次の男が頭を抱えて膝から崩れ、最後の一人がえずいて、それからねばつくものを地面に吐いた。
「な、なんだ、これ……」
「耳が……、頭が、痛ぇ……っ」
それでも凱の足は、止まらない。
凱は、誰にも触れていない。なのに、三人は揃って苦悶の表情を浮かべ、まるで見えない手に締め上げられているかのように、地面にうずくまった。凱の足は、止まらない。
暁は、息ができなかった。怖かったのは三人ではなかった。彼らをそうしているのが、自分の隣にいたはずの人だということ。その人の輪郭が、いま、人のかたちを保っていないように見えること。その人の赤いオーラの縁で、転校初日に一度だけ見た、あの墨のような何かが、確かに渦を巻き始めていた。
いや――渦を巻く、というよりも。
その墨色の跡は、いま、凱の輪郭から、ほんのわずかに剥がれかけていた。煙が紙の縁を伝うように、凱の体の外側を、すうっと先に伸びていく。地に伏した三人組の方へ。
同時に、暁の耳の奥で、低い音が鳴った。
人の声でも、風の音でもなかった。喉を絞って絞って、無理矢理引きずり出したような、誰かがずっと長いあいだ叫ぶことを我慢していて、それでも我慢しきれずに漏れた、低い唸りのような音。
「――がい!!」
悲鳴にも近い暁の声が、空気を裂いた。立ち上がろうとして手のひらに走った痛みに眉をひそめながらも、それでも凱の名前を、力の限り呼んでいた。
その声で、凱の足が止まる。まるで、深い海の底から引き上げられたように、凱は、ひゅっ、と息を吸い込んだ。視界が戻ってくる。遠くで、まだ祭り囃子が鳴っていた。
うずくまっていた三人組は、耳鳴りが嘘のように引いていくのを感じながら、互いに目を見合わせる。恐ろしいものでも見たような顔で凱の方を見ると、転がるように立ち上がってその場から逃げていった。
暁の視界の中で、凱の輪郭から伸びかけていた墨色の跡が、しゅう、と、煙のように凱の中へ引き戻されていく。
暁は、息を呑んだ。
いまのは、見間違いだろうか。
残されたのは、橙色に染まる坂道に弾けたヨーヨーと、立ち尽くす凱と座り込んだままの暁だけだった。
「……また、俺は、やったのか?」
凱の声が、震えていた。膝が崩れそうになるのを、無理矢理こらえている。両手を見下ろす。何も握っていないはずの手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
――俺は、人を、壊そうとしたのか。
あの三人を、本当に、壊してしまおうとしたのか。ぞっと、背筋を冷たいものが走った。自分の中の何かを、自分で制御できなかった。その事実だけが、重く、ずしりと残っていた。凱の体は、小さく震え始めていた。
そのとき、誰かの腕が、凱の腰に回った。
暁だった。いつの間に立ち上がったのか。怪我をしている手のひらはそっと逃がして、けれども腕はしっかりと、凱の身体を抱きしめていた。肌に残った石鹸のやさしい香りと、かすかな汗の匂いが、凱の鼻先をかすめる。
「大丈夫ですよ、凱」
背中の方から、温かく落ち着いた声がした。
「大丈夫ですよ」
もう一度、繰り返される。暁の声は、いつもより少しだけ、柔らかかった。
暁には分かっていた。凱が怒ってくれたのは、自分のためだったのだということが。普段は無理に感情を押し込めている凱が、自分のために感情を露わにし、何かを失いかけてまで、踏み込もうとしてくれたことが。だから、暁は、凱を抱きしめた。それしか、自分にできることがなかった。
凱の震えは、すぐには止まらなかった。けれど、ひと呼吸、ふた呼吸と、暁の鼓動が伝わってくるたびに、少しずつ、少しずつ、肩から力が抜けていった。
やがて、凱は腕をだらんと垂らし、小さく言った。
「……ごめん」
暁は、凱の背中に顔を押し当てて、ゆっくりと首を横に振った。それから、小さな声で、「ありがとう、凱」と、つぶやいた。
坂の向こう、橋の先で、海が燃えていた。鳴海湾が、夕陽を一面に受けて、橙色と紅色の入り交じった光の海になっている。二人はしばらくそのまま、動かなかった。水平線が、茜から紫へと染め変わっていく。最後の光が溶けるように消えていくまで、どのくらいの時間が経ったのか、二人にもよくわからなかった。夏祭りの音が、遠くでかすかに、まだ続いていた。
*
辺りが暗くなりだしたころ、二人は橋の近くまで坂を下り、植え込みを囲う低い石の縁に並んで腰を下ろした。視界の先では、山車が神社へと戻っていく姿を間近で見ようと、橋の両側に多くの人が集まっている。
ほどなくして、遠くからまた、「エイヤー、エイヤー」という男たちの低く太い声が近づいてきた。橋の奥の暗闇から、ぽつ、ぽつ、と灯りが見え始める。山車に取り付けられていた何十という提灯がすべて灯され、昼と装いを変えていた。ゆっくり、ゆっくりと光の塊が橋を渡ってくる。船首の龍が金色にきらめく。人波が静かにどよめき、誰もが息を呑むようにして、その光を見ていた。
「……綺麗ですね」
暁が、ぽつりと言った。
凱は、すぐには答えなかった。道を照らすように頭上に並んだ提灯の光が、甚平の袖の上で揺れているのを、ぼんやりと見ていた。やがて、視線を上げないまま、低く言った。
「俺、今までずっと思ってたんだ。綺麗なものを見て『綺麗だ』って言うのは、意味がないって」
夜風が、二人の間を通り抜けていく。
「周りのヤツらもみんなそうだった。本当に思っていることなんて、直接口にはしない。みんな俺に作り笑いを見せながら、陰でバケモノと呼んでいたことだって知ってる」
暁は、瞳の奥をかすかに揺らして凱の様子を窺った。
「それに、俺にだけじゃない。髪型が似合ってると囃した裏でダサいと笑い合う女子。仲良くしていた友達の陰口を平気で叩いて、表では何ともないように振る舞うヤツ。みんな、表面では『いい人』の顔をして笑うんだ。俺はそれをずっと、遠くから見てた。本音でぶつかるとか、心をさらけ出すとか、そんなのフィクションの中だけだろって思ってた」
暁は何も言わず、黙って聞いていた。
「だから俺は、自分からは近づかず、すべてを遠ざけて、何も感じないようにした。何も言わない。笑わない。そうしていれば奇妙なことは起きないし、自分も周りも、みんな安全でいられると思ってた」
凱の声が、少しだけかすれた。
「なのに、今日――」
その先を、凱は飲み込んだ。言わなくても、暁にはわかっていた。
「凱は、ちゃんと、感じていましたよ」
凱が、初めて顔を上げる。提灯の柔らかい明かりに照らされた暁の表情は、やさしい笑みだった。
「廃墟でコウモリが出たとき、凱は一瞬、驚いていました。パフェを食べたとき、喜びが漏れていました。映画を見たとき、涙を流していました」
凱は、何も言えなかった。言葉を探そうとしても見つからなかった。
「言葉にしなくても、声に出さなくても、少なくとも僕にはわかります。凱の感情は、色で見えるんです。大丈夫。凱はちゃんと、普通の人間です」
暁はそっと凱を包み込むように伝えた。
凱は顔をゆがめ、しばらく黙っていた。山車の光の塊が、神社へと続く坂の上への少しずつ遠ざかっていく。
「僕は今日、凱と一緒にお祭りに来ることができて、すごく楽しかったですよ」
そう言って、暁は微笑んだ。
凱はその笑顔には答えなかった。ただ、遠ざかっていく山車の明かりを、じっと見つめていた。
暁は凱の目線の先を追って、もう一度言った。
「山車、本当に綺麗ですね」
「……ああ」とだけ、つぶやいた。それ以上、凱は何も言わなかったし、暁も何も言わなかった。
潮の匂いを含んだ風が、二人の頬を撫でて通り抜けていく。昼間の熱が嘘のように、その風はもう、どこか涼しさを帯びていた。夏の盛りが、ゆっくりと終わりに向かい始めていることを、静かに告げていた。
