その色は、ただ君のために

「え?」
 凱はよく聞こえなかったようで、聞き直した。
 今度はもっと凱の顔に近づいて、先ほどより小さな声でささやいた。

「キス、してみませんか」

「は……?」
 暁が身を乗り出してベッドに手をつく。ギシっ、ときしむ音がした。ずっと鳴いていたヒグラシの声が、一段と大きく響き渡るように聞こえた。
 突然爆発したように、凱の色が、プールの底のような濃い水色に変化した。強い驚きの色が光っている。眩しい光の奥で、凱の顔が赤くなっているのがわかった。
「お前、今、何て」
 凱は、口を開いたり閉じたりした。言葉が出ない、という表情だった。
 凱の視界には天井がほとんど見えず、代わりに暁の柔らかな栗色の髪と琥珀色の瞳、わずかに開いた、吐息のこぼれそうな唇が光って見えた。
「検証、終了」
 暁は顔を離して、笑った。
「凱、すごく驚いていましたね。でも物は動きませんでした」
「……お前、なあ」
 凱は無意識に、手の甲を自分の唇に当てた。
「そういうの、心臓に悪い」
「そうですか?」
「そうだ」
 暁はノートに書き込んだ。
「驚き、発動せず」
「こんなんで物が動くか!」と声を張りながら、凱は上半身を起こした。
「でも、確認することが大事なんです」
 凱は大きく息を吐いて、「もう、変な検証は勘弁してくれ」と肩を落とした。
 でも、凱の顔はまだ少しだけ赤いままだった。
 暁は「へへっ」と笑って平静を装っていたが、本当は胸の鼓動が破裂するくらい早く動いていた。検証のつもりで言ったのに、言った瞬間、一瞬、本気でしそうになった。凱の長い睫毛と黒く光る瞳に、吸い込まれそうになった。

「……僕も一緒か」

   *

「あとは怒りの感情だけですね」
 暁はそう言いながら、DVDをかばんにしまった。
「怒り……か。それはもう検証する必要はないだろう」
 そう言った凱の声には、乾いた風のような寂しさが滲んでいた。
 暁は、転校初日の赤黒く染まった凱を思い出し、目を伏せた。
 部屋に重たい空気が漂った。
 ふと、外からお囃子(はやし)の音が聞こえてくるのに暁は気づいた。
「……何の音ですかね」
「あぁ、もうすぐ祭りがあるんだ」
「夏祭りですか。どんなお祭りなんですか」
 凱はスマホをいじり、暁に渡した。
鳴海(なるみ)……幽灯祭(ゆうとうさい)?」
 暁がスマホに映った画像の文字を読み上げた。大きな船のような形をした山車(だし)が中央に映った、告知ポスターだった。
 凱は画面を食い入るように見る暁に、無感情のまま説明した。
「豊漁を祈願する地元の祭りだ。うちの近くの神社から、鳴海湾の方に向かって山車が出る。祭りの日が近くなると、山車に乗る子供たちが演奏の練習をするんだ」
「だから船の形なんですね。港町らしくていいですね」
 暁の声が弾む。画面の中の山車に取り付けられた、たくさんの提灯の温かな光に見入っていた。
「凱は毎年行っているんですか?」
「……いや」
 凱の声が、少し低くなった。
「小学生のころ、鮫島と行ったきりだ」
「……そう、ですか」
 暁はそれ以上、深くは聞かなかった。ただ、スマホに目を戻して「いいな、こういうの」と小さくつぶやいた。
 凱は、その横顔をじっと見ていた。気がついたら、声が先に出ていた。
「行ってみるか?」
 ぽつり、と。
 暁がぱっと振り向いた。目を見開いている。
「いいんですか!?」
 真っ直ぐ見つめられた凱は視線をそらした。
「お前が、興味あるなら……」
「行きたいです!」
 暁は即答した。
「まぁ色々、付き合ってもらったからな」と、自分自身に言い訳するかのように小さく吐いた凱の言葉を、舞い上がっていた暁は全く聞いていなかった。
「祭りは、盆入りする今度の水曜だ。午後に山車が神社を出るから、昼ごろに橋のところで合流しよう」
 一人で無邪気にはしゃいでいた暁は、少し大きな凱の声に気づいて、「はい!」と答えた。

   *

 祭りの日は、すぐにやってきた。どことなく、いつもと空気が違う。町のどこからともなく、お囃子の音が風に乗って流れてくる。笛の音、太鼓の響き、子供たちの甲高い笑い声。いつもは落ち着いた港町が、その日ばかりは、どこか浮き立った空気に包まれていた。
 暁は約束の時間よりも二十分早く、橋の上に着いた。茶色の生地に黒のドットが入った浴衣に袖を通している。慣れない帯が少しだけきついせいなのか、心臓の鼓動がいつもより若干早い。川面を流れる風が、夏の木々の匂いを運んできた。
 少し早く着きすぎたかな、と思っていたら、橋の向こうに、見慣れた影が一つ、現れた。
 反射的に、背筋が伸びる。深緑の甚平。凱だ。
「お前、早いな」
「へへっ、楽しみすぎて」
 甚平の広い袖からのぞく腕は、布地の余裕を裏切るように太い。深い色の生地のせいか、凱の輪郭はいつもより、ひとまわり重く見える。風が裾を揺らした拍子に、鍛えられたふくらはぎの線がふいに浮いて、暁は思わず視線を川面に移した。
「が、凱だって早いじゃないですか」と暁は仕返しするかのように煽った。
「俺は……その、思ったより道が混んでなかったからだ」
 凱はわかりやすくごまかすと、浴衣姿の暁を直視できずに、頭をかきながら「行くぞ」と切り返した。
 神社が近づくにつれ、人の流れが密になってきた。イカ焼きや、焼きそばのソースの香りが風に混じって漂ってくる。浴衣姿の子供たちが、手に綿菓子を持って走り抜けていった。
「すごい賑わいですね」
 屋台に目を移す人の波が、進路を遮るように滞留していた。
 思うように進めずに焦れったくなった凱は、目を丸くしている暁の腕を取り、「こっちだ」とその波を縫うように進んだ。
 ――凱の手は、とても温かかった。
 ようやく鳥居をくぐると、この日一番の人だかりができていた。その中心に、あの大きな山車があった。その威容に、暁は思わず息を呑んだ。
 色とりどりの吹き流しが、海からの風にはためいている。朱色、藍色、黄色、緑色。船首には龍の装飾が施され、船体の側面は所々に三つ(どもえ)の文様が施された深紅の布で覆われている。それを囲むようにして、青い法被を着た男衆たちが太い縄を握っていた。皆、鉢巻きを締め、日に焼けた腕に筋を浮かべている。
「ヨーイ!」
 一人の頭領らしき男が声を張り上げると、男衆たちが一斉に腰を落とした。
「エイヤー!」
 大地を揺るがすようなかけ声。太い縄がピンと張り、大きな山車が、ぎしり、ぎしりと音を立てながら、ゆっくりと動き始めた。山車に乗った子供たちの太鼓が打ち鳴らされる。笛の音が空に昇っていく。
「うわ、すごい……」
 暁の口から、思わず声が漏れた。
「凱、船が動いてますよ!」
 いつもの丸い目をさらに丸くさせた暁は、興奮しながら凱の甚平の袖を引っ張った。その横顔を、凱は隣でじっと見ていた。
 暁は、嬉しいときは嬉しいと顔に出す。驚いたときは驚く。それが時々、凱には眩しすぎて、目をそらしたくなる。
 でも、今は――。
 凱の口元が、ほんのわずかに緩んだ。笑顔というには、あまりにささやかな。
 来てよかった、と胸の内側で、凱は確かにそう思った。
 小学校のとき、鮫島と来た記憶が、ふとよみがえる。あのころはまだ、何も知らない子供だった。綿菓子を買い、山車の前ではしゃぎ回っていた。あれから何年も、凱はこの祭りから足を遠ざけてきた。家の中で一人、窓から聞こえる祭りの熱を、冷えた感情で聞き流していた。それが、今は。
「凱、すごいですよ! お囃子、すごく上手ですね!」
「あぁ」
 凱は興奮した暁を見守るように、少し目を細めてうなずいた。

 山車が鳥居をくぐって町へと出ていくのを、二人は人垣の後ろから見送った。男衆の声が、坂の下へと遠ざかっていく。
「腹へったな」
「はい、僕も」
 屋台の並ぶ参道へと戻る。暁は迷ったあげく、焼きそばを選んだ。凱も同じものにした。普段家で食べる焼きそばと大差のない作りのはずだが、祭りの雰囲気が特別な味に変えてくれる。それから、かき氷も食べた。メロン、イチゴ、ブルーハワイ、パイナップル。色とりどりのシロップから好きなものを一つ選べるが、今度は凱が悩んでいた。
 凱はイチゴのシロップでピンクに染まった山を、プラスチックのスプーンで丁寧に崩していった。暁はそれを横で微笑ましそうに見つめてから、メロン味の氷を口いっぱいにほおばった。
 今度はヨーヨー釣りの屋台の前で、暁が足を止めた。
「凱、これやりたいです!」
 凱は、目を輝かせてはしゃぐ暁を、子供を見守るように見つめ、しゃがむ暁の後ろに立った。
 暁は慣れない手つきで紙縒(こよ)りを水に浸し、ぷかぷかと浮かぶ色とりどりのヨーヨーの中から、薄い黄色の一つを引き上げた。受け取ったゴム風船を、両手でそっと包むように持つ。振り返った顔は満面の笑みで、凱は祭りの会場を包む熱気を肌でたしかに感じていた。

   *

 西の空が、(だいだい)に染まり始めていた。人の数は先ほどより増えている。屋台の明かりが提灯と混じって、参道は息苦しいほどの賑わいになっていった。
 凱は人混みにもまれる暁の細い肩が気になって、「一回、外に出るか。橋のところ」と暁に声をかけた。最初の集合場所だった橋からは、鳴海湾が一望できる。夕陽に染まる海は、この町が誇る景色の一つだった。
「はい、ぜひ」
 暁の顔が、ぱっと明るくなる。
 神社を出て、坂を下る。喧騒が背中の方へと薄らぎ、代わりに、潮の香りが風に混じり始めた。暁は黄色のヨーヨーを子供のように突きながら歩いていた。
「今日はとても楽しいです。お祭りなんてずいぶん久しぶりで」
「そうか」
「それに、凱と一緒だから、余計に」
 ぽろりと落ちたその一言に、凱は返す言葉を見つけられないまま、ただ、「ああ」と、短く応えた。耳の裏が、なぜか熱い。
 暁は凱の方を見たまま、また何かを言いかけて――。

 その瞬間だった。

 ドン、と鈍い音。暁の小さな体の半分が後ろに飛び上がり、よろめいて尻もちをついた。
「痛ぇな、おい。どこ見て歩いてんだよ」
 太い声が、頭の上から降ってきた。手を離れたヨーヨーが、軽い破裂音とともに地面で弾け、ぺしゃりとつぶれる。割けてしぼんだゴムが、アスファルトの水の染みに重なった。
 顔を上げると、若い男が三人、立っていた。色の抜けた髪、安っぽい銀のネックレス、胸元をはだけた黒い柄物の上下。先頭の一人が、ぶつかった肩を芝居がかった仕草でさすっている。その後ろの一人が、暁の足元で割れたヨーヨーをのぞき込み、ドス黒い色を放ちながら、ニヤリと笑った。
「あれ、ボクぅ。これ慰謝料じゃね?」
 凱の中の音が、すうっと、引いた。祭り囃子も、潮騒も、誰かの笑い声も、先ほどまで聞こえていた何もかもが遠くなる。代わりに、自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「……大丈夫か」
 凱は暁の横にしゃがみ、できるだけ落ち着いて声をかけた。暁はうつむいたまま、すぐに首を縦に振る。
「僕は、大丈夫です」
 立ち上がろうとして、暁が右手を地面につけた。その白い手の側面を、凱は見た。アスファルトにこすれて、薄い皮膚がむけていた。滲み出た血が、小さな石粒と混じり合っている。
 ぷつ、と。頭の奥で、何かが切れる音がした。
 凱は、ゆっくりと立ち上がると、暁を背にして、前に歩を進めた。息は、していたと思う。だが、自分の体の輪郭が、よくわからなくなっていた。三人組の方へ、足が勝手に動く。一歩。また一歩。声も出さず、表情もない。ただ、ゆっくり近づいていく。
「な……」
 ニヤついていた男の一人が、何かを言いかけて、口をつぐんだ。凱の周りの空気が、揺らいでいるように見える。夕暮れの中で、それは陽炎(かげろう)にも似ていた。
 ――赤い。
 地面に座ったままの暁の目には、はっきりと、それが見えていた。凱の輪郭から立ち上がる、燃え上がるような赤いオーラ。怒りそのものが形を持って、凱を取り巻いていた。
 凱は、まだ無言だった。その足音すら、もはや聞こえない。
「……うっ」
 最初に、先頭の男がうめいた。耳を押さえる。次の男が頭を抱えて膝から崩れ、最後の一人がえずいて、それからねばつくものを地面に吐いた。
「な、なんだ、これ……」
「耳が……、頭が、痛ぇ……っ」
 それでも凱の足は、止まらない。
 凱は、誰にも触れていない。なのに、三人は揃って苦悶の表情を浮かべ、まるで見えない手に締め上げられているかのように、地面にうずくまった。凱の足は、止まらない。
 暁は、息ができなかった。怖かったのは三人ではなかった。彼らをそうしているのが、自分の隣にいたはずの人だということ。その人の輪郭が、いま、人のかたちを保っていないように見えること。その人の赤いオーラの縁で、転校初日に一度だけ見た、あの墨のような何かが、確かに渦を巻き始めていた。
 いや――渦を巻く、というよりも。
 その墨色の跡は、いま、凱の輪郭から、ほんのわずかに剥がれかけていた。煙が紙の縁を伝うように、凱の体の外側を、すうっと先に伸びていく。地に伏した三人組の方へ。
 同時に、暁の耳の奥で、低い音が鳴った。
 人の声でも、風の音でもなかった。喉を絞って絞って、無理矢理引きずり出したような、誰かがずっと長いあいだ叫ぶことを我慢していて、それでも我慢しきれずに漏れた、低い唸りのような音。
「――がい!!」
 悲鳴にも近い暁の声が、空気を裂いた。立ち上がろうとして手のひらに走った痛みに眉をひそめながらも、それでも凱の名前を、力の限り呼んでいた。
 その声で、凱の足が止まる。まるで、深い海の底から引き上げられたように、凱は、ひゅっ、と息を吸い込んだ。視界が戻ってくる。遠くで、まだ祭り囃子が鳴っていた。
 うずくまっていた三人組は、耳鳴りが嘘のように引いていくのを感じながら、互いに目を見合わせる。恐ろしいものでも見たような顔で凱の方を見ると、転がるように立ち上がってその場から逃げていった。
 暁の視界の中で、凱の輪郭から伸びかけていた墨色の跡が、しゅう、と、煙のように凱の中へ引き戻されていく。

 暁は、息を呑んだ。

 いまのは、見間違いだろうか。
 残されたのは、橙色に染まる坂道に弾けたヨーヨーと、立ち尽くす凱と座り込んだままの暁だけだった。
「……また、俺は、やったのか?」
 凱の声が、震えていた。膝が崩れそうになるのを、無理矢理こらえている。両手を見下ろす。何も握っていないはずの手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。

 ――俺は、人を、壊そうとしたのか。

 あの三人を、本当に、壊してしまおうとしたのか。ぞっと、背筋を冷たいものが走った。自分の中の何かを、自分で制御できなかった。その事実だけが、重く、ずしりと残っていた。凱の体は、小さく震え始めていた。
 そのとき、誰かの腕が、凱の腰に回った。
 暁だった。いつの間に立ち上がったのか。怪我をしている手のひらはそっと逃がして、けれども腕はしっかりと、凱の身体を抱きしめていた。肌に残った石鹸のやさしい香りと、かすかな汗の匂いが、凱の鼻先をかすめる。
「大丈夫ですよ、凱」
 背中の方から、温かく落ち着いた声がした。
「大丈夫ですよ」
 もう一度、繰り返される。暁の声は、いつもより少しだけ、柔らかかった。
 暁には分かっていた。凱が怒ってくれたのは、自分のためだったのだということが。普段は無理に感情を押し込めている凱が、自分のために感情を露わにし、何かを失いかけてまで、踏み込もうとしてくれたことが。だから、暁は、凱を抱きしめた。それしか、自分にできることがなかった。
 凱の震えは、すぐには止まらなかった。けれど、ひと呼吸、ふた呼吸と、暁の鼓動が伝わってくるたびに、少しずつ、少しずつ、肩から力が抜けていった。
 やがて、凱は腕をだらんと垂らし、小さく言った。
「……ごめん」
 暁は、凱の背中に顔を押し当てて、ゆっくりと首を横に振った。それから、小さな声で、「ありがとう、凱」と、つぶやいた。
 坂の向こう、橋の先で、海が燃えていた。鳴海湾が、夕陽を一面に受けて、橙色と紅色の入り交じった光の海になっている。二人はしばらくそのまま、動かなかった。水平線が、茜から紫へと染め変わっていく。最後の光が溶けるように消えていくまで、どのくらいの時間が経ったのか、二人にもよくわからなかった。夏祭りの音が、遠くでかすかに、まだ続いていた。

   *

 辺りが暗くなりだしたころ、二人は橋の近くまで坂を下り、植え込みを囲う低い石の縁に並んで腰を下ろした。視界の先では、山車が神社へと戻っていく姿を間近で見ようと、橋の両側に多くの人が集まっている。
 ほどなくして、遠くからまた、「エイヤー、エイヤー」という男たちの低く太い声が近づいてきた。橋の奥の暗闇から、ぽつ、ぽつ、と灯りが見え始める。山車に取り付けられていた何十という提灯がすべて灯され、昼と装いを変えていた。ゆっくり、ゆっくりと光の塊が橋を渡ってくる。船首の龍が金色にきらめく。人波が静かにどよめき、誰もが息を呑むようにして、その光を見ていた。
「……綺麗ですね」
 暁が、ぽつりと言った。
 凱は、すぐには答えなかった。道を照らすように頭上に並んだ提灯の光が、甚平の袖の上で揺れているのを、ぼんやりと見ていた。やがて、視線を上げないまま、低く言った。
「俺、今までずっと思ってたんだ。綺麗なものを見て『綺麗だ』って言うのは、意味がないって」
 夜風が、二人の間を通り抜けていく。
「周りのヤツらもみんなそうだった。本当に思っていることなんて、直接口にはしない。みんな俺に作り笑いを見せながら、陰でバケモノと呼んでいたことだって知ってる」
 暁は、瞳の奥をかすかに揺らして凱の様子を窺った。
「それに、俺にだけじゃない。髪型が似合ってると囃した裏でダサいと笑い合う女子。仲良くしていた友達の陰口を平気で叩いて、表では何ともないように振る舞うヤツ。みんな、表面では『いい人』の顔をして笑うんだ。俺はそれをずっと、遠くから見てた。本音でぶつかるとか、心をさらけ出すとか、そんなのフィクションの中だけだろって思ってた」
 暁は何も言わず、黙って聞いていた。
「だから俺は、自分からは近づかず、すべてを遠ざけて、何も感じないようにした。何も言わない。笑わない。そうしていれば奇妙なことは起きないし、自分も周りも、みんな安全でいられると思ってた」
 凱の声が、少しだけかすれた。
「なのに、今日――」
 その先を、凱は飲み込んだ。言わなくても、暁にはわかっていた。
「凱は、ちゃんと、感じていましたよ」
 凱が、初めて顔を上げる。提灯の柔らかい明かりに照らされた暁の表情は、やさしい笑みだった。
「廃墟でコウモリが出たとき、凱は一瞬、驚いていました。パフェを食べたとき、喜びが漏れていました。映画を見たとき、涙を流していました」
 凱は、何も言えなかった。言葉を探そうとしても見つからなかった。
「言葉にしなくても、声に出さなくても、少なくとも僕にはわかります。凱の感情は、色で見えるんです。大丈夫。凱はちゃんと、普通の人間です」
 暁はそっと凱を包み込むように伝えた。
 凱は顔をゆがめ、しばらく黙っていた。山車の光の塊が、神社へと続く坂の上への少しずつ遠ざかっていく。
「僕は今日、凱と一緒にお祭りに来ることができて、すごく楽しかったですよ」
 そう言って、暁は微笑んだ。
 凱はその笑顔には答えなかった。ただ、遠ざかっていく山車の明かりを、じっと見つめていた。
 暁は凱の目線の先を追って、もう一度言った。
「山車、本当に綺麗ですね」
「……ああ」とだけ、つぶやいた。それ以上、凱は何も言わなかったし、暁も何も言わなかった。
 潮の匂いを含んだ風が、二人の頬を撫でて通り抜けていく。昼間の熱が嘘のように、その風はもう、どこか涼しさを帯びていた。夏の盛りが、ゆっくりと終わりに向かい始めていることを、静かに告げていた。