その色は、ただ君のために

 翌日の放課後、美術室には心を弾ませた暁と、恐る恐る席に着く凱の対照的な二人が向かい合った。
「最初の検証は、嫌悪です。今日の課題はこれです」
 暁がかばんから取り出したのは、スーパーで買ってきた生のパクチーだった。
「おい!」
 凱はとっさに上半身をのけぞらせ、あからさまに苦悶の表情を浮かべた。
「ちょっと、凱。まだ袋から開けてもいませんよ」
「開けるな! 開けなくても、もう臭い!」
「ダメですよ、ちゃんと食べてください」
 絶句する凱を見て、暁は子供のように笑って続けた。
「苦手って言ってましたよね、パクチー」
「苦手じゃなくて、絶対無理って言ったんだ、俺は」
「そうでしたっけ。でも、大切な検証なので」
「お前、絶対楽しんでるだろ……」
 暁はそれには答えず、袋からパクチーを取り出して凱に差し出した。「どうぞ」
 反射のように跳ね上がった凱の腕が、鼻先を(かば)うように押し当てられる。白い半袖のワイシャツの袖口から伸びた前腕の内側に、一本の腱が、皮膚を持ち上げるほど張りつめている。普段は平らに見える静脈が、肌のすぐ下で、青く脈を打っているのが分かった。
 顔の半分はその腕に隠れている。それでも、眉根にぐっとよった(しわ)と、きつく結ばれた唇の端がのぞいていて、ゆがんだ表情が隠しきれずにいた。本当に受け付けないのだと、すぐにわかる顔だ。
 暁の挑発的な笑みと期待のまなざしが浴びせられ、逃げられないと悟った凱はようやく観念した。
「くそ……少しだけだぞ、少しだけ、少し」
 凱は鼻をつまんで一口だけかじった瞬間、「うえぇぇ」と舌を出して悶絶した。
「おお、凱、すごく紫色ですよ、今」
「うっさい、まじぃ」
 凱はかばんからペットボトルの水を取り出し、勢いよく飲んだ。
 笑うのをこらえていた暁だが、凱の首筋やワイシャツからのぞく鎖骨に気を取られそうになり、慌ててノートに目を移した。
「嫌悪、発動せず、確認!」
 暁はノートに書き込んだ。
「やる意味あったか、これ」
「お、大ありですよ。少なくとも、嫌悪のときは、物は動いたり壊れたりはしませんでした。残りの感情も試していきましょ……ケホッ」
 先ほどの動揺からか、少し早口になった暁は、言い終わるかその前に思わず咳き込んでしまった。
「おい、はしゃぎすぎだ」
「すみません」
「飲めよ」
 凱が、持っていたペットボトルを差し出した。
「は、はい……」
 受け取ったペットボトルの水が、ちゃぽん、と音を立てた。先ほどまで廊下から聞こえていた吹奏楽部の楽器の音は、自分の鼓動の音でかき消され、他に何も聞こえなくなった。耳が熱くなる。暁はじっとペットボトルの先端を見つめて、それからゆっくりと、口をつけた。ちょっとだけ、パクチーの味がする、気がした。
「あ、ありがとうございました」
 暁はこのときほど、他人から自分の色が見えなくてよかったと思ったことはなかった。

   *

 まだ梅雨が明けない六月の終わりに、暁が提案した。
「次は恐怖、いきましょうか。これはもしかすると、感情の高ぶりが大きいので、物が動くかもしれませんよ」
「恐怖って言ったって、どうやって検証するんだ?」
「心霊スポットに行きます」
 暁がそう言うと、凱は口を半分開けた。
「はあ?」
「この近くに、有名な廃工場があるらしいんです。夜に行くと、何かが見えるとか、聞こえるとか」
 凱の顔が一瞬、ひきつった。
「……そんなの信じてるのか?」
「僕は信じてないですよ。でも、雰囲気って大事じゃないですか。恐怖を誘発するには、そういう場所が一番だと思うんです」
「お前、発想がおかしい」
「お付き合い、お願いします」
 凱は深いため息をついた。

 二人は、雨の上がった土曜日の夜、自転車でその廃工場に向かった。町外れの川沿いにある、古い紡績工場の跡地だった。もう二十年以上前に閉鎖されていて、建物は半分崩れている。コンクリートの壁に(つた)が絡まり、錆びた金属パイプが突き出している。枠ごと外れた窓ガラスが割れたまま地面に放置されていた。地元の高校生の間で、いつのころからか肝試しスポットになった、という場所だった。
 二人は廃工場の前で自転車を停めて、懐中電灯をつけた。
「なあ、本当にここに入るのか?」
 凱が少し不安そうに暁に声をかけた。怖がっているというより、半ば呆れに近いような感情が声にこもっていた。
「いいですか、凱。二十年も前から放置されているこの場所は、何が出てもおかしくないですよ。慎重に進みましょう」
「怪我だけはするなよな」
 ぼやきのような凱の一言が、暁にとってはたまらなく温かかった。
 連日の雨で、半屋外となっている場所には所々に水たまりができていた。足元に濡れた枯れ葉が重なり、建物を囲む鬱蒼(うっそう)とした木々からは湿った匂いが漂っていた。
 検証のため、必然的に凱が先を歩いた。その半歩後ろを、暁がついていく。
「……どうせ何もないだろう」
 凱は落ち着いていた。
「まだ入ったばかりですよ」
 二人でゆっくりと、工場の奥に進んでいく。ぴちょん、ぴちょん、と、天井から雨雫がしたたり落ちる音が、広いコンクリートの廊下に反響していた。
 ふと、暁は不思議に思った。凱の足取りに、迷いがないようにも感じる。地面の段差を見もしないで跨ぐ。暗がりの曲がり角でも、ためらわずに曲がる。まるで、ここを何度も歩いたことがあるかのようだった。
 ただ、それは気のせいかもしれない、とも暁は思った。凱は身体が大きく、運動神経もいい。暗い場所でも、たいていの男子よりは堂々と歩けるはずだ。
 暁は、その引っかかりを、いったん胸の奥に置いた。
 奥に進むほど、空気が湿った重みを増していくのを暁は感じた。鼻の奥に、錆と、何かの動物の毛のような臭いが絡みつく。視界の隅で、何かがちらついた気がして、暁は懐中電灯の光を素早く左に振った。錆びた鉄柱が一本、影を伸ばしているだけだった。けれど、その影のすぐ脇の壁に、ほんの一瞬――誰のものでもない、淡い灰色の縁取りが、ふっと滲んだように見えた。暁は瞬きをした。次に光を当てたとき、そこには、もう何もなかった。
 けれど、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
 あの灰色は、知っている気がした。凱の縁で、ずっと揺れているあの墨色を、薄く伸ばしたような――そんな色味に、よく似ていた。
 もう少し奥に進んだ、コンクリートの壁が直角に交わっている一角で、ふいに凱の足が止まった。
 ほんの一拍。すぐにまた、何事もなかったように歩き出した。
 けれど、暁にだけは見えていた。凱のダークブルーが、その瞬間だけ、ほんの少し濃くなった。色の縁の墨色が、わずかに広がりかけて、すぐに引っ込んだ。
 何かを思い出したような色の動きだった。
 暁は、口にはしなかった。

 ――バサササササ!!

 突然、凱の前で何か大きな音がした。
「っ!」
 暁が、とっさに凱の背中のシャツを掴んだ。
 コウモリだ。天井の(はり)から、数羽が飛び立っただけだ。
 凱は振り返って、暁を見た。
「お前が怖がってどうする」
「……いやぁ」
「自分で提案しておいて」
「こういう場所、嫌いじゃないけど、全然怖くないわけじゃないです」
 凱の色は、変わらなかった。平静な黄緑色のまま。コウモリが飛び出した瞬間、ほんの一瞬だけ驚いていたが、すぐに戻った。恐怖を表す深緑色は出なかった。凱の服から伝わったわずかな温もりと、柔軟剤の香りに安心したことに、少しだけ罪悪感を覚えた。
「凱、全然怖くないんですね」
「この程度じゃ、怖いとは思わない」
「……ずっと、もっと怖いことを見てきたから?」
 凱は答えなかった。
 二人は廃工場の中を一時間ほど歩き回った。途中、何度か不穏な音がした。屋根の何かが揺れたり、風で古いトタンが鳴ったり。でも、凱の色は変化がなかった。
「凱は恐怖を感じにくいんですかね。もう出ましょうか」
 暁はそう言って凱を追い越し、床に延びる金属管をまたいで出口に向かう、そのときだった。
「あっ」
 濡れた落ち葉にかかとを滑らせた暁は、その勢いで後ろに転んでしまった。
「おい!」
 転んだ弾みで頭を金属管にぶつけ、大きな鈍い音が響いた。その衝撃で、暁の視界はしばらくぼやけたままだった。
 遠くで、凱が怒鳴る声がぼんやりと聞こえる。
「……しろ! しっかりしろ!!」
 何度目か声をかけられた暁は、急に目の前がはっきりして見えた。心配そうにのぞき込む凱の顔が、真上にあった。
「大丈夫か!?」
 暁は、自分の頭が凱の太ももの上にあることに気づいた。今度は確かに、凱の温もりを感じる。そしてゆっくりと手を伸ばし、凱の頬に触れた。
「凱、今すごく深緑色ですよ。大丈夫、周りの物は動いていませんね」
「馬鹿野郎、んなこと言ってる場合か! もし打ち所が悪かったりしたら……。頼むから、無茶はすんな……」
 凱が怒鳴った。声がかすかに震えている。
「ごめんなさい。こんな形で凱を怖がらせるつもりはなかったのですが」
「わざとだったら許すもんか」
「ですよね」
 暁は、ばつが悪そうに「へへっ」と笑ってみせた。
 ――やっぱり、凱はバケモノなんかじゃない。
 凱のやさしさに触れて、暁はそう確信した。

「恐怖、発動せず」
 工場を出たところで、暁はノートに書いた。
 帰り道、自転車を漕ぎながら、凱が言った。
「お前、コウモリとか怖がるんだな」
「あんな至近距離で出たら、誰でも驚きますよ」
「俺を盾にして」
「だって、そこに凱がいたので」
「……そうか」
 凱は、それだけ言った。でも、少しだけ、口元が緩んでいた気がした。自分が誰かの盾になれた、という喜びだろうか。たしかに自転車のライトよりも明るい、ホタルのような小さくて鮮やかな黄色が、じんわりと凱から滲み出ていた。

   *

 梅雨が明けると、とたんに肌を刺すようなジリジリとした日差しが町に降り注いだ。東京の夏と比べて、異常発生しているのではないかと思うほどに、セミの鳴き声がけたたましく響き渡っている。
 いつもの踊り場で、暁はハンディーファンを片手に凱に尋ねた。
「凱は、夏休みはどこか行くんですか?」
 凱は気だるそうに下敷きを仰ぎながら、「特に予定はない」と答えた。凱の首筋を、汗の一筋がゆっくりと下りていく。鎖骨のくぼみで止まり、シャツに吸われて、薄いシミになって広がった。暁は、その軌跡を目で追ってしまった自分に気づいて、慌てて視線を散らした。
「も、もしよかったら、夏休みも検証を続けませんか?」
「時間はあるが、次は何をするんだ?」
「次は、喜び、ですかね」
「……喜んだことなんて、久しくないな」
 凱は少し視線を落とした。
「だから一緒に、試してみましょう。夏休みなんですから」
 暁はそんな凱をのぞき込むように見て、微笑んだ。

 夏休みが始まってすぐ、暁は比較的栄えている隣町の駅に凱を呼び出した。改札前の日陰で待っていると、ぴっちりとした白のタンクトップにグレーの半袖パーカーを羽織り、紺色の七分丈のパンツを着た凱が姿を現した。
 この間の肝試しは夜だったので、凱の私服をきちんと見たのは初めてだった。タイトなタンクトップが筋肉質な体つきを強調し、高身長も合わさって改めて存在感を放っていることを実感する。東京にいたら、モデルとしてスカウトされてもおかしくないスタイルだ。
 暁に気づいた凱は、小走りで近づいてきた。
「悪い、待たせたか」
「いえ、大丈夫ですよ」
「そうか。それで、今日はどこに行くんだ?」
「感情を出すことが大切ですからね。今言ったら台無しです」
 暁はまた少し意地悪そうに笑ってみせた。
 次の検証が「喜び」であることを覚えている凱は、どことなくいつもより高揚しているように見える。それを押し込めようとしている姿が、暁にとってはたまらなく可愛く感じた。
「今日の検証は、ここでやります」
 暁が足を止めたのは、町では有名な広いテラスが自慢のカフェだった。
「ここは……」
 凱の言葉は少なかった。
「調べたら、ここのカフェに新作のパフェがあるらしくて」
「……」
「ダメですか?」
「……ラブーケ」
「え?」
 あまりに小さな凱の声に、暁は思わず聞き直した。
 凱は蚊の鳴くような小さな声で、「ルビーフルール・ピーチメロウ・バニラブーケパフェ……」と吐き出した。
 赤面した凱は、はっ、として口元を手で覆い隠し、うつむいた。
「ずっと気になってたけど、一人じゃ絶対に来れなかったから……」
 少し驚いた暁は、照れを隠しきれていない凱と服装とのギャップにたまらない愛おしさを感じた。
「奢りますよ」
 暁は、追い打ちをかけた。
「……え、何で」
「今日は僕が誘ったんで」
「いや……」
「こういうときは素直に気持ちを受け取るべきです。この間は心配かけちゃいましたしね」
 暁は頭の後ろをさすって笑いながら、高まる気持ちを隠そうとした。
「あ、ただ、もしものときに迷惑をかけてはいけないので、店内ではなくテラスで食べますからね」
 凱は、小刻みにうなずきながら「うん」と答えた。
 席に着くと、周りには青々としてきちんと刈り揃えられた芝生、その先には海の絶景が広がっていた。遠くで犬を走らせる家族連れの笑い声が聞こえてくる。海岸から吹く風が蒸し暑さを幾分か流してくれて、磯の香りが心地よい。
 スイーツが人気のカフェとあって、店内は女の子が多く、テラス席はカップルが目立った。
 暁が新作のパフェとアイスコーヒーを二つずつ頼むと、凱が周囲を見回してから肩を落とした。
「やっぱり一人じゃ絶対に無理だった。カップルが多すぎないか」
 暁はくすっと笑い、風の心地よさに身を委ねた。
 しばらくの静寂のあと、凱がおもむろに話し始めた。
「本当に、怖かったんだ。こないだお前が転んだとき。あんなに感情が出たのは何年ぶりかってくらいだった。また俺のせいで、今度はお前を傷つけてしまうんじゃないかって。でも、そんなこと考えている余裕なんかなくて」
「凱……」
「お前が目を覚ましてくれて、何も起きていないことに気がついて、安心できたんだ。だから、この検証で何かが分かればいいなって、今はそう思ってる」
 暁は、凱の胸の奥で小さな灯りがともった気がした。ずっと固く閉ざされていた扉の、その隙間からほんのわずかに光が漏れた、そんな感覚だった。
「そうですね」と声に出すのがやっとだった。余計な言葉を重ねれば、その光はまた埋もれてしまうような気がして。代わりに、手のひらの中でそっと包み込むように、その言葉を受け止めた。じんわりと暁の胸の底を温めていく、静かな喜びの熱を感じた。

「お待たせしました。アイスコーヒーと、ルビーフルール・ピーチメロウ・バニラブーケパフェがお二つになります。ごゆっくりどうぞ」
 店員がパフェをテーブルに置いた瞬間、凱の色が変わった。
 黄緑が基調だった色が急速に黄色に染まった。今までで一番明るい、蛍光ペンのようなはっきりと明るい黄色。
 透明なピーチジュレや、ベリーソースのかかったクランブルなどの層が、グラスの側面を鮮やかに彩っている。その頂には、薄く切った白桃がバラのように巻かれ、バニラアイスに華を添えていた。その完成されたビジュアルに、凱は「うおっ」と小さな声を出して身を乗り出しかけたが、すぐに背を伸ばして、ふぅ、と小さく息をついた。明らかに目を引かれているが、平静さを装っているのが暁には可愛く見え、つい意地悪を言いたくなる。
「凱」
「なんだ」
「今、すごく黄色です」
「見るな」
「見えちゃうんで」
「だったら、言うな」
 凱は渋い顔をしながらも、スプーンを取って、ベリーソースのかかったバニラアイスを口に運んだ。凱の眉が、ほんの少しだけ柔らかく下がる。
「……うま」
 ぽつり、と凱がこぼした。
 暁は、自分のスプーンを動かしながら、それを見ていた。
 ――なんてかわいい顔をするんだ、この人は。
 シャープな顔立ち、筋肉のついた腕、存在感のある身長。初めて会った日は、全身が近寄りがたい壁のようだった。でも今、甘いパフェを食べて、ほんの少しだけ口元を緩ませている凱は、その壁が一瞬、透けて見えるようだった。内側にずっと抑え込んできた「喜び」という感情が、ちゃんと表れている。それを、暁は今、目の前で見ていた。それがとてもかけがえのない大切なものだと、凱が気づく日はくるのだろうか。いや、気づかせたい。
 暁はスマホを取り出して、そっとメモを取った。
「喜び、発動せず」
 その下に、もう一行、書き足した。
「凱、甘いものが大好き」

 書いてから、暁はふと、テーブルの端に目を移した。卓上に置いてあったはずの小さなメニュー立てが、ぱたりと倒れていることに気づいた。いつの間に。風だったかもしれない。手が触れたのかもしれない。
 暁は、メモを書き換えなかった。代わりに、心の中にだけ、もう一言を付け足した。
 ――喜び、発動せず。たぶん。

 パフェのグラスがすっかり空になり、アイスコーヒーのストローに口をつけていた凱に、暁は話しかけた。
「今のところ順調に検証できていますね」
「そうだな。次はどうするんだ」
「そうですね、哀しみの感情を試してみたいと思っています」
「哀しみ、か」
「はい。泣くほど心が揺さぶられたら、それに共鳴して何か反応が起こるかもしれません」
「そんなに泣く自信はないんだが」
「結構泣けるって、数年前に話題になった映画があるんですよ。映画館でも感動系の作品はやっていますが、もし力が発動してしまったら周りに迷惑がかかっちゃうので。うちにDVDがあるので、夏休みが終わったら、学校で津田先生にパソコンを貸してもらいましょう」
 凱はしばらく考え込み、ゆっくりと口を開いた。
「……うち、来るか?」
「え……」
 ふいを突かれた暁の手が反射的に動き、持っていたストローが氷を動かして涼やかな音を立てた。
「凱の家に?」
「ああ」
「大丈夫なんですか」
「俺んち、子供のときに父親が病気で死んじゃってさ、今は母親と二人で住んでるんだ。母親は仕事で家を空けることが多いから」
 凱は淡々と言った。暁は、凱に合わせて平静を気取った。
「じゃあ、持って行きますね。次の土曜日でどうですか?」
「大丈夫だ」
 凱はそれだけ答えた。暁は、湿った指でスマホのカレンダーに予定を打ち込んだ。

   *

 土曜日の午後、暁は凱の家を訪ねた。
 暁の家から自転車で十分ほど、町の中心地から橋を渡って少し坂を上った先の、山道に入る手前。木立に半ば隠れるように建つ、少し古いアパートがあった。二階の角部屋の、ドアの前に立つ。セミの鳴き声だけが響いていた。
 暁はインターホンを押した。
 少しして、ドアが開いた。タンクトップ姿の凱が前のめりになりながら、「よう」と素っ気ない声で出迎えた。室内着なのか、ルーズなタンクトップの胸元から割れた腹筋がちらりと見える。
「お、お邪魔します」
「おう」
 凱が一歩下がった。玄関は大人二人が並んで立つのがやっとの広さだが、パンプスやスニーカー、サンダルが整然と並んでいる。暁は空いているスペースに靴を脱いで揃えた。顔を上げると、生活感のある六畳ほどのダイニングキッチンが目に入った。建物自体は古いが、室内は整理されている。
「こっち」
 凱が、奥の左側の部屋に案内した。
 凱の部屋は、ダイニングキッチンと同じくらいの広さの和室だった。勉強机と、ベッドと、低いテーブル。それと、テレビボードの上に、小さなテレビが置かれていた。ベッドに面した壁には、ハンガーに吊されたブレザーやワイシャツが掛けられている。物は少なく、整頓されすぎているくらいだった。
「結構、綺麗にしているんですね」
「そうか? 普通だろ」と凱は返しながら、テーブルの奥側に座った。
 部屋を見回す暁は、真横にある勉強机に置かれていた物に目が行った。
 犬のぬいぐるみのような物。頭と胴体は茶色く、顎や足の部分だけが白い柴犬が、地面に伏せた姿をしていた。結構年季が入っている。可愛い、と思った。
「何だ」
 凱は暁の視線に気づいてその先を追うと、すぐに勢いよく飛び上がった。
「ちが、それは……」
「凱はこういうのが好きなんですね」
 そう言って暁が犬を手に取るのと、凱がテーブルにすねをぶつけて大きな音がするのは、ほぼ同時だった。
 凱は苦悶の表情を浮かべながらベッドに倒れ込んだ。
「凱、犬が好きなんですか?」
「違う。昔から使っているペンケースだ。深い意味はない。あんまり触るな」
 膝立ちでベッドを進んでテーブルを迂回した凱は、長い手を伸ばして暁からペンケースを取り上げた。その表情は、少しだけ照れているように見える。
「甘いものに、犬のペンケース。凱って、意外と可愛い物が好きなんですね」
 暁がまたニヤリと笑うと、凱はペンケースをポケットに突っ込んでから立ち上がり、少し乱暴にテレビのリモコンを手に取った。
「貸せよ、DVD」
 暁に背を向けてカーテンを閉めながら強引に話を切り替えようとする凱を見て、暁は少しの間だけ、検証のことを頭の隅に追いやった。

 暁が持ってきたのは、一匹のオオカミとシカを描いたアニメーション映画だった。一匹だけ全身真っ黒で、群れから離れて暮らすオオカミは、ある冬の日、罠にかかった年老いたシカと遭遇する。本来ならシカはオオカミに捕食される立場だが、そのオオカミは牙をむかずに罠の縄をかみ切った。それから二匹の奇妙な旅が始まる。二匹は雪道をひたすら歩き続け、夜になると互いの背中を預けて眠りについた。雪解けのころ、ようやく南の谷にたどり着くと、シカは静かに脚を折って座り込んだ。もう、立てなかった。オオカミは谷を駆け下り、満開の花の中を走り回り、シカの元に戻って隣に伏せた。オオカミから、花の香りが届く。シカの呼吸が、だんだん浅くなる。オオカミは、初めて声を上げて鳴いた。森じゅうに響く、長い、長い遠吠えだった。
 エンドロールを眺めながら、凱とテーブルを挟んで座った暁は、とても哀しい映画だと感じた。オオカミとシカは、言葉がなくても通じ合えた。春になったら花が見たいというシカの最期の思いに、オオカミが無言で寄り添った。二匹は心が通じ合えたからこそ、その別れは、深く、響くものになった。近いうちにシカに死が訪れることを悟っていたオオカミが、いざその瞬間を迎えると、抑えていた感情を溢れさせる。そのシーンに、暁の胸は締め付けられた。
 ふと凱を見ると――凱は泣いていた。一筋の涙が頬を伝った跡が、薄暗い部屋でも画面の明かりで分かった。唇がかすかに震えてこわばっている。
 凱の色は、青というには濃すぎる、紺色に近い色をしていた。強い哀しみの色。でも、机の上のリモコンや勉強机の本は、動かなかった。明かりのともっていない部屋の蛍光灯も、そのままだ。
 少しの静寂のあと、暁は「何も、起きなかったですね」とつぶやいた。
 凱はホーム画面に戻ったテレビから視線を移すことなく、ぽつりとこぼした。
「シカに、オオカミの遠吠えは届いたと思うか?」
「はい、きっと届いたと思います」
「そうか」
 薄暗い部屋に、クーラーの作動音だけが伝わっていた。

   *

 凱がカーテンを開くと、窓の縁からのぞく山の稜線が、金色の輪郭線を引かれたように浮かび上がっていた。空は蜜柑色にとろけていた。
 暁はノートに書き込んだ。
「哀しみ、発動せず」
「なんとなく、そうだと思った」
 凱はそう言うと、麦茶の入ったグラスをあおってからベッドに仰向けになり、両手を頭の後ろで組んだ。
「はい、確認できました。残す検証も、あと少しですね」
「そうだな」
 暁は、横になっている凱の顔をじっと見た。凱は、ぼうっと天井を眺めている。
 案外、睫毛が長いんだな、と暁は思った。こうして改めて凱を見ていると、顔の細かいところがいちいち目に入ってきた。日に焼けた肌、手入れされた眉、切れ長の目、すっと通った鼻筋、雄々しい首筋。日暮れのまだ少し明るい窓から差し込む光が、凱の湿った唇を光らせている。
 その視線を感じ、「なんだ?」という顔をした凱に、暁はゆっくりと近寄り、平坦な声で言った。

 ――キス、してみますか?