その色は、ただ君のために

 暁はそれからも、放課後は美術室で絵を描いた。
 筆を手に取って、そのとき印象に残っている色を、そのまま紙の上に置いていく。目の前にモチーフを置いて描くよりも、視界に残った感情の色を絵の具で再現していくのが、暁のやり方だった。
 その日も、いつものように一人で絵を描いていた暁は、扉が開く音に気づいて顔を上げた。

 黒瀬凱が、そこに立っていた。

「あ、黒瀬さん」
 凱は驚いたように、一瞬動きを止めた。目がわずかに見開かれる。それから、すぐに眉を寄せた。
「……何でお前がここにいる」
「美術室、使わせてもらってて。絵を描いていました」
「そうか」
 凱はそれだけ言って、一歩下がろうとした。
 暁はとっさに声をかけた。
「あの、ちょっと絵を見てもらえませんか」
 凱が、ぴたりと止まった。
「……絵?」
「はい」
「俺が?」
「僕、自分が描いた絵を誰かに見てもらったことがあまりなくて」
 凱は、しばらく暁を見ていた。それから、しぶしぶといった感じで中に入ってきた。扉を閉める。美術室の空気が、少しだけ張り詰める。
 暁は、イーゼルに立てかけていたスケッチブックを少し斜めに傾けた。
 真っ白なスケッチブック全体に、淡いオレンジと菜の花のように薄い黄色が染まり、わずかに新緑のような萌黄色(もえぎいろ)も溶け込んでいる。そして、その世界の左下の部分に、青紫のインクを溢したような色が一つ、滲んでいた。
 暁がこの一か月、教室で見てきた色を、全部重ねた一枚だった。具体的な物や風景ではない、他人に見せるにはあまりに奔放で抽象的な出来だとはわかっていた。
 凱は腕を組んで、しばらくそれを眺めた。
 暁の手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
「黒瀬さんは、どんなイメージを思い浮かべますか」
 暁は、静かに聞いた。
 凱はじっと絵を見たあと、ぼそりと言った。
「……悪いが、絵のことは詳しくわからない」
「そうですか」と、暁は軽く笑った。
 そう言いながら、胸の底に、冷たい石が落ちるのを感じた。
 期待していたわけではない。わかってくれる人間のほうが少ないのは、もう何度も経験していた。小学生のころに、友達に自分の絵を「これは嬉しい気持ち」「これは哀しい気持ち」と説明して、変な顔をされたことがある。誰にも通じない。それが当たり前だ。もう慣れた。

 ――そのはずだった。

 なのに、凱に「わからない」と言われた瞬間、なぜか自分が路傍にたたずむ石のような気分になった。
 暁には凱の色が見えるから、凱のことを、少しだけ知っている。凱が感情を押し込めていること、その下に哀しみがあること、鮫島には心を許していること。暁は知っている。
 でも、それは一方通行なのだ。
 暁のことは、凱に何一つ伝わっていない。この絵を通しても、言葉を通しても。暁は凱にとって、ただの「変わったヤツ」でしかない。
「筆、片付けますね。すみません、お手数をおかけしました」
 暁は、できるだけ平坦な声で言った。
 凱は何か言いかけて、やめた。代わりに、部屋の隅にあった古い椅子を一脚引き寄せて、窓際に座った。
「帰らないんですか」と暁が聞いた。
「……まだ、早い」
 それだけ言って、凱は机にもたれた。
 暁は、鮫島から聞いた凱の家の事情が頭をよぎった。

 二人で黙ったまま、美術室にいた。転がった石の近くに、もう一つ、石が添えられたような感覚。
 暁はまた筆を取った。たくさんの水で薄めた、限りなく透明に近い、淡い黄緑を、紙の端に小さく置いた。ほんの少しの、やすらぎの色。今、この部屋に凱がいることで、暁の中にわずかに滲んだ色をイメージして染めた。
 凱は窓の外を見ていた。その色は、あのダークブルー。それでも、初めて見たときよりも幾分か淡くなっていた。
 夕方の光が、ゆっくりと部屋の中を這った。時計の針の音だけが、静かに鳴っていた。

   *

「帰る」
 凱が立ち上がったのは、日が赤く傾いたころだった。
 暁も「僕も帰ります」と合わせて、筆を洗った。スケッチブックを閉じて、トートバッグに入れる。
 二人で、美術室を出た。
 廊下は薄暗く、どこか人恋しい静けさに満ちていた。階段を下りながら、暁はさりげなく聞いた。
「黒瀬さん、家、どっち方面ですか」
「駅の南」
「僕も一緒の方向です」
「そうか」
 凱はそれだけ言って、先に歩いていった。暁は少し距離を置いて、あとをついていった。
 並んで歩くではなく、暁が凱の横に何となくいる、という距離感だった。凱は暁を待たないし、追い払いもしない。そのままの速度で歩いていく。暁は、そのちょうど半歩後ろ、あるいは半歩横、というような位置を、自分で選んで歩いていた。
 校門を出ると、アスファルトが夕方の熱を残して、ほんのりと温かさを感じた。どこかで犬が吠え、スーパーの袋をカゴに載せた自転車がすれ違った。
「黒瀬さんは、部活は入ってないんですか」
 暁が聞くと、凱は前を見たまま答えた。
「やってない」
「中学のときは?」
「バスケ」
「バスケ部」と暁は繰り返した。
「背が高くて、イメージ通りですね」
「途中で辞めた」
「なんで辞めたんですか」
 暁は続けて聞いた。
 凱は、答えなかった。
 沈黙が落ちた。暁は、聞いてはいけなかったのかもしれない、と少し後悔した。
 目の前の踏切が、警報音を鳴らし始めた。
 カンカンカンカン、と、金属的な音が、夕方の空気を等間隔に叩いた。遮断機がゆっくりと下りてくる。二人はちょうど、踏切の手前で足を止めた。
 凱の色が、変わった。
 紫を含んだダークブルーが、哀しみの青色に染まっていった。濃くはない。淡い、水で薄めたような青。でも、確かにそこにあった。
 暁は何も言わなかった。
 凱は踏切の向こう側を見つめていた。遠くから電車の音が聞こえてくる。ゴオォ、と低い音が、徐々に近づいてきた。通過する瞬間の大きな音とともに風圧で暁の髪が乱れ、思わず頭を押さえた。
 電車が通り過ぎた。
 遮断機が上がる。
 凱は、何も言わずに歩き始めた。その後ろ姿は、いつものダークブルーに戻っていた。
 それから分かれ道に来るまで、二人は一言も喋らなかった。
「俺、こっちだから」
 凱がそう言って、角を曲がった。暁は「はい」と小さく声を出した。「また明日」と声を続けかけて、やめた。
 暁は、凱の背中をしばらく見ていた。
 ――哀しい色だったな。
 暁は家までの残りの道を、ゆっくりと歩いた。頭の中で、踏切の警報音がまだ鳴っていた。

   *

 翌日の昼、暁はいつもの踊り場に向かった。
 凱はいた。いつもの場所に。
「こんにちは」
 暁が言うと、凱は無言でうなずいた。それだけだった。昨日の帰り道のことは、何も口にしなかった。ただ、いつものように暁が隣に座れるスペースを空けて座っていてくれたことが、暁にとっては嬉しかった。
 暁は、決めた。
 今日、打ち明けよう、と。
 自分の力のこと。自分に、彼の色が見えていることを。初日から、ずっと。
 それは、父親に禁忌として強く言われてきた暁にとって、生まれて初めてのことだった。今まで誰にも言ったことがなかった。でも、凱には話したいと思った。信じてもらえないかもしれない。「気持ち悪い」と言われるかもしれない。ただ、凱にこれ以上黙ったままでいるのは嫌だという気持ちが勝っていた。
 ふたを閉じたまましばらく持っていた弁当箱を脇に置き、暁は切り出した。
「黒瀬さん、いきなり申し訳ないんですけど、ちょっと、変なことを言ってもいいですか」
「なんだ」
 暁は一つ息を吸い込んだ。吐き出そうとした声はうまく形にならず、代わりに乾いた唾液がこくりと音を立てて喉を滑り落ちていった。その音が、やけに大きく耳の奥で響く。半開きの唇が、音もなく何かを形作ろうとしては、また閉じる。わずかに伏せた視線のまま目をぎゅっと閉じてから、暁は顔を上げて凱を正面に捉えた。
「僕、人の感情が、色で見えるんです」
 パンをかじろうとしていた凱の手が、ぴたりと止まった。
「色で見える……?」
「うちの家系に、代々、長男だけに宿る力で。物心がついたときからそうでした。人の形の周りに、感情の色がうっすらと重なって見えるんです。簡単に言うと、黄色が喜び、青が哀しみ、紫が嫌悪、みたいな感じで」
 暁は、一気に説明した。言葉を止めたら、言えなくなる気がした。
「色が濃いと感情が強い状態で、逆に淡いと弱いことを表しています。黒は悪意や敵意を表しています」
 凱はじっと暁を見ていた。
「冗談、じゃないのか」
「冗談じゃないです」
 いつになく真剣なまなざしの暁に、凱は息を呑んだ。
「黒瀬さん、今、バケツのような水色をしています。理解しようとしていながら、整理ができずに困惑している驚きの色です」
 凱の目が、わずかに見開かれた。
「初めて教室で黒瀬さんを見たとき、ダークブルーに見えました。濃い紫色と青が混ざった、深い色。嫌悪と哀しみが一緒になっていて、何かをふたで押し込めているような、そんな色でした」
「……」
「あと、初日に教室で僕に話しかけられて怒ったとき。黒瀬さんの色は、血みたいに濁った赤になっていました。でも敵意を表す黒色ではなかった。だから、僕を憎んでるわけじゃないんだなって思って、それで、気になって話し続けてしまいました」
 凱は、無言だった。
 暁は、凱の反応が怖かった。覚悟はしていた。
 でも、凱の色は暁が予期していたものとは違う、淡い、蜜柑のような色に変わった。
 オレンジに黄色が少し混じった、柔らかい色。警戒と期待の間に、嬉しさが含まれている色だ。でも、凱は表情一つ変えていない。それが、逆に暁を困惑させた。
「……知られていたのか」
 凱は、ようやくそう言った。声は相変わらず低かった。でも、怒っているわけではない。
「ごめんなさい。黙っているのが、ずるいと思って」
「謝ることじゃない」
「えっ」
「……お前がずるいんじゃない。俺が、見透かされていたってだけだ」
 凱はそう言って、目を伏せた。
 ほんのわずかな黄色が、少しだけ強くなった。
 押し込めている感情を、見られていた。自分が何かを抱えていることを、気づかれていた。その事実が、凱にとって、嫌悪ではなく、嬉しさを呼んでいた。それを、暁は色から感じ取った。
「黒瀬さん」
「なんだ」
「僕に、話してくれませんか。黒瀬さんの、色の理由を」
 凱はしばらく黙っていた。
 昼休みの終わりを告げる予鈴が、遠くで鳴り始めた。生徒たちの廊下を走る足音が、踊り場まで聞こえてきた。
「放課後、美術室に行く。そこで」
 暁は、うなずいた。
 凱の色は、まだ少しだけ明るかった。

   *

 放課後、美術室に凱が現れた。
 暁は先に来ていて、イーゼルも片付けて、ただ椅子に座って待っていた。凱は扉を閉めて、内側から鍵をかけた。
「念のためだ」
「はい」
 凱は、暁の向かいの椅子に、少し離れて座った。じっと床を見る。それから、ゆっくり話し始めた。
「俺にも、変な力がある。子供のころからだ」
 暁は、黙って聞いた。
「小学生のころから、感情が高ぶると、身の回りのものが勝手に動いたり壊れたりする」
「……」
「最初に自覚したのは、小学二年のときだ。休み時間に、持っていたビニールボールをクラスメイトに取られた。返してって言ったのに、返してくれなくて、嫌な気持ちになった。そしたら、そのボールが、パンッって、いきなり弾けたんだ」
 凱は、自嘲的な笑みを浮かべて息を漏らした。色は笑っていない。青が濃くなっていく。
「そのクラスメイトは、驚いて泣いていた。俺が何かした訳でもないのに、周りのクラスメイトも、みんな俺を見た。怖いものでも見るかのような顔を、今でも覚えてる」
 暁は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「それからも俺の周りの物が、触ってもいないのに突然揺れたり壊れたりすることが何度かあった。中学生のとき、クラスでいじめがあった。教室の後ろで一人の男を三人が囲んで、最初はじゃれ合いのような感じだったけど、そのうち一方的に殴ったり蹴ったり。周りにいるヤツらも、遠巻きで眺めているだけだった。俺はそれを見て、無性に腹が立った。止めに入ろうと立ち上がった瞬間、いじめていたヤツの近くにあった水槽が、いきなり爆発したように割れた」
「水槽……」
「ガラスの破片がそいつらに飛んで、顔や腕に刺さって体のあちこちから血が出ていた。水浸しになった教室に悲鳴が上がって、教師たちが駆けつけた。担任は水槽が古くなっていて壊れたと説明したが、小学校からの同級生たちが話を広げて、みんなの間で、あれは俺のせいだってウワサが一気に広まった」
「もしかして、それで、バスケも」
「ああ。他校との練習試合中に、相手が得点を一番取っていた先輩の足を執拗に踏んだりわざとぶつかって転ばせたりしたから、ついカッとなった。そしたら、体育館の照明が一気に割れてガラスが降った。相手の白いユニフォームが所々赤く染まっていく光景を、俺はベンチでただ、ぼうっと眺めていた。はっ、となった時にはもう遅かった。気づいたら、先輩も頭から血を流していた。やってしまったと思った。これ以上人を傷つけるくらいなら、もう全部やめた方がいいと思ったんだ」
 凱の色は、青に続いて紫が濃くなっていった。嫌悪の色。でも、他人への嫌悪ではない。自分自身への嫌悪だと、暁にはわかった。
「みんな、俺を怖がるようになった。『バケモノ』って、陰で言われていたのも知っていた。だから俺は、自分から近づくのをやめて、感情を出さないことにした。怒らない。喜ばない。何も感じない。感情を動かさなきゃ、物は壊れない。それだけだ」
 暁は、しばらく何も言えなかった。ただ、他人には理解されない、持ちたくもない不思議な力を持ってしまった苦悩は、痛いほどわかった。
「黒瀬さん」
 しばらくの静寂のあと、暁は、ようやく口を開いた。
「それ、なんとかならないか、一緒に探してみませんか」
 凱が固まった。
「……なに、言ってんだ?」
「黒瀬さんの力を、コントロールする方法です。どうして物が動いたり壊れたりするのか。どういうときに出て、どういうときは出ないのか。僕、色で黒瀬さんの感情の動きがわかるので、一緒に検証できると思うんです」
「そんなの、今更意味ないだろ」
「わかんないじゃないですか、やってみないと。やってみる価値は、あると思います」
 凱は、黙っていた。
 その色は、揺れていた。混乱、迷い、そして――ほんのわずかに、淡い黄色。
 暁には、その一番奥の淡い黄色が見えた。凱自身は、それに気づいていないかもしれない。
「やっぱり……お前って変わったヤツだな」
 凱は、ぼそりと言った。
 転校初日に踊り場で言われたものとは、少しだけ違う響きをしていた。
「よく言われます」と暁は笑った。
「黒瀬さん、そうしたら……」
「凱」
「え?」
「凱でいい」
 窓から差し込む茜色の光のせいか、目線をそらした凱の頬は少し赤らんで見えた。
「はい。よろしくです、凱」
 凱は、微笑む暁を見た。それからすぐに目線をずらし、小さく、ほんとうに小さく、うなずいた。
 ほんのわずかに、淡い黄色が濃くなった。暁はそれを言わずに、自分の胸の中にそっとしまった。

   *

 ジメジメとした生暖かい空気に包まれた美術室の窓は、雨粒で静かに音を立てていた。
 凱と暁が放課後に美術室に集まるのは、もう当たり前のこととなっていた。暁はスケッチブックの代わりにノートを広げる。凱は向かいの椅子に座る。暁が口火を切った。
「まず、基本的なことから確認します」
 暁はシャープペンを手に取った。
「人間の基本感情は、六つあると言われています。喜び、哀しみ、驚き、恐怖、嫌悪、怒りです。他の感情、例えば後悔とか、優越感とか、軽蔑とか、そういうのは全部、この六つの基本感情の組み合わせだと考えられています」
 ノートに書き出した六つの感情を、凱は神妙な面持ちで眺めた。
「六つ、か」
「この六つのうち、どれで凱の力が発動するのか、一つずつ調べていきたいんです」
「怒りだろ、どうせ」
「そう決めつけないで。全部試してみたいんです」
 凱は少しうんざりするような目で暁を見た。だが、凱の色には、ほんの少しだけ、淡い黄色が混じっていた。本人は気づいていない。「どうせ結果はわかっている」という諦めにも似た嫌悪の顔をしているが、本心は、この時間を嫌がっていない。
「まずは簡単なところからいきましょうか」
「何から始めるんだ?」
「凱の好きな食べ物と嫌いな食べ物を教えてください」
 凱は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「それに何の意味があるんだ?」
「いいから。これも大事な検証の一環です。はい、好きな食べ物は?」
 ペースはすっかり暁が主導していた。
「……オムライス」
「他には?」
「パフェとか、甘いもんなら何でも……」
 暁は思わず「ぷっ」と吹き出した。
「何だよ、人に言わせておいて」と、凱は顔を横に向けた。
「いえ、すみません。凱の見た目からはイメージできない、結構かわいいものが出てきたので」
「悪かったな」
「いえいえ、こちらこそすみません」
 暁は思わず上がりそうになる口角を必死で押さえながらノートにメモを取った。
「次に、嫌いな食べ物は何ですか?」
「あまりないが……パクチーだけは絶対だめだ」
「何でです?」
「何でって……あんなカメムシの臭いがした草、絶対無理だろ」
「そうですか、わかりました」
 暁はちらりと凱を見て意地悪そうな笑みを浮かべ、メモを取った。
「そうですね。そうしたら、検証は明日から始めましょうか」
 暁はノートを閉じてかばんにしまい、席を立った。
「一体何をやる気なんだよ」
「それは明日のお楽しみです。帰りましょう、凱」
 暁は傘を手に取り、くるりと凱の方を向いて笑う。凱は観念したように小さく息を吐きながら、「わかった」と答えた。