その色は、ただ君のために

 振り返ると、暁の喉が声にならない音を立てた。
 そこにいたのは、津田先生ではなかった。
 どのクラスメイトの男子より一回りも大きな、見たことのない男。肩幅がワイシャツを内側からぴんと張り、太い首筋がのぞく。身体のすべてから見えない圧を出していた。
 その男の肩の奥から、二つの顔がニヤニヤとのぞいた。
 見覚えのある顔だった。
 忘れられるはずもなかった――こないだ、この美術室で、自分の襟首を掴み上げて押しつけた、あの二人だった。
 二人のうちの一人が、後ろ手でゆっくりと戸を閉め、錠の落ちる小さな金属音を立てた。
 男は、もったいぶった仕草で片手の指を一本ずつ、ポキ、ポキと鳴らしていく。
「俺の部活の後輩によ」
 言葉の頭が、舌打ち混じりに歪む。
「ケガさせてくれたんだって?」
 男の口の端が、笑みの形に吊り上がった。挑むような、明らかに楽しんでいる笑い方だった。
 暁の身体が、ひゅっ、と内側から冷えていく。
「先輩、こいつです」
「やっちゃってください!」
 二人が男の威を借りて声を上げる。
 その瞬間。
 目の前の景色が、ふっ、と暗くなった。
 凱の広い背中が、暁の視界を覆った。
 自分と男の間に、声もなく、滑り込むように立っていた。
 凱の背中が、ほんの少し、深く呼吸した。
 肩甲骨のあたりが、シャツの上から、わずかに沈んで、戻る。
「……やったのは、俺だ」
 低い、低い、声だった。地の底の方から引きずり出してきたみたいな、抑えた声。
「こいつは関係ない。手を出すな」
 暁は、そのとき、自分でも気づかないうちに、凱の背に向かって、半歩、踏み出していた。
 でも、凱は、ほんのわずかに体を傾けて、それを、自分の影の中に押し戻した。
 まるで、それ以上前に出ることを許さないと言うように。
「へえ」
 男が、目を細める。
「お前、強いらしいじゃん」
 首を、左右に、ゴキ、と鳴らす。
「ちょっと、手合わせ願うわ」
 言うが早いか、男の右肩が、ぐっ、と引かれた。
 拳が来る、と分かった。
 暁は、息を呑む。
 けれども、凱は動かなかった。
 よけもせず。
 腕も上げず。
 ただ、その場に、まっすぐに立っていた。
 鈍い、嫌な音がした。
 拳が、凱の頬の高い骨に、まともに入った。
 凱の顔が、ぐにゃりと歪み、衝撃で頭が大きくのけぞる。
 それでも、足の裏は、床から一ミリも離れなかった。まるで、そこから根を張ってしまったかのように。
 膝も折らない。
 半歩も、退かない。
「……は?」
 男の声が、少しだけ調子を狂わせた。
「なんで何もしてこねぇの?」
 眉の片方を、苛立ったように吊り上げる。
「なめてんのか、お前」
 再び、拳が振られた。
 今度は反対側の頬。
 続けて、腹。
 くぐもった呼気が、凱の口から漏れた。
 それでも、凱は、動かない。
 膝を曲げない。
 歯を食いしばっている。それだけが唯一、暁に見えていた抵抗だった。
 腰のあたりに、男の足が叩き込まれる。
 凱の身体が、ほんのわずかに、左にぶれる。
 そしてすぐに戻る。
 暁の膝から、力が抜けていく。
「もう、やめてください……」
 声が、震えた。
 喉が、ひりついた。
「やめて、ください、もう、お願いですから」
 けれども、男の腕は止まらない。
 止まらないどころか、煽られるように、勢いを増していく。
 凱の鼻の奥から、つう、と赤いものが流れた。
 口の端が切れて、唇が自分の血でぬらりと光った。
 なのに、凱はその手を一度も振り上げなかった。
 握り拳は、両脇に固く垂らされたままだった。
 その背中の輪郭を、暁は見ていた。赤いオーラが、滲んでいた。怒りの色だ。凱の肩から、腕の根元から、ふつふつと立ちのぼる、燃えるような赤。
 けれども、それを覆い隠すかのように、外側から、もっと深い青色が押し寄せてくる。哀しみの、青。まるで、内側で立ちあがろうとする赤い炎を、海のような青い水でひたすらに押さえこんでいるかのようだった。
 凱は自分自身を、必死に堪えている。
 その光景に、暁の足はもう、立っていられなかった。
「やめ……っ、お願い、します、お願い……」
 声が、嗚咽に近い何かに変わっていく。
「おらぁッ!」
 男の体が、大きくしなった。
 最後の一発が、凱の頬に、まっすぐ叩きこまれた。
 ぐらり、と。凱の身体が、ついに根の張ったその場所から剥がれた。
 後ろへ、ふいに重心を失って倒れこんでくる。
 暁は、避けることもできなかった。
 倒れてくる凱の背に押し倒されるように、自分の身体が、後ろの床に崩れる。
 冷たい床板の感触。そして、自分の太もものあたりに、ずしりと凱の頭が乗っかった。
 頭上から、男が吐き捨てる。
「二度とこいつらに手ぇ出すんじゃねえぞ、テメェ」
 乱暴な足音と、後輩たちのへつらうような笑い声。
 戸が、荒々しく開いて、閉じた。
 その後に残ったのは、西陽と、絵の具の匂いと、自分の荒い息の音だけだった。

   *

「凱……」
 声が、ようやく、喉を抜けた。
「凱、大丈夫ですか、凱っ……!」
 悲鳴のような、自分のものとは思えない声で、暁は呼んだ。
 太ももの上の頭は、重かった。鼻血の跡。切れた唇の端。瞼がわずかに震えて、ゆっくりと開いた。
「……大丈夫だ」
 しゃがれた、けれども、たしかに凱の声だった。
 暁の目から数粒の滴が漏れ、凱の頬の上に落ちた。
「……な、なんで、凱。なんで!!」
 暁の震えた声が、徐々に叫びのようになっていく。身体を小刻みに震わせて目を真っ赤にし、震える手を傷口の近くで迷わせた。
「なんで、やり返さなかったんですか」
 聞かずにはいられなかった。あんなに強いはずの、あんなに大きな背中の人が、どうして、ただの一発も返さなかったのか。
 凱は、少し目を閉じた。
 長い睫毛が、夕陽の中で震えた。
「……力をな」
 ぽつりと、声が落ちる。
「ちゃんと制御できずに、あいつらを傷つけた俺が悪いんだ」
 凱が薄く目を開いて、まっすぐに暁を見上げた。まだ、凱の瞳の奥には青が震えていた。
「だから今回は力が出ないように、感情を何とか押しとどめた」
 それからゆっくりと身体を起こし、痛みに耐えるように、ふらつきながら立ち上がった。凱の膝が震えている。
「お前が、ケガしないでよかった」
 凱は力なく微笑んだ。
 西陽が、凱の頬の血を橙色に染めた。

 暁も、その場にゆっくりと立ち上がった。身体の震えは止まらず、視線は床に落としたままだった。
「……バカじゃないですか?」
 暁は小さな声を溢した。
「え」
「どうして凱は、いつも自分を後回しにするんですか。凱がケガをしてるじゃないですか。凱がいつもいつも、傷ついているじゃないですか!」
 暁が顔を上げる。次から次へと溢れる涙が、頬を濡らし続けていた。
「俺は……」と凱は表情を曇らせる。
「一緒に凱の家で色を付けたとき、最後の一枚を塗り終えた凱はちゃんと笑っていたじゃないですか!」
 暁の叫びは大きくなり、自然と足が凱に近寄った。行き場を失った悔しさごと押し付けるように、震える両の拳で、凱の胸を何度も打った。その振動が伝わる度に、凱の中の水面がさざ波を立てていく。
「俺だって……」
「泊まらせてくれたとき、お世話になりますって言ったら、大げさだって笑ってくれたじゃないですか!」
 トン、トン、と弱々しい拳がぶつかるごとに、凱の中で徐々に大きな波が生まれていく。
「僕といたときに見せてくれた笑顔は、全部、全部偽物だったんですか!?」

 凪は、ついに壊れた。

「俺だって、お前といた時間が一番楽しかった!!」

 暁が、ぼやけた視界のまま仰ぐと、熱を持った凱の涙が、頬に筋を描きながら流れ落ちていくのが見えた。
「毎日の何でもない昼休みが、待ち遠しく思えた」
「……うん」
「ほんとはパフェよりも、お前と夏休みを過ごせたことが嬉しかった」
「うん」
「祭りのときのお前の浴衣姿が忘れらんねぇ」
「うん」
「俺の好きな甘いお菓子ばかり買ってきたことも、ほんとは嬉しかった」
「うん」
「ほんとは、ほんとは……」
 喉を震わせるしゃくり泣きが、静かな空間へ途切れなく響く。瞬きをするたび、大粒の涙が次々と零れ落ちていく。暁はそれを、すべてそのまま受け入れた。

「あかつきっ……お前のことが、愛おしくてたまらないんだ」

 顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、震えるように絞り出された声だった。
 凱の頬を、一筋、また一筋と、涙が伝っていく。それは堰を切ったというよりも、長く堰き止めてきた何かが、ようやく自分の重みに耐えきれず、こぼれ落ちていくようだった。普段は鋭く吊り上がっている目尻が、今はくしゃりと下がり、唇は言葉の続きを探すように何度も小さく震えている。あのダークブルーも、赤黒い炎も、今の凱には纏われていない。ただ、剥き出しの、何にも覆われていない凱が、そこにいた。
 ――あかつき。
 凱から、初めて名前を呼ばれた。
 その四文字が、耳から心臓まで、まっすぐに落ちていく。これまで「お前」としか呼ばれてこなかった分だけ、その響きは、暁の胸の中で何倍にも膨らんでいった。凱は今、確かに自分の名前を呼んだ。震える声で、涙の中で、自分だけを見て。
 気がつくと、暁の身体は動いていた。
 考えるよりも先に、足が床を蹴っていた。凱の胸の中へ、自分の身体ごと飛び込んだ。ワイシャツに頬を寄せると、薄い布越しに、凱の体温が伝わってきた。少し速い鼓動の音と、引きつるように上下する呼吸。生きている、と暁は思った。あの強気で、不器用で、やさしい凱が、確かにここで生きて、息をして、自分のために泣いている。
 ワイシャツの胸元を、暁はそっと握りしめた。指先に落ちる涙の冷たさと、凱の肌の温もりがひどくちぐはぐで、たまらなく愛おしかった。
「やっと――」
 暁の声は、凱の鼓動の音に溶けていく。
「やっと本当の凱に出逢えた気がする」
 頭上で、凱が小さく息を呑む気配がした。垂れ下がっていた手が、ゆっくりと持ち上がり、ためらいがちに、暁の背中に回される。最初は触れるか触れないかの距離で、それから、確かめるように、少しずつ力を込めて。
 その腕の中で温もりを感じながら、暁はゆっくりと目を閉じ、思った。
 ――今なら、言える。
 ずっと、ずっと胸の奥に閉じ込めてきた言葉。
 暁は、凱の胸から顔を見上げた。涙でぼやけた視界の中に、凱の顔が、間近に映る。睫毛にまだ涙の粒を残したまま、凱は、息を止めるようにして、暁を見つめ返していた。
「凱」
 名前を呼ぶ自分の声が、こんなにも頼りなく震えるなんて、知らなかった。

「僕もずっと、凱のことが好きでした」

 言ってしまうと、急に、世界の音が遠ざかった気がした。窓から吹く風の音も、遠くでカラスか何かが鳴く声も、何もかもが、薄い膜の向こう側へ退いていく。残ったのは、自分の鼓動と、凱の鼓動が、少しずつ重なりかけていく気配だけだった。
「ずっと、凱の隣にいたかった。検証のためだとか、力のことだとか、そんなのは全部、あとから自分につけていた言い訳で」
 暁の目尻から、溢れた涙がつうっと頬を伝った。
「本当はただ、凱のことが――好きだったんです」
 凱が、息を吸う。その小さな音さえ、はっきりと聞こえた。
 背中に回されていた凱の手が、ゆっくりと持ち上がり、暁の頬に触れた。大きな手だった。暁の頬の輪郭を確かめるように、骨ばった指の腹が辿っていく。涙の通った跡を、親指がそっと拭った。
 二人の視線が、絡んだまま、ほどけなかった。
 凱の瞳の奥で、何か言葉になりかけた感情が、揺れている。けれどそれは、結局、声にはならなかった。代わりに、凱の手が暁の頭を引き寄せ、額を自分の胸に触れさせた。
 そのまま、二人とも、しばらく動かなかった。互いの熱が、互いの肌に伝わる。
 凱の喉が、一度、小さく動いた。
「暁」
 また、名前を呼ばれた。今度は、震えていなかった。低く、けれど確かに自分のものとして、その音は暁の耳に届いた。
「目、閉じてくれるか」
 息が止まりそうになった。暁は、ぎゅっと目を瞑った。睫毛が震えて、まだ残っていた涙が、また一粒、頬を伝って落ちる。
 最初に感じたのは、額からそっと離れていく、凱の温度だった。それから、頬の上で、暁の輪郭を抱え直すように、凱の手のひらが添えられる。風が、二人の間を一度だけ吹き抜けた。
 二人の唇が、直にその温かみを交わらせた。
 それは、口づけというよりも、もっと臆病な、確かめるだけの触れ方だった。凱の唇は、思っていたよりもずっと柔らかく、そして、ほんの少しだけ、塩辛い味がした。涙の味だと気づいた瞬間、暁の胸の奥で、何かがほどけるように、温かいものが広がっていった。
 時間にして、ほんの数秒だったかもしれない。
 唇が離れたとき、暁はゆっくりと目を開けた。すぐ目の前に、凱の顔があった。耳まで赤くしながら、それでも視線だけは逸らさずに、暁を見つめている。
 二人とも、動けなかった。
 離れたはずなのに、息はまだ混じったままで、互いの体温が、唇の上に残り続けていた。今のは、本当に起こったことなんだろうか。あまりにも短くて、あまりにも夢に近くて。
 その戸惑いを見透かしたように、凱の喉仏が、ごくりと一度、上下した。
「……暁」
 三度目の名前は、はっきりと違う響きをしていた。低く、わずかにかすれ、隠しきれない熱が、その音の奥に滲んでいる。頬に添えられたままの凱の手のひらが、ほんの少しだけ、力を増した。
「もう、一回」
 言葉になっていない言葉だった。けれど、暁にはわかってしまった。
 暁は、答える代わりに、凱のシャツの胸元を、そっと握りしめた。指先がかすかに震えていたけれど、もう、目を逸らしたくなかった。
 うなずくより先に、凱の顔が、もう一度近づいてきていた。
 二度目のキスは、最初のそれとは、明らかに違っていた。
 触れる、ではなく、重ねる。確かめる、ではなく、求める。凱の唇は、最初のときのような臆病さを脱ぎ捨てて、暁の唇を、ゆっくりと、けれど確かに、自分の方へ深く引き寄せた。頬に添えられていた手が、髪の生え際まで滑り上がり、指の間に暁の柔らかい髪を絡めながら、頭の角度を、ほんのわずかに傾けさせる。
 息が、つまった。
 息継ぎの仕方さえ、暁にはわからなかった。けれど、凱の唇が一度だけほんのわずかに離れ、また重ねられたとき、自然と、自分の口元から、小さな吐息が漏れていた。それを凱が受け取って、応えるように、もう一度、深く重ねてくる。
 血の味が、した。けれどもそれは不快でも恐怖でもなく、凱も普通の人間であることを確かに感じさせた。
 腰に回された凱のもう一方の手が、暁の身体を、自分の胸へとさらに引き寄せた。シャツ一枚を隔てた距離さえ、もう、ほとんど残っていなかった。凱の鼓動が、自分の胸の中で鳴っているのか、自分の鼓動が凱の胸に響いているのか、その境目すら、わからなくなる。
 好きだ、と思った。
 言葉でもう一度言いたいのに、言える状態じゃなかった。だから代わりに、握りしめていた凱のシャツを、もっと強く握った。それで、伝わってくれたらいい、と思った。きっと伝わったのだと思う。腰に回された凱の腕の力が、応えるように、わずかに増したから。
 どれくらいの時間が経ったのか、もうわからなかった。
 唇が、ゆっくりと離れていった。離れる瞬間まで、凱の唇は、別れを惜しむように、もう一度だけ、暁の下唇に軽く触れて、それから、ようやく離れた。
 暁は、目を開けることができなかった。
 頬が、燃えるように熱い。今、凱の顔をまっすぐ見てしまったら、たぶん、膝から崩れ落ちる。代わりに、凱の胸に、こつんと額を預けた。シャツ越しに伝わってくる凱の鼓動は、自分のものと同じくらい、激しく乱れていた。
「……凱」
「ん」
 凱の声も、まだ、わずかにかすれていた。
「恥ずかしい、です」
 短い沈黙のあと、頭の上で、凱が小さく笑う気配がした。普段の凱からは想像もできない、低く、やさしい笑い方だった。腰に回されていた腕が、暁の身体を、しっかりと支え直す。
「俺も、たぶん同じだ」
 暁は、額を凱の胸に預けたまま、ふっと息を漏らした。それは、笑いに似ていて、けれどまだ、涙にも近かった。
 暁が顔を上げると、凱の周りには、夜明けの空がようやく日の出を迎えた瞬間のような――淡く、けれどまっすぐに澄んだ、薄紅をはらんだ金にも似た黄色が、揺らめいていた。これまで、暁が一度も見たことのない色だった。
 名前を、まだ知らない色。
 けれど、これからきっと、何度も見ることになるだろう色。
 暁は、じっと凱を見つめた。涙でくしゃくしゃになったまま、それでも、笑って言った。
「好きです、凱」
 凱は、答える代わりに、もう一度、暁を抱きしめた。
 今度はもう、ためらいのない、まっすぐな腕の力だった。

 薄暮の迫った教室には、もう誰の声も残っていなかった。文化祭前日のざわめきが嘘のように引いて、空気だけがしんと冷たく沈んでいる。二人は机の上に置きっぱなしだったかばんを手に取りながら、暁が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、凱。今日、何度か僕に話しかけようとしてましたよね」
「ああ」
「文化祭の準備中に変な空気を作りたくなくて、つい、避けてしまっていました。ごめんなさい」
「いや……いいんだ」
 廊下に出ると、夕陽が窓越しに長く伸びて、二人の足元に橙色の(しま)をつくっていた。並んで歩きながら、暁はもう一度問いかける。
「で、何を言おうとしてたんですか?」
「それが――」
 凱が言いかけたそのとき、廊下の向こうから担任の津田が近づいてきた。
「お、二人とも、遅くまでお疲れ様。って、黒瀬くん、どうしたんですか、その顔の傷」
 しまった、と二人は思った。
 「あぁ、さっきちょっと階段から転んじゃって。でも、もう大丈夫っす」と凱はとっさにごまかした。
 「そうですか、気をつけてくださいよ。ちゃんと消毒もしておくように。明日は二人とも、たくさん焼いてくださいね」
 津田は両手に見えない棒を持つ仕草で、フランクフルトを焼く真似をしてみせた。暁は苦笑して、「頑張ります」と返し、「それではさようなら」と頭を下げる。
「はい」
 津田はそのまま通り過ぎようとして、何かを思い出したように振り返った。
「あ、それから――二人の展示作品。本当に、見事な出来でしたよ。たくさんの人に見てもらいましょう。では」
 そう言い残して、津田は嬉しそうに廊下の奥へと消えていった。
「……え?」
 暁は弾かれたように凱を見た。
「どういうことですか!?」
「言おうと思ってたのは、それだ。こっち来い」
 凱は耳の縁を赤くしながら、暁を促すようにして展示室へと向かった。
 普段は使われていない空き教室は、机が四隅に寄せられて、すっかり展示会場の顔をしていた。木の温もりを残す棚、鉄道写真、誰かの自画像。様々な作品が静かに並ぶその一角を、凱はまっすぐに横切って、窓際へ進んだ。
「これだ」
 その指先を追って、暁は息を呑んだ。
 夕陽を浴びて、あの正十二面体がキラキラと輝いていた。
「え、壊れたんじゃ……」
 暁の目が見開かれる。
「壊しちまった次の日に、破片を集めてつなぎ合わせたんだ。せっかく二人で作ったものだから、なかったことにはしたくなかった」
「凱……」
 赤く腫れたままの瞳が、また静かに滲みはじめる。
「窓際に置いてくれって、津田先生に頼んだんだ。そうすりゃ、光が当たって綺麗に見えるだろ」
 凱の言葉どおり、十二の面に塗られた色とりどりのアクリル板は、夕陽を吸い込んでは淡い影を床へ落としていた。継ぎ目には細かなひびがいくつも走り、それがかえって、面ごとにムラのある仕上がりを、やさしく際立たせている。

 それは、柑橘の皮のように爽やかなレモンイエロー。
 それは、完熟した柿のようにとろりとした深い橙。
 それは、チョコミントのアイスクリームを思わせる、淡い緑。
 それは、ザクロの果肉のような、深みのあるルビー。
 それは、巨峰の皮を剥いで光に透かしたような濃紫。
 それは、梨の果肉のように、光をにじませる半透明。
 それは、朝露を弾くブルーベリーのような瑞々しい藍。
 それは、産毛の生えた桃のように霞んだピンク。
 それは、つるりとした栗の艶を帯びた茶。
 それは、干し杏のように乾いた琥珀。
 それは、ライチの実のような、光をふくんだ乳白。
 それは、光を溶かしこんだ、淡い虹色。

 みんな違う色が、夕陽の中で混ざり合い、新しい色を産み落としていた。
「……ほんとに、綺麗ですね」
 ぽつり、と暁はこぼし、続けた。
「人にはいろんな感情があって、僕にはたくさんの色が見えます。でも、どんな感情だって尊いものだってことを、凱に知ってほしかったんです。だから、たくさんの色を使った作品を一緒に作りたかった」
「今なら……少し、分かる気がする」
 凱は、暁の手をそっと握った。
「俺と、お前の、二人で作った作品だ。タイトルを決めてくれ」
「え」
「まだ空欄のままだろ。そこを、お前に書いてほしかったんだ」
 作品の前に貼られた紙の、タイトル欄。その小さな空白を見つめて、暁は静かにうなずいた。
「……わかりました」
 ペンを取り出す手に、もう迷いはなかった。さらさらと、丁寧に文字が並んでいく。

 暁は、きらめく結晶に目を向けたまま、ゆっくりと語り始めた。
「感情が色で見えない普通の人にとっても、色って、なんとなく感情のイメージがあるじゃないですか。そんな色の中に人は住んでいて、人と人とが関わるから、そこにまた、色が生まれる。それを、この作品で感じてもらえたら嬉しいです」
 暁は振り返り、頬を赤らめて笑みを見せた。
「凱もこれから、たくさんの色を見せてほしいな――」
 目を細めて笑う暁に、凱は少し恥ずかしそうに、けれど確かな笑みを返した。
 二人が教室を出た後も、綺麗な文字で書かれたタイトルが、茜色の光に染まっていた。

『君のいる色』

   *

 翌日、文化祭が幕を開けた。
 校舎は非日常の活気に包まれ、子供から地域のお年寄りまで、思い思いの足取りで廊下を行き交う。看板の絵の具の匂いと、油の香ばしさと、どこかの教室から上がるお化け屋敷の悲鳴が入り混じって、特別な空気を満たしていた。
 暁と凱は、朝から二人並んでフランクフルトを焼き続けた。ホットプレートの熱で頬がじりじりと火照り、額に汗が浮かぶ。油が跳ねて「あちっ」と肩を縮めた暁を、凱がすかさず気遣う。そんな様子を、入口で呼び込みをしていた千夏が、戸枠にそっと肩を預けて、微笑ましそうに眺めていた。
 店は大盛況で、客足が途切れる気配はなかった。
 昼を回り、シフトの交代時刻になって、二人はようやく休憩に入った。昼食の前に、メイド喫茶の教室をのぞいた。坊主頭のメイド姿に二人して吹き出し、写真に収めた。それから、人混みを縫うようにして、展示会場へと足を向けた。
 廊下の喧騒とは打って変わって、展示室の空気は、ふっと一段静かだった。写真や絵画、工作が並ぶ作品のあいだを、人々がゆっくりと歩いていく。
 その中で、年配の女性が二人、窓際の前で足を止めるのが見えた。
「あら、これ綺麗ね。ステンドグラスかしら」
「アクリル板で作ったのね。……ほんと、綺麗な色ねぇ」
 暁と凱は、思わず目を合わせて、声を立てずに喜んだ。
 それから、模擬店でたこ焼きと焼きうどんを買った二人は、いつもの踊り場を抜けて屋上に出た。文化祭の日だけは、海を見渡せる特別な場所として、教員立ち会いのもとで開放されている。
 潮風が、頬を撫でていく。少し冷たいけれど、秋晴れの日差しが柔らかな温かみを添えていた。人影はまばらで、二人は端の方にそっと腰を下ろした。
「お前が、この学校に来てくれて、よかったと思ってる」
 ふいに、凱がそうつぶやいた。
「今は心から、楽しいっていう気持ちを出せる。それが、嬉しい」
 そう言って、つま楊枝でたこ焼きを一つ刺し、ぱくりと頬張りながら続ける。
「でも結局、怒った時にだけ力が発動する。検証の結果はそれで確定か」
「凱が嫉妬したら、すぐ分かりますね」
 暁が意地悪そうに笑ってみせる。
「お前なぁ……」
「冗談です。嫉妬させないように、頑張りますね」
 ふふっ、と笑って、暁が凱を見つめる。その笑顔につられて、凱の口元も自然と緩んだ。
「俺も……頑張る」
 なぜか妙に片言になった凱を見て、暁が吹き出し、二人はしばらく肩を揺らして笑い合った。顔をくしゃっと崩して笑う、今まで見た中で一番大きな凱の笑顔だった。
「なぁ」
 ひとしきり笑ったあと、凱が口を開いた。
「どうしました?」
「ちょっとだけ、大きな声出してもいいか」
「どういうことですか?」
 意図が掴めずに首を傾げる暁に、凱はたこ焼きの容器をぽんと預け、すっと立ち上がった。海に面した手すりに両手をつき、一つ深く息を吸い込み――そして、突然叫んだ。
「ウオオォォォーーーー!!!」
 腹の底から出たその声に、屋上にいたほぼ全員が、一斉に振り返った。立ち会いの教師が慌てて飛んできて、「こら、大声出すな!」と叱りつける。
 満足げな顔で暁の隣に戻ってきた凱は、雲一つない青空を見上げていた。
「ど、どうしたんですか?」
 暁は、不思議そうに首を傾げる。
「え? かちどきだよ、かちどき」
 ますます困惑したような顔の暁の隣で、凱はこれから出会うであろう、まだ見ぬ色たちのことを思っていた。これから二人で見つけていく、無数の色。その旅の始まりに、胸の奥がひそかに踊っている。
 こつん、と肩を暁の肩にぶつけて、凱はやさしく微笑んだ。
 潮風が、二人のあいだを、柔らかに通り抜けていった。
 ふと、暁は凱の輪郭にもう一度、目を凝らした。
 あの夜明けの空のような、薄紅と金の色が、今もそこに揺らめいている。けれど――そのいちばん深い縁のところで、墨色の跡が、ほんのひと筋、まだ、揺れていた。
 暁は瞬きをした。次にまぶたを開けたとき、その揺れは、もう見えなかった。けれど、暁はたしかに見た。
 たぶん、これは、消えない。一生、ここにいる。
 それでもいい、と暁は思った。これも、凱の一部だから。これからきっと、二人で抱えていく。
 暁は何も言わずに、凱の肩に、頭をそっと預けた。

   *

 その夜、暁が帰宅すると、珍しく早く帰宅していた父が、夕食の席に座っていた。暁も手を洗ってから卓についた。
「お前、最近、ちょっと顔つきが変わったな」
 味噌汁を口に運びながら、父は前を向いたまま、ふいにそう言った。
「……そう、かな?」
 暁はとぼけたように言葉を返した。
「父さんも、母さんと出会った頃、同じ顔をしていたかもなぁ」
 暁の手の中で、味噌汁の表面が、わずかに揺れた。やはり、ごまかすことはできないか、と暁は悟り、ふっと笑みをこぼして聞いた。

「僕の色は今、何色ですか?」