四月の廊下には、まだどこかよそよそしい空気が漂っていた。
窓の外では桜が盛りを過ぎはじめ、風が吹くたびに花びらがひらひらと舞い落ちている。朝倉暁は津田先生の隣を半歩遅れてついていきながら、廊下に並ぶ教室の引き戸に目を移した。
「緊張してる?」
津田が横から問いかけてくる。三十代半ばほどの男性で、穏やかな声はその温和な外見を裏切らない。眼鏡の奥の目が、心配そうに細くなっている。
「いえ」
暁は短く答えた。嘘ではなかった。
父の仕事の都合で、転校は三度目だった。慣れているといえば慣れている。ただ、毎回、最初の一週間だけが長く感じられる。空気の匂いが違う。廊下の木目が違う。上履きの色が違う。この学校は海に近いせいか、時折窓から吹き込む風には、ほのかに潮の香りが混じっていた。それと同時に、桜の木から流れてくる、春の少し甘い匂い。また知らない四月の空気だった。
「この学校もいい子たちばかりだから、すぐに馴染めると思うよ」と、屈託のない笑顔が返ってきた。暁は「ありがとうございます」と言いながら、再び窓の外に視線を移し、流れる景色をぼんやりと眺めた。――いい子たち、か。
「じゃあ、入ろうか」
津田が廊下の中ほどで足を止めた。「二年三組」と書かれた引き戸の前だった。カラカラ、と乾いた音を立てて扉が開かれ、続いて暁は一歩、教室へ足を踏み入れた。
その瞬間、暁の視界には色が溢れていた。
鮮やかな檸檬のように明るい黄色や、濃く温かい向日葵色、瑞々しい蜜柑の色が混ざり合い、教室を覆うように揺らめいている。
これが暁の力だった。人の感情が、色として「見える」。正確にいえば、見えるというよりは感じる、に近い。人の輪郭にうっすらと重なるような感覚で、意識を向ければ色は鮮明になり、力を抜けば霞む。暁の家系に代々、男の長子にだけ宿るという不思議な力だった。物心ついたときからそうだった。
力のことは隠せ、他人にしゃべるな、と父から幾度となく言い聞かされてきた。その力のせいで、父は周りから気味悪がられ、親友を失ったことで、その血筋を憎んできたからだった。
三十人近い生徒が、一斉にこちらを向いた。ざわめきの中から、「え、まって、童顔イケメンじゃない?」「顔小さ!」といった女子たちの小さな声が耳に入ってきた。転校生が来た、という反応が、教室のにぎわいとともに、暁の目には色の波として映り込んできた。喜びや平穏を表す黄色や、期待を表すオレンジ色が、波状のように広がっていく。こうした高揚感を帯びた色の洪水に迎えられる空気には慣れたつもりでも、やはり最初の数秒はいつも少し、息が詰まる。
平静を保とうと、ゆっくり目を閉じようとした。そのとき、暁の視界の隅でわずかに濁りが滲んでいる感覚を覚えた。その方向に目をやる。窓際の、一番後ろの席。ほかの全員が暁に顔を向けているのに、その男だけが、椅子にもたれかかりながら窓の外を見ていた。
色が、違った。
教室全体を覆う黄色とオレンジの中で、その男が纏う色だけが異質だった。濃紫と青が混ざり込んだ、深海のようなダークブルー。紫は嫌悪の色、青は哀しみの色。その二つが溶け合って、曇天のように沈んでいる。暖色に染まる教室に一点、何かを押し込めている人間の色。
だが、それだけではなかった。その色の縁に、暁が今まで一度も見たことのない――どんな感情とも結びつかない、墨を滲ませたような跡が、ほんのわずかに揺れていた。色というより、影に近い何か。色ではなく、人の縁にだけ張り付いて生きている、それ自体が薄い意思を持っているような――。暁の背筋を、薄い冷たさが滑り落ちる。それでも、目を逸らせなかった。
凛々しい顔立ちだった。短く刈り込んだ黒い髪は無造作にかき上げられ、切れ長の目がはっきり見える。通った鼻筋、薄い唇、鋭い顎の線は繊細で、ブレザーのネクタイと襟元をくつろげた白いシャツからは、小麦色の肌にしなやかな首筋と鎖骨の線がのぞいていた。肩幅は広く、座っているのに背が高いのがわかる。
その瞬間、校舎の窓を、突風が揺らした。
教室の白いカーテンが外に吸い寄せられ、廊下の窓から舞い込んできた桜の花びらが二枚、教室の中まで流れ込んできた。浮かんだ細かいほこりと一緒に春の光に照らされ、キラキラと瞬いた。
暁にはそれが、まるで一枚の絵のように見えた。桜と光と、その中で一人だけ違う色を纏って窓の外を見ている男が、切り取られた場面のように、暁の目に焼き付いた。
胸の中で、何かが、ぱちんと弾けた。
暁は自分でも気づかないうちに、じっとその男を見ていた。この人は、何を見ているのだろう。
そんなことを考えていたら、一瞬、男と目が合った。見過ぎてしまった、と動揺したが、すぐに男の視線は窓の外に戻った。ただ、ほんの一瞬だけ、ダークブルーがかすかに揺れていた。さざ波を立てるように。水面に小石を落としたときのように。色の縁がほつれて、その奥に何か別の色が滲みかけて、またすぐ元に戻った。
「はい、今日からこのクラスに新しい仲間が増えました。朝倉くん、自己紹介どうぞ」
津田の声で、暁はようやく我に返った。
「朝倉暁です。父の仕事で引越しが多くて、こちらに編入学してきました。前は東京にいました。よろしくお願いします」
短くそれだけ言って、暁はもう一度教室を見渡した。生徒たちの色は変わらず、黄色とオレンジが多い。好奇心と関心。転校生を迎えるときの、どの学校でも似たような色の配置だった。
窓際の奥の席の男は、まだ窓の外を向いていた。
「席は永瀬さんの隣が空いているから、そこに座って」
津田が示した先は、教室の中ほどの列だった。席に着くなり、右隣の女子がにこりと笑う。目が大きくて、愛嬌のある顔立ちの子だった。
「永瀬千夏です。よろしくね」
声のトーンが明るい。その子は黄緑色――落ち着いている、穏やかな色をしていた。悪い人ではない、と暁はすぐに判断した。
「朝倉暁です。よろしくお願いします」
席に着きながら、暁はちらりと後ろを見た。窓際の男との距離は近づいたが、表情はよく見えない。
ホームルームが始まり、暁は前を向き直した。でも、胸の奥に、先ほどのキラキラとした感覚がずっと残っていた。
*
一限目は数学だった。暁はノートを取りながら、後ろの席のことが頭から離れなかった。授業の内容そのものは難しくない。前の学校より、むしろ進度が遅いくらいだった。でも、そんなことはどうでもよかった。
休み時間になった途端、暁は立ち上がった。
「どこに行くの?」と千夏が聞いた。
「ちょっと、話しかけてみようかなと思いまして」
「誰に?」
「窓際の、一番後ろの席の人」
千夏の色が、一瞬、空のような水色に揺れた――驚き。
「え、黒瀬くん?」
「黒瀬さんっていうんですね」
「あ、朝倉くん、なんで?」
「なんだか気になるので」
千夏は何か言いたそうに口を開いたが、暁はもう歩き出していた。
教室の後ろまで来ると、窓際の男、黒瀬凱はさっきと同じ姿勢で窓の外を見ていた。机の上には、開いていない教科書が置かれていた。
「黒瀬さん」
凱は動かなかった。まるで聞こえていないかのように。
「黒瀬さん」
二度目でも反応はない。でも色は、わずかに変化した。ダークブルーの濃さが一段深くなった。嫌悪の色が、少しだけ強くなっている。それでも、敵意や悪意を示す黒色は見えない。ただ、関わりたくない、という感情だった。
「転校してきた朝倉暁です。よろしくお願いします」
「……」
「次の授業は音楽ですよね。音楽室まで案内してくれませんか」
「失せろ」
短い返事が返ってきた。低く、太い声だった。
「そうですか。じゃあ、友達になってくれませんか」
「あ?」
凱がやっと暁を見た。切れ長の目の奥に沈む瞳は、墨を溶いたように昏い。凱に帯びた青は一層濃くなっている。
暁はそれでも引き下がらなかった。
「だめ、ですかね。僕、転校してきたばかりで友達がまだいないので」と続けた。
「俺の言ったことが聞こえなかったか?」
凱がおもむろに立ち上がると、色が急激に変化した。
百八十センチはゆうに超えるだろう背丈が、百六十四センチしかない暁の視界を占め、先ほどまでの濃紫と青が混ざったダークブルーが、一気に赤みを帯びた。赤――怒りの色だ。採血のときに見る血のような、濁った暗い赤。感情が激化しているときの赤だった。
その瞬間、教室の後ろの黒板の方から、カタッ、と音がした。
続けて、大きな地震のときのように、ガタガタガタと続く、もっと大きな音。でも、床は揺れていない。その異様な音にクラスメイトたちも気づき、休み時間の教室は瞬時に静寂に包まれた。
黒板消しが床に落ち、チョークが二本転がって砕ける音だけが響いた。
緊張が、ただならぬ雰囲気として広がっていく。
「ちょ、ちょっとちょっと、朝倉くん、こっちこっち」
千夏がさっと立ち上がって、暁の腕を引いた。声だけは明るく、笑顔を作りながら、ただ引く手の力は強かった。
「音楽室案内してあげるよ。まだ校舎、全然わかんないでしょ」
暁は引かれながら、もう一度だけ凱を見た。凱は、下を向いていた。拳を握っている。色は、少しずつ、赤から引いていった。
廊下に出ると、千夏がほっと息をついた。
「朝倉くん、黒瀬くんにはあまり構わない方がいいと思うよ」
「なんでですか」
「なんか、危ない感じがするんだよね。私は去年も同じクラスだったけど、話したこともほとんどないし。入学したときからあんな感じで、他人を寄せ付けないというか……」
千夏の色は黄緑のまま。落ち着いてはいるが、心配してくれていることがよく伝わる。
「わかりました」と暁は返した。でも、気持ちは逆だった。
あの色には、敵意がなかった。敵意は、はっきりとした黒色に見える。あの怒りは、暁を傷つけようとする怒りではなく、何か別のものへの怒りのような気がした。ダークブルーが気になる。嫌悪と哀しみの色。あの人は、長い間、その二つを抱え続けている。
暁には、確信に近い感覚があった。
「朝倉くん、東京から来たんだって?」
廊下を歩きながら、千夏が話題を変えた。
「はい、父が転勤族で」
「そっか。転校多いの?」
「三回目です」
「慣れてそうな感じするもんね。でも、ここは東京と比べたら田舎だから退屈しちゃうんじゃない?」
「いえ、子供のころは自然が豊かな環境で育ったので、山とか海とか、色がある景色は好きなんです」と暁は微笑んだ。
本心だった。港町の高台にあるこの学校の校門からは、青やオレンジ色の屋根瓦が、斜面を埋めるように肩を寄せ合って見える。奥には緑の衣を厚く着込んだような山々の稜線が延びている。晴天と紺碧の海をつなぐ水平線に滲むグラデーションが、暁は特に好きだった。
「色がある景色、か。君、面白いね。部活は何かやってたの? 前の学校で結構モテてたでしょ」
柔らかな栗色の髪が額にふわりとかかり、色白の肌に、温かみのある琥珀色の瞳をした暁を、千夏はのぞき込むように見て笑った。
細身で身長が中学二年から止まったままのせいか、丸みを帯びた目元のせいか、どこか少年の面影が残っていることにコンプレックスを抱いていた暁は、前者の質問にだけ答えた。
「美術部でした」
「おお、文化系だ。でも……」
千夏が少し困った顔をした。
「うちの学校、美術部はないんだよね」
「そうなんですか」
「でもさ、津田先生って美術の先生なんだよ。頼んだら、美術室使わせてくれるかも」
「ありがとうございます。あとで、先生に聞いてみますね」
暁は千夏が纏う黄緑色に安心を覚えながら、それでもずっと、あのダークブルーの色がちらついて頭から離れなかった。
*
昼休みになった。
教室が一斉にざわめき始める中、窓際の凱は静かに立ち上がった。誰とも言葉を交わさず、コンビニの袋を持って教室を出ていく。背が高いその後ろ姿が廊下に消えていくのを、暁は目で追った。
「朝倉くん、よかったら一緒に食べない?」
女子たち数人で机を突き合わす千夏が声をかけた。
「すみません、ちょっと用事があって」と暁は笑って立ち上がった。
「また今度お願いします」
千夏は廊下を一瞥し、少し心配そうな顔をした。多分、凱のところへ行こうとしているのを察している。でも止めはしなかった。
暁は弁当箱が入った巾着を掴んで教室を出た。凱の背中は、もう廊下の奥の方に遠ざかっている。暁は小走りで後を追った。階段を上っていく凱に気づかれないよう、少し距離を取って行き先を探る。一年生の教室が並ぶ四階から続く、その上をさらに上っていくのが見えた。他の生徒たちを横目に、暁もついていく。暁がゆっくりと階段を折り返すと、屋上へと続くドアのある踊り場の床から、黒色のスラックスが伸びているのが見えた。
ドアの窓から外の明かりが差し込んでいる、かろうじて薄明るい空間だった。すきま風のせいか、少し空気がひんやりとしていて、ほこりの匂いがする。
暁は階段を一歩ずつ上がり、袋がかすれる音の元へと近づいていった。
凱は壁に背を預けて、取り出したパンを開けようとしていた。
「ここ、いいですか」
暁が声をかけると、凱は動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……またお前か」
「朝倉暁です」
「……」
一年生たちの賑やかな声が聞こえてくるほどに静寂な時間が、暁には長く感じた。凱はすぐには答えず、暁をじっと見た。凱の色が、微妙に動く。あのダークブルーの色に、少しだけ青みが強くなった。
「俺に構うと、お前、死ぬぞ」
暁は、息を吸った。
その言葉には、冗談の響きが一切なかった。脅すような感じでもない。ただ事実を告げるような、淡々とした声だった。
でも、その声と一緒に出ていた色は、黒ではなかった。敵意はない、純粋な警告だ。どこか、むしろ暁を遠ざけようとしている、凱の心に沈む哀しさを感じた。
「死にませんよ」
「なんでそう言い切れる」
「なんとなく、ですかね」
暁が微笑むと、凱は少し目を細めた。しばらくして、凱はぼそりと言った。
「変わったヤツだ」
それから、手にかけていたパンの袋を開いた。
暁は辺りを見回してからそっと、凱から少し距離を置いたところに、壁を背にして腰を下ろした。自分の弁当箱を取り出して、静かに玉子焼きを箸でつまんだ。
雲の隙間から太陽がのぞき、踊り場に光が差し込んだ。そこにあるのは、空中にきらめく小さなほこりと、遠くから聞こえる生徒たちの賑やかな声だけ。ただ、暁は不思議と居心地が悪くは感じなかった。
凱は黙ってパンをかじっているから、何を考えているのかわからない。ただ、教室で見たダークブルーは、わずかだが、淡くなっているようにも見えた。暁にはそれで十分だった。
凱はとうとう、何も言わなかった。でも、追い出しもしなかった。
翌日も、暁は踊り場に来た。凱はすでにそこにいた。
「またか」と凱は息を吐いた。
「来ちゃいました」
それが、二日目の会話のすべてだった。暁はまた、昨日と同じ場所に座った。二人で黙々と昼食を食べた。凱は今日も菓子パンだった。ただ、生徒たちの声は、暁にはもうほとんど聞こえなくなっていた。
さらに次の日、凱がいつもより少しだけ、壁の端の方に寄っているのに気づいた。暁が隣に座れるスペースが、自然に空いていた。意識してのことかどうかはわからない。暁は少し考えてから、何も言わずに、空いたスペースに座った。
「屋上、出られないんですかね」
「鍵がかかっていて無理だ」
「そうなんですか」
暁は少し残念そうな顔を見せ、箸の先を口に入れた。
一週間が経ったころ、踊り場に坊主頭の男がひょっこりとやってきた。
「よっ」
凱の方を見て、人懐こく笑う。「また来てんじゃん、凱。昼飯、同じクラスじゃなくなったからって、たまには俺とも食おうぜ」と誘い、次に暁を見てから凱に問いかけた。
「誰?」
「朝倉暁です。先週、転校してきました」
「あー、転校してきたのって君だったんだ。俺、鮫島悟。こいつの幼馴染」
鮫島は凱のことを指さして白い歯を見せた。
「おい」と凱が低い声で制止する。
「お前、うるさい」
「ほっとけ。朝倉、仲良くしてやってくれよ。こいつ、こんな仏頂面だけど、悪いヤツじゃないから」
鮫島の色はタンポポのように明るい黄色だった。喜びと開放感に満ちている。
「悟、うるさい」と凱が重ねた。
「お前さ、俺のこと、いつまでうるさいって言い続けるつもりなの」
「一生」
「薄情だなぁ」
鮫島が笑って、そのまま暁のそばに腰を下ろした。
「んじゃ俺もここで食べよ。朝倉、改めてよろしく!」
「……はい、よろしくお願いします」
暁は笑顔を見せつつ、二人のやり取りを黙って眺めていた。凱の色が、鮫島を前にすると、ほんのわずかに変わる。ダークブルーの深みが薄まり、淡く、明るくなる。長い時間をかけて作られた、凱にとっての、唯一の「許している」関係なのだとわかった。
少しだけ、胸の奥が痛んだ。あの色は、自分にはまだ向けられていない。羨ましい、と感じた。
自分もいつか、あの位置にいけるだろうか――。
その日の放課後、暁は職員室に津田を訪ねた。
「先生、放課後に美術室を使ってもいいですか。絵を描きたくて」
「ん? ああ、たしか君は前の学校で美術部だったって言っていたね。いいよ」と津田はあっさり認めてくれた。「うちは美術部ないからね。画材も好きに使っていいからね」
津田はそう言って、穏やかに笑った。落ち着いた黄緑色を纏う姿に、暁は安心を覚えた。
津田にお礼を言ってから、二階に上がった。美術室は、廊下の突き当たりにある。扉を引くと、古い絵の具の匂いと、湿った木の匂いが、ふわりと鼻に届いた。校庭に面した大きな窓から柔らかい光が差し込み、窓際の床の一角に、色の付いた光が落ちている。イーゼルが二台、隅に立てかけられていた。棚には授業で使ったらしい絵の具のチューブや筆が、丁寧に整理されていた。
暁は深く息を吸った。
――この部屋、好きだ。
静かで、人の気配がない、誰かの感情の色が視界に入ってこない場所。暁にはとても貴重だった。家以外で、そういう場所は多くない。
暁はイーゼルにスケッチブックを立てかけて、棚から見繕った水彩絵の具を並べた。目を閉じて、転校してからこの学校で見てきた色を思い浮かべる。教室に漂っていた、黄色とオレンジのグラデーション。その中で一つだけ浮かび上がった、ダークブルー。若草のように鮮やかな千夏の黄緑色。鮫島の明るい黄色。
筆に水を含ませて、紙の上に色を重ね始めた。
*
短かったゴールデンウィークが遠い過去のように感じる五月の終わりになると、窓から見える木々はすっかり深緑に染まっていた。教室も新学期の熱が冷め、クラスメイトたちも外の景色に呼応するかのように落ち着いた黄緑色を一様に纏っていた。
暁は毎日、昼は踊り場で凱と、そして時々鮫島も加わって弁当を食べた。凱は相変わらず、多くは話さなかった。でも、目が合う回数がほんの少し増えた。
梅雨の始まりを予感させる、ある雨の日のことだった。六限目が終わり、暁がいつものように美術室に向かおうと席を立つと、廊下から鮫島が駆け込んできた。
「おー凱! まだいてよかった。今日雨で部活なくなっちゃってさ、暇だからファミレスにでも行かね?」
凱はおもむろに席を立つと、「パス、用事あんだわ」と答えてかばんを肩にかけた。
「ちぇーなんだよ。暁、どう?」
絵に描いたような高校球児の鮫島から放課後に誘われるのは、暁にとって初めてのことだった。暁は少しだけ目を見開いた。凱抜きで誘われるとは思っていなかった。けれど、嫌な驚きではなかった。むしろ、胸の奥に、薄く色を持った何かが淡く滲み出る感じがした。それが何色なのか、自分の色は見えないから分からない。けれど、悪い色ではない、と思った。
「はい、行きます」と笑みを浮かべてから振り返り、凱に「また明日」と声をかけた。凱は返事をする代わりに小さくため息をついた。
*
町の中心にあるファミレスは、雨宿りの客で思ったより混んでいた。窓際のボックス席に案内され、向かい合って腰を下ろす。
鮫島はメニューも開かず、ドリンクバーとフライドポテトを頼んだ。運ばれてきた皿からつまみ上げたポテトを、行儀悪く口の中に放り込む。暁はアイスティーの入ったグラスがかく汗を両手に感じていた。
「暁、中間テスト、どうだった?」
「まあまあでした。数学が、ちょっと」
「うわ、俺なんて全教科終わってるから気にすんな」
他愛もない話だった。クセの強い数学教師の口癖を鮫島が真似て見せたり、誰々が誰々に告白をしたらしいといった、どこから流れてきたのかも分からないウワサ話を聞いたりした。鮫島と向かい合って二人になるのは、これが初めてだった。それなのに、暁は不思議と気まずさを感じなかった。鮫島の部活焼けした腕や、よく通る声、笑うときに細くなる目。そういうものが、自然と場の空気を明るくしていた。
だから、かもしれない。暁は、聞いてみようと思った。本当は、最初からそれが目的だった。凱の、あの嫌悪と哀しみの色を合わせた、ダークブルーの原因を知りたかった。
「鮫島さんって、昔から黒瀬さんと一緒だったんですよね」
「保育園のときからな」
「昔の黒瀬さんって、どんな感じだったんですか?」
ポテトをつまんだ鮫島の手が、一瞬止まった。暁をちらりと見てから、その視線が皿の縁に落ちた。明るかった口調に、わずかな迷いが差した。
「……どんな感じ、って言われてもな」
暁は待った。鮫島のコーラが空いたグラスから、氷がカランと溶け落ちる音がした。
「あいつ、昔はよく笑ってたんだよ」
ぽつりと、鮫島は話し始めた。
小学一年生のとき、凱と同じクラスだった。休み時間のたびに鬼ごっこをしたり、くだらない絵を描き合ったりした。くしゃっと顔を崩して笑うのが凱のクセだった。
三年生になってクラスが別になって、話す時間が少し減った。そんなある日、廊下を歩いていたら、ひそひそと何かを話している隣のクラスの男子二人とすれ違った。片方が笑いながら、たしかに言った。
「黒瀬とおんなじクラスになったんだって? しゃべんない方がいいよ。あいつ、バケモノだよ」
校舎内の雑音が、一瞬だけ遠くなったのを覚えている。
二年生のとき、凱が掃除当番の日に限って、ロッカーに立てかけてあったホウキがひとりでに倒れることが続いた。凱の両隣の机の引き出しが、突然動いて床に落ちたこともあった。そういうことが、いくつもあった。そのころから、凱の周りには誰もいたがらなくなった。だから子供たちは、無責任に名前をつけ始めた。
でも、あいつは、そんなヤツじゃない。凱のことを気味悪がっているヤツらはそれまでもいたが、「バケモノ」という言葉に、強烈な抵抗感を覚えた。
気がつけば、言葉よりも先に体が動いていた。醜い言葉を吐いたヤツを、思い切り押した。そいつはよろけて教室のドアにぶつかって、大きな音と一緒に倒れた。クラスメイトたちが驚いて一斉に廊下に出てくる。その中に一人、遠くで寂しそうな顔をした凱がこっちを見ていた。
「その日、誓ったんだ」
鮫島はようやくポテトを口に運んで、飲み込んでから言った。
「何があっても、俺はあいつと友達でいようって。少なくとも、俺だけはあいつのそばから離れないって」
窓の外では、雨が少しだけ強くなっていた。
暁は、返す言葉を探せなかった。その代わりに、ぬるくなったアイスティーを一口飲んだ。
「……だから」と、鮫島は声の調子を戻した。
「暁が凱に興味を持ってくれて、毎日一緒に昼メシ食ってんの見て、正直、嬉しかったんだよ」
「嬉しかったんですか」
つい、オウム返しのようになってしまった。
「うん。凱のヤツ、相変わらず仏頂面だけどさ、それでも一年のときよりは、ちょっとだけ顔つきが柔らかくなった気がするもん」
気のせいかもしれないけど、と付け足して、鮫島は笑った。それから、まっすぐ暁を見た。
「だからさ、これからもあいつと仲良くしてやってくれよ」
鮫島の色は淡く、澄んだ黄色をしていた。
「……はい」
暁は小さく微笑んで、うなずいた。それしか返せなかったけれど、ちゃんと届いてほしいと思いながら、うなずいた。
「あ、あとさ」と鮫島が付け足した。
凱の家のこと。父親は凱が小学生になる前に病気で亡くなって、それからはシングルマザーで育てられていること。中学のときまでは鮫島も何度か凱の家に遊びに行き、そのたびに母親とも顔を合わせて挨拶していたこと。
「凱の母ちゃんまだ若くて、すごいやさしかったんだけどさ、一人で育てなきゃいけないから、きっと苦労してると思うぜ。仕事で家にいないことも多いから、凱もすぐに帰らないで学校に残ったり、ゲーセンで見かけたって声も聞いたりしたな」
暁は、ゆっくり息を吐いた。
昼休みに踊り場でパンをかじる凱の、あの無表情の裏側。自分が知らない凱が、鮫島の言葉の中に、いくつもあった。
「そうですか」
「あ、これ、俺が言ってたって言うなよ」
「言いませんよ」
「絶対だからな」
鮫島がポテトの最後の一本が乗った皿を、暁のほうに押しやって笑った。
雨音は、さっきよりもずっと穏やかになっていた。
窓の外では桜が盛りを過ぎはじめ、風が吹くたびに花びらがひらひらと舞い落ちている。朝倉暁は津田先生の隣を半歩遅れてついていきながら、廊下に並ぶ教室の引き戸に目を移した。
「緊張してる?」
津田が横から問いかけてくる。三十代半ばほどの男性で、穏やかな声はその温和な外見を裏切らない。眼鏡の奥の目が、心配そうに細くなっている。
「いえ」
暁は短く答えた。嘘ではなかった。
父の仕事の都合で、転校は三度目だった。慣れているといえば慣れている。ただ、毎回、最初の一週間だけが長く感じられる。空気の匂いが違う。廊下の木目が違う。上履きの色が違う。この学校は海に近いせいか、時折窓から吹き込む風には、ほのかに潮の香りが混じっていた。それと同時に、桜の木から流れてくる、春の少し甘い匂い。また知らない四月の空気だった。
「この学校もいい子たちばかりだから、すぐに馴染めると思うよ」と、屈託のない笑顔が返ってきた。暁は「ありがとうございます」と言いながら、再び窓の外に視線を移し、流れる景色をぼんやりと眺めた。――いい子たち、か。
「じゃあ、入ろうか」
津田が廊下の中ほどで足を止めた。「二年三組」と書かれた引き戸の前だった。カラカラ、と乾いた音を立てて扉が開かれ、続いて暁は一歩、教室へ足を踏み入れた。
その瞬間、暁の視界には色が溢れていた。
鮮やかな檸檬のように明るい黄色や、濃く温かい向日葵色、瑞々しい蜜柑の色が混ざり合い、教室を覆うように揺らめいている。
これが暁の力だった。人の感情が、色として「見える」。正確にいえば、見えるというよりは感じる、に近い。人の輪郭にうっすらと重なるような感覚で、意識を向ければ色は鮮明になり、力を抜けば霞む。暁の家系に代々、男の長子にだけ宿るという不思議な力だった。物心ついたときからそうだった。
力のことは隠せ、他人にしゃべるな、と父から幾度となく言い聞かされてきた。その力のせいで、父は周りから気味悪がられ、親友を失ったことで、その血筋を憎んできたからだった。
三十人近い生徒が、一斉にこちらを向いた。ざわめきの中から、「え、まって、童顔イケメンじゃない?」「顔小さ!」といった女子たちの小さな声が耳に入ってきた。転校生が来た、という反応が、教室のにぎわいとともに、暁の目には色の波として映り込んできた。喜びや平穏を表す黄色や、期待を表すオレンジ色が、波状のように広がっていく。こうした高揚感を帯びた色の洪水に迎えられる空気には慣れたつもりでも、やはり最初の数秒はいつも少し、息が詰まる。
平静を保とうと、ゆっくり目を閉じようとした。そのとき、暁の視界の隅でわずかに濁りが滲んでいる感覚を覚えた。その方向に目をやる。窓際の、一番後ろの席。ほかの全員が暁に顔を向けているのに、その男だけが、椅子にもたれかかりながら窓の外を見ていた。
色が、違った。
教室全体を覆う黄色とオレンジの中で、その男が纏う色だけが異質だった。濃紫と青が混ざり込んだ、深海のようなダークブルー。紫は嫌悪の色、青は哀しみの色。その二つが溶け合って、曇天のように沈んでいる。暖色に染まる教室に一点、何かを押し込めている人間の色。
だが、それだけではなかった。その色の縁に、暁が今まで一度も見たことのない――どんな感情とも結びつかない、墨を滲ませたような跡が、ほんのわずかに揺れていた。色というより、影に近い何か。色ではなく、人の縁にだけ張り付いて生きている、それ自体が薄い意思を持っているような――。暁の背筋を、薄い冷たさが滑り落ちる。それでも、目を逸らせなかった。
凛々しい顔立ちだった。短く刈り込んだ黒い髪は無造作にかき上げられ、切れ長の目がはっきり見える。通った鼻筋、薄い唇、鋭い顎の線は繊細で、ブレザーのネクタイと襟元をくつろげた白いシャツからは、小麦色の肌にしなやかな首筋と鎖骨の線がのぞいていた。肩幅は広く、座っているのに背が高いのがわかる。
その瞬間、校舎の窓を、突風が揺らした。
教室の白いカーテンが外に吸い寄せられ、廊下の窓から舞い込んできた桜の花びらが二枚、教室の中まで流れ込んできた。浮かんだ細かいほこりと一緒に春の光に照らされ、キラキラと瞬いた。
暁にはそれが、まるで一枚の絵のように見えた。桜と光と、その中で一人だけ違う色を纏って窓の外を見ている男が、切り取られた場面のように、暁の目に焼き付いた。
胸の中で、何かが、ぱちんと弾けた。
暁は自分でも気づかないうちに、じっとその男を見ていた。この人は、何を見ているのだろう。
そんなことを考えていたら、一瞬、男と目が合った。見過ぎてしまった、と動揺したが、すぐに男の視線は窓の外に戻った。ただ、ほんの一瞬だけ、ダークブルーがかすかに揺れていた。さざ波を立てるように。水面に小石を落としたときのように。色の縁がほつれて、その奥に何か別の色が滲みかけて、またすぐ元に戻った。
「はい、今日からこのクラスに新しい仲間が増えました。朝倉くん、自己紹介どうぞ」
津田の声で、暁はようやく我に返った。
「朝倉暁です。父の仕事で引越しが多くて、こちらに編入学してきました。前は東京にいました。よろしくお願いします」
短くそれだけ言って、暁はもう一度教室を見渡した。生徒たちの色は変わらず、黄色とオレンジが多い。好奇心と関心。転校生を迎えるときの、どの学校でも似たような色の配置だった。
窓際の奥の席の男は、まだ窓の外を向いていた。
「席は永瀬さんの隣が空いているから、そこに座って」
津田が示した先は、教室の中ほどの列だった。席に着くなり、右隣の女子がにこりと笑う。目が大きくて、愛嬌のある顔立ちの子だった。
「永瀬千夏です。よろしくね」
声のトーンが明るい。その子は黄緑色――落ち着いている、穏やかな色をしていた。悪い人ではない、と暁はすぐに判断した。
「朝倉暁です。よろしくお願いします」
席に着きながら、暁はちらりと後ろを見た。窓際の男との距離は近づいたが、表情はよく見えない。
ホームルームが始まり、暁は前を向き直した。でも、胸の奥に、先ほどのキラキラとした感覚がずっと残っていた。
*
一限目は数学だった。暁はノートを取りながら、後ろの席のことが頭から離れなかった。授業の内容そのものは難しくない。前の学校より、むしろ進度が遅いくらいだった。でも、そんなことはどうでもよかった。
休み時間になった途端、暁は立ち上がった。
「どこに行くの?」と千夏が聞いた。
「ちょっと、話しかけてみようかなと思いまして」
「誰に?」
「窓際の、一番後ろの席の人」
千夏の色が、一瞬、空のような水色に揺れた――驚き。
「え、黒瀬くん?」
「黒瀬さんっていうんですね」
「あ、朝倉くん、なんで?」
「なんだか気になるので」
千夏は何か言いたそうに口を開いたが、暁はもう歩き出していた。
教室の後ろまで来ると、窓際の男、黒瀬凱はさっきと同じ姿勢で窓の外を見ていた。机の上には、開いていない教科書が置かれていた。
「黒瀬さん」
凱は動かなかった。まるで聞こえていないかのように。
「黒瀬さん」
二度目でも反応はない。でも色は、わずかに変化した。ダークブルーの濃さが一段深くなった。嫌悪の色が、少しだけ強くなっている。それでも、敵意や悪意を示す黒色は見えない。ただ、関わりたくない、という感情だった。
「転校してきた朝倉暁です。よろしくお願いします」
「……」
「次の授業は音楽ですよね。音楽室まで案内してくれませんか」
「失せろ」
短い返事が返ってきた。低く、太い声だった。
「そうですか。じゃあ、友達になってくれませんか」
「あ?」
凱がやっと暁を見た。切れ長の目の奥に沈む瞳は、墨を溶いたように昏い。凱に帯びた青は一層濃くなっている。
暁はそれでも引き下がらなかった。
「だめ、ですかね。僕、転校してきたばかりで友達がまだいないので」と続けた。
「俺の言ったことが聞こえなかったか?」
凱がおもむろに立ち上がると、色が急激に変化した。
百八十センチはゆうに超えるだろう背丈が、百六十四センチしかない暁の視界を占め、先ほどまでの濃紫と青が混ざったダークブルーが、一気に赤みを帯びた。赤――怒りの色だ。採血のときに見る血のような、濁った暗い赤。感情が激化しているときの赤だった。
その瞬間、教室の後ろの黒板の方から、カタッ、と音がした。
続けて、大きな地震のときのように、ガタガタガタと続く、もっと大きな音。でも、床は揺れていない。その異様な音にクラスメイトたちも気づき、休み時間の教室は瞬時に静寂に包まれた。
黒板消しが床に落ち、チョークが二本転がって砕ける音だけが響いた。
緊張が、ただならぬ雰囲気として広がっていく。
「ちょ、ちょっとちょっと、朝倉くん、こっちこっち」
千夏がさっと立ち上がって、暁の腕を引いた。声だけは明るく、笑顔を作りながら、ただ引く手の力は強かった。
「音楽室案内してあげるよ。まだ校舎、全然わかんないでしょ」
暁は引かれながら、もう一度だけ凱を見た。凱は、下を向いていた。拳を握っている。色は、少しずつ、赤から引いていった。
廊下に出ると、千夏がほっと息をついた。
「朝倉くん、黒瀬くんにはあまり構わない方がいいと思うよ」
「なんでですか」
「なんか、危ない感じがするんだよね。私は去年も同じクラスだったけど、話したこともほとんどないし。入学したときからあんな感じで、他人を寄せ付けないというか……」
千夏の色は黄緑のまま。落ち着いてはいるが、心配してくれていることがよく伝わる。
「わかりました」と暁は返した。でも、気持ちは逆だった。
あの色には、敵意がなかった。敵意は、はっきりとした黒色に見える。あの怒りは、暁を傷つけようとする怒りではなく、何か別のものへの怒りのような気がした。ダークブルーが気になる。嫌悪と哀しみの色。あの人は、長い間、その二つを抱え続けている。
暁には、確信に近い感覚があった。
「朝倉くん、東京から来たんだって?」
廊下を歩きながら、千夏が話題を変えた。
「はい、父が転勤族で」
「そっか。転校多いの?」
「三回目です」
「慣れてそうな感じするもんね。でも、ここは東京と比べたら田舎だから退屈しちゃうんじゃない?」
「いえ、子供のころは自然が豊かな環境で育ったので、山とか海とか、色がある景色は好きなんです」と暁は微笑んだ。
本心だった。港町の高台にあるこの学校の校門からは、青やオレンジ色の屋根瓦が、斜面を埋めるように肩を寄せ合って見える。奥には緑の衣を厚く着込んだような山々の稜線が延びている。晴天と紺碧の海をつなぐ水平線に滲むグラデーションが、暁は特に好きだった。
「色がある景色、か。君、面白いね。部活は何かやってたの? 前の学校で結構モテてたでしょ」
柔らかな栗色の髪が額にふわりとかかり、色白の肌に、温かみのある琥珀色の瞳をした暁を、千夏はのぞき込むように見て笑った。
細身で身長が中学二年から止まったままのせいか、丸みを帯びた目元のせいか、どこか少年の面影が残っていることにコンプレックスを抱いていた暁は、前者の質問にだけ答えた。
「美術部でした」
「おお、文化系だ。でも……」
千夏が少し困った顔をした。
「うちの学校、美術部はないんだよね」
「そうなんですか」
「でもさ、津田先生って美術の先生なんだよ。頼んだら、美術室使わせてくれるかも」
「ありがとうございます。あとで、先生に聞いてみますね」
暁は千夏が纏う黄緑色に安心を覚えながら、それでもずっと、あのダークブルーの色がちらついて頭から離れなかった。
*
昼休みになった。
教室が一斉にざわめき始める中、窓際の凱は静かに立ち上がった。誰とも言葉を交わさず、コンビニの袋を持って教室を出ていく。背が高いその後ろ姿が廊下に消えていくのを、暁は目で追った。
「朝倉くん、よかったら一緒に食べない?」
女子たち数人で机を突き合わす千夏が声をかけた。
「すみません、ちょっと用事があって」と暁は笑って立ち上がった。
「また今度お願いします」
千夏は廊下を一瞥し、少し心配そうな顔をした。多分、凱のところへ行こうとしているのを察している。でも止めはしなかった。
暁は弁当箱が入った巾着を掴んで教室を出た。凱の背中は、もう廊下の奥の方に遠ざかっている。暁は小走りで後を追った。階段を上っていく凱に気づかれないよう、少し距離を取って行き先を探る。一年生の教室が並ぶ四階から続く、その上をさらに上っていくのが見えた。他の生徒たちを横目に、暁もついていく。暁がゆっくりと階段を折り返すと、屋上へと続くドアのある踊り場の床から、黒色のスラックスが伸びているのが見えた。
ドアの窓から外の明かりが差し込んでいる、かろうじて薄明るい空間だった。すきま風のせいか、少し空気がひんやりとしていて、ほこりの匂いがする。
暁は階段を一歩ずつ上がり、袋がかすれる音の元へと近づいていった。
凱は壁に背を預けて、取り出したパンを開けようとしていた。
「ここ、いいですか」
暁が声をかけると、凱は動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……またお前か」
「朝倉暁です」
「……」
一年生たちの賑やかな声が聞こえてくるほどに静寂な時間が、暁には長く感じた。凱はすぐには答えず、暁をじっと見た。凱の色が、微妙に動く。あのダークブルーの色に、少しだけ青みが強くなった。
「俺に構うと、お前、死ぬぞ」
暁は、息を吸った。
その言葉には、冗談の響きが一切なかった。脅すような感じでもない。ただ事実を告げるような、淡々とした声だった。
でも、その声と一緒に出ていた色は、黒ではなかった。敵意はない、純粋な警告だ。どこか、むしろ暁を遠ざけようとしている、凱の心に沈む哀しさを感じた。
「死にませんよ」
「なんでそう言い切れる」
「なんとなく、ですかね」
暁が微笑むと、凱は少し目を細めた。しばらくして、凱はぼそりと言った。
「変わったヤツだ」
それから、手にかけていたパンの袋を開いた。
暁は辺りを見回してからそっと、凱から少し距離を置いたところに、壁を背にして腰を下ろした。自分の弁当箱を取り出して、静かに玉子焼きを箸でつまんだ。
雲の隙間から太陽がのぞき、踊り場に光が差し込んだ。そこにあるのは、空中にきらめく小さなほこりと、遠くから聞こえる生徒たちの賑やかな声だけ。ただ、暁は不思議と居心地が悪くは感じなかった。
凱は黙ってパンをかじっているから、何を考えているのかわからない。ただ、教室で見たダークブルーは、わずかだが、淡くなっているようにも見えた。暁にはそれで十分だった。
凱はとうとう、何も言わなかった。でも、追い出しもしなかった。
翌日も、暁は踊り場に来た。凱はすでにそこにいた。
「またか」と凱は息を吐いた。
「来ちゃいました」
それが、二日目の会話のすべてだった。暁はまた、昨日と同じ場所に座った。二人で黙々と昼食を食べた。凱は今日も菓子パンだった。ただ、生徒たちの声は、暁にはもうほとんど聞こえなくなっていた。
さらに次の日、凱がいつもより少しだけ、壁の端の方に寄っているのに気づいた。暁が隣に座れるスペースが、自然に空いていた。意識してのことかどうかはわからない。暁は少し考えてから、何も言わずに、空いたスペースに座った。
「屋上、出られないんですかね」
「鍵がかかっていて無理だ」
「そうなんですか」
暁は少し残念そうな顔を見せ、箸の先を口に入れた。
一週間が経ったころ、踊り場に坊主頭の男がひょっこりとやってきた。
「よっ」
凱の方を見て、人懐こく笑う。「また来てんじゃん、凱。昼飯、同じクラスじゃなくなったからって、たまには俺とも食おうぜ」と誘い、次に暁を見てから凱に問いかけた。
「誰?」
「朝倉暁です。先週、転校してきました」
「あー、転校してきたのって君だったんだ。俺、鮫島悟。こいつの幼馴染」
鮫島は凱のことを指さして白い歯を見せた。
「おい」と凱が低い声で制止する。
「お前、うるさい」
「ほっとけ。朝倉、仲良くしてやってくれよ。こいつ、こんな仏頂面だけど、悪いヤツじゃないから」
鮫島の色はタンポポのように明るい黄色だった。喜びと開放感に満ちている。
「悟、うるさい」と凱が重ねた。
「お前さ、俺のこと、いつまでうるさいって言い続けるつもりなの」
「一生」
「薄情だなぁ」
鮫島が笑って、そのまま暁のそばに腰を下ろした。
「んじゃ俺もここで食べよ。朝倉、改めてよろしく!」
「……はい、よろしくお願いします」
暁は笑顔を見せつつ、二人のやり取りを黙って眺めていた。凱の色が、鮫島を前にすると、ほんのわずかに変わる。ダークブルーの深みが薄まり、淡く、明るくなる。長い時間をかけて作られた、凱にとっての、唯一の「許している」関係なのだとわかった。
少しだけ、胸の奥が痛んだ。あの色は、自分にはまだ向けられていない。羨ましい、と感じた。
自分もいつか、あの位置にいけるだろうか――。
その日の放課後、暁は職員室に津田を訪ねた。
「先生、放課後に美術室を使ってもいいですか。絵を描きたくて」
「ん? ああ、たしか君は前の学校で美術部だったって言っていたね。いいよ」と津田はあっさり認めてくれた。「うちは美術部ないからね。画材も好きに使っていいからね」
津田はそう言って、穏やかに笑った。落ち着いた黄緑色を纏う姿に、暁は安心を覚えた。
津田にお礼を言ってから、二階に上がった。美術室は、廊下の突き当たりにある。扉を引くと、古い絵の具の匂いと、湿った木の匂いが、ふわりと鼻に届いた。校庭に面した大きな窓から柔らかい光が差し込み、窓際の床の一角に、色の付いた光が落ちている。イーゼルが二台、隅に立てかけられていた。棚には授業で使ったらしい絵の具のチューブや筆が、丁寧に整理されていた。
暁は深く息を吸った。
――この部屋、好きだ。
静かで、人の気配がない、誰かの感情の色が視界に入ってこない場所。暁にはとても貴重だった。家以外で、そういう場所は多くない。
暁はイーゼルにスケッチブックを立てかけて、棚から見繕った水彩絵の具を並べた。目を閉じて、転校してからこの学校で見てきた色を思い浮かべる。教室に漂っていた、黄色とオレンジのグラデーション。その中で一つだけ浮かび上がった、ダークブルー。若草のように鮮やかな千夏の黄緑色。鮫島の明るい黄色。
筆に水を含ませて、紙の上に色を重ね始めた。
*
短かったゴールデンウィークが遠い過去のように感じる五月の終わりになると、窓から見える木々はすっかり深緑に染まっていた。教室も新学期の熱が冷め、クラスメイトたちも外の景色に呼応するかのように落ち着いた黄緑色を一様に纏っていた。
暁は毎日、昼は踊り場で凱と、そして時々鮫島も加わって弁当を食べた。凱は相変わらず、多くは話さなかった。でも、目が合う回数がほんの少し増えた。
梅雨の始まりを予感させる、ある雨の日のことだった。六限目が終わり、暁がいつものように美術室に向かおうと席を立つと、廊下から鮫島が駆け込んできた。
「おー凱! まだいてよかった。今日雨で部活なくなっちゃってさ、暇だからファミレスにでも行かね?」
凱はおもむろに席を立つと、「パス、用事あんだわ」と答えてかばんを肩にかけた。
「ちぇーなんだよ。暁、どう?」
絵に描いたような高校球児の鮫島から放課後に誘われるのは、暁にとって初めてのことだった。暁は少しだけ目を見開いた。凱抜きで誘われるとは思っていなかった。けれど、嫌な驚きではなかった。むしろ、胸の奥に、薄く色を持った何かが淡く滲み出る感じがした。それが何色なのか、自分の色は見えないから分からない。けれど、悪い色ではない、と思った。
「はい、行きます」と笑みを浮かべてから振り返り、凱に「また明日」と声をかけた。凱は返事をする代わりに小さくため息をついた。
*
町の中心にあるファミレスは、雨宿りの客で思ったより混んでいた。窓際のボックス席に案内され、向かい合って腰を下ろす。
鮫島はメニューも開かず、ドリンクバーとフライドポテトを頼んだ。運ばれてきた皿からつまみ上げたポテトを、行儀悪く口の中に放り込む。暁はアイスティーの入ったグラスがかく汗を両手に感じていた。
「暁、中間テスト、どうだった?」
「まあまあでした。数学が、ちょっと」
「うわ、俺なんて全教科終わってるから気にすんな」
他愛もない話だった。クセの強い数学教師の口癖を鮫島が真似て見せたり、誰々が誰々に告白をしたらしいといった、どこから流れてきたのかも分からないウワサ話を聞いたりした。鮫島と向かい合って二人になるのは、これが初めてだった。それなのに、暁は不思議と気まずさを感じなかった。鮫島の部活焼けした腕や、よく通る声、笑うときに細くなる目。そういうものが、自然と場の空気を明るくしていた。
だから、かもしれない。暁は、聞いてみようと思った。本当は、最初からそれが目的だった。凱の、あの嫌悪と哀しみの色を合わせた、ダークブルーの原因を知りたかった。
「鮫島さんって、昔から黒瀬さんと一緒だったんですよね」
「保育園のときからな」
「昔の黒瀬さんって、どんな感じだったんですか?」
ポテトをつまんだ鮫島の手が、一瞬止まった。暁をちらりと見てから、その視線が皿の縁に落ちた。明るかった口調に、わずかな迷いが差した。
「……どんな感じ、って言われてもな」
暁は待った。鮫島のコーラが空いたグラスから、氷がカランと溶け落ちる音がした。
「あいつ、昔はよく笑ってたんだよ」
ぽつりと、鮫島は話し始めた。
小学一年生のとき、凱と同じクラスだった。休み時間のたびに鬼ごっこをしたり、くだらない絵を描き合ったりした。くしゃっと顔を崩して笑うのが凱のクセだった。
三年生になってクラスが別になって、話す時間が少し減った。そんなある日、廊下を歩いていたら、ひそひそと何かを話している隣のクラスの男子二人とすれ違った。片方が笑いながら、たしかに言った。
「黒瀬とおんなじクラスになったんだって? しゃべんない方がいいよ。あいつ、バケモノだよ」
校舎内の雑音が、一瞬だけ遠くなったのを覚えている。
二年生のとき、凱が掃除当番の日に限って、ロッカーに立てかけてあったホウキがひとりでに倒れることが続いた。凱の両隣の机の引き出しが、突然動いて床に落ちたこともあった。そういうことが、いくつもあった。そのころから、凱の周りには誰もいたがらなくなった。だから子供たちは、無責任に名前をつけ始めた。
でも、あいつは、そんなヤツじゃない。凱のことを気味悪がっているヤツらはそれまでもいたが、「バケモノ」という言葉に、強烈な抵抗感を覚えた。
気がつけば、言葉よりも先に体が動いていた。醜い言葉を吐いたヤツを、思い切り押した。そいつはよろけて教室のドアにぶつかって、大きな音と一緒に倒れた。クラスメイトたちが驚いて一斉に廊下に出てくる。その中に一人、遠くで寂しそうな顔をした凱がこっちを見ていた。
「その日、誓ったんだ」
鮫島はようやくポテトを口に運んで、飲み込んでから言った。
「何があっても、俺はあいつと友達でいようって。少なくとも、俺だけはあいつのそばから離れないって」
窓の外では、雨が少しだけ強くなっていた。
暁は、返す言葉を探せなかった。その代わりに、ぬるくなったアイスティーを一口飲んだ。
「……だから」と、鮫島は声の調子を戻した。
「暁が凱に興味を持ってくれて、毎日一緒に昼メシ食ってんの見て、正直、嬉しかったんだよ」
「嬉しかったんですか」
つい、オウム返しのようになってしまった。
「うん。凱のヤツ、相変わらず仏頂面だけどさ、それでも一年のときよりは、ちょっとだけ顔つきが柔らかくなった気がするもん」
気のせいかもしれないけど、と付け足して、鮫島は笑った。それから、まっすぐ暁を見た。
「だからさ、これからもあいつと仲良くしてやってくれよ」
鮫島の色は淡く、澄んだ黄色をしていた。
「……はい」
暁は小さく微笑んで、うなずいた。それしか返せなかったけれど、ちゃんと届いてほしいと思いながら、うなずいた。
「あ、あとさ」と鮫島が付け足した。
凱の家のこと。父親は凱が小学生になる前に病気で亡くなって、それからはシングルマザーで育てられていること。中学のときまでは鮫島も何度か凱の家に遊びに行き、そのたびに母親とも顔を合わせて挨拶していたこと。
「凱の母ちゃんまだ若くて、すごいやさしかったんだけどさ、一人で育てなきゃいけないから、きっと苦労してると思うぜ。仕事で家にいないことも多いから、凱もすぐに帰らないで学校に残ったり、ゲーセンで見かけたって声も聞いたりしたな」
暁は、ゆっくり息を吐いた。
昼休みに踊り場でパンをかじる凱の、あの無表情の裏側。自分が知らない凱が、鮫島の言葉の中に、いくつもあった。
「そうですか」
「あ、これ、俺が言ってたって言うなよ」
「言いませんよ」
「絶対だからな」
鮫島がポテトの最後の一本が乗った皿を、暁のほうに押しやって笑った。
雨音は、さっきよりもずっと穏やかになっていた。
